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--第1章:婚約破棄と姉への裏切り
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しおりを挟むヴェルナー公爵家の大広間は、今宵の祝宴のためにまるで一幅の絵画のように豪華に装飾されていた。高い天井からは無数のシャンデリアがぶら下がり、その煌めきは、まるで夜空に散りばめられた星々のように輝いている。大理石の床は、来客の足音に淡く反響し、テーブルには色とりどりの生花が飾られ、豪華な料理が美しく並べられていた。格式高い貴族たちは、上質なワインを片手に、笑い声と談笑が絶えない中で、家の未来を祝福するかのようにその場に集っていた。
この祝宴の主役は、公爵家の次女であるラフィーネ・ド・ヴェルナーと、彼女の婚約者アルベルト・フォン・ローゼンベルク侯爵令息であった。婚約の発表は、家の伝統を継ぐ大事な儀式として、すでに多くの賓客の注目を集めていた。ラフィーネは、その美貌と上品な所作で、将来の継承者として周囲から期待され、祝福の声を浴びていた。しかし、同じ家に暮らす長女、セラフィーナ・ド・ヴェルナーは、外見も知性も申し分なくも、いまだ婚約者がいないため「行き遅れ令嬢」と嘲笑され、貴族社会の偏見に苦しんでいた。
セラフィーナは、実際には家の領地経営と商会の運営を一手に引き受け、家に莫大な収益をもたらしていた。彼女の手腕によって、ヴェルナー家は幾多の困難を乗り越えてきたが、その事実は貴族社会においては「適齢期を過ぎても婚約者がいない=価値がない」という偏見の下、冷ややかな視線で見られるだけであった。
宴会の始まりからしばらく、ラフィーネは美しい金髪をなびかせながら、華やかな衣装に身を包み、楽しげに他の親族たちと談笑していた。彼女は、自身の婚約発表を誇らしく感じると同時に、家の未来を背負う存在としての責任感をも内心では感じていた。しかし、どこか心の奥底には、姉セラフィーナが家を支える実力の高さに対する複雑な感情――嫉妬と劣等感、そして密かに抱いていた憧れが入り混じっていた。
――そんな中、祝宴の華やかな雰囲気の中で、一人の男がゆっくりと近づいてくる。その男、アルベルト・フォン・ローゼンベルクは、整った顔立ちに洗練された服装、そして品位ある振る舞いで、誰もが憧れる存在であった。だが、彼の瞳の奥には、表向きの優雅さとは裏腹に、計算された狙いと、わずかな冷徹さが潜んでいた。
アルベルトは、ラフィーネと談笑しているセラフィーナのそばに近づくと、低い声で話し始めた。
「セラフィーナ……君は、実に美しい。君の知性、気高さ、そしてその儚げな孤高の雰囲気は、まるで夜空に輝く星のようだ。僕は、ずっと君に惹かれている。君こそ、本当の運命の相手だと、心から信じているんだ」
その言葉を口にした瞬間、セラフィーナは一瞬、冷静さを失いかけたが、すぐに内心の強い責任感と、家を守る決意を思い起こし、表情を引き締めた。
「……ラフィーネの婚約者として、何の用があるのですか?」
と、セラフィーナは、淡々と返す。しかしアルベルトは、さらに近づき、甘い笑みを浮かべながら、さらに口上を続ける。
「僕は本気だ。君となら、ラフィーネとの婚約なんて、ただの形式だ。君が本当に僕のそばにいてくれるなら、すぐにでもその婚約を破棄する。君は、僕の真実の愛だ。君も、心のどこかで僕に惹かれているはずだ」
アルベルトは、セラフィーナの手を取り、さらに腰に手を回すと、力強く彼女を自分の方へ引き寄せようとした。その瞬間、セラフィーナは、驚愕と怒りが入り混じった表情で叫んだ。
「やめて! 離してください!」
しかしアルベルトは、彼女の必死の拒絶を受け流さず、さらに顔を彼女に近づけ、無理やりキスを迫る。宴会場の笑い声や談笑が一瞬、凍りついたように静まり返った。セラフィーナは、もう耐えかねたのか、鋭い一撃を放つ。
パシッ!
その音が、闇夜の静寂を切り裂いた。セラフィーナの平手打ちは、アルベルトの頬を激しく打ち、彼は痛みと恥ずかしさで顔を歪めた。
「ふざけないで! 君は、ラフィーネの婚約者であるはずじゃないか!」
アルベルトは、頬に手を当てながら、慌てた様子で取り繕おうとする。彼は、すぐさま声を震わせながら、状況を打開しようと必死に言い逃れを始めた。
「ラフィーネ……聞いてくれ。実は、君の姉が……あの、突然僕に迫ってきたんだ。僕が拒否しようとしたら、彼女は暴力的な態度で迫ってきた。だから、僕は……」
アルベルトの言葉は、言い逃れと嘘が混ざり合い、会場の隅で偶然その場にいた一人の人物の耳に入った。ラフィーネである。彼女は、アルベルトのでたらめな説明を信じ込むように、驚愕とともに次第に怒りが込み上げるのを感じた。
ラフィーネは、すぐに立ち上がり、アルベルトに向かって厳しい声で叫んだ。
「なんてことなの! どうしてあの姉が、私の婚約者に手を出すの? 信じられないわ! 私の大切な婚約者に、あんな行動を取らせるなんて、絶対に許せない!」
ラフィーネの声は、広間全体に響き渡り、周囲の者たちは一斉に驚いた表情を浮かべ、ざわめき始めた。アルベルトは、顔を赤らめ、焦りながら「いや、いや、誤解だ、誤解なんだ!」と必死に言い訳を重ねた。しかし、その言葉に耳を傾ける者は少なく、噂は瞬く間に広まっていった。
その瞬間、セラフィーナは、深い悲哀と裏切られた苦悩に満ちた瞳をラフィーネに向け、静かだが鋭い声で語りかけた。
「ラフィーネ、そんな噂に流されないで。私がそんな行動をするなんて、決してありえない。あなたは、私たちの家族の未来と、あなた自身の尊厳を守るべきよ。アルベルトの甘い言い逃れに簡単に騙されるなんて、あなただけの責任だわ」
しかし、ラフィーネの心は既にアルベルトの嘘に染まっていた。彼女の内面には、これまで蓄積された不安と嫉妬、そして自分の婚約者に対する理想があり、今やその矛先は、全て姉セラフィーナに向けられていた。
「どうして、あの姉が私の婚約者に手を出すの? あなたは、私の大切な婚約者を守るべきじゃないの? こんな不誠実な行動をする女なんて、絶対に家にいてはならないわ!」
ラフィーネの激しい非難は、会場内の空気を一層冷たく凍らせた。多くの客人がその言葉に耳を傾け、噂が一気に広がる中で、アルベルトの取り繕いも虚しく、彼の顔には失望と焦燥が刻まれていた。
「違う! そんなことは、僕は絶対にしていないんだ! あれは……」
と言いかけるアルベルトの声は、ラフィーネの怒りによってすぐに遮られた。
セラフィーナは、深い悲哀と怒り、そして失望に満ちたまなざしで、ラフィーネに向き直る。彼女は、かすかな涙を堪えながらも、毅然たる口調でこう告げた。
「ラフィーネ、私があんな行動をするはずがない。君は、僕の嘘に騙されているだけ。君が本当に守るべきは、私たち家族の名誉と未来だ。アルベルトの言い逃れに惑わされて、私に怒りを向けるなんて、君の判断は間違っているわ」
しかし、ラフィーネの心は既に深く傷ついており、アルベルトの巧妙な嘘にすっかり影響され、彼女の怒りは、セラフィーナへの裏切りとして爆発するかのように燃え上がった。
「もういい! こんな卑劣な姉なんて、見たくもない! 私とアルベルト様が、この家を継ぐのよ! 早く家から出て行って! 行き遅れのあなたは、絶対に許せないわ!」
ラフィーネの叫びは、祝宴の華やかな雰囲気を一変させ、広間の隅々に冷たい視線とざわめきを巻き起こした。多くの者たちが、誰の言うことが本当なのか、その真実を見極めようと戸惑いながらも、今起こった事態の重大さに息を飲んだ。
アルベルトは、ラフィーネの激しい非難に対して、必死に「誤解だ、誤解なんだ!」と声を震わせながら取り繕おうとするが、その口ぶりは、既に品位を欠いた男そのものとして、客人たちの中に冷やかな評価を広げるだけであった。
セラフィーナは、深いため息をつくと、しばらく無言のままその場に立ち尽くした。彼女の瞳には、かつての愛情と信頼を裏切られた痛み、そしてこれからの厳しい未来への覚悟が滲んでいた。胸中に湧き上がる怒りと悲哀を抱えながら、彼女は、ゆっくりとその場から立ち去る決意を固めた。
「……分かったわ。なら、私、ここを去る」
静かにそう告げると、セラフィーナは、アルベルトとラフィーネ、そして周囲の視線を背に、重い足取りでヴェルナー公爵家の門へと向かった。その背中は、今や取り返しのつかない裏切りに対する痛烈な覚悟と、未来への新たな希望を胸に、確固たる決意で満たされていた。
門を出る直前、彼女はふと振り返り、涙をこらえながらも、低い声で誓った。
「絶対に、あなたたちに後悔させてみせる……」
その一言は、今後の彼女の人生における復讐と再起の強い意志として、静かに、しかし確実に胸に刻まれた。セラフィーナは、過去の裏切りと偏見に苦しみながらも、自らの力で新たな未来を築くため、厳しい現実と向き合う覚悟を決して捨てなかったのである。
宴会場に響くラフィーネの怒声、そしてアルベルトの焦燥げな言い逃れの中で、ヴェルナー公爵家の運命は大きく揺れ動いていた。噂は瞬く間に広まり、今後の家族の行方、そして伝統と誇りを担う者たちの真価が問われる時が近づいていることを、誰もが感じ取っていた。
こうして、今宵の祝宴は、ただ華やかな祝福だけではなく、家族間の深い亀裂と裏切り、そしてそれぞれの未来に対する覚悟という、苦い現実を浮き彫りにするものとなった。セラフィーナは、悲哀と怒りを胸に、未来への再起を誓いながら、闇夜の中へと歩み出していった。彼女のその足取りは、いつの日か必ず、裏切りに苦しんだ者たちへの報いと、新たな光をもたらすであろう。
――これが、ヴェルナー家に刻まれる、悲劇と希望の始まりである。
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