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狐の章  3

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人間の、男と女に化けた番の狐たちが浮かれた様子で、立派な木造の門をくぐりぬけて外へ出ていった。

男狐は「金平糖があったらチビどもの土産に買ってきてやろう」と話し、女狐は「新色の紅が出ていたらほしいわねぇ」と言った。

今宵は稲荷祭りで江戸の街が大賑わいの日だ。
彼らは祭り見物もかねて、人間たちの出している露店を冷やかしに行くつもりなのだろう。





一方、目を覚ました凛はなぜか広々とした和室の中にいて、やれやれとため息をついた。
夜だというのに、この空間では宙に浮く無数の青い炎が提灯の役割を果たしており、夕方のような明るさが保たれている。

「私は甘味処にいたはずなんだけどね…」

襖の隙間からは少しだけ光が差し込み、ふさふさとした可愛らしい尻尾がぴょこぴょこと動いている。

「懐かしい場所に連れてこられたもんだね」と凜は苦笑した。

ここで凛の生い立ちについて少しばかり触れておこう。
幼い頃の凜は、小太りだが優しい父親の優作と、美しく気品に満ち溢れていた母親のお珠と一緒に暮らしていた。



優作は『おりん甘味処』の店主をしており、甘味づくりを生業としていた。
お珠は料理下手で調理の手伝いはからっきしだったが、艶やかさと気品の備わった美貌を惜しむことなく活用し、江戸一美しい茶屋女の異名を持っていた。


毎日、幸せに暮らしていた凜だったが、ある日突然、両親は誘拐の罪で投獄され、そのまま戻ってこなくなったのだ。

2日経っても3日経っても両親が帰ってこなかったため、当時5歳だった凜は1人で江戸の街をさ迷い、両親のことを訪ねて回った。

しかし両親の名前を出すと、江戸の民衆は凛のことを見なかったことにして、何も答えずに去っていく。凜はこの時から人間に対する不信感を抱くようになった。



途方に暮れて泣く気力もなくなり、道にうずくまっていたところを助けてくれたのがこの屋敷の長、八兵衛だったのである。

「お前がお珠の娘だな? わしの顔はわかるか?」

凜は、熊のように体格が大きく、口周りをすべて黒ひげに覆われている八兵衛の顔に見覚えがあった。
彼はおりん甘味処の開業時から店に足繫く通っていた常連客だったからだ。

「父ちゃんと母ちゃんが、帰ってこないの。おじちゃん、どこにいるか知ってる?」

八兵衛は目を伏せ、「もうこの世では会えない」と短く答えた。



このときの凜は知らなかったが、優作はさらし首になっており、お珠は肉体の行方そのものがわからなくなっていたという。


凜は八兵衛の言葉を聞いても泣き喚かず、静かに一粒の涙を流しただけだった。
八兵衛は凛を抱え上げて、1人で生き延びることができるようになるまで後見人になることを約束してくれた。



店の常連だった八兵衛は、優作やお珠ともかなり親しい仲だった。
満月の夜には三人で酒を飲みかわしていることも多く、凜は早くその輪に混ざりたいと思っていたものである。


こうして八兵衛が長を務める集落に招かれた凜は、なんとか独り立ちできるまでに成長することができたのだった。
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