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第2章:偽りの王妃と宮廷の嘲笑
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いったい何が「お可哀想だわ」だろう。ルイーゼの言葉は表面上は同情を装いながら、その実、オデットをさらに苦しめようとしているのは明白だ。
(――けれど、ここで取り乱したところで何も得られない)
オデットは自分に言い聞かせる。相手が望む反応は、きっと動揺や怒りをむき出しにする姿だろう。だが、それを見せた瞬間に、自分の立場はさらに悪くなる可能性が高い。
だからこそ、オデットは笑みを崩さず、涼やかな口調でこう返した。
「お気遣いありがとうございますわ。でも、あなた様の憶測にお答えするほど、わたくしは暇ではございませんの。もし何か具体的なご用件がおありでしたら、改めて書状でお知らせくださいませ。――舞踏会のご案内状は、もちろん夫人にもお送りいたしますからね」
淡々としたその言い回しに、ルイーゼは目を見開き、そしてふっと唇を歪めた。
「……まあ、失礼いたしました。お忙しいオデット様に、つい余計なことを申し上げてしまったようですわね」
言葉とは裏腹に、その表情は「舌打ち」を隠しきれない。どうやら、オデットが感情的に崩れるのを狙っていたのだろうが、思惑が外れたと見える。
ルイーゼはそそくさと腰を上げ、今度は皮肉交じりの微笑みを浮かべて会釈した。
「では、これで失礼いたしますわ。舞踏会では、楽しみにしておりますわね。オデット様の“腕前”を」
最後の一言を残し、ドアを開けて悠然と出て行く。その背中を見送りながら、オデットは唇を噛みしめた。
(……なんて無遠慮な方。だけど、これが今の王宮の現実)
相手がどれほど侮辱的な態度をとっても、オデットは現状「王太子の意向」でここに置かれている身。下手をすれば、彼女たち“王太子派閥”を敵に回すことになる。
王太子アルベールの後ろ盾を得た彼女たちは、事実上、宮廷の権力を大きく握っている。逆らえば自分だけでなく、ブランシュフォール侯爵家がどんな仕打ちを受けるか分かったものではない。
オデットは机の上に置かれた書類へ視線を戻す。そこには舞踏会の招待客リストや、当日のプログラムの下案などが並んでいた。
(この舞踏会……王太子とミレイユが公然と近づく絶好の場になるのかしら)
しかし、それは同時にオデットにとって“自分の存在を示す”チャンスでもある。公の場で、王太子妃としての立場をしっかり示せば、少なくとも「あの娘は王太子から捨てられている」と馬鹿にされることを一時的には防げるだろう。
そう思い至ったオデットは、小さく息を整え、立ち上がる。
「……いいわ。やるだけやってみましょう」
もし失敗すれば、今まで以上に笑い者になるかもしれない。それでも、何もしないまま周囲の嘲笑と同情を浴び続けるよりはマシだ。
オデットは再び舞踏会の準備に意識を集中し始める。父ベルナールが言っていた「自分の幸せを掴んでほしい」という言葉が、頭の中でふとよぎった。
(父は、王太子妃としての私を望んでいるわけではない。私がどう動くか、見守ってくれている。でも、今すぐ飛び出すにはリスクが大きすぎる。ならば、ここで一度“真っ向から戦ってみる”のも悪くない)
もっとも、この“戦い”とは剣を交えるわけでも、暴力に訴えるわけでもない。オデットが使える武器は、王太子妃候補という肩書と、これまで培ってきた教養とマナー、そして何より自分の誇りだ。
「そう……私はブランシュフォール侯爵家の令嬢、オデット・ド・ブランシュフォール。誰に何を言われても、簡単に折れるわけにはいかない」
* * *
そして、数日後。
オデットは朝から王宮の使用人や女官たちを指揮し、近づく舞踏会の最終準備に奔走していた。会場となる大広間の装飾から、テーブルの配置、花や燭台の並べ方、音楽隊の手配など、やるべきことは山ほどある。
もともとこうした大規模な行事の采配は、実質的には宮廷司礼官や侍従長の領分に当たる仕事だ。だが、今回は王太子の特命で「王太子妃(候補)が中心となって企画・運営を行う」ことになっているらしい。
もちろん、口出しをする貴族夫人たちも多ければ、自分の力を誇示したい下級貴族たちも少なくない。オデットが指示を飛ばしても、「そんなやり方でいいのかしら」と揶揄されることもしょっちゅうだ。
しかし、オデットはそうした横槍を受け流し、冷静かつ的確に状況を把握しては指示を出す。何年にもわたる王妃教育を受けてきた彼女にとって、こうした運営の基礎知識は十分に身についているし、当初は皮肉めいた態度を取っていた侍従長や司礼官たちも、彼女の真面目さと有能さを目の当たりにするうちに、敬意を持ち始めた。
「……なるほど。ここは、もっと照明を増やしてくださる? 天井のシャンデリアだけでは舞踏スペースが暗くなるわ。脚立を用意して、キャンドルスタンドを増設しましょう。危険のないように配置をお願いします」
「音楽隊の控室は廊下の突き当たりでしたね。もう少し人通りの少ない場所を用意できるかしら……? 賓客がお通りになる場所から、音合わせが丸聞こえになってしまうと興ざめでしょう」
オデットは分厚いスケジュール表をめくりながら、次々と指示を出していく。仕事に没頭しているときは、王太子の愛人の存在など忘れられるから不思議だ。
周囲の使用人たちも、最初は「形だけの王太子妃」扱いだったが、オデットの努力と物腰の柔らかさに触れるうちに、次第に笑顔を向けるようになってくる。
「オデット様、本当にお疲れさまです。私たちも全力でお手伝いいたしますわ!」
「これほどきめ細かい指示を下さる方は、久しぶりですよ。王太子殿下の周りは……おっと、これは失礼。何でもありません」
ちらりと聞こえてきた言葉から推測するに、王太子アルベールは普段から大まかな命令しか出さないらしく、現場は混乱することも多いらしい。逆に言えば、この舞踏会に関しては、オデットという“責任者”がいるおかげでスムーズに進んでいるのだ。
だが、忘れてはならない。これは決して「オデットが信頼され始めた」というだけの話ではない。あくまで「行事が成功すれば、王太子殿下と王宮の面目が保たれる」からこそ、多くの人々が協力しているに過ぎない。
「成功して当然。失敗すれば、すべてオデット様の責任――そんなふうに思っている者もいるでしょうね」
夜、部屋に戻ったオデットは鏡の前で自嘲気味に呟く。ここが戦場だとするなら、王太子やその取り巻きたちは自分を“囮”として前線に立たせているのかもしれない。
(でも、だからこそ、この場を乗り越えてみせなければ。私がただの飾り人形じゃないってことを、証明してみせるんだわ)
* * *
舞踏会の前日。王宮はいつになく慌ただしさに包まれていた。
高位貴族や国外の要人が続々と到着し、客室や応接室はどこも満杯。使用人たちは挨拶回りに忙殺されている。オデットも朝早くからドレスや装飾品の最終チェックを行い、大広間の飾りつけを確認し、必要があれば調整を指示し続けていた。
そんな中、意外な人物がオデットを訪ねてきた。――ミレイユである。
彼女は、ここのところ公の場に姿を現していなかったのだが、舞踏会前日になって突然王宮に姿を見せた。まるで「私も殿下の特別な女性よ」と誇示するかのようなタイミングで、オデットに面会を求めてきた。
その報せを受けたとき、オデットは一瞬迷った。会わずに断ることもできなくはないが、ここで逃げてしまえば「王太子殿下の愛人にも怯える臆病な姫」と思われるかもしれない。
(会いましょう。大丈夫。私はもう、逃げない)
そう腹を括り、オデットは控室の一室でミレイユを待った。
やがてドアが開き、現れたのは、オデットが晩餐会で見かけたときと同じように、露出度の高いドレスを纏った黒髪の美女。整った顔立ちに官能的な雰囲気をまとい、挑戦的な眼差しを向けてくる。
「ごきげんよう、オデット様。突然お邪魔してごめんなさい。私、どうしてもお話ししたいことがあって……」
その口調は猫なで声のように甘く、しかしどこか底意地の悪さを含んでいるようにも聞こえる。
「構いませんわ。お忙しい中お越しいただき、ありがとうございます。……何かご用件が?」
オデットは穏やかに微笑みながら、ミレイユをソファへ促す。しかし、ミレイユは腰を下ろすこともなく、オデットの目の前で立ち止まった。
「実は、明日の舞踏会で私も参加させていただこうと思っているの。アルベール様にも承諾をいただいているわ。……あなたは何かご存じかしら?」
そう言い放つミレイユ。その唇には、挑発的な微笑みが浮かんでいる。どうやら、これも事前に仕組まれていたことらしい。
「あら、そうでしたの。殿下からは特に何も聞かされていませんでしたけれど。……もちろん、殿下が許可されたのなら、私が止める権利はございませんわ」
オデットの返答を聞いて、ミレイユはつまらなそうに眉をひそめる。もっと驚いたり動揺したりする姿が見たかったのだろう。
「そう。思ったよりおおらかなのね。王太子妃の立場なのに、愛人と同じ舞踏会に出て、私とアルベール様が踊るところを見るのも平気? 噂になったって構わないの?」
ミレイユの言葉には悪意がにじみ出ている。彼女は、自分がどれほどアルベールに寵愛されているか、オデットに見せつけたいのだ。
しかし、オデットは小さく微笑み、首を振る。
「構うかどうかは分かりませんわ。あなたと殿下がどう振る舞われるか、私は見届けるだけです。でも、お忘れにならないで。舞踏会の主催者は、あくまで王太子殿下。そして私は、殿下から舞踏会の運営を任された立場。……どうか、他の貴族の皆様にご迷惑をかける行為だけはなさらないでくださいませね」
柔らかい言葉だが、そこにはオデットの“毅然とした態度”が含まれていた。
ミレイユは一瞬、口をつぐむ。想定外の返事だったのかもしれない。しかし、すぐに妖艶な笑みを浮かべて肩をすくめる。
「ご心配なく。私もそこまで愚かではないわ。……それにしても、あなたって退屈な人。もっと嘆いたり、憤慨したりすると思ったのに」
その言葉に、オデットは淡い嘲笑を浮かべた。
「私も、そこまで愚かな女ではありませんの。あなたが私に何を望んでいようと、私の生き方を変える気はないわ」
ミレイユの瞳がわずかに鋭くなるが、オデットはそれを受け流すように微笑むだけだ。
「……ふん。まあいいわ。明日、私たち二人がどんな顔をして舞踏会に登場するのか、それは当日のお楽しみね」
そう言い残し、ミレイユは踵を返す。しなやかな腰つきでドアのほうへ歩きながら、その髪をかき上げた。
「アルベール様も、あなたがこういう態度を取るのを望んでいるのかしら。……さあ、どうかしらね。明日が待ち遠しいわ、オデット様」
そして、ぱたりと扉が閉まる。薄暗い室内には、嫌な香水の匂いだけが漂っていた。
オデットはしばらくその匂いに顔をしかめながら、ふう、と大きな息を吐く。
(……なんて人。だけど、あの態度こそが“愛人”のプライドなのかしら)
アルベールがミレイユをここまで甘やかす理由は分からない。そもそも、どうして王太子自らがここまで公に愛人を連れ回そうとするのか、それも謎ではあるが……。
ひとまず、オデットは明日の舞踏会に集中するしかない。自分が崩れなければ、きっと何とかなる。自分が王太子妃としての立ち居振る舞いを完璧にこなし、成功に導けば、周囲の見方も少しは変わるかもしれない。
「頑張るしかないわ。……もし、それでも何の価値も認められないのなら――」
その先の言葉は、声には出さなかった。だが、オデットの脳裏には、静かに例の手紙の一節が蘇る。
“もし君がこの国を捨てるなら、私と共に新しい未来を歩もう”
レオポルド王子の書状――隣国に行けば、こんな屈辱から解放されるだろうか。
まだ確信は持てないが、選択肢として頭のどこかに残っていることは確かだ。
(まずは明日。明日の舞踏会で、私に何ができるのか、はっきりさせよう)
* * *
そして舞踏会当日。
夜の帳が降り始める頃、王宮の大広間は幻想的な光に包まれていた。無数の燭台に火が灯され、天井の巨大なシャンデリアが金色の輝きを放つ。白や金を基調とした装飾が、まるで昼間の喧騒を忘れさせるように静かにきらめいている。
やがて、貴族たちが続々と到着し、男性は豪奢なタキシードや軍服風の礼装、女性はきらびやかなドレスに身を包んで次々と入場していく。場内には華やかな音楽が流れ、ワインやシャンパンの香りが漂っていた。
オデットは、入口近くで来賓の挨拶を受け、にこやかに対応していく。本来なら王太子や国王がやるべき役目だが、アルベールはいつものように気まぐれで、まだ姿を見せていない。国王も公式の席ではあるが、体調を考慮して短時間しか出られないらしい。
周囲からの視線が一身に集まる中、オデットは慈悲深い微笑みを湛えて、招かれた貴族たちを歓迎する。
「ようこそいらっしゃいました。今宵はごゆっくりお楽しみくださいませ」
ブランシュフォール侯爵家の娘として培った堂々たる立ち居振る舞い。その姿に、訪れた人々の多くは感嘆のため息を漏らす。
「噂では冷遇されていると聞いたけど……いや、実物はなんと気高く美しい令嬢だろうか」
「王太子殿下よりも、このオデット様の方がよほど頼りになりそうだ」
陰ながらそんな声が聞こえてくるが、オデットは動じない。今はただ、舞踏会を成功させることに集中するしかないのだ。
大広間がほどよく人で埋まり始めた頃、扉の外が再びざわめきだした。どうやらアルベールが到着したらしい。
……そして、オデットは目の端で、隣にいるはずの人影に気づく。案の定、腕を組んでいるのはミレイユだ。派手な真紅のドレスを纏い、胸元を大胆に開け、アルベールの腕に絡みついている。その姿は、まるで「あたしこそが今宵の主役」とでも言わんばかりにきらびやかだ。
(出たわね……。でも、私は慌てない。王太子殿下の正妃候補として、相応の対応をするだけ)
オデットは気を取り直し、入口の位置に身を移す。その瞬間、ミレイユが嘲笑うように口元を歪めたのを見逃さなかったが、あえて目を合わせず、アルベールに優雅に一礼する。
「殿下、お越しをお待ちしておりました。今宵の舞踏会は、殿下にお楽しみいただくために準備を進めてまいりました。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
オデットの言葉に、アルベールはわずかに苦笑する。ミレイユを伴っている己の行為が、どれだけオデットを踏みにじっているか、彼は十分承知しているのだろう。
「ご苦労だったな、オデット。……まあ、お前の仕事ぶりに期待しているよ。俺は少し、ミレイユと会場を回ってくる」
そう言って、アルベールはオデットには見向きもしないまま、ミレイユの腰に手を回して大広間へと進んでいく。
後に残されるオデットの周囲には、同情や好奇の色混じりの視線が集まる。
「まさか公然と愛人を伴うなんて……殿下も大胆すぎるわね」
「オデット様は、こんな屈辱に耐えられるのかしら」
その場に漂う小声は、オデットの胸を突き刺す。しかし、彼女は頭を下げるどころか、涼やかな表情を保ち続ける。
(屈辱なのは分かっている。でも、私は私の役割を果たすだけ。絶対に恥などかかせないわ)
こうして、オデットにとっての大一番、運命をかけた舞踏会の夜が始まった。
果たして、彼女はこの夜をどう乗り越えるのか。そして、王太子アルベールとミレイユは、どのようにオデットを追い詰めようとしているのか。
オデットが強く拳を握りしめたとき、遠くからホールを揺らすように管弦楽が鳴り響き始める。これが、偽りの王妃とその愛人、そして宮廷の嘲笑が入り乱れる壮大な夜の幕開けだった。
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