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夏の図書館

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 線路から伝わる電車の音が遠くなって行く。
 それと同時に周囲から蝉の鳴き声が大きくなり、消えない騒音にうんざりしながらホームに降りた彼は手庇を作りながらため息をついた。
「幸せが逃げるよ」
「えぇ……今時そんなこと?久しぶりに聞いた気がするんですけど」
「温故知新」
「いやいやいや」
「不易流行」
「なんすかそれ」
「長く大事にされた本質的なものは流行に左右されない」
「先輩、なんだかんだ勉強してるんですね……」
「たまたま先月の古文で芭蕉やったから」
「あ、そうすか」
 てへ、と言わんばりに笑う彼女に学校で見かけるような先輩らしさはない。ネクタイの色が違うだけで「年上」を意識する校内と違い、年齢の上下を表す記号がないと途端に彼女の本来の立ち位置である「妹」が現れるようで、彼はそれを不思議に思いつつ嫌な感じはしなかった。
「なんか日和先輩って、時々残念ですよね」
「え、先輩に対してそれはひどくない?」
 軽口を叩きながら並んで改札に向かう。
 二人だけで出かけるのは初めてのはずなのに、彼女の軽い雰囲気のお陰で固くなることはなかった。

 二両しかない電車から降りた人数は、この辺りの中心駅だからと言ってそう多いこともなく、まばらに出口へ向かう流れに沿って切符を駅員に渡すと彼の目には夏の陽光に眩しいロータリーのアスファルトが映った。
 目を細めながら、
「うわ、暑そう……」
「だね。さっさと渡っちゃおう」
 通学に使う無人駅や、高校の最寄駅に比べれば地方都市と言え都会だ。ロータリーにはタクシーもいるし、バス停には何台かが発車を待っている。彼らが出てきた駅ビルを含め、ぐるりとビルが取り囲み夏の陽射しを避けるように早足で横断歩道を渡る人も多い。渡りきった人々は彼らと同じ目当てのようだ。商業ビルに吸い込まれるようにして入って行く。
 そんな様子を見ながら、熱気を避けるように彼らも小走りに人波を追いかけて行った。





 夏休みの初日、過去問対策を見て欲しいという洋介の頼みを珍しく断った彼は、ついさっき出かけたという彼女を追って家を出た。その情報を漏らした直後に断ったものだから、きっと洋介には理由がバレているだろうが今更だった。
 急いで着替えて家を出ると、いつもの駅に向かう。田舎道の両側で大きな首をもたげているひまわりは、急ぐ彼を応援しているのかただ見送っているだけなのか。そんなことをふと思ってしまう余裕があることに我ながら驚くが、何のことはない彼女と通学するためだけに通い続けた道の時間感覚が身に染み付いているだけだ。
 この時間帯なら12分の電車だろう。十分に間に合う。とは言えホームで追いつくと思うが話している時間はなさそうだ。定期入れは持ってきたから電車の中で話せば良い。
 照り返しにうんざりする余裕もなく、背中に流れる汗を感じながら駆け足を交えて駅に着くと、ちょうど山あいから列車が小さく見えてくるところだった。
 いつもなら無駄に通る木造駅舎の扉を潜らず脇から直接ホームへ走ると、足音に気づいたのか彼女がこちらへ顔を向けて、一瞬だけ驚いた表情を浮かべた後ふわりと笑った。
「どうしたの、拓。汗かいてるじゃないの」
「……ぶ、かつっ、やってりゃ、良かったよ……」
 息を整えながらつっかえつっかえ言うと大きく深呼吸をして、
「ちょっと和ちゃんに聞きたいことあって」
「え、もう電車来ちゃってるけど」
 視線を向こうに投げる。線路を伝う衝撃音は少しずつ大きくなり、黄色い車体はだいぶ近くに迫っている。ホームに人影はないが、待合室から出て乗車位置に向かう頃合いだ。
「俺も乗るよ」
 ポケットから定期を取り出してひらひらと振って見せる彼に彼女は怪訝そうな顔つきをしたが、小首を傾げるだけで特に何も言わなかった。それを了承と取った彼が一歩下がった時には、一番線に電車が滑り込んでいた。



 並んで腰をおろした二人の間に始めは言葉がなく、足元から伝わる振動を感じながら窓の外を眺めていた。
 木々の間を縫って走る分には濃い木の影が目に優しかったが、隣の駅を過ぎると広い水田地帯となる。緑の稲田にちらちらと映る水面からの反射が時折光り、す、と視線を車両の向こうに投げると運転席の向こうにカーブが見える。一年以上、毎日彼女と乗ってきた電車だ、時計を見ずとも車窓の景色と感覚で時間を覚えている。
 あのカーブを過ぎれば次の駅、市内に向かって彼らの高校へ続く路線と夏祭りで行った杉原の方向へ向かう路線に分岐しているが、彼女は乗り換えないだろう。高校の最寄り駅まで十五分、彼女の目的である終点まで三十分。特に予定もない彼としてはこのまま最後まで乗っていても問題はないが、黙ったまま先送りする訳にもいかない。
 カーブを過ぎたら話そう、と決めている間にも甲高い音を立てて重力が加わり体が流れる。こちらへ倒れてくる彼女がそのまま体を預けず肩に力を入れて最小限の傾きで済ませていることが、いつも通りなのに彼の心に棘を刺した。

「進路、決めたの?」
 駅に向かう直線で速度を上げたのを感じながら、彼女の方を見ずに尋ねる。
 彼的には覚悟を決めて出した言葉だったが、隣から返ってきた言葉に重みはなかった。
「あ、誰かから聞いた?日和?」
 そのことにも苦々しい思いを感じつつ、可能な限り表情に出さないよう軽く目を閉じてすぐに開く。瞬きにしては長く、瞑目にしては短い時間だが、車内が少し暗くなったように思った。
「いや、日和先輩からは聞いてない。和ちゃんが進路で迷ってたってくらいしか」
「そっか、まあ言いふらすような子じゃないしね。でも迷ってたのだいぶ前だけど」
「決めたのもだいぶ前だってんだろ。だから……」
 話してくれるのをかなり待った、と言いそうになって慌てて口を噤む。彼女の進路は彼女が決めることであって、彼に言わなければならない理由なんてない。それくらいの分別は、乱れた感情の中にあっても残っていた。

 ちょうど駅に着いたタイミングだったのが幸いした。
 彼らの車両にあるドアは開かなかったが、隣の車両に数名が乗り、再びドアを閉じた電車はゆっくりときしんだ車輪の音を響かせながら次の駅へと走り出す。
「洋介が」
「ん?」
「洋介が、姉貴が出ていってさっぱりするって言ってたから」
「あー……いつも勉強見てくれてありがとね。そっか、あいつ、口悪いんだから。ま、本心なんだろうけど」
「県大じゃなかったんだ」
「うん、最初は特に考えもなく県大受けようと思ってたんだけど。色々聞いてたらメディア文化とか面白そうだな、って」
 調べて、とは彼女は言わなかった。だから彼にはそれが何を意味するのか、いや正確に言えば誰から聞いたのかということも容易に想像できてしまったが、不快でしかないそのことを頭から追いやった。
 それでも気持ちが刺々しい。彼女の言った学科名も、何となく意味は想像できるが実感が湧かない。そんなところもきっと自分が彼女に置いていかれる子供なのだと認識させられてしまう。
 だが、それはただ彼女が先に大人になったということに気持ちが追いついていないだけだ。今の時点ではそう思うことにした。
「それで」
 だから自分も進まなければならない。臆病に震えて癇癪を起こす子供ではいられないのだ。
「どこの大学、受けるの?」





「付き合ってくれてありがとね」
「こちらこそ、暑い中すみません」
 駅前の雑居ビルで彼女の用を済ませた後、せっかく市内まで出てきたのだからと図書館へ行く彼に付き合ってくれた。炎天下で駅前の商業エリアから微妙に離れたここまで付き合ってくれたお礼にと、図書館にある喫茶室でアイスティーを奢ることを申し出たのは、彼が目当ての本を見つけた後。
「川越君って、ちゃんと進路のこと考えてるんだね」
 真夏の窓際は熱を伝えるはずだが、中庭に面した喫茶室の大きな窓には広い庇が被さり日陰のせいかさほどでもない。ストローから口を離した彼は、そのことに感謝しつつ彼女の視線を追って隣の椅子に置いた本に目をやった。
「和のため?」
 目線を戻した彼に、日和は直前の発言を自ら否定した。
「違うか。和を追いかけたい自分のため、かな」
「……いくら幼馴染だからって、それはないですよ。俺、そんなにガキに見えます?」
 内心の焦りはうまく隠せただろうか。いやきっと無理だろうな、と諦めながらも無駄な足掻きで置いていた赤本を鞄にしまう。そんな彼の姿をじっと見ていた彼女は、じゅうっと音を立てて最後のアイスティーを吸い上げると、
「ひまわりって、太陽を追いかけて首を回してるんだよね」
 それが何の喩えなのか、言われなくても彼にはわかっていた。
「俺はひまわりですか。植物扱いはさすがに勘弁して欲しいんっすけど」
 それに、と。
「ひまわりが太陽に向かうのは、花が咲くまでですよ」
「えっ?!嘘!」
「嘘じゃないです。光屈性とも言われますけど、実際はどちらかと言えば影になる方の性質が原因ですね。しかも花じゃなくて茎」
「え、ちょ、茎?茎の方なの?」
 恥ずかしいのだろう、顔を赤くしてテーブルに置いた両手を握りしめ前のめりになる日和に対し、苦笑しながら彼は背もたれに体を預けた。
「ひまわりの茎の成長ホルモンって、光に当てられないと濃度が上がるんです。つまり影になってる方が成長して、それに押されるように光に当たっている方が捻れて結果的に太陽を向いているようになるってのが原因ですね。成長ホルモンですから、成長している最中はそれが関係しますけど花が咲く頃の生育しきった段階でその動きはなくなります」
「えええ……何かドヤ顔で言った自分が恥ずかしいよ……」
 熱くなった頬を押さえて俯く彼女がコミカルで、彼は苦笑を本当の笑みに変えた。こうして笑っていれば、悩みをその間だけでも忘れられそうだったから。

「うん、よし!」
 しばし顔を伏せていた彼女が気合を入れて向き直る。
 同時に陽光に当てられた氷がからんと鳴り、位置を変えた氷の反射がちかりと彼の目に入った。目を細めて一瞬の光から逃げた彼が再び彼女を見ると、
「うまくできたよ」
「え?何がです?」
 問い返す彼に、
「辻褄合わせ。ついでに覚悟もできた」
 何のことかわからない彼が黙って彼女を見つめる。視線を受け止めた彼女はふう、と大きく息を吐くとすっかりの赤みの引いた顔で、けれどさっきまでよりも深い色の目を彼に向ける。
「川越君は成長中は和を追いかけてたんだよ」
「ああ、そういうことですか」
 赤くなりながら一生懸命そこを考えていたのか、そう思うと目の前のひとつ上の先輩が妙に可愛らいしく感じて思わず笑う。
「でもね、もう高二なんだから太陽を追いかけるのは終わりなんだと思う」
「んん?」
「今の……これからの川越君の前には私がいるから」
 え、と声をあげそうになった彼の代わりに、再びからんと氷が鳴った。
 思わず彼女を凝視する彼の視界の端で、中庭のひまわりが黄色く光っていた。
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