過ちの恋

桜 詩

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44,恩人

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 セシルに真っ直ぐ向かって来た馬車の車輪。

とっさの事で固まったように動けなかったのに、それを避けることが出来たのは、助けてくれた人がいたからだ。

「あぶない!」
そう警戒の声をあげたのは、通りに立っていた騎士たちだった。

横から浚うように人が飛び付いてきて、セシルは衝撃を最小限に留めることができたのだ。
それでも、冷たい路に倒れた衝撃は到達したし、何よりも咄嗟に力が入った脚にはそれがきちんとした靴でなくて、簡単な室内履きだったことが災いしたのか、足首に激痛が走った。

 セシルは………その時助けてくれた人の家でお世話になっていた。

イオン・マーキュリー。それがこの家の主の名前である。

「ミセス・レーンありがとう」
モーナ・レーンはご主人のダドリー・レーン氏とこの家に住み込みで管理を任されている。 ふくよかで笑顔の優しい人である。
モーナは、動けないセシルの世話をしてくれていて、今も体を拭いて髪を手入れするのを手伝ってくれている。

大きな怪我はなかったものの、車輪を避けようとしたせいで不自然な体制をとり足を捻ってしまったセシルは、みるみるうちにパンパンに腫れてしまい医師の診断によりしばらくは安静に、という事でイオンがひとり暮らしでは不便だろう、とこの家に運んでくれたのだった。

「あの……私が居るせいでサー・マーキュリーはお帰りにならないのでは」
イオンは顔を出すけれど、どこで寝ているのか……夜は不在だ。
「気になさらないで、イオン様はどこでも寝れると仰ってますから、騎士の仲間も多いですしそちらにでも居られてるのでしょう」
「はい……」

あの日……大通りの夕方。
雪が降るほど寒いのに、コートも着ずにしかも室内履きで外に飛び出していて、その姿は尋常に見えなかったのかも知れない。怪我ももちろんだが、だから……こうして置かれているのかも知れない。

「大丈夫か?」
真っ直ぐに見下ろしたグレーの瞳は、心配そうで。
大丈夫だといったけれど、気がつけば凍えそうなほど体は冷えていた。
またイオンのマントにくるまれて、騎士団の馬車に乗せられた。
助けられたのは、これで2度目だ。

足が治ったら恩返しをしないと、とセシルは思った。
なにかすることがある、というのはそれだけで……良いものだ。
特に、今のように……つまづき転んで、立ちあがるのが難しいときは。

 セシルがここに居ると、それを知らされたミリアが、マダム エメがケイがお見舞いに来てくれた。
「大した怪我じゃなくて、良かった」
ミリアがホッとして声を出した。

「ごめんね、ミリア。お店……雇ってもらってるのにまだ行けないなんて」
「大丈夫、今はゆっくりと治して」
ミリアは気にしないで、と明るく笑う。

「それにしても私も安心だ。やはり独り暮らしでこんな風に怪我をするとね、ここで看てくれる人がいるというのは」
父のようにケイは言った。

「しかも、治療代はグレンヴィル伯爵家が出してくださるって……お休みしないといけない間の生活費も」

怪我をしてすぐに、馬車の持ち主であるグレンヴィル伯爵が手配したらしく、エール弁護士事務所からアルバート・ブルーメンタールという弁護士がやって来て、お見舞いの言葉とそれからそのような申し出をしてくれて、グレンヴィル伯爵がまだ領地だから見舞いに来れなくて申し訳ないと謝罪までされた。

アルバートは端正な顔立ちをしていて近寄りがたい雰囲気があるのに輪をかけるように淡々と説明をされて、セシルはただ頷くだけだった。

「……貴族の馬車にしてはいい対応をしてくれたから良かったわね、セシル」
「ええそうね」

でも。その馬車のせいでセシルはギルに追い付くことが出来なかった。追いついていれば……きっと〝行かないで〟と口走っていたに違いない。
こうなったということは、ギルとの事は……やはり終わりにするべきだと、きっと運命の神がそうセシルに言っているのだ。

「あ、そうそう。セシル、手紙が落ちていて、まだ封が開いてなかったなら、一緒に持ってきたわ」
ミリアが家から着替えを持ってきてくれたのだが、落ちたままだった手紙を拾ってきてくれたのだろう。
「ありがとう、ミリア」

ギルの、手紙。
蜜蝋で封されたそれは、ギルの手にはまっていたシグネットリングで押されていて、それは翼龍の紋章………。
ミリアがせっかく持ってきてくれたのだから突き返すのもおかしい。そのままベッドの近くのテーブルに置いた。

「それにしても……師団長、かっこいいよね。前も思ったけれど」
ミリアがこそっと言ってきた。
今日ここまでイオンは3人を案内しつつ来たようだ。

「それに、絶対セシルに好意があるわ。でないと……ひとり暮らしだからって自分の家になんて泊まらせないわ。噂になっても、責任を取るつもりなのよ」
「責任って」
「責任よ。ね、マダム エメ」
マダム エメは頷いて、
「勿体ないくらいの相手よ、セシル。いまはまだ恋人は忘れられないかも知れないけれど、穏やかな生活はきっとそれを癒してくれるわ」
「私もそう思うよ、セシル。彼は誠実だし、将来有望だ。なにより身分の差がない」

「みんな考えすぎ。失礼よ」

「まぁ、いいわ。じゃ、早く治さなくてもいいからね」
ミリアの言葉にセシルは呆れた。
「ゆーっくり休むの。いい機会でしょ……何かあったんでしょ?」
「………あった、と思う」
「だから、休むときなのよ。ゆーっくり休んで、治療の費用、たっぷりもらっちゃいなさい。大怪我でもおかしくなかったんだから」

3人が帰ると、イオンが代わってベッドサイドに来たのだ。
「ありがとうございます。連れてきて下さって」
「いえ……ずっとここでは、暇でしょう」

大きな手が額に触れる。
「また、熱が上がってきた」
「大丈夫、です。たっぷり休ませてもらってますから」

冷えたせいか、怪我のせいか熱が出て下がってと続いている。
「何か欲しいものは?」

「いいえ、もう充分。して頂いてますから」
セシルがそう言うと、
「私はあなたに、我が儘を言ってもらいたい」
「え?」
「……前に言ったとおり、親切にしてもらったから」

イオンの言葉にセシルは戸惑った。
「あなたの、恋人は……来ないのか」
「……そのこと知ってるのですね。……でも、もう今は違います。終わったんです」
「そうか……それで……封を開けてない」
閉じられたままの手紙は、横におかれたまま。

「開けることも棄てることもできません」
なぜ、イオンにはこんなことを言ってしまったのだろう。
「今は……それでいいんだ……きっと」
表情は乏しいのに、瞳は優しい。

「私は男所帯だから、気が利かない。遠慮せず言ってくれて構わない。ミセス・レーンを呼ぼう」
「ありがとう……」

イオンの言ったとおり、熱が上がってきたみたいで、目の前が潤んでくる。 
ベッドサイドの手紙がまた目に入る。

(……ギル……)

弱ってるから……意思が脆くなってる。
セシルはその手紙を手にして、封蝋をなぞった。ずっと彼の指に嵌められていたシグネットリングで押されたその形。
その指の横にあったセシルの指輪。

あれは今……どこにあるだろう……。セシルが外したようにギルは外しただろうか?

手紙からはやっぱりまたグリーンシトラスの香りがする。

涙が溢れてしまうのは……熱のせい。
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