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第3章:舞踏会の夜、揺れる王太子妃の座
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ホールの壁際へと移動したオデットは、テーブルに用意されている水を一口だけ飲み、息を整える。
(……いつまで我慢すればいいの? こんな夜がずっと続くのは、あまりにも苦痛だわ)
周囲の視線、陰口、愛人を連れ添う王太子。すべてが苛立たしく、悲しい。
けれど、ここで逃げ出したら、何もかもが終わりだ。王太子の“白い結婚”宣言を受け入れるままの哀れな女として、完膚なきまでに笑われるだろう。ブランシュフォール家の名誉に傷がつくだけでなく、オデット自身の誇りも粉々に砕け散ってしまう。
(私は、私の意志で次の道を選びたい。……少なくとも、今夜は最後まで王太子妃の役目を果たす。それが今の私にできる唯一の抵抗だわ)
心の中でそう固く誓ったとき、突然彼女の耳に、別の会話が聞こえてきた。壁際で小声で話しているのは、二人の上級貴族らしき男性。オデットの存在には気づいていないらしい。
「……噂を聞いたか? 王太子殿下は、いずれ国王陛下の寝室も完全に取り仕切ろうとしているらしいぞ。もう陛下もご高齢だから……」
「おいおい、そんな不敬な話はやめろ。ここは王宮だぞ」
ひそひそ声だが、オデットは聞き逃さない。どうやらアルベールが水面下で“さらなる権力”を掌握しようと動いているという噂のようだ。
(……このままでは、彼は本当に好き放題にこの国を操りはじめるかもしれない)
そんな懸念が頭をかすめる。アルベールが王に即位する前から、既にこれほどまで独善的ならば、即位後はもっとひどくなるのではないか。
王太子妃として、その傲慢さを止められる術が自分にあるのか――オデットは、グラスを握る指先がかすかに震えるのを感じた。
しかしそのとき、オデットの視界の先、ホールの入り口付近が再びざわめき始めた。
(今度は一体……?)
来客はほぼ揃っているはずだったが、そこへまた新たな一行が到着したのだろうか。周囲が少しそちらの方に目を向けている。
オデットも視線をやると、そこには一団の外国人らしき姿が見えた。隣国アルヴェール王国の紋章が入ったコートをまとい、国王に対する礼儀からか、きちんと国章を示すバッジを胸につけている。
彼らはアルヴェール王国の外交使節団のようだ。事前の招待リストにも名前があったはずだが、少し遅れて到着したらしい。
(アルヴェール……そういえば、あのレオポルド王子もアルヴェールの第一王子。まさか、彼が?)
オデットは思わず胸が高鳴る。しかし、来賓団の中を見渡しても、王子らしい人物の姿は見当たらない。どうやらレオポルド本人は来ていないようだ。
代わりに、使節団の先頭にいるのは、年配の男性。アルヴェール王国の宮廷筆頭秘書官と紹介されている。彼が他の国賓や貴族たちと挨拶を交わす様子を、オデットは少し離れた場所で見守った。
(王太子の舞踏会に、アルヴェール王国の使節も顔を出すなんて。よほど丁重に招待したのかしら。それとも、何か別の思惑が……)
さまざまな考えが頭を巡る中、その筆頭秘書官がまっすぐにこちらを見つめ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「……オデット・ド・ブランシュフォール様でいらっしゃいますね」
柔和な笑みを浮かべる彼に、オデットは会釈を返す。
「はい。ようこそお越しくださいました。私は本日の舞踏会の準備を任されております。ご不便な点がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
やや緊張しながら言葉を選ぶと、筆頭秘書官はふっと目を細めた。
「これはありがたい。……実は、私の主君であるレオポルド王子殿下が、あなたに宜しくと申しておりました。もし今宵お会いできるなら、よろしくお伝えいただきたいと」
その言葉に、オデットの心臓がドキリと高鳴る。やはりレオポルド王子は、この舞踏会に興味を持っていたのだ。
(あの手紙……やはり、本気で私に声をかけてくださっているのね)
だが、表面は平静を装い、僅かに微笑んで答える。
「レオポルド殿下には、以前の外交式典で少しご挨拶を交わさせていただいたことがございます。お心に留めていただいているのでしたら、私からもどうぞよろしくお伝えくださいませ」
秘書官は頷く。そしてさらに小声で続けた。
「殿下は……あなたのことを深く案じておられます。この舞踏会へのご招待状も、殿下がお書きになった一節が含まれておりました。ですが、どうやら殿下ご自身は公務の都合で来られなかった。それゆえ、私が代わりに様子を見に来た次第です」
まるで含みのある言い方だ。オデットは瞬時に察する。この秘書官は、レオポルド王子から“オデットを探れ”という密命を受けているのかもしれない。
「……わざわざご足労くださり、恐縮です。私は大丈夫ですわ。――もし殿下がお尋ねになることがございましたら、どうぞ『私は元気にしております』とお伝えいただければ」
そう返すと、秘書官は微笑みつつ一礼する。彼の背後に控えている随員たちも、穏やかな表情で会釈をしてくれた。
やがて、一行は場内のほうへと進んで行き、ほかの貴族たちと挨拶を交わし始める。オデットはその背中を見送りながら、静かに自問する。
(……私、本当に“元気”と言えるのかしら?)
王太子アルベールの冷遇、“白い結婚”の宣言、そして愛人が我が物顔で闊歩するこの宮廷。そんなところで苦しみ、屈辱に耐える日々のどこに「元気」などあるのか。
とはいえ、今はまだ決断の時ではない。オデットは改めてそう胸中で繰り返した。自分がこの国を捨てるのか、あるいはもう一度、王太子と対峙してでも「王妃としての道」を歩むのか――それを最終的に決めるのは、今宵ではない。
(でも、あの秘書官が来ているということは、レオポルド殿下は私を“諦めていない”ということ。もしもの時、私が逃げ込める先があると思うと、少しだけ気が楽になるわ……)
(……いつまで我慢すればいいの? こんな夜がずっと続くのは、あまりにも苦痛だわ)
周囲の視線、陰口、愛人を連れ添う王太子。すべてが苛立たしく、悲しい。
けれど、ここで逃げ出したら、何もかもが終わりだ。王太子の“白い結婚”宣言を受け入れるままの哀れな女として、完膚なきまでに笑われるだろう。ブランシュフォール家の名誉に傷がつくだけでなく、オデット自身の誇りも粉々に砕け散ってしまう。
(私は、私の意志で次の道を選びたい。……少なくとも、今夜は最後まで王太子妃の役目を果たす。それが今の私にできる唯一の抵抗だわ)
心の中でそう固く誓ったとき、突然彼女の耳に、別の会話が聞こえてきた。壁際で小声で話しているのは、二人の上級貴族らしき男性。オデットの存在には気づいていないらしい。
「……噂を聞いたか? 王太子殿下は、いずれ国王陛下の寝室も完全に取り仕切ろうとしているらしいぞ。もう陛下もご高齢だから……」
「おいおい、そんな不敬な話はやめろ。ここは王宮だぞ」
ひそひそ声だが、オデットは聞き逃さない。どうやらアルベールが水面下で“さらなる権力”を掌握しようと動いているという噂のようだ。
(……このままでは、彼は本当に好き放題にこの国を操りはじめるかもしれない)
そんな懸念が頭をかすめる。アルベールが王に即位する前から、既にこれほどまで独善的ならば、即位後はもっとひどくなるのではないか。
王太子妃として、その傲慢さを止められる術が自分にあるのか――オデットは、グラスを握る指先がかすかに震えるのを感じた。
しかしそのとき、オデットの視界の先、ホールの入り口付近が再びざわめき始めた。
(今度は一体……?)
来客はほぼ揃っているはずだったが、そこへまた新たな一行が到着したのだろうか。周囲が少しそちらの方に目を向けている。
オデットも視線をやると、そこには一団の外国人らしき姿が見えた。隣国アルヴェール王国の紋章が入ったコートをまとい、国王に対する礼儀からか、きちんと国章を示すバッジを胸につけている。
彼らはアルヴェール王国の外交使節団のようだ。事前の招待リストにも名前があったはずだが、少し遅れて到着したらしい。
(アルヴェール……そういえば、あのレオポルド王子もアルヴェールの第一王子。まさか、彼が?)
オデットは思わず胸が高鳴る。しかし、来賓団の中を見渡しても、王子らしい人物の姿は見当たらない。どうやらレオポルド本人は来ていないようだ。
代わりに、使節団の先頭にいるのは、年配の男性。アルヴェール王国の宮廷筆頭秘書官と紹介されている。彼が他の国賓や貴族たちと挨拶を交わす様子を、オデットは少し離れた場所で見守った。
(王太子の舞踏会に、アルヴェール王国の使節も顔を出すなんて。よほど丁重に招待したのかしら。それとも、何か別の思惑が……)
さまざまな考えが頭を巡る中、その筆頭秘書官がまっすぐにこちらを見つめ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「……オデット・ド・ブランシュフォール様でいらっしゃいますね」
柔和な笑みを浮かべる彼に、オデットは会釈を返す。
「はい。ようこそお越しくださいました。私は本日の舞踏会の準備を任されております。ご不便な点がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
やや緊張しながら言葉を選ぶと、筆頭秘書官はふっと目を細めた。
「これはありがたい。……実は、私の主君であるレオポルド王子殿下が、あなたに宜しくと申しておりました。もし今宵お会いできるなら、よろしくお伝えいただきたいと」
その言葉に、オデットの心臓がドキリと高鳴る。やはりレオポルド王子は、この舞踏会に興味を持っていたのだ。
(あの手紙……やはり、本気で私に声をかけてくださっているのね)
だが、表面は平静を装い、僅かに微笑んで答える。
「レオポルド殿下には、以前の外交式典で少しご挨拶を交わさせていただいたことがございます。お心に留めていただいているのでしたら、私からもどうぞよろしくお伝えくださいませ」
秘書官は頷く。そしてさらに小声で続けた。
「殿下は……あなたのことを深く案じておられます。この舞踏会へのご招待状も、殿下がお書きになった一節が含まれておりました。ですが、どうやら殿下ご自身は公務の都合で来られなかった。それゆえ、私が代わりに様子を見に来た次第です」
まるで含みのある言い方だ。オデットは瞬時に察する。この秘書官は、レオポルド王子から“オデットを探れ”という密命を受けているのかもしれない。
「……わざわざご足労くださり、恐縮です。私は大丈夫ですわ。――もし殿下がお尋ねになることがございましたら、どうぞ『私は元気にしております』とお伝えいただければ」
そう返すと、秘書官は微笑みつつ一礼する。彼の背後に控えている随員たちも、穏やかな表情で会釈をしてくれた。
やがて、一行は場内のほうへと進んで行き、ほかの貴族たちと挨拶を交わし始める。オデットはその背中を見送りながら、静かに自問する。
(……私、本当に“元気”と言えるのかしら?)
王太子アルベールの冷遇、“白い結婚”の宣言、そして愛人が我が物顔で闊歩するこの宮廷。そんなところで苦しみ、屈辱に耐える日々のどこに「元気」などあるのか。
とはいえ、今はまだ決断の時ではない。オデットは改めてそう胸中で繰り返した。自分がこの国を捨てるのか、あるいはもう一度、王太子と対峙してでも「王妃としての道」を歩むのか――それを最終的に決めるのは、今宵ではない。
(でも、あの秘書官が来ているということは、レオポルド殿下は私を“諦めていない”ということ。もしもの時、私が逃げ込める先があると思うと、少しだけ気が楽になるわ……)
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