王太子に愛されないので、隣国王子に拾われました

鍛高譚

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第1章:屈辱の婚約と白い結婚の宣告

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 その夜、オデットは自室のベッドに横たわりながら、これまでの人生を振り返っていた。
 王太子妃としての人生こそが、自分の歩むべき道だと信じて疑わなかった。周囲から期待され、家のために尽くすことが、自分にとって最大の幸福だと。
 しかし、今、王太子からは拒絶同然の扱いを受け、このままだと形だけの「白い結婚」という屈辱的な境遇に甘んじねばならない。そんな惨めな姿を晒した状態で、この国の王太子妃――いずれは王妃と呼ばれる立場になったところで、何の意味があるのだろうか。
 むしろ、ブランシュフォール家の名誉を汚すことになるのではないか。王妃としての実権を持てないだけでなく、宮廷の者たちから嘲笑され、愛人を公然と連れ込まれる王太子殿下を止める権利すら与えられないのだから。

 オデットは、しばらく暗闇の中で目を開いたまま、数えきれないほどの問いを自問自答する。
 やがて夜が明ける頃、まどろむように瞼を閉じかけた彼女は、ふと一つの考えに行き着いた。
 「もし、この国を出てしまったら――私は自由になれるのだろうか?」
 その思いは、まるで夜の闇が明ける寸前に一瞬だけ差し込む月の光のように、ぼんやりとオデットの意識を照らす。
 もちろん、簡単なことではない。彼女はブランシュフォール侯爵家の令嬢であり、王太子妃になることが既定路線とされてきた。たとえ自ら望まなくとも、一度敷かれた道を逸れるというのは途方もなく大きな決断だ。
 だが、「王妃になる」ことこそが自分の幸せだと思っていた前提が崩れた今、彼女の心は静かに揺れ始めていた。

 そんなオデットの心のさざ波を、さらに大きく動かす出来事が起こったのは、それから数日後のことである。

 その日、オデットは王宮で開催される晩餐会に招かれていた。名目は「王太子妃となられるオデット・ド・ブランシュフォール令嬢をお披露目する会」というものだが、実態はアルベール殿下とその取り巻きが、愛人のミレイユを裏で引き合わせるために開いたとも言われる、噂の絶えない宴だった。
 華やかなシャンデリアがきらめく大広間で、オデットは一糸乱れぬ姿勢で来賓の貴族たちに挨拶をしてまわる。派手な装飾が施されたドレスに身を包み、その美しい金髪をアップスタイルにまとめ、首筋にはかすかに揺れる真珠のネックレス。誰が見ても「完璧な淑女」の装いだ。
 けれど、オデット自身の心は少しも晴れやかではない。周囲に向ける微笑みは、もうほとんど仮面のようなものだ。

 すると突然、アルベール殿下がミレイユを伴って大広間に現れる。ミレイユは下級貴族の出ながら、艶やかで挑発的なドレスを着こなし、その胸元や背中を大胆に露わにしていた。周囲の貴族たちの視線を一身に集めているのは、もはやオデットではなく彼女のほうだ。
 アルベールは得意気な表情を浮かべ、腕を組むでもなくミレイユの腰に手を回し、まるで恋人同士のように寄り添っている。見れば見るほど、これは王太子妃になるオデットへの明確な侮辱だとしか思えなかった。
 広間にいる者たちの間に、ざわめきが広がる。もともとアルベールが愛人を持つこと自体は、それほど珍しいことではない――王家や貴族階級において、愛人を囲うことは昔からあった。しかし、それは公然と公の場で誇示するような振る舞いではなく、裏でひそやかに行われるのが一般的である。
 ところが、アルベールはオデットを差し置いて堂々とミレイユを連れ歩き、まるで「こちらこそが自分が真に愛する相手だ」と言わんばかりの態度なのだ。
 オデットの耳には、気遣う声よりも先に噂話めいたひそひそ声がはっきりと聞こえてきた。
 「まあ、あれが“次期王太子妃”の座を奪うかもしれない女性だって?」
 「実質、あの娘に殿下の心は奪われているんじゃないのかしら。オデット様、お気の毒に」
 そんな言葉が飛び交う中、オデットは顔色一つ変えずにグラスを持ち、微笑んでみせる。内心、煮え滾るような怒りと恥辱で胸はいっぱいだが、それを表情に出せば、相手の思う壺だということを理解しているからだ。

 その晩餐会の終盤、アルベールがわざわざオデットのもとへ歩み寄ってきた。隣にはミレイユを侍らせたまま。
 「オデット、そろそろここにいる皆様に“王太子妃”として一言、挨拶をしたらどうだ」
 彼は笑みを浮かべながら、まるで娯楽のように楽しんでいるかのようだ。
 オデットは、その言葉にわずかに眉をひそめるが、すぐに穏やかな笑顔を作る。
 「はい、殿下。承知しました」
 オデットは舞台袖のように用意された小さな壇上へ静かに上がり、広間の中心へと視線を向ける。部屋は一瞬で静寂に包まれ、集まった人々は息を呑むようにオデットを見つめた。
 「皆様、本日は私のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます。ブランシュフォール侯爵家の令嬢オデットと申します。至らぬ点もあるかと存じますが、これから王太子殿下と共に、この国をより良い方向へ導けるよう努めてまいります。どうか末永くお見守りくださいませ」
 一礼すると、パラパラと拍手が起こる。表面上は祝福の拍手だが、その裏にはどこか侮蔑や嘲笑が混じっていることを、オデットは肌で感じ取っていた。
 しかし、その中にあっても、オデットの振る舞いは完璧で、容姿も堂々としている。そのため、ある者は「さすがブランシュフォール家の令嬢だ」と感心し、また別の者は「現実を理解していないのかもしれない」と憐れんだ。
 壇上から降りる直前、オデットはちらりとアルベールの方を見た。彼はミレイユの耳元で何か囁いて、くつくつと笑い合っている。オデットがこちらを見つめたことに気づきもしない。まるでオデットの存在など、彼にとって取るに足らないものだと言わんばかりだ。

 晩餐会はその後、予想以上に早くお開きになった。アルベールがミレイユを連れて早々に退出し、会場の空気が微妙な雰囲気になったからだ。取り巻きたちも、あまり長居をしてオデットに変な絡みをされても困ると思ったのか、そそくさと退散していく。
 オデットはまるで打ち捨てられたように、一人残されていた。

 「お疲れでしょう、オデット様」
 そう声をかけてきたのは、ブランシュフォール家に仕える侍女の一人だった。彼女は気遣わしげな目でオデットを見つめている。
 「ありがとう……」
 オデットはかろうじて微笑み返し、深いため息をついた。いくら表面を取り繕っても、心はすり減っていく一方だ。
 「馬車を回しております。お早めにお休みになられてはいかがでしょう」
 侍女の優しさに甘えるように、オデットは促されるまま宮廷の正門を出る。そこには、ブランシュフォール家の紋章が入った馬車が待っていた。
 乗り込むと同時に、オデットは急に力が抜け、背もたれに凭れて小さく息をつく。まるで、一瞬でも気を緩めれば大粒の涙がこぼれてしまいそうだった。
 しかし、このまま悲嘆に暮れているだけでは何も変わらない。オデットは、まぶたを強く閉じて気持ちを落ち着かせる。
 今、自分がすべきことは何だろうか。
 アルベールの暴走を止めることはできるのか。
 自分の誇りを守り抜き、ブランシュフォール家の名誉を汚さぬためには、どう動けばいいのか。
 そして、もしすべてが無駄だというのなら――この国を捨てるという選択肢も、本当にありえるのだろうか。

 揺れる馬車の中、オデットは窓の外に広がる夜の王都を眺めながら、あてもなく思考を巡らせる。人々の笑い声、酒場から聞こえる歌声、路上に立つ衛兵たちの足音……すべてが遠い世界のもののように感じられた。
 自分は何のために生まれ、何のためにここまで努力してきたのか。
 答えはまだ見えないが、ただ一つだけ確かなのは、このまま黙って屈辱を受け入れ続けるつもりはない、という強い意志だ。
 もし王太子が、オデットを“形式上の結婚相手”としか見なさないのなら、こちらにも相応の手段がある――そう内心で思わずにはいられない。
 かつて幼い頃のオデットは、自分の運命を“王妃になること”だと疑わなかった。だが今、それが崩れた以上、次に目指すものは己の誇りを取り戻すこと。家のためではなく、国のためでもなく、自分のために動く時が来たのかもしれない。
 その夜、オデットは自室に戻ると、窓辺に立ち尽くして夜空を見上げた。冷たい月の光が、まるで慰めるように彼女の肩を照らす。
 誰よりも強く、しなやかに生き抜いてみせる――。
 オデットの瞳には、ふと決意の炎が宿ったように見えた。

 翌朝、まだ日が昇り切らぬうちに、オデットのもとへ一通の密書が届けられた。差出人は、隣国の第一王子レオポルド。その名に心当たりはある。以前、国境付近で開催された外交式典で短いあいさつを交わした程度だが、彼がオデットに興味を示していたという噂は聞いていた。
 手紙にはこう書かれていた。

> 「オデット様。突然の書状をお許しください。
私は先の外交式典であなたにお会いし、あなたの品位と聡明さに強く心惹かれました。
近頃、こちらにも王太子殿下とあなたのご関係について噂が届いています。もしもあなたが、今の立場に苦しみ、行き場を失っているのだとすれば――
私の国へ来ることを、どうかご検討ください。
私はあなたを歓迎し、支える所存です。あなたが本当に望むのであれば、あなたが笑顔でいられる未来を共に築きたい。
これは私のわがままかもしれません。しかし、あなたがご自分の幸せを諦めるには、あまりに惜しい方だと感じているのです。
どうか、少しでも興味を持たれましたら、返事をくださいますように。
隣国・アルヴェール王国 第一王子 レオポルド」



 最初こそ驚いたものの、その文面は誠実な思いが滲み出ており、これまで誰も示してくれなかった“本当の意味でオデット個人を重んじる言葉”のように思えた。
 もちろん、この手紙の誘いにそう簡単に乗るわけにはいかない。もし隣国に逃れるとなれば、王太子との婚約はどうなるのか。国際関係はどう変化するのか。ブランシュフォール家はどんな処分を受けるのか――様々な問題が山積みだ。
 だが、オデットの胸に小さな灯がともったのは事実だった。
 「私が本当にほしいものは、何か」
 王太子妃の座ではなく、自分としての幸せ。レオポルドの言葉は、オデットがずっと探し求めていた答えの一端を示しているようにも思えた。
 オデットは書状を何度も読み返し、そっと引き出しの奥に仕舞い込む。今すぐ返事を出すつもりはないが、この手紙はきっと自分の運命を大きく変える鍵となるに違いない。そんな予感だけが、彼女の心を揺らしていた。

 夜が明け、やがて朝日が部屋に差し込む頃、オデットは執務机に向かいながらペンを走らせる。表向きは王太子妃教育の一環としての課題かもしれない。しかし彼女は、その課題の合間に、密かに情報を整理し始めていた。
 アルベール殿下の取り巻きは何を狙っているのか。愛人ミレイユの出自と、彼女を支援する貴族派の動向。そして、自分が動くとしたら、どのタイミングで何をすべきか――。
 やるべきことは多いが、オデットは不思議と落ち着いている。むしろ、心のどこかで、これまでに感じたことのない解放感すら覚えていた。

 もしこの国に縛られるだけが自分の人生だとしたら、それはあまりに無残だ。
 けれども、どんな選択をしようと、自分にはその責任が伴う。その重圧に負けそうになる瞬間もあるだろう。
 しかし、王太子から「白い結婚」で十分だと突き放された今、自分から何かを動かさなければ、ずっと王太子の思い通りに弄ばれるだけだ。それだけは絶対に嫌だ、とオデットの心は強く拒絶している。
 だからこそ、彼女は今、静かに、しかし着実に行動の準備を進めようとしていた。

 こうして、屈辱の「白い結婚」の宣告を受けたオデットは、初めて自分の意志で人生を切り開こうと決意する。その結果がどのような結末をもたらすのかは、まだ誰にもわからない。
 だが確かに、彼女の中で運命の歯車は回り始めたのだ。愛し合うはずだった王太子に蔑ろにされ、周囲から嘲笑と同情を向けられる中でも、オデットの青い瞳には秘めた光が瞬いている。
 それは、ブランシュフォール家の令嬢として育てられた誇りと、女性としての尊厳――そして何より、“自分の人生は自分で選びたい”という強い思いに他ならない。

 この夜明けは、オデットにとって“新しい始まり”を告げる合図だった。誰よりも美しく、誰よりも気高く、それでいて、心の底に炎を宿したオデットが、やがてその姿を煌めかせる瞬間が来るだろう。
 まだ彼女自身すら知らない、華麗なる逆転劇の幕開けが、この時すでに近づいていた。


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