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第3章 迫り来る足音と揺れる心
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夜の騒動から翌朝にかけて、大通りの宿は慌ただしい空気に包まれていた。盗賊を取り押さえた件が街の兵士たちによって公にされ、宿の客や近隣住民がぞろぞろと様子を見にやって来たのだ。どんな犯罪者だったのか、どれだけの被害があったのか――人々の好奇心が混じり合って宿をざわつかせる。
しかし、蓋を開けてみれば、捕まったのは単独の小悪党。警備が手薄そうな宿を狙ってはちょこちょこと盗みを働き、周囲に迷惑をかけていたらしい。最初は頑なに黙っていた男も、役人に厳しく問いただされるうちに、いくつかの犯行を白状したとのことだった。おかげで宿の信用に傷がつかず、むしろ「この宿はしっかり警戒している」「怪しい奴を取り押さえた」といった前向きな評判が広まりつつある。
「いやあ、まったく皮肉なものだよ」
店主のマルコは、宿のカウンターで集金作業をしながら苦笑いを浮かべる。
「本来なら恐ろしい出来事なのに、『あの宿は安全だ』って話になっちまった。実際、犯人を逃がさず捕まえられたのは幸運だけどな」
「マルコさんが兵士をすぐ呼んでくれたおかげです」
アルタリアはそう言って頭を下げる。彼女自身にとっても、レオナードの迅速な行動とマルコたちの対応がなければ危険な目に遭っていたに違いない。
それからというもの、アルタリアは夜の巡回を増やすなど、安全管理を一層強化するよう宿のみんなと協力していた。自分も朝から晩まで働いて疲れてはいるが、不思議と気力だけは衰えない。危機を乗り越えたことが、彼女の中で小さな自信にもつながり始めていたからだ。
もっとも、その裏側には拭いきれない不安や緊張感がある。
レオナードは騎士団出身であり、王宮にも通じる可能性がある男。いつか自分の正体を見抜かれ、王都へ通報されるかもしれない。あるいは、まだどこかに潜んでいる敵意ある人間が、アルタリアに手を伸ばしてくるかもしれない。
いずれにせよ、彼女には落ち着いて暮らせない理由が多すぎた。
---
■町に漂う新たな噂
ひとまず盗賊騒ぎは収束に向かったものの、町全体を眺めると、新たな動きがささやかれ始めていた。それは、「聖女を名乗る娘が南の地方を巡っている」という噂である。王都を離れ、各地の寺院や孤児院を視察しているらしい。ある日、宿の食堂で耳にした旅商人たちの会話が、アルタリアの胸に突き刺さった。
「近々、この町にも来るかもしれないんだってよ。すごい力を持ってるらしいぞ。噂によれば、病気の子供を癒やしたとか……」
「聖女様がいる場所には、第二王子殿下も随行しているんだろ? そりゃあ一目見てみたいもんだ。なんたって王家の方々だしな」
「しかし、その聖女に入れ込んだ結果、前の婚約者を追放したって話も聞くが……まあ貴族の事情はわかんねえよな」
客席を回るアルタリアは、配膳用の盆を震えそうになる手で必死に支えた。第二王子、エリオット――彼女を切り捨てたあの人だ。追放された苦い記憶が一気によみがえる。彼は今や“聖女”と称えられる平民娘を得て、新たな道を歩んでいる。まさかこんな近くの町に足を運ぶなんて、思ってもみなかった。
(ひょっとすると、本当にここへ来るの……?)
もしそうなれば、アルタリアの存在が露見する可能性は一気に高まる。貴族社会であれほど目立っていた自分を、知らないはずがない。ましてや、「追放同然でどこかへ消えた元伯爵令嬢」がこんな町で働いているなど、絶好のスキャンダルネタとして王子に伝わるかもしれない。彼がどんな反応をするか――想像するだけで、体が固まってしまいそうだった。
だが、アルタリアは表面上は微笑みを崩さず、旅商人たちに「ごゆっくりどうぞ」とだけ告げてテーブルを離れる。逃げ出したい気持ちがこみ上げるが、ここで仕事を投げ出すわけにはいかない。現実逃避して無計画に町を離れれば、再びどこかで危険に巻き込まれるのがオチだ。
(どうする? 本当にエリオットたちが来るなら、先手を打たないと……でも、私に何ができる?)
食堂の裏手に下がって深呼吸を繰り返すアルタリアの姿を見かけ、料理人のエルダが怪訝そうに声をかけてきた。
「どうしたの、そんな顔色悪くして。朝から食べてないんじゃない?」
「あ、いえ……すみません。ちょっと胸が詰まってしまって……」
「忙しさに慣れなきゃならないのはわかるけど、ちゃんと休むときは休みなさいよ。あんたが倒れたら宿は大混乱よ」
どこまでも世話焼きなエルダの言葉に、アルタリアは小さく笑みを返した。深く事情を話せないもどかしさを抱えながらも、こうして気遣ってくれる人がいるのはありがたい。
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しかし、蓋を開けてみれば、捕まったのは単独の小悪党。警備が手薄そうな宿を狙ってはちょこちょこと盗みを働き、周囲に迷惑をかけていたらしい。最初は頑なに黙っていた男も、役人に厳しく問いただされるうちに、いくつかの犯行を白状したとのことだった。おかげで宿の信用に傷がつかず、むしろ「この宿はしっかり警戒している」「怪しい奴を取り押さえた」といった前向きな評判が広まりつつある。
「いやあ、まったく皮肉なものだよ」
店主のマルコは、宿のカウンターで集金作業をしながら苦笑いを浮かべる。
「本来なら恐ろしい出来事なのに、『あの宿は安全だ』って話になっちまった。実際、犯人を逃がさず捕まえられたのは幸運だけどな」
「マルコさんが兵士をすぐ呼んでくれたおかげです」
アルタリアはそう言って頭を下げる。彼女自身にとっても、レオナードの迅速な行動とマルコたちの対応がなければ危険な目に遭っていたに違いない。
それからというもの、アルタリアは夜の巡回を増やすなど、安全管理を一層強化するよう宿のみんなと協力していた。自分も朝から晩まで働いて疲れてはいるが、不思議と気力だけは衰えない。危機を乗り越えたことが、彼女の中で小さな自信にもつながり始めていたからだ。
もっとも、その裏側には拭いきれない不安や緊張感がある。
レオナードは騎士団出身であり、王宮にも通じる可能性がある男。いつか自分の正体を見抜かれ、王都へ通報されるかもしれない。あるいは、まだどこかに潜んでいる敵意ある人間が、アルタリアに手を伸ばしてくるかもしれない。
いずれにせよ、彼女には落ち着いて暮らせない理由が多すぎた。
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■町に漂う新たな噂
ひとまず盗賊騒ぎは収束に向かったものの、町全体を眺めると、新たな動きがささやかれ始めていた。それは、「聖女を名乗る娘が南の地方を巡っている」という噂である。王都を離れ、各地の寺院や孤児院を視察しているらしい。ある日、宿の食堂で耳にした旅商人たちの会話が、アルタリアの胸に突き刺さった。
「近々、この町にも来るかもしれないんだってよ。すごい力を持ってるらしいぞ。噂によれば、病気の子供を癒やしたとか……」
「聖女様がいる場所には、第二王子殿下も随行しているんだろ? そりゃあ一目見てみたいもんだ。なんたって王家の方々だしな」
「しかし、その聖女に入れ込んだ結果、前の婚約者を追放したって話も聞くが……まあ貴族の事情はわかんねえよな」
客席を回るアルタリアは、配膳用の盆を震えそうになる手で必死に支えた。第二王子、エリオット――彼女を切り捨てたあの人だ。追放された苦い記憶が一気によみがえる。彼は今や“聖女”と称えられる平民娘を得て、新たな道を歩んでいる。まさかこんな近くの町に足を運ぶなんて、思ってもみなかった。
(ひょっとすると、本当にここへ来るの……?)
もしそうなれば、アルタリアの存在が露見する可能性は一気に高まる。貴族社会であれほど目立っていた自分を、知らないはずがない。ましてや、「追放同然でどこかへ消えた元伯爵令嬢」がこんな町で働いているなど、絶好のスキャンダルネタとして王子に伝わるかもしれない。彼がどんな反応をするか――想像するだけで、体が固まってしまいそうだった。
だが、アルタリアは表面上は微笑みを崩さず、旅商人たちに「ごゆっくりどうぞ」とだけ告げてテーブルを離れる。逃げ出したい気持ちがこみ上げるが、ここで仕事を投げ出すわけにはいかない。現実逃避して無計画に町を離れれば、再びどこかで危険に巻き込まれるのがオチだ。
(どうする? 本当にエリオットたちが来るなら、先手を打たないと……でも、私に何ができる?)
食堂の裏手に下がって深呼吸を繰り返すアルタリアの姿を見かけ、料理人のエルダが怪訝そうに声をかけてきた。
「どうしたの、そんな顔色悪くして。朝から食べてないんじゃない?」
「あ、いえ……すみません。ちょっと胸が詰まってしまって……」
「忙しさに慣れなきゃならないのはわかるけど、ちゃんと休むときは休みなさいよ。あんたが倒れたら宿は大混乱よ」
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