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5巻
5-2
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「石の中に閉じ込めたのも、そんなに長い時間生きるのも、どうやったのかはさっぱり分からない。でもここにはそう書いてあるんだ。もちろん、ここに書いてあることは与太話かもしれないし、俺も現実的に考えて、そんなことあり得ないって思ってる。でも、この世界にはまだまだ俺たちの知らないこと、そして誰も知らないことがきっとたくさんあるんだ。ここに記されていることが正しい可能性だってあるんだよ」
ディナンドはどこか遠くを見るような目をしてそう言った。
「そしてこれが禁書棚にあったってことは、ここに書かれていることが真実にしろ虚構にしろ、誰かがこれを人の目に触れさせてはいけないって思ったってことだ」
セリーヌはディナンドの言葉に思わず息を呑む。
そうだ。これは本来見てはいけないものなのだ。限られた者しか入ることのできない、禁書棚にあったものなのだ。
罪悪感とも危機感とも取れない感情が、セリーヌの胸の中に渦巻く。
「そして、これにはまだ続きがある」
セリーヌは固唾を呑んだ。ここまでで十分衝撃的な情報だったというのに、まだ続きがあるというのか。
ディナンドがさらにページをめくる。ページいっぱいに、大きな文字で焦ったように書かれている。
『見つかった』
罫線も何もかも無視して書かれたその字からは、書いた誰かがどんな心情でいるのかが手に取るように伝わってくる。焦ったせいでインクがボタボタと垂れた跡がいくつもあった。
「『あいつ』に見つかった。私はもうだめだ。もしこれを読んでくれる誰かがいるのなら、私の調査結果の全てと、頼み事を託す。どうか聖女を見つけ、この地から解き放ってくれ」
ディナンドが硬い表情で読み上げる。
日記はそこで終わっていた。
セリーヌとディナンドの間に、張りつめた空気が流れる。
「俺、捜してみるよ」
そう言うと同時に、ディナンドがパタンと日記を閉じる。
セリーヌは数回瞬きをしたあと、ディナンドの顔を見た。
「捜してみるって。まさか、聖女のことですか?」
「それ以外に何があるんだよ」
ディナンドは呆れたようにそう言う。
「この日記の持ち主の願いは、道半ばで叶わなかった。俺がその遺志を引き継ぐんだ」
ディナンドは布張りの表紙の、ところどころ剥げたところを指先で撫でながらそう言う。
「なんて言ってみたりして。ほんとはただの好奇心さ」
ディナンドはそう言って笑うが、セリーヌの表情は硬いままだ。
「兄上は、この日記のことを信じるのですか?」
「全部信じるとは言わないよ。でも、やってみる価値はあると思う」
「でも、でも兄上、最後の文章がどうしても気になるのです。『あいつ』に見つかったとは一体……そしてこの日記の持ち主はどうなったのですか」
ディナンドは顔を上げ、セリーヌの目を見た。セリーヌはディナンドの緋色の瞳に吸い込まれそうになる。
自分も同じ色の瞳をしているはずなのに、ディナンドの目からは深い湖のような底知れなさを感じるのだ。
「おそらく命を落としたんじゃないかと思ってる」
ディナンドはセリーヌの目を正面から見てそう言った。おそらくとは言ったものの、確信しているような口ぶりだった。
「なら! それを分かっていて行動するというのですか!」
セリーヌは苛立ちを露わにそう叫ぶ。けれどディナンドは動じない。
変わらない表情で、じっとセリーヌを見つめている。
「だって、ずっと閉じ込められているなんて、聖女が可哀そうじゃないか」
ディナンドはあっけらかんとそう言った。まるで迷子になった子供を憐れむような言い方。
セリーヌは頭がクラクラした。
そうだった。兄にはこういうところがあった。
セリーヌはこめかみを押さえて、心の中でそう呟く。
際限のない優しさを誰彼構わず振りまいて、自分の身は全く省みない。お人好しなんて可愛いものじゃない。ある種の異常だった。
その上、己の決めたことに一直線で、おまけに面白いもの好き。
この日記の内容は、ディナンドの興味を引きつけるには十分すぎるほどだった。
ディナンドに考えを改めさせることは不可能に近いだろう。
セリーヌはディナンドに悟られないよう、こっそりため息を吐いた。
「城から抜け出しついでに、ちょっと調べてみるだけだよ。危なくなんかないって。セリーヌは心配性だなぁ」
ディナンドが楽観的すぎるだけなのだと思ったが、セリーヌは何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
それからディナンドは、城を抜け出すたびに聖女についての調査をした。
あるときには帝都で聞き込みを、またあるときには空間魔法で国中を駆け回って手がかりを探した。しかし目立った成果は得られなかった。
それが変わったのは、ディナンドとセリーヌがあの日記を見つけてから、半年ほどが経ったときだった。
ディナンドは当初ほどの熱意はないものの、根気よく調査を続けていた。
そしてある日、またもや授業をすっぽかしていたディナンドが、中庭で本を読んでいたセリーヌのもとへ現れたのだ。
よっぽど急いでいたのか、それとも遠くまで行っていたのか、珍しく空間魔法での移動だった。
「聞けよセリーヌ、すごいことが分かったんだ!」
セリーヌが本から顔を上げた途端、ディナンドは興奮した様子でそう言う。
セリーヌが口を挟む間もなくディナンドは話を続ける。
「聖女はクリスト共和国にいる」
ディナンドが突然そんなことを言うので、セリーヌは口をあんぐりと開けた。驚きのあまり、そうするしかなかったのだ。
しかしそれだけでも十分驚きは伝わったらしく、ディナンドは満足げな顔をした。
「……クリスト共和国って、あの共和国ですか?」
ディナンドは重々しく頷く。もったいぶっているのが丸分かりだったが、今のセリーヌにはそんなことを指摘する余裕はなかった。
驚きの波が引いてみると、次々と疑問が湧き上がってきて、脳がはちきれそうになる。
「でも、どうやって突き止めたんです? 半年間調査しても、なんの手がかりも得られなかったはずじゃ」
セリーヌはやっとの思いでそう口にした。
ディナンドは得意げな顔で、懐から例の日記帳を取り出した。
「これだよ、これ。やっぱりヒントはこの日記にあったんだ」
ディナンドは日記帳をひらひらともてあそびながらそう言う。
「全く俺も間抜けだよな。あちこちを飛び回るより先に、この日記をくまなく調べるべきだったんだ」
「兄上、それで、一体何があったんです?」
待ち切れなくなったセリーヌがそう尋ねると、ディナンドはにやりと笑った。セリーヌの隣に座り込んで、ページをめくり始める。
ディナンドは、大まかな図のようなものが描かれているページで手を止めた。
「何かの図、ですか?」
「地図だよ地図。この日記をなんとなく見てたらさ、なんの脈絡もなく地図が描かれてるページを見つけたんだ。それがこのページ。でもざっくり描いてある上になんの説明もなかったから、実際に使われてる地図と見比べたんだ」
ディナンドはそこで言葉を切って、セリーヌの目を見た。
「そしたら、同じ地形があったんだよ!」
ディナンドは心底嬉しそうにそう言った。
「なんだよ、反応薄くないか?」
「い、いえその、そもそもこれはなんの地図なんですか?」
「決まってるだろ。きっと聖女がいるところだよ」
ディナンドは呆れたようにそう言った。
それもそうだ。この日記は最初こそ雑記といえど、後半部分は、ほとんどが聖女について書かれたものなのだから。
改めて理解した途端、セリーヌは驚きと同時に、抑えられない胸の高鳴りを感じた。ワクワクともドキドキとも言い表せないような何か。
セリーヌは食い入るように日記を見た。地図にはぐりぐりと塗り潰したような黒い丸がある。この印の場所に、きっと聖女がいるのだ。
「それで、もう確かめてきたんですか?」
「まさか。まだに決まってるだろ」
ディナンドはムッとした顔をした。
「お前と一緒に行こうと思って、今大急ぎで伝えに来たんだ」
セリーヌは衝動に任せてすぐにでも出発したかったが、冷静な自分がそれを止めた。
興味がないわけではないし、むしろ行きたい。けれど懸念が勝つのだ。
セリーヌにはこれから剣術と魔法の授業がある。セリーヌが授業に来なかったら、教師や従者が一体どうしたのかと城中を捜し回ることになるだろう。
常習犯のディナンドならまだしも、セリーヌが抜け出すと城が大騒ぎになることもあり得る。
それが、素直に行くと言えない大きな理由だった。
それに、気になるのはあの日記の最後の文章だ。乱雑に書かれた『見つかった』の文字。
一体誰に、何に見つかったのかも、それが聖女とどういう関係があるのかも分からない。
セリーヌが黙り込んでも、ディナンドはそうなることを見越していたのか、何も言わなかった。ディナンドは案外、人の心の機微に敏かった。
「別に無理にとは言わないさ。ただ、一応呼びに来ただけだから」
ディナンドはぼそりとそう言う。セリーヌはその声を聞いて、顔を上げて立ち上がった。膝の上に乗せたままだった本が地面に落ちる。
ディナンドは驚いたようにセリーヌを見上げた。
「私も行く。こんな面白いこと、黙って見てるわけにはいかないもの」
セリーヌがそう言うと、ディナンドはにやつきとも微笑みとも取れない笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
ディナンドの空間魔法で、まずは行ったことのある地図付近の場所まで移動する。
地図の場所は、クリスト共和国とラムダ帝国とアドラード王国に囲まれているものの、どこの国にも属していない土地だった。
セリーヌは城が大騒ぎにならないかずっと心配だったが、ディナンドが全部自分のせいにしていいと言ったので、少し安心できた。もっとも、できる限り自分も解決するつもりではあったが。
セリーヌたちが転移した先は、ラムダ帝国の国境付近の深い森の入り口だった。
「こんなことならナイフか何か持ってくればよかった」
ディナンドが枝葉を押しのけながらそう言う。セリーヌはスカートの裾を倒木にひっかけそうになって、慌てて避けた。スカートの裾をほつれさせたら、城の者の仕事を増やしてしまう。
今セリーヌが着ている服は普段着とはいえ、曲がりなりにも皇女の着るものなのだ。布地がたっぷりと取られたスカートの裾はくるぶし近くまであり、レースやフリルなどの装飾が縫い付けられている。
靴も男性が履くような動きやすいものではなく、足の甲の部分が空いた、見た目重視のものだった。ヒールがないことが唯一の救いだったが、それでも動きづらいことこの上なかった。
セリーヌは、仕方なくスカートの裾を持ち上げて進むことにした。
「服装も変えときゃよかったな」
ディナンドは、スカートを持って慎重に進むセリーヌを見てそう呟く。
なんだか自分が情けなくて、セリーヌは項垂れた。
しかしディナンドは、そんなセリーヌをよそに何やらごそごそと腰回りを漁り始めた。
ポケットから何か出すつもりなのかと思ってセリーヌが見ていると、いつの間にかディナンドの手には革のベルトが握られていた。
「それ、兄上のベルトですよね? 一体何を……」
「大丈夫。このズボン、ちょっと小さめだからずり落ちたりなんてしないさ。多分」
ディナンドはそう言うと、セリーヌの後ろ側に回った。
「セリーヌ、ここちょっと持ってて」
スカートの裾を二重になるようにして折りたたみ、手で持っておくようディナンドが指示する。
何をするのか分からないでいると、ディナンドはベルトをセリーヌの腰にぐるりと一周させた。そしてスカートの布地を器用に折りたたみながら入れ込み、あっという間に固定してしまう。
「もう離していいよ」
セリーヌは言われた通りにする。手を離しても、もうスカートは落ちてこなかった。
くるぶし近くまであった裾は半分に折りたたまれた状態で固定され、膝が見えるぐらいの丈になっていた。
普段ここまで丈の短い衣服を身に着ける機会はなかったのでセリーヌは少々気恥ずかしかったが、これならさっきまでよりずっと動きやすい。
「一応外れないようにはしてあるけど、あんまり激しくは動くなよ」
ディナンドは一仕事終え、満足げな顔でそう言った。
動きやすさを確かめるため、軽く飛んだり足踏みしたりしていたセリーヌが慌てて動きを止めると、ディナンドは「それくらいなら平気だよ」と言って笑った。
「今度どっか行くときは、俺の服を貸してやるよ。まだそんなに大きさは変わらないだろ」
「じゃあ、次はお願い」
今度があるのかは不明だったが、セリーヌはひとまずありがたく頷いておく。
動きやすくなったところで、二人は歩を進めた。しばらく歩き回るが、やっぱり何もない。
「うーん……見事になんもないな。確かにこの辺のはずなんだけど」
ディナンドは日記を右に倒したり左に倒したり、上下を反対にしてみたりと色々と試しながらにらめっこしている。
ディナンドもセリーヌも方向音痴ではなく、地図を読むのも苦手ではない。見当違いの場所に辿り着いた、なんてことはないはずだ。
けれど事実、ここには草木と少しの石ころ以外何もなかった。
「もしかしてただのメモで、聖女にはなんの関係もなかったとか?」
「いや、それはない。この日記の後半は、全て聖女のことについて書かれている。そこに急に無関係なメモが挟まるとは思えない」
「でも、たまたま書きつけるものが近くになくて、仕方なくとか……」
「こんなに分厚い日記帳にびっちり字を書くような几帳面なやつだぞ。そんなことあると思うか?」
ディナンドは実際に字が所狭しと書き込まれたページを見せつけながらそう言った。
確かにその通りだが、何もないんだからそう思ったって仕方ないだろう、とセリーヌは内心思った。
「……ん? んん?」
前を歩いていたディナンドが、突然奇妙な声を上げる。
「どうしたんですか?」
「いや、なんか一瞬変な感じがして。何とは言えないんだけどさ」
ディナンドは首を傾げながらそう言う。
セリーヌも五感に意識を集中してみる。
しかしセリーヌがその正体に気付く前に、ディナンドが声を上げた。
「分かった! この辺り、魔力濃度が高いんだよ。そんなに深い森ってわけでもないのにさ」
「だとすると……」
「地下に洞窟か何かがあるのかもしれない」
「兄上、十分に気を付けてくださいよ。魔力濃度が高いなら、いつどこから魔物が飛び出してくるか……」
「大丈夫大丈夫、武器は持ってないけど、俺、魔法は得意なんだから。もし魔物が襲ってきたら岩でドーン、火でバーンだ」
確かにディナンドは魔法が得意で、ちょっとした魔物ぐらいなら簡単に倒せるだろう。ディナンドは地属性の魔法で衝撃を与えて隙を作ってから、炎で攻撃するという手法をよく取っていた。今の説明はそういう意味だろう。如何せんディナンドは説明が下手だった。
「もしかして、地下に聖女も閉じ込められてるのかもしれないぞ」
「でも、どうやって捜す気ですか?」
「そんなの簡単だ」
ディナンドが地面に手を突く。すると、その周辺の土が隆起する。
「こうすればいいんだよ」
ディナンドがそう言った瞬間、凄まじい轟音が鳴り響く。地面にひびが入り、ぼろぼろと砂のように崩れてゆく。セリーヌは思わず目を閉じ、両手で耳を塞いだ。
音が収まった頃、恐る恐る目を開けると、地面にはぽっかりと大きな穴が開いていた。
セリーヌはゆっくりと穴の淵に近付き、中を覗き込んでみた。日の光が差し込んで、穴の周辺だけがぼんやりと照らし出されている。
セリーヌがもっとよく見ようと身を乗り出したとき、手を突いていた箇所の土が崩れた。
「わっ!」
「危ない!」
鋭い声が聞こえたかと思うと、セリーヌは手のような形をした土に抱きとめられていた。衝撃はなく、背中にはふわふわとした柔らかい感触が伝わってくるだけだ。
「よかった、間に合った。あんまりヒヤヒヤさせるなよ」
ディナンドが上から穴の中を覗き込んでそう言った。セリーヌは苦笑いした。
「よいしょ、っと」
「おい、セリーヌ」
セリーヌが土でできた手から穴の中に飛び下りると、上から咎めるような声がかかる。
「兄上も下りてきたらどうですか? ここの地面は思ったより平らだし、飛び下りても平気ですよ」
「分かった分かった、すぐに行くから」
すぐに上からディナンドが降ってくる。セリーヌの近くに来たので、セリーヌは慌てて飛びのくはめになった。
「気を付けてください、兄上。私、ぺしゃんこにされるところでしたよ」
「ごめんごめん。でも避けたんだからいいだろ」
「それにしても――まさか本当に洞窟があったなんて」
「疑ってたのかよ」
「そういうわけじゃないけど、やっぱり信じ難かったというか」
セリーヌは辺りを見回す。穴から光が差し込んでいるものの、奥は真っ暗だ。
暗いとセリーヌが思った瞬間、ディナンドが火を灯した。
地属性、火属性ともに、ディナンドは無詠唱での発動が可能だった。
「さ、行こう。きっと聖女にもうすぐ会える」
それから数分後。地上に開けた穴から洞窟の中へ下り立ったセリーヌとディナンドは、分かれ道の前で立ち尽くしていた。
「これで何回目だよ。入り組みすぎだろ、この洞窟」
「帰るとき大丈夫でしょうか」
「……ま、大丈夫だろ」
「なんですか今の間は。途端に不安になってきました」
「大丈夫、大丈夫。それにセリーヌは記憶力がいいんだから」
「私任せですか!」
「もとよりそのつもり」
ディナンドはそう言ってにやりと笑った。
そんな会話を交わしつつ二人がどちらの道へ行こうか迷っていると、セリーヌは物音を感じた。
セリーヌは反射的に振り返るが、そこには何もない。気のせいだったのだろうか。
「どうした?」
ディナンドが振り返る。
「何か音がした気がして」
「音?」
ディナンドがそう言った瞬間、また物音が聞こえた。無数の足音のように聞こえるそれは、ひどく不気味で、聞く者の恐怖を煽るような音だった。
セリーヌは思わずディナンドの服を掴み、身を寄せた。
ディナンドは手元に浮かぶ明かりの火力を落とし、暗闇に目を凝らしている。
「魔物でしょうか」
「分からない」
小声でそんな会話を交わす。物音は徐々に近付いている。
ついに間近までやって来た。セリーヌの足がガクガクと震え出す。セリーヌは懸命に自身を落ち着かせようとしたが、いくら深呼吸をしようとしても呼吸は浅くなるばかりだった。
ディナンドが火を大きくする。岩壁に一瞬、人の影のようなものが映るが、逃げるように消える。
「……誰だ! 出てこい!」
ディナンドがそう叫んだ瞬間、黒い影が音もなく現れた。
「ひっ……」
セリーヌが小さく悲鳴を上げた瞬間、影がずざざざざと異様な音を立て、セリーヌたちに襲い来る。そして影がその体をもたげ、ぶわりと広がる。セリーヌとディナンドの視界が暗闇よりもいっそう暗い漆黒に包まれた。
ディナンドがセリーヌを押しのけるようにして前に出る。
「岩よ!」
ディナンドは簡易詠唱を用いて岩を落とすが、影は素早く身を翻してそれを躱す。いや、当たったとして、ダメージを受けるのかどうか。
「ッ、火の精霊よ――」
ディナンドは突然のことに驚き、思わず詠唱してしまった。
「兄上、無詠唱にして!」
ディナンドはハッとしたような顔をして次の魔法を放つ。詠唱という予備動作がいらない分、炎はすばやく影に襲いかかる。けれどそれも難なく躱されてしまう。
しかしその隙に、ディナンドの足元に影が迫る。
「危ないッ!」
セリーヌは黒い影から遠ざけるために、ディナンドを突き飛ばす。
いきなり突き飛ばされたディナンドは、バランスを崩して尻もちをついた。
セリーヌは黒い影から逃れ、ディナンドのもとへ駆け寄ろうとしたのだが――足が動かなかった。
セリーヌの右足は、黒い影にがっちりと掴まれていた。
「セリーヌ!」
ディナンドが名前を呼ぶ。けれどセリーヌの足は動かない。黒い影が皮膚に纏わりつくようにして足を締め上げている。
じわじわと何本もの細い針で突き刺されているような鋭い痛みが右足に走り、セリーヌは恐怖と痛みに顔を歪ませる。
「こ、氷――」
セリーヌの言葉で氷塊が空中に生成されるが、すぐに霧散した。痛みに気を取られて魔法の発動は無理だった。
しかし影は待ってくれない。右足を掴んでいた影は、徐々にセリーヌを侵食していく。
足首を掴んでいた影は、セリーヌの肌を這い上がるようにして上へ上へと魔の手を伸ばしていく。あまりの恐ろしさにセリーヌは身震いした。
(怖い、怖い、怖い。自分はここで終わるのか。こんなわけの分からない恐ろしいものに襲われて)
「っ、セリーヌを離せ!」
そんな声が聞こえてセリーヌが顔を上げると、ディナンドが自分のところへ突っ込んでくるところが見えた。
ディナンドはセリーヌの右足に掴みかかったかと思うと、黒い影を引き離そうとした。しかし影に実体はないのか、セリーヌの肌に確かに纏わりついているのに触れることができない。
「クソッ! どうすりゃ……」
「兄上、後ろ!」
後ろから広がった黒い影が襲いかかってくる。
次の瞬間、セリーヌの視界がぶれる。ディナンドによって、力いっぱい突き飛ばされたのだ。
「うっ!」
ごつん、と後頭部から鈍い音が聞こえ、セリーヌの視界が瞬く。頭を岩壁にぶつけたのだ。視界が急速に狭まっていく。
それでもセリーヌは、懸命にその目を開けて意識を手放すまいとする。
閉じていく視界の中、うっすら開けた目でセリーヌはディナンドを見る。
ディナンドは腰辺りまで影に捕らわれ、今にも呑み込まれんとしていた。ディナンドは身動きすることも詠唱することもなく、既に意識はないようだ。
影がぞぞぞと不気味な音を立て、セリーヌに迫っている。
ああ、せっかく兄上が助けてくれたのに。私も逃げられない。
セリーヌは最後の力を振り絞って立ち上がろうとしたが、無理だった。
「兄、上……」
なんとか保っていた意識を、そこで手放してしまった。
ディナンドはどこか遠くを見るような目をしてそう言った。
「そしてこれが禁書棚にあったってことは、ここに書かれていることが真実にしろ虚構にしろ、誰かがこれを人の目に触れさせてはいけないって思ったってことだ」
セリーヌはディナンドの言葉に思わず息を呑む。
そうだ。これは本来見てはいけないものなのだ。限られた者しか入ることのできない、禁書棚にあったものなのだ。
罪悪感とも危機感とも取れない感情が、セリーヌの胸の中に渦巻く。
「そして、これにはまだ続きがある」
セリーヌは固唾を呑んだ。ここまでで十分衝撃的な情報だったというのに、まだ続きがあるというのか。
ディナンドがさらにページをめくる。ページいっぱいに、大きな文字で焦ったように書かれている。
『見つかった』
罫線も何もかも無視して書かれたその字からは、書いた誰かがどんな心情でいるのかが手に取るように伝わってくる。焦ったせいでインクがボタボタと垂れた跡がいくつもあった。
「『あいつ』に見つかった。私はもうだめだ。もしこれを読んでくれる誰かがいるのなら、私の調査結果の全てと、頼み事を託す。どうか聖女を見つけ、この地から解き放ってくれ」
ディナンドが硬い表情で読み上げる。
日記はそこで終わっていた。
セリーヌとディナンドの間に、張りつめた空気が流れる。
「俺、捜してみるよ」
そう言うと同時に、ディナンドがパタンと日記を閉じる。
セリーヌは数回瞬きをしたあと、ディナンドの顔を見た。
「捜してみるって。まさか、聖女のことですか?」
「それ以外に何があるんだよ」
ディナンドは呆れたようにそう言う。
「この日記の持ち主の願いは、道半ばで叶わなかった。俺がその遺志を引き継ぐんだ」
ディナンドは布張りの表紙の、ところどころ剥げたところを指先で撫でながらそう言う。
「なんて言ってみたりして。ほんとはただの好奇心さ」
ディナンドはそう言って笑うが、セリーヌの表情は硬いままだ。
「兄上は、この日記のことを信じるのですか?」
「全部信じるとは言わないよ。でも、やってみる価値はあると思う」
「でも、でも兄上、最後の文章がどうしても気になるのです。『あいつ』に見つかったとは一体……そしてこの日記の持ち主はどうなったのですか」
ディナンドは顔を上げ、セリーヌの目を見た。セリーヌはディナンドの緋色の瞳に吸い込まれそうになる。
自分も同じ色の瞳をしているはずなのに、ディナンドの目からは深い湖のような底知れなさを感じるのだ。
「おそらく命を落としたんじゃないかと思ってる」
ディナンドはセリーヌの目を正面から見てそう言った。おそらくとは言ったものの、確信しているような口ぶりだった。
「なら! それを分かっていて行動するというのですか!」
セリーヌは苛立ちを露わにそう叫ぶ。けれどディナンドは動じない。
変わらない表情で、じっとセリーヌを見つめている。
「だって、ずっと閉じ込められているなんて、聖女が可哀そうじゃないか」
ディナンドはあっけらかんとそう言った。まるで迷子になった子供を憐れむような言い方。
セリーヌは頭がクラクラした。
そうだった。兄にはこういうところがあった。
セリーヌはこめかみを押さえて、心の中でそう呟く。
際限のない優しさを誰彼構わず振りまいて、自分の身は全く省みない。お人好しなんて可愛いものじゃない。ある種の異常だった。
その上、己の決めたことに一直線で、おまけに面白いもの好き。
この日記の内容は、ディナンドの興味を引きつけるには十分すぎるほどだった。
ディナンドに考えを改めさせることは不可能に近いだろう。
セリーヌはディナンドに悟られないよう、こっそりため息を吐いた。
「城から抜け出しついでに、ちょっと調べてみるだけだよ。危なくなんかないって。セリーヌは心配性だなぁ」
ディナンドが楽観的すぎるだけなのだと思ったが、セリーヌは何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
それからディナンドは、城を抜け出すたびに聖女についての調査をした。
あるときには帝都で聞き込みを、またあるときには空間魔法で国中を駆け回って手がかりを探した。しかし目立った成果は得られなかった。
それが変わったのは、ディナンドとセリーヌがあの日記を見つけてから、半年ほどが経ったときだった。
ディナンドは当初ほどの熱意はないものの、根気よく調査を続けていた。
そしてある日、またもや授業をすっぽかしていたディナンドが、中庭で本を読んでいたセリーヌのもとへ現れたのだ。
よっぽど急いでいたのか、それとも遠くまで行っていたのか、珍しく空間魔法での移動だった。
「聞けよセリーヌ、すごいことが分かったんだ!」
セリーヌが本から顔を上げた途端、ディナンドは興奮した様子でそう言う。
セリーヌが口を挟む間もなくディナンドは話を続ける。
「聖女はクリスト共和国にいる」
ディナンドが突然そんなことを言うので、セリーヌは口をあんぐりと開けた。驚きのあまり、そうするしかなかったのだ。
しかしそれだけでも十分驚きは伝わったらしく、ディナンドは満足げな顔をした。
「……クリスト共和国って、あの共和国ですか?」
ディナンドは重々しく頷く。もったいぶっているのが丸分かりだったが、今のセリーヌにはそんなことを指摘する余裕はなかった。
驚きの波が引いてみると、次々と疑問が湧き上がってきて、脳がはちきれそうになる。
「でも、どうやって突き止めたんです? 半年間調査しても、なんの手がかりも得られなかったはずじゃ」
セリーヌはやっとの思いでそう口にした。
ディナンドは得意げな顔で、懐から例の日記帳を取り出した。
「これだよ、これ。やっぱりヒントはこの日記にあったんだ」
ディナンドは日記帳をひらひらともてあそびながらそう言う。
「全く俺も間抜けだよな。あちこちを飛び回るより先に、この日記をくまなく調べるべきだったんだ」
「兄上、それで、一体何があったんです?」
待ち切れなくなったセリーヌがそう尋ねると、ディナンドはにやりと笑った。セリーヌの隣に座り込んで、ページをめくり始める。
ディナンドは、大まかな図のようなものが描かれているページで手を止めた。
「何かの図、ですか?」
「地図だよ地図。この日記をなんとなく見てたらさ、なんの脈絡もなく地図が描かれてるページを見つけたんだ。それがこのページ。でもざっくり描いてある上になんの説明もなかったから、実際に使われてる地図と見比べたんだ」
ディナンドはそこで言葉を切って、セリーヌの目を見た。
「そしたら、同じ地形があったんだよ!」
ディナンドは心底嬉しそうにそう言った。
「なんだよ、反応薄くないか?」
「い、いえその、そもそもこれはなんの地図なんですか?」
「決まってるだろ。きっと聖女がいるところだよ」
ディナンドは呆れたようにそう言った。
それもそうだ。この日記は最初こそ雑記といえど、後半部分は、ほとんどが聖女について書かれたものなのだから。
改めて理解した途端、セリーヌは驚きと同時に、抑えられない胸の高鳴りを感じた。ワクワクともドキドキとも言い表せないような何か。
セリーヌは食い入るように日記を見た。地図にはぐりぐりと塗り潰したような黒い丸がある。この印の場所に、きっと聖女がいるのだ。
「それで、もう確かめてきたんですか?」
「まさか。まだに決まってるだろ」
ディナンドはムッとした顔をした。
「お前と一緒に行こうと思って、今大急ぎで伝えに来たんだ」
セリーヌは衝動に任せてすぐにでも出発したかったが、冷静な自分がそれを止めた。
興味がないわけではないし、むしろ行きたい。けれど懸念が勝つのだ。
セリーヌにはこれから剣術と魔法の授業がある。セリーヌが授業に来なかったら、教師や従者が一体どうしたのかと城中を捜し回ることになるだろう。
常習犯のディナンドならまだしも、セリーヌが抜け出すと城が大騒ぎになることもあり得る。
それが、素直に行くと言えない大きな理由だった。
それに、気になるのはあの日記の最後の文章だ。乱雑に書かれた『見つかった』の文字。
一体誰に、何に見つかったのかも、それが聖女とどういう関係があるのかも分からない。
セリーヌが黙り込んでも、ディナンドはそうなることを見越していたのか、何も言わなかった。ディナンドは案外、人の心の機微に敏かった。
「別に無理にとは言わないさ。ただ、一応呼びに来ただけだから」
ディナンドはぼそりとそう言う。セリーヌはその声を聞いて、顔を上げて立ち上がった。膝の上に乗せたままだった本が地面に落ちる。
ディナンドは驚いたようにセリーヌを見上げた。
「私も行く。こんな面白いこと、黙って見てるわけにはいかないもの」
セリーヌがそう言うと、ディナンドはにやつきとも微笑みとも取れない笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
ディナンドの空間魔法で、まずは行ったことのある地図付近の場所まで移動する。
地図の場所は、クリスト共和国とラムダ帝国とアドラード王国に囲まれているものの、どこの国にも属していない土地だった。
セリーヌは城が大騒ぎにならないかずっと心配だったが、ディナンドが全部自分のせいにしていいと言ったので、少し安心できた。もっとも、できる限り自分も解決するつもりではあったが。
セリーヌたちが転移した先は、ラムダ帝国の国境付近の深い森の入り口だった。
「こんなことならナイフか何か持ってくればよかった」
ディナンドが枝葉を押しのけながらそう言う。セリーヌはスカートの裾を倒木にひっかけそうになって、慌てて避けた。スカートの裾をほつれさせたら、城の者の仕事を増やしてしまう。
今セリーヌが着ている服は普段着とはいえ、曲がりなりにも皇女の着るものなのだ。布地がたっぷりと取られたスカートの裾はくるぶし近くまであり、レースやフリルなどの装飾が縫い付けられている。
靴も男性が履くような動きやすいものではなく、足の甲の部分が空いた、見た目重視のものだった。ヒールがないことが唯一の救いだったが、それでも動きづらいことこの上なかった。
セリーヌは、仕方なくスカートの裾を持ち上げて進むことにした。
「服装も変えときゃよかったな」
ディナンドは、スカートを持って慎重に進むセリーヌを見てそう呟く。
なんだか自分が情けなくて、セリーヌは項垂れた。
しかしディナンドは、そんなセリーヌをよそに何やらごそごそと腰回りを漁り始めた。
ポケットから何か出すつもりなのかと思ってセリーヌが見ていると、いつの間にかディナンドの手には革のベルトが握られていた。
「それ、兄上のベルトですよね? 一体何を……」
「大丈夫。このズボン、ちょっと小さめだからずり落ちたりなんてしないさ。多分」
ディナンドはそう言うと、セリーヌの後ろ側に回った。
「セリーヌ、ここちょっと持ってて」
スカートの裾を二重になるようにして折りたたみ、手で持っておくようディナンドが指示する。
何をするのか分からないでいると、ディナンドはベルトをセリーヌの腰にぐるりと一周させた。そしてスカートの布地を器用に折りたたみながら入れ込み、あっという間に固定してしまう。
「もう離していいよ」
セリーヌは言われた通りにする。手を離しても、もうスカートは落ちてこなかった。
くるぶし近くまであった裾は半分に折りたたまれた状態で固定され、膝が見えるぐらいの丈になっていた。
普段ここまで丈の短い衣服を身に着ける機会はなかったのでセリーヌは少々気恥ずかしかったが、これならさっきまでよりずっと動きやすい。
「一応外れないようにはしてあるけど、あんまり激しくは動くなよ」
ディナンドは一仕事終え、満足げな顔でそう言った。
動きやすさを確かめるため、軽く飛んだり足踏みしたりしていたセリーヌが慌てて動きを止めると、ディナンドは「それくらいなら平気だよ」と言って笑った。
「今度どっか行くときは、俺の服を貸してやるよ。まだそんなに大きさは変わらないだろ」
「じゃあ、次はお願い」
今度があるのかは不明だったが、セリーヌはひとまずありがたく頷いておく。
動きやすくなったところで、二人は歩を進めた。しばらく歩き回るが、やっぱり何もない。
「うーん……見事になんもないな。確かにこの辺のはずなんだけど」
ディナンドは日記を右に倒したり左に倒したり、上下を反対にしてみたりと色々と試しながらにらめっこしている。
ディナンドもセリーヌも方向音痴ではなく、地図を読むのも苦手ではない。見当違いの場所に辿り着いた、なんてことはないはずだ。
けれど事実、ここには草木と少しの石ころ以外何もなかった。
「もしかしてただのメモで、聖女にはなんの関係もなかったとか?」
「いや、それはない。この日記の後半は、全て聖女のことについて書かれている。そこに急に無関係なメモが挟まるとは思えない」
「でも、たまたま書きつけるものが近くになくて、仕方なくとか……」
「こんなに分厚い日記帳にびっちり字を書くような几帳面なやつだぞ。そんなことあると思うか?」
ディナンドは実際に字が所狭しと書き込まれたページを見せつけながらそう言った。
確かにその通りだが、何もないんだからそう思ったって仕方ないだろう、とセリーヌは内心思った。
「……ん? んん?」
前を歩いていたディナンドが、突然奇妙な声を上げる。
「どうしたんですか?」
「いや、なんか一瞬変な感じがして。何とは言えないんだけどさ」
ディナンドは首を傾げながらそう言う。
セリーヌも五感に意識を集中してみる。
しかしセリーヌがその正体に気付く前に、ディナンドが声を上げた。
「分かった! この辺り、魔力濃度が高いんだよ。そんなに深い森ってわけでもないのにさ」
「だとすると……」
「地下に洞窟か何かがあるのかもしれない」
「兄上、十分に気を付けてくださいよ。魔力濃度が高いなら、いつどこから魔物が飛び出してくるか……」
「大丈夫大丈夫、武器は持ってないけど、俺、魔法は得意なんだから。もし魔物が襲ってきたら岩でドーン、火でバーンだ」
確かにディナンドは魔法が得意で、ちょっとした魔物ぐらいなら簡単に倒せるだろう。ディナンドは地属性の魔法で衝撃を与えて隙を作ってから、炎で攻撃するという手法をよく取っていた。今の説明はそういう意味だろう。如何せんディナンドは説明が下手だった。
「もしかして、地下に聖女も閉じ込められてるのかもしれないぞ」
「でも、どうやって捜す気ですか?」
「そんなの簡単だ」
ディナンドが地面に手を突く。すると、その周辺の土が隆起する。
「こうすればいいんだよ」
ディナンドがそう言った瞬間、凄まじい轟音が鳴り響く。地面にひびが入り、ぼろぼろと砂のように崩れてゆく。セリーヌは思わず目を閉じ、両手で耳を塞いだ。
音が収まった頃、恐る恐る目を開けると、地面にはぽっかりと大きな穴が開いていた。
セリーヌはゆっくりと穴の淵に近付き、中を覗き込んでみた。日の光が差し込んで、穴の周辺だけがぼんやりと照らし出されている。
セリーヌがもっとよく見ようと身を乗り出したとき、手を突いていた箇所の土が崩れた。
「わっ!」
「危ない!」
鋭い声が聞こえたかと思うと、セリーヌは手のような形をした土に抱きとめられていた。衝撃はなく、背中にはふわふわとした柔らかい感触が伝わってくるだけだ。
「よかった、間に合った。あんまりヒヤヒヤさせるなよ」
ディナンドが上から穴の中を覗き込んでそう言った。セリーヌは苦笑いした。
「よいしょ、っと」
「おい、セリーヌ」
セリーヌが土でできた手から穴の中に飛び下りると、上から咎めるような声がかかる。
「兄上も下りてきたらどうですか? ここの地面は思ったより平らだし、飛び下りても平気ですよ」
「分かった分かった、すぐに行くから」
すぐに上からディナンドが降ってくる。セリーヌの近くに来たので、セリーヌは慌てて飛びのくはめになった。
「気を付けてください、兄上。私、ぺしゃんこにされるところでしたよ」
「ごめんごめん。でも避けたんだからいいだろ」
「それにしても――まさか本当に洞窟があったなんて」
「疑ってたのかよ」
「そういうわけじゃないけど、やっぱり信じ難かったというか」
セリーヌは辺りを見回す。穴から光が差し込んでいるものの、奥は真っ暗だ。
暗いとセリーヌが思った瞬間、ディナンドが火を灯した。
地属性、火属性ともに、ディナンドは無詠唱での発動が可能だった。
「さ、行こう。きっと聖女にもうすぐ会える」
それから数分後。地上に開けた穴から洞窟の中へ下り立ったセリーヌとディナンドは、分かれ道の前で立ち尽くしていた。
「これで何回目だよ。入り組みすぎだろ、この洞窟」
「帰るとき大丈夫でしょうか」
「……ま、大丈夫だろ」
「なんですか今の間は。途端に不安になってきました」
「大丈夫、大丈夫。それにセリーヌは記憶力がいいんだから」
「私任せですか!」
「もとよりそのつもり」
ディナンドはそう言ってにやりと笑った。
そんな会話を交わしつつ二人がどちらの道へ行こうか迷っていると、セリーヌは物音を感じた。
セリーヌは反射的に振り返るが、そこには何もない。気のせいだったのだろうか。
「どうした?」
ディナンドが振り返る。
「何か音がした気がして」
「音?」
ディナンドがそう言った瞬間、また物音が聞こえた。無数の足音のように聞こえるそれは、ひどく不気味で、聞く者の恐怖を煽るような音だった。
セリーヌは思わずディナンドの服を掴み、身を寄せた。
ディナンドは手元に浮かぶ明かりの火力を落とし、暗闇に目を凝らしている。
「魔物でしょうか」
「分からない」
小声でそんな会話を交わす。物音は徐々に近付いている。
ついに間近までやって来た。セリーヌの足がガクガクと震え出す。セリーヌは懸命に自身を落ち着かせようとしたが、いくら深呼吸をしようとしても呼吸は浅くなるばかりだった。
ディナンドが火を大きくする。岩壁に一瞬、人の影のようなものが映るが、逃げるように消える。
「……誰だ! 出てこい!」
ディナンドがそう叫んだ瞬間、黒い影が音もなく現れた。
「ひっ……」
セリーヌが小さく悲鳴を上げた瞬間、影がずざざざざと異様な音を立て、セリーヌたちに襲い来る。そして影がその体をもたげ、ぶわりと広がる。セリーヌとディナンドの視界が暗闇よりもいっそう暗い漆黒に包まれた。
ディナンドがセリーヌを押しのけるようにして前に出る。
「岩よ!」
ディナンドは簡易詠唱を用いて岩を落とすが、影は素早く身を翻してそれを躱す。いや、当たったとして、ダメージを受けるのかどうか。
「ッ、火の精霊よ――」
ディナンドは突然のことに驚き、思わず詠唱してしまった。
「兄上、無詠唱にして!」
ディナンドはハッとしたような顔をして次の魔法を放つ。詠唱という予備動作がいらない分、炎はすばやく影に襲いかかる。けれどそれも難なく躱されてしまう。
しかしその隙に、ディナンドの足元に影が迫る。
「危ないッ!」
セリーヌは黒い影から遠ざけるために、ディナンドを突き飛ばす。
いきなり突き飛ばされたディナンドは、バランスを崩して尻もちをついた。
セリーヌは黒い影から逃れ、ディナンドのもとへ駆け寄ろうとしたのだが――足が動かなかった。
セリーヌの右足は、黒い影にがっちりと掴まれていた。
「セリーヌ!」
ディナンドが名前を呼ぶ。けれどセリーヌの足は動かない。黒い影が皮膚に纏わりつくようにして足を締め上げている。
じわじわと何本もの細い針で突き刺されているような鋭い痛みが右足に走り、セリーヌは恐怖と痛みに顔を歪ませる。
「こ、氷――」
セリーヌの言葉で氷塊が空中に生成されるが、すぐに霧散した。痛みに気を取られて魔法の発動は無理だった。
しかし影は待ってくれない。右足を掴んでいた影は、徐々にセリーヌを侵食していく。
足首を掴んでいた影は、セリーヌの肌を這い上がるようにして上へ上へと魔の手を伸ばしていく。あまりの恐ろしさにセリーヌは身震いした。
(怖い、怖い、怖い。自分はここで終わるのか。こんなわけの分からない恐ろしいものに襲われて)
「っ、セリーヌを離せ!」
そんな声が聞こえてセリーヌが顔を上げると、ディナンドが自分のところへ突っ込んでくるところが見えた。
ディナンドはセリーヌの右足に掴みかかったかと思うと、黒い影を引き離そうとした。しかし影に実体はないのか、セリーヌの肌に確かに纏わりついているのに触れることができない。
「クソッ! どうすりゃ……」
「兄上、後ろ!」
後ろから広がった黒い影が襲いかかってくる。
次の瞬間、セリーヌの視界がぶれる。ディナンドによって、力いっぱい突き飛ばされたのだ。
「うっ!」
ごつん、と後頭部から鈍い音が聞こえ、セリーヌの視界が瞬く。頭を岩壁にぶつけたのだ。視界が急速に狭まっていく。
それでもセリーヌは、懸命にその目を開けて意識を手放すまいとする。
閉じていく視界の中、うっすら開けた目でセリーヌはディナンドを見る。
ディナンドは腰辺りまで影に捕らわれ、今にも呑み込まれんとしていた。ディナンドは身動きすることも詠唱することもなく、既に意識はないようだ。
影がぞぞぞと不気味な音を立て、セリーヌに迫っている。
ああ、せっかく兄上が助けてくれたのに。私も逃げられない。
セリーヌは最後の力を振り絞って立ち上がろうとしたが、無理だった。
「兄、上……」
なんとか保っていた意識を、そこで手放してしまった。
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