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1-1 冷酷なる契約の序曲
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1-1 冷酷なる契約の序曲
ルシアーナ・フィオレットは、濃紺のドレスを慎重にたたみながら、開け放した窓の外に広がる曇天を見上げた。
その瞳には、諦めと、それを振り払おうとする強い意志が混ざり合っている。
かつて華やかで穏やかだった日々は、家族の財政破綻という現実によって、無残に壊された。
貴族社会において“伯爵家”という地位を持つフィオレット家は、見栄えこそ立派だが、その実情は借金で首が回らない状態だ。
パーティの常連として名を馳せた栄光の日々は遠く、今では屋敷の維持費を捻出するのがやっとで、使用人たちに満足な給金すら支払えない。
ルシアーナが生まれてから、この館はいつも優雅で、どこか温かい空間だった。
母フロランス・フィオレットは気品に満ち、誰からも慕われる女性であり、父エドゥアルド・フィオレットは社交界でも名の通った人格者だった。
——あの悲劇さえ起こらなければ。
そう思うたびに、胸の奥がきゅっと痛む。
フィオレット家が傾いた最大の要因は、父が手を広げすぎた外商との取引の失敗と、その後に続いた詐欺被害だった。
経済的な信用を失ったことで資金繰りは行き詰まり、取引相手や支援者たちは次々と離れていった。
今、屋敷の中に残っているのは、“伯爵家”という肩書きをかろうじて主張する豪奢な調度品だけ。
中身の伴わない虚ろな栄光が、かえって一族の没落を際立たせている。
「——お嬢様。そろそろお時間でございます」
控えめなノックの音とともに、扉の向こうから声がかかる。
声の主は、ルシアーナが子供のころから世話をしてくれている侍女頭、リディアだ。
年の頃は五十手前。
幼い頃からの良き話し相手であり、頼れる保護者でもある彼女は、今も変わらず忠実にフィオレット家へ仕えてくれている。
その表情には、主家の窮状を案じる不安と、それでも支えたいという強い思いが滲んでいた。
「分かっているわ、リディア。……すぐ行くわ」
ルシアーナはそう答えると、指先でドレスの皺を丁寧に整え、深く息を吸い込む。
そして、決意とともに部屋を後にした。
これから向かうのは来客用の応接室。
そこで行われるのは、フィオレット家が選び取った“最後の手段”を、正式に形にする儀式のようなものだ。
屋敷の廊下を歩きながら、ルシアーナは胸の内で状況を整理する。
応接室で待っているはずの人物——それは、侯爵家の当主でありながら、若くして社交界を牛耳る男、ヴィクトル・クロウフォード。
彼との縁談……いや、実際には“契約結婚”と呼ぶほうが正しい。
家名を守るため。
そして、多額の借金を一瞬で清算するために。
ルシアーナは、彼との政略結婚を引き受けることになっていた。
“クロウフォード侯爵家”は、いまや貴族社会でも抜きん出た財力と影響力を誇る名家である。
当主ヴィクトルは、先代から受け継いだ莫大な資産をもとに複数の事業を展開し、その手腕から“天才実業家”と称される青年だった。
だがその一方で、彼の人柄については、“冷酷で冷たい”という噂ばかりが先行している。
社交界の場で見かけても、整った容貌とは裏腹に、近寄りがたい空気をまとっている。
笑顔を振りまくどころか、むしろ他人を拒絶するかのような鋭い眼差しで、気軽に話しかけられる雰囲気ではないという。
だからこそ、彼が何を考えているのか、本当はどんな人物なのか——噂話はあっても、真実を知る者はほとんどいなかった。
そんな男が、なぜ没落寸前の伯爵家の長女との結婚を望んだのか。
その真意を知る者もまた、誰一人としていない。
好意からの婚約申し込みでないことだけは、誰の目にも明らかだ。
多くの人々は、「財政難を抱える伯爵家の“名目”を買ったのだろう」と推測している。
今回の契約条件は、どこまでも冷たいものだった。
「妻となる者に一切の愛情は注がない」
「クロウフォード家のイメージを損ねない程度の振る舞いをする」
「当主の権力や財力に決して口出ししない」
その代わりに、フィオレット家の抱える膨大な借金の全てをクロウフォード家が肩代わりする——それがヴィクトルの提示した条件だ。
その内容はあまりに一方的で、情の欠片もない取り決めに思えた。
今までのルシアーナなら、決して受け入れようとはしなかっただろう。
伯爵家が傾きかけているとはいえ、彼女には矜持があった。
“貴族らしい誇り”を捨ててまで、相手の慰み者のような扱いを受けることなど、本来なら耐えられない。
けれど——。
母と妹の生活を守るために。
最期までフィオレット家の再建に奔走し、無念のうちに亡くなった父のために。
自分には、“家”を存続させる義務がある。
少なくとも、自分の代でフィオレット家の名声が地に落ち、完全に潰えてしまうのだけは避けなければならないのだ。
気づけば、足取りは自然と重くなり、綱渡りでもしているかのように慎重になっていた。
隣を歩くリディアが、心配そうにこちらを見つめる気配がする。
それを感じて、ルシアーナはほんの少しだけ笑みを作った。
「大丈夫よ、リディア。——わたし、ちゃんとやり遂げてみせるわ」
小さく呟いたその声には、怯えよりも強い決意が宿っている。
貴族として生まれたからには、最後まで貴族としての意地を通す——その覚悟が、彼女の瞳に確かに灯っていた。
応接室の扉の前に立つと、執事が無言で扉を開ける。
コツ、コツ、と靴音が硬い床に響き、静かな室内に溶けていった。
部屋の奥には、ソファに深く腰を下ろし、悠然と足を組む男の姿があった。
灰色がかったプラチナブロンドの髪はきっちりと整えられ、その整った横顔は、まるで彫刻のようだ。
ルシアーナがこれから契約を結ぶ相手——ヴィクトル・クロウフォード。
その傍らには、数枚の書類を抱えた秘書らしき男性が控えていた。
「……お初にお目にかかります。クロウフォード侯爵様」
ルシアーナが視線を落とし、慎ましく一礼すると、ヴィクトルは彼女を一瞥しただけで、ほとんど表情を動かさなかった。
それでも、その瞳の奥に、かすかな光の揺れが見えたような気がする。
しかし、彼は形式的な挨拶すら省き、短く告げた。
「お座りください」
丁寧とも無愛想ともつかない、しかし冷ややかな響きを帯びた声。
まるで業務連絡をしているだけのようだ。
本来なら、初対面の婚約者に対して当主としての挨拶があって然るべきだろう。
だが、彼の態度からは、その必要すら感じていない様子がありありと伝わってきた。
噂通りの“冷たい侯爵”——ルシアーナは内心で小さくため息をつく。
とはいえ、今さらその態度に戸惑っている場合ではない。
彼女は自らの意思で、この結婚という形を受け入れなければならないのだ。
ルシアーナがソファに腰を下ろすと、ヴィクトルは秘書に顎をしゃくる。
秘書は持っていた書類をテーブルの上に広げた。細かな文字でびっしりと条項が並んでいる。
その内容を目にするだけで、胸の奥がじわりと冷たくなっていくのを感じた。
「こちらが婚約契約書でございます。ルシアーナ・フィオレット様。改めてご確認いただきたいのですが、今回の結婚は“クロウフォード侯爵家の要求を満たすこと”が第一となっております。愛情を求めないこと、後継ぎを求めないこと、婚姻関係によって得られる社会的信用をお互いに利用すること……主な条件はこのあたりに明記されております」
秘書が淡々と説明する。
ルシアーナはすでに聞いている内容だと分かっていながらも、一度だけ静かに頷いた。
文字として突きつけられることで、その非情さがあらためて胸に迫る。
そして、その中でもひときわ重く感じられる一文があった。
——「双方の合意があれば、いつでも婚姻の解消は可能とする。ただし、契約締結後、フィオレット家の財政はクロウフォード家が管理し、離縁の時点でフィオレット家に返済不能な負債が残っている場合、伯爵家の財産一切をクロウフォード家が接収するものとする」——
無意識に喉が鳴った。
つまり、この婚姻によって一度は借金が清算されたとしても、離縁の時点で再び負債が生じていれば、そのときはすべてを失う可能性があるということだ。
本当の意味で、再起不能になってしまうかもしれない。
(……もっとも、だからこそ今、わたしが“生贄”になることでしか、家を守る術がないのかもしれないわね)
心の中で苦く自嘲する。
少し肩が落ちそうになったが、ルシアーナはすぐに顔を上げた。
ここで弱音を吐くわけにはいかない。
今は、フィオレット家の当主代理として、気丈に振る舞うしかないのだ。
「契約書の内容は理解しました。……私どもには、これ以外に道がないことも重々承知しております。ですから、ここに記名し、婚姻を結ぶことに異論はございません」
ルシアーナが固い声でそう告げると、秘書はいつもの調子で羽ペンを差し出した。
彼女は静かにペンを受け取り、指定された欄に名前を書く。
ペン先が紙をなぞる音が、妙にはっきりと耳に残った。
記名を終え、ペンを置く。
おそるおそる顔を上げると、ヴィクトルは興味なさげな視線を一瞬だけ向け、すぐに別の書類へと視線を移してしまった。
そこに感情の色はほとんどない。
ただ、「決められた手続きを淡々とこなしている」という印象だけが残る。
その冷たさに、ルシアーナの胸はわずかにちくりと痛んだ。
「ヴィクトル様も、ご署名をお願いいたします」
秘書の言葉に、彼は無言のまま手を伸ばし、書類へ素早く署名をする。
ためらいなど微塵もない筆致。その様子は、やはりこの婚姻を“ビジネス契約の一つ”としか考えていないことを物語っていた。
もちろん、それを責めるつもりはない。
この結婚は、互いに打算の上に成り立つものだ。感情を挟まない彼の態度は、ある意味で筋が通っている。
——こうして、婚約は正式に成立した。
あとは一週間後に行われる結婚式を待つだけだ。
華々しい宮廷式ではなく、ごく内輪で執り行われる簡素な挙式になると聞いている。
これもまた、クロウフォード家からの指示だった。
世間体のために必要最低限の儀式だけは行うが、大々的に披露するつもりはない——そういう意図なのだろう。
とはいえ、ルシアーナ自身も過度な注目を浴びたくはなかったので、その点だけは素直にありがたいと思えた。
「では、これにて契約は成立です。……おめでとうございます、と申し上げるべきかは悩ましいところですが」
秘書は皮肉とも冗談ともつかない口調で言い、軽く会釈すると、手早く書類をまとめ始めた。
その背後で、ヴィクトルは黙ったまま立ち上がる。
ルシアーナのほうを振り返ることもなく、そのまま部屋を出ようとした。
さすがのルシアーナも、胸の奥に小さな戸惑いが生まれる。
だが、もとより彼に愛想を期待していたわけでもない。
引き止める理由も、言葉も持ち合わせていなかった。
しかし、扉に手をかけたところで、ヴィクトルが唐突に口を開く。
「挙式の日まで、あなたは伯爵家で待機していてください。こちらから連絡が行くまでは、この屋敷にいてもらう。……何か問題があるなら言いなさい」
振り返ることなく、扉のほうを向いたまま低く告げるその声は、命令というより“念押し”に近い響きを帯びていた。
——余計なことはするな。
——おとなしくしていろ。
そんな言外の意図がにじんでいるように思える。
ルシアーナは、喉元まで込み上げてきた言葉を飲み込んだ。
ここで無意味な反発をしても、何一つ良い結果は生まれない。
「……承知いたしました。特に問題はございません」
控えめに答えると、ヴィクトルはそれ以上何も言わない。
そのまま扉を開け、静かに部屋を出ていった。
パタン、と扉が閉まる音が響き、応接室には、ルシアーナとリディア、そして秘書だけが残される。
リディアは少し険しい表情をしていたが、主人の前で感情的になることはしない。
ルシアーナは大きく息を吐き出すと、気持ちを切り替えるように小さく頷いた。
「……リディア、部屋に戻りましょう。今日のところはもう、用事は済んだから」
その声には、目に見えて疲労が滲んでいた。
自分の人生を“クロウフォード侯爵家”という巨大な存在に捧げる代わりに、フィオレット家は生き延びる。
理屈としては理解していても、心が晴れる話ではない。
今はただ、自室に戻って一人になりたかった。
扉に向かおうとしたとき、秘書が言いにくそうに声をかけてくる。
「フィオレット伯爵家の皆様には、クロウフォード家から後日援助金が振り込まれ、すぐに借金返済ができるよう手配がなされる予定でございます。……ですが、どうか挙式までの間は、あまり目立った行動はなさらないほうが宜しいかと。旦那様のご意向を損なうおそれもございますし、何より、婚姻契約に抵触する可能性もございますので」
その言葉を聞きながら、ルシアーナは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
——最初から、そういう扱い。
あくまでも“従うこと”が前提であり、勝手な振る舞いは許されない。
それを改めて念押しされたのだ。
ルシアーナは小さく会釈し、何も言わずに部屋を後にした。
廊下に出ると、すぐそばにリディアが寄り添う。
その瞳には、言いたいことが山ほどあるのがはっきりと見て取れた。
だが、ここはフィオレット家の館とはいえ、すでにクロウフォード家の使いが出入りしている。
どこで誰が聞いているか分からない以上、軽々しく口を滑らせるわけにはいかない。
リディアはそのことを理解しているからこそ、黙って寄り添ってくれているのだ。
「……ありがとう、リディア。部屋に戻ったら、ゆっくり話しましょう」
そっと耳打ちすると、リディアは静かに頷いた。
こうして、ルシアーナとクロウフォード家の“冷たい契約”は動き出した。
挙式までは、もう一週間しかない。
その短い期間に、ルシアーナが何を思い、どんな決意を固めるのか。
それが、彼女のこれからの人生を大きく左右していくことになるのだろう——
その現実の重さを、ルシアーナはまだ、本当の意味では理解していなかった。
ルシアーナ・フィオレットは、濃紺のドレスを慎重にたたみながら、開け放した窓の外に広がる曇天を見上げた。
その瞳には、諦めと、それを振り払おうとする強い意志が混ざり合っている。
かつて華やかで穏やかだった日々は、家族の財政破綻という現実によって、無残に壊された。
貴族社会において“伯爵家”という地位を持つフィオレット家は、見栄えこそ立派だが、その実情は借金で首が回らない状態だ。
パーティの常連として名を馳せた栄光の日々は遠く、今では屋敷の維持費を捻出するのがやっとで、使用人たちに満足な給金すら支払えない。
ルシアーナが生まれてから、この館はいつも優雅で、どこか温かい空間だった。
母フロランス・フィオレットは気品に満ち、誰からも慕われる女性であり、父エドゥアルド・フィオレットは社交界でも名の通った人格者だった。
——あの悲劇さえ起こらなければ。
そう思うたびに、胸の奥がきゅっと痛む。
フィオレット家が傾いた最大の要因は、父が手を広げすぎた外商との取引の失敗と、その後に続いた詐欺被害だった。
経済的な信用を失ったことで資金繰りは行き詰まり、取引相手や支援者たちは次々と離れていった。
今、屋敷の中に残っているのは、“伯爵家”という肩書きをかろうじて主張する豪奢な調度品だけ。
中身の伴わない虚ろな栄光が、かえって一族の没落を際立たせている。
「——お嬢様。そろそろお時間でございます」
控えめなノックの音とともに、扉の向こうから声がかかる。
声の主は、ルシアーナが子供のころから世話をしてくれている侍女頭、リディアだ。
年の頃は五十手前。
幼い頃からの良き話し相手であり、頼れる保護者でもある彼女は、今も変わらず忠実にフィオレット家へ仕えてくれている。
その表情には、主家の窮状を案じる不安と、それでも支えたいという強い思いが滲んでいた。
「分かっているわ、リディア。……すぐ行くわ」
ルシアーナはそう答えると、指先でドレスの皺を丁寧に整え、深く息を吸い込む。
そして、決意とともに部屋を後にした。
これから向かうのは来客用の応接室。
そこで行われるのは、フィオレット家が選び取った“最後の手段”を、正式に形にする儀式のようなものだ。
屋敷の廊下を歩きながら、ルシアーナは胸の内で状況を整理する。
応接室で待っているはずの人物——それは、侯爵家の当主でありながら、若くして社交界を牛耳る男、ヴィクトル・クロウフォード。
彼との縁談……いや、実際には“契約結婚”と呼ぶほうが正しい。
家名を守るため。
そして、多額の借金を一瞬で清算するために。
ルシアーナは、彼との政略結婚を引き受けることになっていた。
“クロウフォード侯爵家”は、いまや貴族社会でも抜きん出た財力と影響力を誇る名家である。
当主ヴィクトルは、先代から受け継いだ莫大な資産をもとに複数の事業を展開し、その手腕から“天才実業家”と称される青年だった。
だがその一方で、彼の人柄については、“冷酷で冷たい”という噂ばかりが先行している。
社交界の場で見かけても、整った容貌とは裏腹に、近寄りがたい空気をまとっている。
笑顔を振りまくどころか、むしろ他人を拒絶するかのような鋭い眼差しで、気軽に話しかけられる雰囲気ではないという。
だからこそ、彼が何を考えているのか、本当はどんな人物なのか——噂話はあっても、真実を知る者はほとんどいなかった。
そんな男が、なぜ没落寸前の伯爵家の長女との結婚を望んだのか。
その真意を知る者もまた、誰一人としていない。
好意からの婚約申し込みでないことだけは、誰の目にも明らかだ。
多くの人々は、「財政難を抱える伯爵家の“名目”を買ったのだろう」と推測している。
今回の契約条件は、どこまでも冷たいものだった。
「妻となる者に一切の愛情は注がない」
「クロウフォード家のイメージを損ねない程度の振る舞いをする」
「当主の権力や財力に決して口出ししない」
その代わりに、フィオレット家の抱える膨大な借金の全てをクロウフォード家が肩代わりする——それがヴィクトルの提示した条件だ。
その内容はあまりに一方的で、情の欠片もない取り決めに思えた。
今までのルシアーナなら、決して受け入れようとはしなかっただろう。
伯爵家が傾きかけているとはいえ、彼女には矜持があった。
“貴族らしい誇り”を捨ててまで、相手の慰み者のような扱いを受けることなど、本来なら耐えられない。
けれど——。
母と妹の生活を守るために。
最期までフィオレット家の再建に奔走し、無念のうちに亡くなった父のために。
自分には、“家”を存続させる義務がある。
少なくとも、自分の代でフィオレット家の名声が地に落ち、完全に潰えてしまうのだけは避けなければならないのだ。
気づけば、足取りは自然と重くなり、綱渡りでもしているかのように慎重になっていた。
隣を歩くリディアが、心配そうにこちらを見つめる気配がする。
それを感じて、ルシアーナはほんの少しだけ笑みを作った。
「大丈夫よ、リディア。——わたし、ちゃんとやり遂げてみせるわ」
小さく呟いたその声には、怯えよりも強い決意が宿っている。
貴族として生まれたからには、最後まで貴族としての意地を通す——その覚悟が、彼女の瞳に確かに灯っていた。
応接室の扉の前に立つと、執事が無言で扉を開ける。
コツ、コツ、と靴音が硬い床に響き、静かな室内に溶けていった。
部屋の奥には、ソファに深く腰を下ろし、悠然と足を組む男の姿があった。
灰色がかったプラチナブロンドの髪はきっちりと整えられ、その整った横顔は、まるで彫刻のようだ。
ルシアーナがこれから契約を結ぶ相手——ヴィクトル・クロウフォード。
その傍らには、数枚の書類を抱えた秘書らしき男性が控えていた。
「……お初にお目にかかります。クロウフォード侯爵様」
ルシアーナが視線を落とし、慎ましく一礼すると、ヴィクトルは彼女を一瞥しただけで、ほとんど表情を動かさなかった。
それでも、その瞳の奥に、かすかな光の揺れが見えたような気がする。
しかし、彼は形式的な挨拶すら省き、短く告げた。
「お座りください」
丁寧とも無愛想ともつかない、しかし冷ややかな響きを帯びた声。
まるで業務連絡をしているだけのようだ。
本来なら、初対面の婚約者に対して当主としての挨拶があって然るべきだろう。
だが、彼の態度からは、その必要すら感じていない様子がありありと伝わってきた。
噂通りの“冷たい侯爵”——ルシアーナは内心で小さくため息をつく。
とはいえ、今さらその態度に戸惑っている場合ではない。
彼女は自らの意思で、この結婚という形を受け入れなければならないのだ。
ルシアーナがソファに腰を下ろすと、ヴィクトルは秘書に顎をしゃくる。
秘書は持っていた書類をテーブルの上に広げた。細かな文字でびっしりと条項が並んでいる。
その内容を目にするだけで、胸の奥がじわりと冷たくなっていくのを感じた。
「こちらが婚約契約書でございます。ルシアーナ・フィオレット様。改めてご確認いただきたいのですが、今回の結婚は“クロウフォード侯爵家の要求を満たすこと”が第一となっております。愛情を求めないこと、後継ぎを求めないこと、婚姻関係によって得られる社会的信用をお互いに利用すること……主な条件はこのあたりに明記されております」
秘書が淡々と説明する。
ルシアーナはすでに聞いている内容だと分かっていながらも、一度だけ静かに頷いた。
文字として突きつけられることで、その非情さがあらためて胸に迫る。
そして、その中でもひときわ重く感じられる一文があった。
——「双方の合意があれば、いつでも婚姻の解消は可能とする。ただし、契約締結後、フィオレット家の財政はクロウフォード家が管理し、離縁の時点でフィオレット家に返済不能な負債が残っている場合、伯爵家の財産一切をクロウフォード家が接収するものとする」——
無意識に喉が鳴った。
つまり、この婚姻によって一度は借金が清算されたとしても、離縁の時点で再び負債が生じていれば、そのときはすべてを失う可能性があるということだ。
本当の意味で、再起不能になってしまうかもしれない。
(……もっとも、だからこそ今、わたしが“生贄”になることでしか、家を守る術がないのかもしれないわね)
心の中で苦く自嘲する。
少し肩が落ちそうになったが、ルシアーナはすぐに顔を上げた。
ここで弱音を吐くわけにはいかない。
今は、フィオレット家の当主代理として、気丈に振る舞うしかないのだ。
「契約書の内容は理解しました。……私どもには、これ以外に道がないことも重々承知しております。ですから、ここに記名し、婚姻を結ぶことに異論はございません」
ルシアーナが固い声でそう告げると、秘書はいつもの調子で羽ペンを差し出した。
彼女は静かにペンを受け取り、指定された欄に名前を書く。
ペン先が紙をなぞる音が、妙にはっきりと耳に残った。
記名を終え、ペンを置く。
おそるおそる顔を上げると、ヴィクトルは興味なさげな視線を一瞬だけ向け、すぐに別の書類へと視線を移してしまった。
そこに感情の色はほとんどない。
ただ、「決められた手続きを淡々とこなしている」という印象だけが残る。
その冷たさに、ルシアーナの胸はわずかにちくりと痛んだ。
「ヴィクトル様も、ご署名をお願いいたします」
秘書の言葉に、彼は無言のまま手を伸ばし、書類へ素早く署名をする。
ためらいなど微塵もない筆致。その様子は、やはりこの婚姻を“ビジネス契約の一つ”としか考えていないことを物語っていた。
もちろん、それを責めるつもりはない。
この結婚は、互いに打算の上に成り立つものだ。感情を挟まない彼の態度は、ある意味で筋が通っている。
——こうして、婚約は正式に成立した。
あとは一週間後に行われる結婚式を待つだけだ。
華々しい宮廷式ではなく、ごく内輪で執り行われる簡素な挙式になると聞いている。
これもまた、クロウフォード家からの指示だった。
世間体のために必要最低限の儀式だけは行うが、大々的に披露するつもりはない——そういう意図なのだろう。
とはいえ、ルシアーナ自身も過度な注目を浴びたくはなかったので、その点だけは素直にありがたいと思えた。
「では、これにて契約は成立です。……おめでとうございます、と申し上げるべきかは悩ましいところですが」
秘書は皮肉とも冗談ともつかない口調で言い、軽く会釈すると、手早く書類をまとめ始めた。
その背後で、ヴィクトルは黙ったまま立ち上がる。
ルシアーナのほうを振り返ることもなく、そのまま部屋を出ようとした。
さすがのルシアーナも、胸の奥に小さな戸惑いが生まれる。
だが、もとより彼に愛想を期待していたわけでもない。
引き止める理由も、言葉も持ち合わせていなかった。
しかし、扉に手をかけたところで、ヴィクトルが唐突に口を開く。
「挙式の日まで、あなたは伯爵家で待機していてください。こちらから連絡が行くまでは、この屋敷にいてもらう。……何か問題があるなら言いなさい」
振り返ることなく、扉のほうを向いたまま低く告げるその声は、命令というより“念押し”に近い響きを帯びていた。
——余計なことはするな。
——おとなしくしていろ。
そんな言外の意図がにじんでいるように思える。
ルシアーナは、喉元まで込み上げてきた言葉を飲み込んだ。
ここで無意味な反発をしても、何一つ良い結果は生まれない。
「……承知いたしました。特に問題はございません」
控えめに答えると、ヴィクトルはそれ以上何も言わない。
そのまま扉を開け、静かに部屋を出ていった。
パタン、と扉が閉まる音が響き、応接室には、ルシアーナとリディア、そして秘書だけが残される。
リディアは少し険しい表情をしていたが、主人の前で感情的になることはしない。
ルシアーナは大きく息を吐き出すと、気持ちを切り替えるように小さく頷いた。
「……リディア、部屋に戻りましょう。今日のところはもう、用事は済んだから」
その声には、目に見えて疲労が滲んでいた。
自分の人生を“クロウフォード侯爵家”という巨大な存在に捧げる代わりに、フィオレット家は生き延びる。
理屈としては理解していても、心が晴れる話ではない。
今はただ、自室に戻って一人になりたかった。
扉に向かおうとしたとき、秘書が言いにくそうに声をかけてくる。
「フィオレット伯爵家の皆様には、クロウフォード家から後日援助金が振り込まれ、すぐに借金返済ができるよう手配がなされる予定でございます。……ですが、どうか挙式までの間は、あまり目立った行動はなさらないほうが宜しいかと。旦那様のご意向を損なうおそれもございますし、何より、婚姻契約に抵触する可能性もございますので」
その言葉を聞きながら、ルシアーナは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
——最初から、そういう扱い。
あくまでも“従うこと”が前提であり、勝手な振る舞いは許されない。
それを改めて念押しされたのだ。
ルシアーナは小さく会釈し、何も言わずに部屋を後にした。
廊下に出ると、すぐそばにリディアが寄り添う。
その瞳には、言いたいことが山ほどあるのがはっきりと見て取れた。
だが、ここはフィオレット家の館とはいえ、すでにクロウフォード家の使いが出入りしている。
どこで誰が聞いているか分からない以上、軽々しく口を滑らせるわけにはいかない。
リディアはそのことを理解しているからこそ、黙って寄り添ってくれているのだ。
「……ありがとう、リディア。部屋に戻ったら、ゆっくり話しましょう」
そっと耳打ちすると、リディアは静かに頷いた。
こうして、ルシアーナとクロウフォード家の“冷たい契約”は動き出した。
挙式までは、もう一週間しかない。
その短い期間に、ルシアーナが何を思い、どんな決意を固めるのか。
それが、彼女のこれからの人生を大きく左右していくことになるのだろう——
その現実の重さを、ルシアーナはまだ、本当の意味では理解していなかった。
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