10 / 12
巻の一
第十幕
しおりを挟む
表の木戸を叩く小さな音がしている。
うたた寝していた兵太は、その音で飛び起きた。
未だに木戸を叩く音は続いている。
兵太はけつまずきながら木戸に辿り着くと、外にいる者へ声をかけた。
「こんな時分に、なんの用だい?」
「へぇ、お頼み申します。あっしは按摩でごぜぇやす。本日、こちらの親分さんに呼ばれ申しやして、お訪ねしてございやす」
外からは、しわがれながらもよく通る声が聞こえてくる。
だが、兵太は按摩が来るなどとは聞いていはいなかった。
木戸の覗き窓を開けて外の者を見ると、やせ細った老爺が立っていた。
木の杖をついているところを見るに、めくらの按摩なのだろうと考え至った兵太は、その老爺を通すことにした。
仮にこの老爺が何か問題を起こしたとして、その場で叩き倒せばいいだけの話で、もし本当に呼ばれて来ていたのだとすれば、ここで追い返しては大目玉を食らう。
そう考えて、兵太は木戸を開け、老爺を中へと通した。
「爺さん、親分は奥にいるんだが、場所はわかるかい?」
「へぇ、ありがとう存じます。以前、お訪ねしたことがごぜぃやす。道順は、把握してございやす」
「そうかい、それなら奥に行きねぇ」
兵太は木戸を閉めるために、老爺に背を向けた。
一度外に顔を出し、他に誰もいないことを確認してから戸を閉め、閂を下ろす。
そうして土間に戻ろうと振り返ると、老爺はまだその場に立っていた。
予想外の事に、兵太は思わず短い悲鳴を上げる。
「お、おい、爺さん。脅かしっこなしだ。早く、親分のところに行ったらどうだ」
「お前さんは、ここに来て日が浅いのかい?」
老爺の要領を得ない質問に、兵太は眉をひそめた。
何の意味があるのか、その点はよくわからなかったが、兵太は素直に数日前に来たばかりだと老爺に答えた。
「そうかい、そうかい。新入りかい。そいつは、運がなかったねぇ」
運がないとはどういうことなのか?
兵太はますますもってわからなくなっていた。
老爺は表情の読み取れない、笑い面を被っているように感じる。
今目の前にいる、按摩だと名乗っている老爺は、果たして何者なのか?
不思議と、兵太の背筋に冷たいものが流れていく。
「泉岳寺さんは、今は奥にいなさる。そうでござんすね?」
兵太は答えようとするも、口の中がカラカラに渇き、声がうまく出せないでいた。
ただ視線だけは、泉岳寺がいるであろう奥の離れへと向けられる。
「あぁ、そうですかぃ。奥の離れにいなさる」
兵太は驚いて老爺を凝視するが、老爺の両目は閉じられたままだった。
両目を閉じたまま、何度も頷いている。
「あ、あんた、爺さん、目が見えねぇんじゃ」
「えぇ、あっしはめくらでございやすよ。何も見えちゃございやせん」
「だったら、なぜ?」
見えているのか? まるで見えているような素振りを見せるのか?
兵太はたじろぐと、老爺から数歩離れた。
「おい、兵太! 何してやがる!」
突如、土間から顔を出した男が兵太に叫んだ。
その声におののいた兵太は、そのまま尻もちをつく。
兵太の様子を訝しんだ男が、土間から外へと飛び出してきた。
「何をそんなところ座ってやがるんだ、兵太。今は、そんなところじゃ」
男の視線が、笑みを浮かべた老爺を捉える。
「何だぁ? おい、この爺さんは何だ?」
「あ、按摩だ。按摩の爺さんだ」
兵太はそれだけを絞り出すように言うと、やっとのことで立ち上がった。
「按摩だぁ? 誰も頼んじゃいねぇぞ、按摩なんぞ」
男が老爺に近づいていく。
「爺さん、悪いんだがね、帰ってくれ。今は、按摩なんぞ」
そう言いかけ、男の顔つきが変わった。
老爺に鋭い視線を送ると同時に、己の懐に手を差し入れる。
対する老爺の動きも素早かった。
手にした仕込み杖から瞬時に抜刀すると、一太刀の元に男を斬り捨てる。
男はくぐもった唸り声を発すると、その場に倒れた。
その刃が、兵太に向けられる。
「お、俺は」
「運がなかったね、お前さんは」
老爺は素早く、兵太の心の臓をつく。
兵太は幾度か身を震わせた後、ゆっくりと地に倒れた。
その時、どこからか男の咆哮が響き渡る。
それを耳にして小さく頷くと、老爺は建物の中へと消えていった。
******
その日、寅彦は朝から災難続きだった。
朝の目覚めはドブ川の脇で、片足はドブ川に突っ込んだ状態だった。
ドブ川を離れても悪臭は消えず、風呂屋へ向かったが足を踏み入れる前に叩き出された。
仕方なく近くの河原で臭いを落としていたら、財布を流された。
財布を追って川に飛び込めば、足を攣って溺れかける始末。
死に物狂いで岸に着くも、釣り針を引っ掛けて手のひらを引き裂いた。
原因の釣り人に因縁をつけようと詰め寄ったところで、濡れた石に足を滑らせて顔から倒れ、額から血を流す。
逆に釣り人から心配され、手ぬぐいを渡されてしまった。
その時は、怒りと羞恥で前後不覚となり、只々手にした手ぬぐいを地面に叩きつけ、その場を足早に立ち去ったのだった。
その後も不運は続き、打ち水は被る、犬に吠えられる、石にけつまずく、足の小指をぶつける等々、小さな不幸のオンパレードに見舞われ、ほうほうの体で逃げ帰って来ていた。
そんな寅彦は今、裏門の番を任されている。
今朝からの話を仲間内にしてみたが、腹を抱えて笑われるだけで、何の解決にもならない。
ただ、番をしながら暇を持て余している間は、不幸も降って湧くようなことはなかった。
出がらしの茶をすすりながら、寅彦は朝からのことが何だったのか、ぼんやりと考える。
考えたところで答えがでるようなものではないが、暇を潰すにはちょうど良かった。
そんな時、裏門の木戸が音もなく開いた。
ぼんやりとしていた寅彦だったが、木戸の様子に気付くと大慌てで立ち上がる。
開いた木戸からは、襦袢姿の女がするりと入り込んできた。
後ろ手で木戸を閉め、器用に閂をかける。
そして顔を上げると、眼の前にいる寅彦と目があった。
女の動きが止まる。
寅彦も、思わぬことで動きが止まる。
女が艶っぽい視線を向けると、寅彦は自然と女の手を取っていた。
「お前様が、あちきを呼んだのかぇ?」
女の声を聞いて、寅彦ははいともいいえともつかない、うへぇと間抜けな声を出す。
「何だい、言葉も忘れちまったのかい?」
女を前にして、寅彦はこれまでの鬱々した感情が吹き飛んでいた。
何とも言えない感情が、体の奥底から沸々と湧き上がってくる。
「親分さんは、ございますの?」
「ああ、奥の離れにいるぜ」
喉から絞り出すように出た寅彦の声は、酷くかすれていた。
知らず、女の手を握っている寅彦の手に力が込められる。
そこから感じる女の体温は冷たく、硬い。まるで、冷えた鉄瓶を触っているようだった。
構わず、寅彦は女を抱き寄せる。
「あら、お前様が、あちきの相手をしてくださるので?」
「お前は、俺のものだ」
寅彦は熱に浮かされたように、女の体をまさぐっていく。
女はされるがまま、抵抗する素振りをみせない。
「あちきは、高うございますよ、お前様」
「構やしない。俺のものにしたい」
寅彦は女を強く強く抱きしめる。
それでも、女の体は冷たく硬い。
寅彦が女の唇を奪おうとすると、するりと滑り込んできた女の手がそれを阻む。
寅彦は女の手を乱暴に振り払うが、すぐに反対の手が滑り込んでくる。
寅彦が幾度振り払おうとも、ヘビのようにスルスルと女の手が滑り込み、女と寅彦の唇を隔てる。
女は愉快そうに笑っていた。
業を煮やした寅彦は、女の腕を力任せに押し付ける。
「それで、どうする?」
「お前を、もらう」
「そりゃ、運がなかったね」
女の声と当時に、寅彦の視界がぐるりと周り、天地がひっくり返った。
人の倍以上はありそうな女の腕が寅彦の首からするりと離れると、そのままドサリと地に倒れた。
女が倒れた寅彦を一瞥した時、どこからか男の咆哮が響き渡る。
それを耳にして小さく笑みを浮かべながら、女は建物の中へと消えていった。
******
どこで何を間違ったのか?
座敷牢の中で、緒方は一人考えていた。
自分はどこで判断を誤ったのか?
あの、生駒屋佐平次と名乗る男の甘言に乗ったこと。それがそもそもの間違いだったのではないか?
生駒屋と面識を持つきっかけは、山元の進言からだった。
今回の奇妙な殺しの下手人、その正体を掴んだのだと、山元から話があった。
とても人の手によるものとは思えぬ死体が出たことで、今回の件は初めから問題があった。
何をどうすればあれほど酷い殺しができるのか、皆目検討もつかなかった。
そのため下手人探しは難航するだろうと、容易に想像ができた。
そんな中、山元が確かな筋からの話だとして、生駒屋の名を出してきたのだった。
私は半信半疑のまま、生駒屋に会った。
もし無駄足になったとて、特段問題にする気もなかった。
山元も私と同じく、何かに追い立てられるかの様に手柄を必要としていた。
おかしな者にそそのかされたのだろうと、そう考えていた。
だが、生駒屋に会って話を聞くと、何故か相手に全幅の信頼を置くようになっていた。
生駒屋が語る物語はすべて真実であると、そう思わされていた。
相手の言に対して、疑問さえも抱かなかった。
あれは、あの状態は、正常だったと言えるのだろうか?
あの男に会ったこと、それ自体が過ちであったのではなかろうか?
「こんな場所にいたんじゃぁ、気も滅入りますなぁ」
緒方が顔を上げると、男が一人立っていた。
男は、泣き笑いのような奇妙な表情をしている。
「貴様も、私を笑いに来たのだろう?」
「いえいぇ、滅相もない。あたしはねぇ、心配で来たんですよぉ」
男の手には鍵束握られていた。
そして、あろうことか緒方が囚われている牢の鍵を開け始める。
「何のつもりだ、貴様?」
「貴方のところにはねぇ、あたしくらいしか、訪ねられないもんでしてねぇ」
男は牢の鍵を開けると、窮屈そうに身をかがめて牢へと入ってきた。
そして、緒方の対面に腰を下ろす。
「私を、助けようというのか?」
「あたしにぃ、貴方を助ける義理があると、そぅ、思いますかぁ?」
男は懐から小さな水差しを二つと薄紅色の和紙を取り出すと、丁寧に手元に並べていく。
そして和紙で器用に小さな包を作ると、その中へ水差しの液体を慎重に注いでいった。
緒方には、眼の前の男が何をしているのか、皆目検討がつかない。
ただ、男の作業を黙々と見守った。
「貴様は、何をしに来た?」
「あたしはぁね、心配の種を、摘みに来たんですよぉ」
男の視線が、今まで見たことがないほどに鋭利に緒方を捉えた。
瞬間、緒方は身の危険を感じ、身をよじる。
しかし後手に縛られていたため、バランスを崩しその場に倒れてしまう。
「貴様! 何をしているか」
男に向けて叫ぶ緒方の口の中に、小さな包が放られる。
それは吸い込まれるように緒方の口に飛び込み、そのまま飲み込まれていった。
「何を、何を飲ませた?!」
そう言うと、緒方の顔から血の気が引き、全身が大きく痙攣していく。
陸に打ち上げられた魚のように数度跳ね上がった後、緒方は動かなくなった。
「まぁ、運が悪かったんでしょうねぇ、貴方は」
男は最後にそう呟くと、その場を後にした。
うたた寝していた兵太は、その音で飛び起きた。
未だに木戸を叩く音は続いている。
兵太はけつまずきながら木戸に辿り着くと、外にいる者へ声をかけた。
「こんな時分に、なんの用だい?」
「へぇ、お頼み申します。あっしは按摩でごぜぇやす。本日、こちらの親分さんに呼ばれ申しやして、お訪ねしてございやす」
外からは、しわがれながらもよく通る声が聞こえてくる。
だが、兵太は按摩が来るなどとは聞いていはいなかった。
木戸の覗き窓を開けて外の者を見ると、やせ細った老爺が立っていた。
木の杖をついているところを見るに、めくらの按摩なのだろうと考え至った兵太は、その老爺を通すことにした。
仮にこの老爺が何か問題を起こしたとして、その場で叩き倒せばいいだけの話で、もし本当に呼ばれて来ていたのだとすれば、ここで追い返しては大目玉を食らう。
そう考えて、兵太は木戸を開け、老爺を中へと通した。
「爺さん、親分は奥にいるんだが、場所はわかるかい?」
「へぇ、ありがとう存じます。以前、お訪ねしたことがごぜぃやす。道順は、把握してございやす」
「そうかい、それなら奥に行きねぇ」
兵太は木戸を閉めるために、老爺に背を向けた。
一度外に顔を出し、他に誰もいないことを確認してから戸を閉め、閂を下ろす。
そうして土間に戻ろうと振り返ると、老爺はまだその場に立っていた。
予想外の事に、兵太は思わず短い悲鳴を上げる。
「お、おい、爺さん。脅かしっこなしだ。早く、親分のところに行ったらどうだ」
「お前さんは、ここに来て日が浅いのかい?」
老爺の要領を得ない質問に、兵太は眉をひそめた。
何の意味があるのか、その点はよくわからなかったが、兵太は素直に数日前に来たばかりだと老爺に答えた。
「そうかい、そうかい。新入りかい。そいつは、運がなかったねぇ」
運がないとはどういうことなのか?
兵太はますますもってわからなくなっていた。
老爺は表情の読み取れない、笑い面を被っているように感じる。
今目の前にいる、按摩だと名乗っている老爺は、果たして何者なのか?
不思議と、兵太の背筋に冷たいものが流れていく。
「泉岳寺さんは、今は奥にいなさる。そうでござんすね?」
兵太は答えようとするも、口の中がカラカラに渇き、声がうまく出せないでいた。
ただ視線だけは、泉岳寺がいるであろう奥の離れへと向けられる。
「あぁ、そうですかぃ。奥の離れにいなさる」
兵太は驚いて老爺を凝視するが、老爺の両目は閉じられたままだった。
両目を閉じたまま、何度も頷いている。
「あ、あんた、爺さん、目が見えねぇんじゃ」
「えぇ、あっしはめくらでございやすよ。何も見えちゃございやせん」
「だったら、なぜ?」
見えているのか? まるで見えているような素振りを見せるのか?
兵太はたじろぐと、老爺から数歩離れた。
「おい、兵太! 何してやがる!」
突如、土間から顔を出した男が兵太に叫んだ。
その声におののいた兵太は、そのまま尻もちをつく。
兵太の様子を訝しんだ男が、土間から外へと飛び出してきた。
「何をそんなところ座ってやがるんだ、兵太。今は、そんなところじゃ」
男の視線が、笑みを浮かべた老爺を捉える。
「何だぁ? おい、この爺さんは何だ?」
「あ、按摩だ。按摩の爺さんだ」
兵太はそれだけを絞り出すように言うと、やっとのことで立ち上がった。
「按摩だぁ? 誰も頼んじゃいねぇぞ、按摩なんぞ」
男が老爺に近づいていく。
「爺さん、悪いんだがね、帰ってくれ。今は、按摩なんぞ」
そう言いかけ、男の顔つきが変わった。
老爺に鋭い視線を送ると同時に、己の懐に手を差し入れる。
対する老爺の動きも素早かった。
手にした仕込み杖から瞬時に抜刀すると、一太刀の元に男を斬り捨てる。
男はくぐもった唸り声を発すると、その場に倒れた。
その刃が、兵太に向けられる。
「お、俺は」
「運がなかったね、お前さんは」
老爺は素早く、兵太の心の臓をつく。
兵太は幾度か身を震わせた後、ゆっくりと地に倒れた。
その時、どこからか男の咆哮が響き渡る。
それを耳にして小さく頷くと、老爺は建物の中へと消えていった。
******
その日、寅彦は朝から災難続きだった。
朝の目覚めはドブ川の脇で、片足はドブ川に突っ込んだ状態だった。
ドブ川を離れても悪臭は消えず、風呂屋へ向かったが足を踏み入れる前に叩き出された。
仕方なく近くの河原で臭いを落としていたら、財布を流された。
財布を追って川に飛び込めば、足を攣って溺れかける始末。
死に物狂いで岸に着くも、釣り針を引っ掛けて手のひらを引き裂いた。
原因の釣り人に因縁をつけようと詰め寄ったところで、濡れた石に足を滑らせて顔から倒れ、額から血を流す。
逆に釣り人から心配され、手ぬぐいを渡されてしまった。
その時は、怒りと羞恥で前後不覚となり、只々手にした手ぬぐいを地面に叩きつけ、その場を足早に立ち去ったのだった。
その後も不運は続き、打ち水は被る、犬に吠えられる、石にけつまずく、足の小指をぶつける等々、小さな不幸のオンパレードに見舞われ、ほうほうの体で逃げ帰って来ていた。
そんな寅彦は今、裏門の番を任されている。
今朝からの話を仲間内にしてみたが、腹を抱えて笑われるだけで、何の解決にもならない。
ただ、番をしながら暇を持て余している間は、不幸も降って湧くようなことはなかった。
出がらしの茶をすすりながら、寅彦は朝からのことが何だったのか、ぼんやりと考える。
考えたところで答えがでるようなものではないが、暇を潰すにはちょうど良かった。
そんな時、裏門の木戸が音もなく開いた。
ぼんやりとしていた寅彦だったが、木戸の様子に気付くと大慌てで立ち上がる。
開いた木戸からは、襦袢姿の女がするりと入り込んできた。
後ろ手で木戸を閉め、器用に閂をかける。
そして顔を上げると、眼の前にいる寅彦と目があった。
女の動きが止まる。
寅彦も、思わぬことで動きが止まる。
女が艶っぽい視線を向けると、寅彦は自然と女の手を取っていた。
「お前様が、あちきを呼んだのかぇ?」
女の声を聞いて、寅彦ははいともいいえともつかない、うへぇと間抜けな声を出す。
「何だい、言葉も忘れちまったのかい?」
女を前にして、寅彦はこれまでの鬱々した感情が吹き飛んでいた。
何とも言えない感情が、体の奥底から沸々と湧き上がってくる。
「親分さんは、ございますの?」
「ああ、奥の離れにいるぜ」
喉から絞り出すように出た寅彦の声は、酷くかすれていた。
知らず、女の手を握っている寅彦の手に力が込められる。
そこから感じる女の体温は冷たく、硬い。まるで、冷えた鉄瓶を触っているようだった。
構わず、寅彦は女を抱き寄せる。
「あら、お前様が、あちきの相手をしてくださるので?」
「お前は、俺のものだ」
寅彦は熱に浮かされたように、女の体をまさぐっていく。
女はされるがまま、抵抗する素振りをみせない。
「あちきは、高うございますよ、お前様」
「構やしない。俺のものにしたい」
寅彦は女を強く強く抱きしめる。
それでも、女の体は冷たく硬い。
寅彦が女の唇を奪おうとすると、するりと滑り込んできた女の手がそれを阻む。
寅彦は女の手を乱暴に振り払うが、すぐに反対の手が滑り込んでくる。
寅彦が幾度振り払おうとも、ヘビのようにスルスルと女の手が滑り込み、女と寅彦の唇を隔てる。
女は愉快そうに笑っていた。
業を煮やした寅彦は、女の腕を力任せに押し付ける。
「それで、どうする?」
「お前を、もらう」
「そりゃ、運がなかったね」
女の声と当時に、寅彦の視界がぐるりと周り、天地がひっくり返った。
人の倍以上はありそうな女の腕が寅彦の首からするりと離れると、そのままドサリと地に倒れた。
女が倒れた寅彦を一瞥した時、どこからか男の咆哮が響き渡る。
それを耳にして小さく笑みを浮かべながら、女は建物の中へと消えていった。
******
どこで何を間違ったのか?
座敷牢の中で、緒方は一人考えていた。
自分はどこで判断を誤ったのか?
あの、生駒屋佐平次と名乗る男の甘言に乗ったこと。それがそもそもの間違いだったのではないか?
生駒屋と面識を持つきっかけは、山元の進言からだった。
今回の奇妙な殺しの下手人、その正体を掴んだのだと、山元から話があった。
とても人の手によるものとは思えぬ死体が出たことで、今回の件は初めから問題があった。
何をどうすればあれほど酷い殺しができるのか、皆目検討もつかなかった。
そのため下手人探しは難航するだろうと、容易に想像ができた。
そんな中、山元が確かな筋からの話だとして、生駒屋の名を出してきたのだった。
私は半信半疑のまま、生駒屋に会った。
もし無駄足になったとて、特段問題にする気もなかった。
山元も私と同じく、何かに追い立てられるかの様に手柄を必要としていた。
おかしな者にそそのかされたのだろうと、そう考えていた。
だが、生駒屋に会って話を聞くと、何故か相手に全幅の信頼を置くようになっていた。
生駒屋が語る物語はすべて真実であると、そう思わされていた。
相手の言に対して、疑問さえも抱かなかった。
あれは、あの状態は、正常だったと言えるのだろうか?
あの男に会ったこと、それ自体が過ちであったのではなかろうか?
「こんな場所にいたんじゃぁ、気も滅入りますなぁ」
緒方が顔を上げると、男が一人立っていた。
男は、泣き笑いのような奇妙な表情をしている。
「貴様も、私を笑いに来たのだろう?」
「いえいぇ、滅相もない。あたしはねぇ、心配で来たんですよぉ」
男の手には鍵束握られていた。
そして、あろうことか緒方が囚われている牢の鍵を開け始める。
「何のつもりだ、貴様?」
「貴方のところにはねぇ、あたしくらいしか、訪ねられないもんでしてねぇ」
男は牢の鍵を開けると、窮屈そうに身をかがめて牢へと入ってきた。
そして、緒方の対面に腰を下ろす。
「私を、助けようというのか?」
「あたしにぃ、貴方を助ける義理があると、そぅ、思いますかぁ?」
男は懐から小さな水差しを二つと薄紅色の和紙を取り出すと、丁寧に手元に並べていく。
そして和紙で器用に小さな包を作ると、その中へ水差しの液体を慎重に注いでいった。
緒方には、眼の前の男が何をしているのか、皆目検討がつかない。
ただ、男の作業を黙々と見守った。
「貴様は、何をしに来た?」
「あたしはぁね、心配の種を、摘みに来たんですよぉ」
男の視線が、今まで見たことがないほどに鋭利に緒方を捉えた。
瞬間、緒方は身の危険を感じ、身をよじる。
しかし後手に縛られていたため、バランスを崩しその場に倒れてしまう。
「貴様! 何をしているか」
男に向けて叫ぶ緒方の口の中に、小さな包が放られる。
それは吸い込まれるように緒方の口に飛び込み、そのまま飲み込まれていった。
「何を、何を飲ませた?!」
そう言うと、緒方の顔から血の気が引き、全身が大きく痙攣していく。
陸に打ち上げられた魚のように数度跳ね上がった後、緒方は動かなくなった。
「まぁ、運が悪かったんでしょうねぇ、貴方は」
男は最後にそう呟くと、その場を後にした。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
なお、スピンオフもございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる