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第3部 天の碧落

第4章 木の下の約束 2

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「わたくしが四歳ごろのことですわ」
 セリス王女はそう言って、懐かしい思い出を語り始めた。
「ごく幼い年頃のことでしたから、当時その方の名前も地位も知りませんでした。もちろん歳も知りません。たぶん二十歳前後くらいだったのではないかしら……。ただ、誰か地位の高い方の伝令のようなことをしているらしく、城へは月に数度いらっしゃっておいででした。わたくしはその方が登城して謁見の間へ行くために中庭を通られるのを、部屋の窓から顔を出して毎日待っていたものです」
 そう言ってクスクスと笑った。
「『想い人』というよりも『憧れの方』ですわね」
「微笑ましいことです。幼い頃の女性なら誰にでもある経験なのではありませんか?」
 クリスター卿もくつろいだ様子で頷きながら、王女が入れたお茶のカップを口元で傾けた。
「その方はどなたなのですか?」
 さりげない質問に、セリス王女は首を横に振った。
「いまではわたくしも大人です。その方の名前を存じ上げておりますが──申せませんわね。ご迷惑になってしまいます。それに」王女が口元を押さえて微笑んだ。「今はもう立派な年齢におなりですわ」
「ああ──」クリスター卿がしたり顔で顔をあげた。「百年の夢も覚めましたか?」
「まぁ!」
 セリス王女が破願した。他人には滅多に見せない顔だ。
「でも、そんなところです」
 そんな様子のセリス王女を見つめながら、クリスター卿は複雑そうな表情で溜息をついた。
「……なんと女性は手厳しい。男の私としては、その方に少し同情しますね」
「ふふ。その方がある日昇進なさって、立派な官職を頂くことになったのです。とにかく憧れの方でしたから、わたくしは姉が羨ましくて仕方がありませんでした」
「そこでなぜ第一王女が出てこられるのです?」
「あら! だってそうでしょう?」セリス王女が心外そうな顔でクリスター卿を見た。「姉は第一王女ですのよ? 王が役職を与えた後、その報告をするのに、その方は身分が上位の者から順に報告に歩くのです」
「ああ」クリスター卿が頷く。「そうですね。それはわが国でも同じです」
「そうでしょう? とにかく──その方も、そのようになさいました。わたくしは姉の次。今ではそれは理にかなったことだと分かっていますが、当時のわたくしは幼く、そのようなことはまったく理解できていませんでした。だから、姉が羨ましくて仕方がありませんでした。わたくしだけの憧れの方を、姉に取られてしまうのではないかと思ったからです」
「幼い嫉妬ですね」
「女心と申し上げて欲しいですわ」
 そう言いながらセリス王女はクリスター卿に微笑んだ。
「とにかく。その後、六歳の時にはわたくしは嫁しましたので、その方への憧れはそこで終わりました」
「もしご結婚なさっていなければ、その御仁と結ばれたかもしれませんね?」
「まさか──」セリス王女は意外そうな顔をして卿を見つめた。「それはありえませんわ」
「何故そう言えるのです?」
「だって──その方は貴族ではありませんもの。どんな血統も身分もない方です」
「おやおや……」
「どうして楽しそうにお笑いになるのです?」
 セリス王女はクリスター卿の表情を見て、やや気分を害したように言った。
「いえ。失礼。さすが女性だ、と思ったものですから」
「どういうことですの?」
「恋に命を懸けるなんて、いかにも女性らしくて素晴らしいと思ったのです」
「わたくしは恋に命なんてかけていませんわよ? その方はあこがれては今したけれど、個人的に話をしたことも顔を合わせたことさえありませんでした」
 セリス王女は、『分けが分からない』という顔で、変わった者でも見るような目つきでクリスター卿のことを見たが、卿は気分を害した様子もなくにこやかに微笑んだ。
「姫君──。小さなトラブルは些細なこと。大きなトラブルは、ドラマチックな叙事詩(バラッド)の幕開け。……自分だけが主人公の、ね。人は誰も皆、自分の人生の主人公です。物語の舞台の大小に係わらず──ね?」
 セリス王女の顔が険しくなった。その顔がますます分けが分からない、と言っている。
「小さなトラブル?」
 クリスター卿が頷いた。嬉しそうだ。
「姫君のお話は、まるでバラッドだ! 素晴らしいです」
 卿が両手を大きく押し広げた後、ギュっとこぶしを握り締めた。
「王女の禁じられた恋! 昔語りのバラッドそのものです! 恋に人生を賭ける! それでこそ、女性!」
「──」
 セリス王女がクリスター卿を見つめる瞳が氷点下にまで下がった。確かに話題的には古いバラッドにでも出てきそうな話ではあったが、とにかくセリス王女のクリスター卿への評価は下がった。後ろに控えるお付きの面々は卿のそんな態度には慣れているのか、一様に『また始まった……』というような表情が浮かんでいた。
 そのお付きの人々に半ば引きずられるように退出していくクリスター卿を冷たい瞳で見送りながら、セリス王女は不機嫌な声で呟いた。
「本当に邪魔な方ですわね。なんて──無作法で無遠慮なんでしょう! まったくもって、目障りですわ!」
 独り言だったはずのそれは、木立の影から現れた人物によって独り言ではなくなってしまった。
「貴方に憧れの君がいらっしゃったなんて、初耳ですね」
 波打つ灰色の髪を後ろに一つに束ねた、深く響く声の紳士が優雅に言った。去ってゆく外国の使節の後姿を見送りながら口を開いた。
「卿が身につけるローブの色を見て、彼の地位を思い出すことが出来れば、卿の笑みには逆に作為が感じられる。……疑えばキリのないような、掴みどころがない人物です。無用心な発言はならさぬ様に気をつけていただかねば」
 セリス王女は振り返ると勇者ワーナーを睨みつけた。
「わたくしに諫言など不要ですわ!」
 怒りもあらわなその態度にも勇者は動じない。セリス王女は大きく息を吸い込むと、気持ちを落ち着かせるように深く吐き出した。
「とにかく。あの者は邪魔です。早めにこの国から追い出してしまいたいですわ」
「どのようになさろうというのです?」
 勇者の言葉に、セリス王女は紫の瞳を冷たく光らせ答えた。
「侍従の者を始末なさい。『地獄の虫』なんていかがでしょう?」
 セリス王女の言葉に、勇者が方眉を上げた。
「『地獄の虫』──? 本気ですか?」
「暗殺に用いられる黄魔法の禁術。身体の中に虫を召喚し、内から蝕ませる。その苦しみはまさに地獄の苦しみだとか?」
 勇者が険しい顔つきでセリス王女を見つめた。
「不服ですの? 貴方にそんな権利などありません!」セリス王女は声を荒げ、東屋の小路の先にあるはずの小さな広場の方角を指し示した。
「お忘れですの? あの場所でしたわね? あの先にある広場の木の下で、あなたはお姉さまに呪いをかけた。木の花びらが散っていましたわ。──あなたはわたくしと、約束をしました」
 『黄昏に輝く星のごとき瞳』と評されたその瞳が、燃え上がるような怒りを見せて勇者ワーナーを睨みつけた。
「他言されたくなければ──私の意のままに従うと」

 『黄昏に輝く星のごとき』

 それはまさに、傾きゆく国に似合った不吉な予言だった。


(続く)


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|        「語バラ(裏)」    
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 今回「裏」はお休みです。
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