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第3部 天の碧落

第6章 砂丘の摩天楼 3

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 トリニティの夢の中で、アレクシスが机に向かって分厚いノートを広げていた。
 机には散らばったように沢山の本やノートが重なっていて、それらにも彼が目を通したのが何故だか分った。
 机の上の辺りに、彼が持っていた光る筒がぶら下げられていた。
 白く無機質な光が、炎のそれのように揺れもせずに均一に周囲を照らし出している。光と闇の境界線は驚くほど大きかった。
 小さな筒の放つ輝きの力が、見た目に反してずっと大きいのだろう。アレクシスの座る椅子、ノートを広げる机はもちろん、その足元やさらに周囲に雑然と散らばる諸々の物までをも照らし出していた。
 アレクシスはもうずっと何時間もそうしていた。
 手元の紙がパラリと繰られる。不思議な事に、紙を繰る音がしない。──夢の中だからだろうか。トリニティの視点は三百六十度ぐるりとあるような感じで、全てのものを同時に捉え、見聞きしているような感触がした。そう──『感覚』というよりも、あえて言うなら『感触』とでも言ったほうがいいような不思議な感覚だった。
 広げたノートもそのままにアレクシスが立ち上がった。光る筒を取り上げ、踏み場もないような足元を掻き分けるようにして部屋を出る。すぐ隣は自分が眠っている部屋──一番最初に自分達が来て、焚き火をしたあの部屋だった。
 アレクシスがまっすぐにこちらへ向かって来た。
 きちんと眠っているのか容態はどうなのか。確かめるかのようにアレクシスがトリニティの顔を覗き込む。
 アレクシスがトリニティの額にそっと掌をあてがった。
 トリニティはどきりとして身動ぎした。起きている訳でもない。自分は眠っているはずなのだが──そう思うと、不思議な感覚だった。
 アレクシスが安堵の表情を浮かべてその手を放し、大きながっしりとした掌の感触だけが額に残った。



「──と、いう夢を見たのよ」
 トリニティは今朝方見た夢の最後の部分だけを割愛して目前の人物に報告した。彼女の目の目で焚き火に当たりながら渋い顔をしているのは──アレクシス。そう、夢の中に出てきた当人だ。
 アレクシスのあまりの渋面を見つめながら、トリニティは小さく呟いた。
「……その様子からすると、事実のようね……」
 アレクシスは無言で渋い顔を続けた。否定も肯定もしない。こんな時、昔の自分なら無視されたとか軽んじているとか言って怒り出しただろうに……と冷静に思いながら、続く言葉を言おうと口を開いた。
 勿論、今ならばこんな事くらいで怒髪をつくようなことはしない。
 こんなときのアレクシスの反応は、つまり、肯定という事なのだと分っているからだ。
「……本当にあったことなんだ……」
 焚き火の向こうで、アレクシスの喉がグウと鳴るのが聞こえたような気がして、トリニティは思わず笑みをこぼした。
「あたしの事を調べてもらってるんだから、こんな事を言うのもなんだと思うけど……無理はしないでね。徹夜なんて体に悪いわよ?」
「ああ──まあ、他にも調べることがあったからな……」
 アレクシスの言い訳を微笑ましく思いながら、トリニティはもう一度声を出して笑った。そんなトリニティの様子をアレクシスは黙って見つめていた。
「それにしても不思議」トリニティは息をつきながら明るい口調で言った。
「その夢は、不思議な感覚だったわ……。あたしには魔法なんて分らないけど、もしかしたらこんな感覚なのかしらって思うくらい……。こんなことなんて今までなかったんだから、もしかしてこのダンジョンのせいなのかしら?」
「さあ──どうだかな。確かに、強い魔力に支配されている場所ではあるが」
 本当に心当たりはないのか、アレクシスが当惑した様子で答えた。その様子が見た事がないような顔だったので、トリニティは失礼だとは思いながらもクスクス笑ってしまった。
「お前なぁ……」
「だって……御免なさい」
 転がるような笑いを続けながらトリニティが謝罪すると、アレクシスは渋面を作って、胸元で腕を組んだ。何かを言おうとして何度か口を開きかけては閉じる。それをさらに何度か繰り返した後、吐息と共にようやく言葉を発した。
「……まあ、あんたがそんな風に笑えるんなら、理由なんて何だっていいんだが……」
 無機質な白い明かりの中で、アレクシスの濃いブルーの瞳が輝いている。トリニティはドキリとして顔をあげ、その瞳に吸い込まれそうになる自分を感じた。
 慌てて瞼を閉じた。
 あのまま彼の瞳に囚われていたら。
 二人の間に焚き火という障害物さえなかったら。
 トリニティは夜毎そうしてきたように、彼の胸元に手を伸ばし、そのまま逞しい胸元に潜り込んでしまったかもしれない。己の中に沸き起こる感情を、そのまま吐露してしまったかも知れない。
 トリニティは自身を押さえ込もうとするかのように、何度か深く呼吸を繰り返した。

 だがそれはアレクシスにとって重荷にしかなるまい。

 トリニティが心の中でどれ程彼を求めていようとも。──彼女は呪われた身だ。そして、それ以上に──アレクシスには果たさなければならない使命がある。彼が自身の全てを犠牲にしてでもそれを果たそうと望んでいるのに、障害にしかならない彼女の気持ちを口にしてどうなると言うのだ。そう自分に言い聞かせた。
 トリニティが閉じた瞼を開いた。大きな翡翠の瞳が、少しも揺るがずにアレクシスを見つめる。そして言う。
「魔王の伝説を聞かせて」
 アレクシスが再び王女を見つめた。
「ずっと思っていたことなの。あなたに聞いてみたいって。あたしはこの国の王女として、それを知らなくちゃいけないような気がする。三百年前に何が起こったのか──」
 トリニティは胸元に深く手を入れ、中から二つの品を取り出した。それはこの長旅の中でも失わず常に持ち歩いてきた、彼女の大切な所持品だった。
 一つは、城の地下牢で見つけたもの。すなわち──失われたはずの王権の証。
 一つは、その地下牢に落とされることになってもなお彼女が守り続けたもの──嫡子の証。
 トリニティは二つの品を炎の前に掲げた。
 王権の証は腕輪だった。内側に古い文字が彫り込んであって、イシリが初代の王に送ったものだとわかる。嫡子の証は白銀の筒状のものだった。
「これが嫡子の証──」トリニティはそれをアレクシスに差し出した。「ちょっとだけ、あなたの持っている光る筒に似ているわね」
 アレクシスはそれを手に取り、手のひらの中で検分した。
「人間のものではないな。天使の持ち物だ……完全なものではないようだが──使途が分らない」
「そうなの。これもかつて女神が初代の王に送ったものらしいんだけど、元々は剣だったと聞いているわ。でも──三百年前に王家が滅んで、王権の証も失われてしまったときに、嫡子の証を二つに分けたんですって」
「二つに?」
「ええ! 一つをこれまでどおり嫡子の証として持ち、もう一つを王の証として持つようになったと聞いているわ」
 トリニティは頷きながらアレクシスが差し出した筒を受け取った。
「お父様が持っていたのは、この筒の中から取り出したもので……。形は同じようなのだけれど、中に光る液体が入っているの」
 トリニティは二つの品を大切そうに胸元に抱いた。
「あたしは知らなくちゃいけないと思うの。三百年前に何があったのか。本当の魔王の叙事詩(バラッド)を。あたし達執政王家の祖先と……王家との間に何が起きたのか、その真実を」
 トリニティの翡翠の瞳がまっすぐにアレクシスを貫く。その輝きに曇りはなく迷いもない。
「……知りたくもない真実かも知れないぞ」
 タンザナイトブルーの瞳が同じように見つめ返した。吸い込まれるように深いその瞳の前では、いかなる嘘も虚栄も剥ぎ取られ見透かされる。トリニティは精一杯の誠意で頷いた。
「迷う事ならもう十分に繰り返したわ」
 そろり、と息が吐き出され。アレクシスが吐息をついた。
「そうだな……あんたの目を見れば分る」
「お願い」
 トリニティはもう一度言って、深く頷いた。アレクシスはしばし迷うような素振りを見せた後、躊躇いがちに口を開いた。
「……ありがとう……」
 こんなとき。
 いつも誠実な態度をとってくれるアレクシスに心からの感謝を述べる。アレクシスは小さく首を横に振った。
「そうだな……何から話したらいいだろうか? だがそもそも、この話はとても単純なものだ。とても簡単で、単純な。そして、世間に知られている魔王の叙事詩(バラッド)とはまったく違う──」
 そうして。
 アレクシスはトリニティに魔王ブラックファイアの叙事詩を語って聞かせた。



「今からおおよそ三百年前。天使と悪魔の争いは今よりもずっと激しかった。その争いは地上にも波及し、人々はこぞってこのネリス──地上に魔王が創りし国──を滅ぼそうとやっきになったそうだ。
 天使や悪魔が地上の国の境界争いに首を突っ込むことはなかったが、人間達は少なくとも、地上から悪魔の息吹のかかった土地を消し去ってしまいたかったんだろうな──」
「そんな──」
 王家に生まれたトリニティはこの国が存在しているだけで疎まれる国なのだという事実に、言いようのない悔しさのようなものを感じた。
「そんな最中、ある日ネリスに一人の天使が落ちてきた。近くで大きな戦があって──負傷した天使だ。それが大天使フェリエル……後のブラックファイアだな」
「大天使だったの?」
「ああ……」驚きを隠せないトリニティに向かって、アレクシスが頷いた。「原初の天使は皆、大天使──堕ちれば全てが魔王と呼ばれる」
「とにかく。天使フェリエルはその時偶然この国の王女に出会ったんだ。出合って二人は恋に落ちた。天使は地上に留まってこの国を守る為に戦う道を選び、結果として堕天した。
 元大天使が参戦した事でこの国は滅びずに独立を保つことが出来た。だが戦の最中、王女が命を落としたんだ」
「そんな──! 大天使でも守れなかったの?」
 驚くトリニティにアレクシスは首を振った。
「完璧なことなんてこの世にはない。とにかく──魔王は堕天してまで守ろうとした最愛の女を失ったんだ。魔王は悲嘆にくれ世を儚んだが、原初の天使である魔王に滅びは来ない」
「滅びは来ないって、どういう意味……?」
 胡乱気に問うトリニティに、アレクシスは簡単な言葉で説明した。
「死なないって言う意味さ。ただ単純に、原初の天使は命のある存在じゃない。世界の一部だ。だから──世界が滅ぶそのときまで彼らは死なない。魔王は王女の後を追って死にたかったが死ねなかった」
 トリニティが息を吸い込んで両手で口元を覆った。驚きに目を見開く。では、この叙事詩は、つまり──。
「死ねなかった魔王は、せめて世界が滅ぶまで、もう二度と……永遠に……眠り続けようとしたんだ。恋人の居ない世界で、恋人を守れなかった自分が生きていたくはないと。
 自分を守護石(アミュレット)に封印して、誰にもその封印を破ることが出来ないようにしようとした。
 それが、俺が作ろうとしているダンジョンだ──」
「そんな──」
 トリニティは息を潜めた。
「つまり、これは恋の叙事詩だったんだわ!」
「まあ……そういう事になるな」
 三百年も昔の、歪められた叙事詩の真実に驚愕するトリニティに向かって、アレクシスが最後の言葉を付け加えた。
「魔王は当時の王家と懇意だった。自らを封印した魔王がついでに王家を滅ぼしたという話は聞かないな。そもそも……いや、なんでもない」
 彼は最後の言葉を飲み込んだが、トリニティはそこまでで十分だった。
「それはつまり──やっぱり、王家を滅ぼしたのは……当時の王をあのドンジョンに閉じ込めたのは執政だったということなのね……」
「それは……どうかな。俺もそこまでは知らないから。だが……あ──いや、済まない」
何かを言いかけたアレクシスか言葉を区切って、視線を泳がせた。「済まない」もう一度謝罪の言葉を口にする。
「こんな時、俺はいつも冷たいことしか言わないな」
 トリニティは力なく首を振った。それでも。そんなアレクシスの優しさが身にしみた。
「いいの。この腕輪が何なのか知ったときから、たぶん、そうなんじゃないかと覚悟はしてたから」
 そう言いながら膝を抱え込む。
「──すまないがトリニティ」
 アレクシスが突然真摯な声を掛けてきて、トリニティは顔を上げた。 
「こんな時に言うのも悪いんだが、俺はちょっとすることがあるんでダンジョンに出かけてくる」
「──そっか……そうだよね」
 何か気をそがれるかのようにトリニティは答えた。
「貴方には大事なお仕事だものね」
「すまない」
 短く言うアレクシスに弱々しい笑顔を向けながら、心は見放されたような寂しさを感じていた。
「一人でも大丈夫か?」
「うん。平気」
 それでも。今だけは。
 今だけは一人でいられることがありがたかった。
「今日中には戻ると思うが……もし遅くなっても、探しに来たりするなよ?」
「遅くなるかもしれないの……?」
「あ──まあ、迷ったり……とか?」
 アレクシスの精一杯の気遣いに、トリニティは力なく微笑んだ。
「貴方が? それとも……探しに行ったあたしが?」
 トリニティが冗談を言い返すと、アレクシスが渋面を作って気遣わしげに頷いた。
「とにかく。ここは迷いやすい。迷うように作っているから当たり前なんだが、お前が迷っても、俺には探し出してやれる自身はないぞ」
 トリニティが小さく頷くと、殆ど荷物も持たないままアレクシスは部屋を出て行こうとした。驚くほどの軽装だ。
「あ──アレク! 明かりは?」
 トリニティは慌てて光る筒を手にとって立ち上がった。アレクシスが静かに振り返った。
 瞳が、トリニティの姿を上から下までゆっくりとなぞる様に動く。なぜだか体が火照るのを感じ、トリニティは身を捩った。
「必要ない。慣れた道だ──すぐ戻る。戻った時には……話がもう少し進展してると思う」
「──」
 トリニティが再び声を掛けるまもなく、アレクシスの姿は闇の中に消えた。すぐに消えてなくなったその方向をいつまでも見つめながら、トリニティはしばらくそこで立ち尽くした後、ようやく、のろのろと元の場所まで戻り腰を下ろした。
 ほっと息を吐き出す。
 ゆっくり、呼吸を繰り返した。
 アレクシスがいなくなると、静寂が周囲を押し包んだ。トリニティは膝を抱え、じっと炎の揺らぎを見つめ続けた。
 呼吸を繰り返すたびに涙が溢れ出してきた。堪えようとしても自然と咽ぶその声を止めることができなくなった。
 今だけは。
 ここにアレクシスが居ないことに感謝した。
 
 覚悟はできていたことだった。
 だが。
 突きつけられた事実を受け入れられるかどうかは別問題だ。
 トリニティは膝の上に額を擦り付けた。

 自分達の祖先が三百年前に何をしたのかは分らない。
 だが、一つの純然たる事実として、腕輪はそのことを物語る──。

    執政一族が王を殺したその事実と、その代償として手に入れた現在の地位を。

 トリニティは小さく縮こまると、一人、膝を抱えて泣きじゃくった。

(続く)



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|        「語バラ(裏)」    
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 今回はお休みです。
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