忘れられた薔薇が咲くとき

鍛高譚

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第一章 孤独の旅路と優しき灯火

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 翌朝、鶏の鳴き声や人々の動きが宿屋の外から聞こえてくる。アルタリアはまだ少し眠い目をこすりながら起き上がり、支度を整えた。外套を羽織り、最低限の荷物を抱えて部屋を出る。まだ朝早いというのに、一階の食堂では女将が簡単なパンと煮豆の朝食を振る舞っていた。
「おはよう。もう行くのかい?」
 女将が声をかけてきたので、アルタリアは軽く会釈した。
「はい、できるだけ今日のうちに南の町に辿り着きたいので。昨夜はお世話になりました」
「お代はもうもらってるし、気をつけてね。このあたりは昼はまだ平和だけど、夜になると盗賊が出ることもある。あなたみたいな、ええと……まあ、見た目が柔らかそうな娘は狙われやすいからさ」
 女将はそう言って笑いかける。それは、彼女なりの優しさの表現なのだろう。アルタリアは微笑みを返し、少しの間だけでも宿を貸してくれたことに感謝を伝える。

 外に出ると、まだ朝の冷え込みが残っている。昨日のような雨の気配はないが、空気はひんやりとして肌に刺さるようだ。アルタリアは息を吐き、宿の前を掃除している少女に別れの挨拶をしてから街道に足を向けた。
 朝靄の漂う道を歩くうち、胸の奥に少しずつ勇気が満ちてくるような気がした。ささやかながらも、人の温もりに触れる機会があったからかもしれない。自分は一人ではない――そう感じるだけで、心の持ちようは変わる。
 これから向かう南の町は、王都からある程度離れた場所で、比較的規模が大きいと聞く。そこならば何か仕事を得るきっかけがあるかもしれない。たとえば、小さな商店や宿屋で働きながら、少しずつ金を貯めることもできるだろう。今はそれしか考えられない。

 暫く歩いていると、昼前には街道沿いにいくつかの小さな屋台が見えてきた。簡易的なテントを張って農作物や細々した雑貨を売る人々だ。そこに多くの馬車や旅人が集い、ひと時の休息を取る光景が広がっている。
 アルタリアは空腹を覚え、手持ちの小銅貨で手頃なパンと果実を買い求める。かつて王宮や伯爵家で飽きるほど口にしていた贅沢な料理とは比べものにならないが、今の彼女には十分すぎるほどありがたい食糧だ。
 パンを口にしながら、屋台の裏手に設けられた簡易休憩所で腰を下ろす。すると、またしても妙な視線を感じる。視線の先を探ってみると、旅装束をまとった男がこちらをちらちらと見ていた。髪を短く刈り込んだ精悍な顔つきで、腰には剣を携えている。傭兵か、護衛を生業にしている者だろうか。

 アルタリアは一瞬警戒するが、彼はじっと観察しているだけで、何か悪意があるようには見えない。それでも油断は禁物だと考え、あくまで自然な様子でパンを食べ終えると、すぐに荷物を抱え直してその場を離れようと立ち上がった。
「あ、ちょっと待って」
 突然、その男がこちらに声を掛けてきた。アルタリアは内心はらはらしながらも、怪しまれないように振り返る。
「なんでしょうか」
「いや、悪いんだが……どこかでお会いしたことがあるかと思って。ちょっと気になってね。俺はレオナードと言う、ただの流れ者だ。こんなところでお嬢さんを見かけるとは思わなかったから」
 レオナードと名乗る男は、にこやかな笑みを浮かべていた。だが、その瞳には油断ならない鋭さが覗いているように見える。アルタリアは一瞬言葉を詰まらせた。過去にこの人物と面識があるとは思えない。伯爵家の催しに招かれるタイプの人間でもなさそうだし、もしどこかで見かけていたなら、すぐに分かるはずだ。
「ごめんなさい。私はあなたのことを存じ上げません。どこかで偶然お顔をお見かけしたことがあるかもしれませんが……」
 そう答えると、レオナードは少しばかり残念そうな表情を見せながらも、興味を失った様子ではない。
「そうか……なんだか上品な仕草をしていたから、もしかして王都のお嬢さんかと思ってな。最近、王都で大きな騒ぎがあったと聞いたもんで、まさか関係者かと勝手に想像してしまったんだ。すまない、気を悪くさせたな」
「いえ。大丈夫です。私はただの旅人ですから」

 できるだけ平静を装いながら答えるアルタリアの内心は穏やかではなかった。王都での大きな騒ぎ――それはおそらくエリオット王子の婚約破棄と新聖女の話だろう。すでに噂がここまで流れてきているとは、さすがは王家に絡むスキャンダル。
 レオナードはアルタリアの反応を見て何を思ったのか、軽く手を上げて別れの挨拶をする。
「わかった。こちらもなんだか無粋なことを聞いてすまなかったな。旅路の安全を祈ってるよ」
 その軽やかな動作に、アルタリアは少し安堵すると同時に警戒心が残る。彼は何者なのか。どういう目的で声をかけてきたのか――。だが、これ以上関わるのは得策ではないと判断し、アルタリアはそのままレオナードの側を離れた。

 再び街道に戻り、ひたすら歩き続ける。太陽が昇り切ったころには、遠方に高い柵と立派な門が見えてきた。あれが目的地である南の町の入り口だろう。大きな門には兵士が何人か詰めており、行き交う馬車や旅人を監視している。その様子から、この町がそれなりの商業拠点として機能していることが窺えた。

 門の前に着くと、兵士がアルタリアの荷物を目視で確認しながら質問を投げかける。
「どこから来た、何をするために町に入るんだ?」
「王都の近くの村を出て、こちらの町で仕事を探そうと思っています。身分を証明するものは……特にありませんが、旅人であることに間違いはありません」
 アルタリアは可能な限り落ち着いた声で答える。兵士はじろじろと彼女を見て、特に怪しい荷物はないと判断したのか、「通れ」と手で合図する。
「迷惑をかけるようなことはするなよ。最近は治安が不安定な時期だからな」
「はい、承知しています」

 こうしてアルタリアは無事に町の門を潜った。石畳の道が整備され、道沿いには商店や屋台が連なる。王都に比べれば小規模だが、それでも活気がある様子だ。馬車の轍が激しく音を立て、人々の話し声がどこからともなく聞こえてくる。
 まずは腰を落ち着ける宿を探さなければならない。ここでしばらく滞在して、仕事を見つけるのだ。その後も状況次第では、さらに別の土地へ移ることも考えなければならない。
 道端では果物屋や雑貨屋が呼び込みをしており、安っぽい民芸品のようなものを売る店もある。アルタリアは不安とわくわくが混ざった気持ちを抱きながら、町の中心部へと足を進める。すると、広場の一角に“大通りの宿”と看板を掲げた大きな建物を発見した。旅人を積極的に受け入れているようだ。

 宿の扉を開けると、先ほどの双葉亭よりは明るく広い空間があり、受付らしきカウンターには若い男性が座っている。彼はアルタリアを見て「いらっしゃいませ」と好感の持てる声で迎え入れた。
「宿泊をご希望ですか? 大通りの宿へようこそ。長期滞在も短期滞在も大歓迎ですよ」
 アルタリアはほっと息をつき、少し申し訳なさそうに問いかける。
「短期でお願いしたいのですが、もしかすると仕事が見つかれば長くなるかもしれません。料金はどのようになりますか?」
「一泊と簡単な朝食付きで銀貨二枚、もう少し安い部屋もありますが……」
 彼が提示した金額は、昨夜の宿よりも高い。それだけこの町の宿が大きく快適であることの裏返しでもあるだろうが、アルタリアには痛い出費だった。
「そうですか……もう少しお安い部屋があればそちらでお願いしたいのですが」
「もちろんご用意できます。裏手の離れの部屋なら、一泊銀貨一枚と少し。朝食も最低限にはなりますが、それでもよければどうぞ」
 アルタリアは安堵し、小銅貨をいくつか取り出して支払う。すると、受付の男性は帳簿に名前を書き込むように言いながら、「仕事を探しているのですか?」と話しかけてきた。
「そうなんです。あまり経験はないのですが、もしご存知の職場があればご紹介いただけると助かります」
「なるほど……。実はここの宿でも人手が足りなくて、忙しい時間帯は食事や掃除を手伝ってもらいたいくらいでしてね。時給としては大した額はお出しできませんが、食事代くらいは稼げると思いますよ」
 アルタリアは期待感に胸を膨らませる。まだ本決まりではないが、こうした職場で働き始めるのも一つの手だ。何より宿で働けば、生活拠点と収入源を確保しやすくなる。
「ぜひ、やらせてください。慣れないことが多いかもしれませんが、一生懸命働きます」
 受付の男性はにこりと笑い、部屋のキーを渡してくれる。
「では、今日のところは部屋でゆっくり休んでください。明日から早速、朝食の仕込みとか接客を手伝っていただきます。よろしくお願いしますね」

 こうしてアルタリアは、ひとまずこの町での生活基盤を手に入れつつあった。もちろん、かつての伯爵令嬢としての華やかさとは正反対の毎日を送ることになるだろう。しかし、自分の力で働いて得たお金で生きていく――その当たり前の感覚が、逆に新鮮で、少しだけ誇らしくも感じる。
 荷物を抱えながら、案内された裏手の部屋に向かう途中、窓の外に広がる町の景色が目に留まる。活気ある通りや人々の往来を見ていると、どこか胸が高鳴った。これまで王族や伯爵家の庇護を受けていた自分は、“普通に生きる”ということを知らなかったのかもしれない、とさえ思う。
(ここからが、本当の意味で私の人生の始まりなのかもしれない)
 そう心の中で呟くと、アルタリアは鼻先をくすぐる新鮮な空気の冷たさを感じながら、静かに息を整えた。追放される前までは想像すらしなかった苦労が待ち受けているだろう。しかし、その苦労の先に何があるのかは、まだ誰にもわからない。
 唯一確かなのは、自分がもう過去にとらわれた令嬢などではないということ。自由と責任の両方を抱えながら、アルタリアは一歩ずつ、未来に向かって歩み始める。いつか、あの王子や偽りの聖女に“ざまあ見ろ”と言える日が来るように――。今はただ、その想いを胸に、地道な生活を積み重ねていくしかないのだ。

 こうしてアルタリアの新しい日々が幕を開けた。かつて王都の社交界を彩った令嬢は、今、庶民の一人としてささやかな食卓を囲み、少しずつ自分の未来を描き出していく。輝かしい衣装や護衛の騎士、派手な舞踏会などはもうない。それでも、彼女の心には小さな決意の灯火が揺らめき続けている。追放という最悪の運命を跳ね返し、いつの日か胸を張って笑える日を迎えるために、アルタリアは歩みを止めない。

 空は高く晴れ渡り、町の喧騒が遠くまで響き渡っている。王都の華やかさとはまた違う活気に、アルタリアは小さな力をもらいながら、今日という日をスタートさせるのだった。
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