捨てられ令嬢シルフィ、真実の愛を手に入れるまで

鍛高譚

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第7話 王宮の密議と、微笑みの未来へ

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 冬の朝の空気は、肺の奥まで凍てつかせるように冷たかった。

 シルフィは、白く煙る吐息をひとつ吐いてから、指先を土に差し込む。
 侯爵家の温室は、外の冷気とは別世界のようにほんのりと暖かく、ガラス越しに差し込む朝日が、眠たげな花々をやさしく照らしていた。

「……うん、あなたはもう少し水を少なめにね」

 指先に伝わる土の湿り気を確かめながら、シルフィは自分に言い聞かせるように小さく呟く。
 水差しを傾ける角度ひとつにも意識を集中させていると、胸の中のざわめきが、すこしだけ遠のいていく気がした。

 ここ数週間は、本当に息つく暇もないほどだった。

 ――かつての婚約者ラングレーとの“再協力”。
 ――エリーザの背後に蠢く“反王家派閥”の影。
 ――そして、“影”と名乗る謎の人物からの密かな指示。

 ほんの少し前まで、「捨てられた侯爵令嬢」として静かに余生をやり直すつもりだった自分が、いまは王国の命運に関わる陰謀のただ中にいる。

(……だからといって、逃げるつもりはないけれど)

 土に触れていた指先が、じん、と冷たく痺れた。
 その感覚に現実へ引き戻され、シルフィは立ち上がる。

 温室の扉を開け放つと、きりりとした冬の朝の空気が一気に流れ込んできた。
 頬を撫でる冷たさは、眠気だけでなく、心の甘さまで削ぎ落としてくれるようだ。

 ガラス越しに揺れる花々を見つめながら、ふと、ぽつりと声が漏れた。

「……あの人、どうしているかしら」

 浮かんだのは、金髪の公爵家嫡男――ではない。

 草の匂いと陽光が似合う、あの穏やかな青年。
 カリブ・フェルナンド伯爵家の若き当主だ。

 彼はいま、領地に戻って薬草研究に没頭している。
 本来なら、自分も一緒にハーブや食用花の新しい活用法を試しながら、のんびりとした日々を過ごしているはずだった。

(それなのに、今の私は、王都に足止めされたまま……)

 エリーザをめぐる陰謀が表面化したことで、シルフィは王都を離れられなくなってしまった。
 事情を説明したとき、カリブは不満ひとつ見せず、むしろ真剣な眼差しで言ってくれた。

『王国が危機に陥るかもしれないのなら、僕もできる限り協力します。
 ……でも、まずはシルフィ様ご自身の身を守ってくださいね』

 そして別れ際、少しだけ照れたような、けれど真っすぐな笑顔でこう続けたのだ。

『あなたの中に眠る力を、どうか信じてください。
 シルフィ様には、まだまだ可能性があると、僕は思っています』

 その言葉は、今でも胸の奥で静かに灯り続けている。

 ラングレーに裏切られたことで、すっかり価値のない人間だと思い込んでいた自分に、真正面から「可能性がある」と言ってくれた人。
 彼の優しさに触れるたび、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。

(……こんなときに、恋なんてしている余裕はないはずなのに)

 苦笑したくなる。
 けれど、その温かさがあるからこそ、今こうして立っていられるのも事実だった。

 もしエリーザの企みが成功すれば、公爵家だけでなく、カリブの領地も巻き込まれる。
 ハーブや食用花のプロジェクトどころではなくなってしまうだろう。

(それだけは、絶対にさせない)

 シルフィは、ぎゅっと胸元を握りしめた。
 そのとき、温室の外から慌ただしい足音が近づいてくる。

「お嬢様!」

 扉からひょこっと顔を出したのは、いつもの侍女ステラだ。
 頬を上気させ、息を弾ませながら駆け込んでくる。

「そんなに慌ててどうしたの?」

「先ほど、“影”様から伝令がありました! ラングレー様と公爵家当主様が、王宮の小会議室で密談を行うそうです。そして、エリーザ様の怪しい動きを記録した書類を確認されるとのことで……シルフィお嬢様にも、ぜひ同席してほしいと!」

「王宮で……密談?」

 心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

 王宮という公の場で、エリーザに関する疑惑が話題になる。
 それはつまり、事態が“水面下の噂”ではなく、“公式の議題”へと変わりつつある、ということだ。

「わかったわ。すぐ支度するわね。ステラ、あなたも一緒に来てくれる?」

「もちろんでございます! ただ……王宮の中には監視の目も多うございますし、入館手続きも厳格です。“影”様が手配してくださっているとはいえ、緊張いたしますわ……」

「ええ、私もよ。でも、ここで怯えていたら、何も変えられないわ」

 シルフィは温室を後にしながら、決意を固めるように小さく頷いた。



 王宮へ向かう馬車の揺れは、いつもより少しだけ重く感じられた。

 かつてラングレーの婚約者だった頃は、「いずれ頻繁に出入りすることになるのだ」と当然のように思っていた場所。
 だが今は、そこが“憧れの舞台”ではなく、“危機を食い止める戦場”として目の前に迫っている。

 門衛は、“公爵家の極秘の客人”として用意された書類を念入りに確認したあと、慎重にシルフィたちを通す。
 目立たぬよう、厚手のコートとつばの広い帽子で顔を半分隠し、ステラも同じような服装で後ろに続く。

「なんだか……潜入任務みたいですね、お嬢様」

「緊張を和らげるための冗談なら歓迎するけれど、できればこれ以上ドキドキさせないでほしいわ」

「も、申し訳ありません!」

 小声で囁き合いながら、硬い石畳の廊下を進んでいく。
 目に映る王宮の景色は、昔と変わらず荘厳で、どこもかしこも輝いて見えるのに――そこに抱く感情は、あの頃とはまるで違っていた。

(あの時の私は、ただ“公爵夫人になる”ことだけを見ていた。
 でも今は、この場所で“国を守るための一手”を打たなければならない)

 案内役の兵士に連れられて辿り着いたのは、人通りの少ない廊下の突き当たりにある、小さな会議室だった。
 扉を開けると、少し薄暗い室内に三つの人影が見える。

 ラングレー。
 その父であり、公爵家当主。
 そして、灰色のフードを深く被った“影”。

「……シルフィ嬢、よく来てくれたな」

 最初に口を開いたのは、公爵家当主だった。

 堂々とした体格に立派な髭、威厳を湛えた顔立ち。
 かつて、「ラングレーにはもっと華やかな花がふさわしい」と告げ、シルフィを“役不足”と評した男。

 その彼が、今はどこか申し訳なさそうな色を浮かべている。

「このような形で、再び顔を合わせるとは思わなかった。……シルフィ嬢、私はお前に酷い仕打ちをした。それは、今になって痛感している」

 重く、低い声だった。

「だが、今は王国の未来がかかっている。どうか、その力を――この老いぼれと、愚かな息子のためでなく、この国のために貸してほしい」

 頭を下げられた瞬間、胸のどこかがきしりと鳴った。

 ずっと欲しかった言葉。
 けれど、今さら言われても遅すぎる謝罪。

 感情が喉元まで込み上げてきそうになるのを、シルフィはぐっとこらえた。

「……状況は、ラングレー様からもお聞きしています。
 詳しいお話を伺わせてください」

 努めて淡々と答えると、公爵家当主は安堵したように息を吐き、テーブルの上に広げられた帳簿と書状の束を指し示した。

「これらは、公爵家の領地における取引記録と財政支出の詳細だ。ここ数年、とくにエリーザ嬢が“公爵家の新しい婚約者”として出入りするようになってからのものを抜き出している」

 ラングレーが、数枚の書類を取り上げてシルフィの前に差し出す。

「名目上は“領地の発展のための投資”や“社交費”として記載されている。だが、その相手先を“影”の協力で洗ったところ――」

 ラングレーは、苦々しげに唇を噛む。

「――その一部が、王家に批判的な派閥や、武器を扱う商会と繋がっていることが分かった」

「武器、ですって……?」

 シルフィは、思わず書類に目を走らせた。

 表向きは農具や金属加工品の取引。
 しかし、細かな記述を辿っていくと、その延長線上に“防具”“軍需品”といった言葉が見え隠れしている。

「表向きには、どこにでもある取引のように装っている。だが、金の流れを追えば、徐々に“戦の準備”を匂わせる線に行き着く。……エリーザがすべてを理解してやっているのか、それとも背後の者に操られているだけなのかまでは断定できないが」

 公爵家当主の顔には、重苦しい影が落ちていた。

「このままでは、公爵家が“反王家派閥に武器を流していた”という汚名を着せられかねん。最悪の場合、公爵家の断絶では済まず、王国全体が混乱に陥るだろう」

 シルフィは静かに息を呑んだ。

 婚約破棄のとき、エリーザはただの“自分のライバル”だと思っていた。
 けれど今、彼女は――王国を揺るがす火種を抱えた存在になっている。

「ひとまず、これらの証拠を持って王家や貴族議会に訴えることはできる。だが、敵側も黙ってはいないだろう」

 “影”が、卓上の書類を見下ろしながら口を開いた。

「彼らは必ず、“これは公爵家を貶めるための捏造だ”と反論してくる。なにせ、エリーザは社交界では“新星”と呼ばれ、多くの支持を集めている。正面からぶつかれば、こちらが悪者にされかねない」

 そこで、“影”の視線がシルフィへと向けられる。

「だからこそ、シルフィ。あなたの存在が必要なのだ」

 シルフィは、無意識に背筋を伸ばした。
 “必要”――その言葉は甘く響くが、今の状況では決して軽くない。

「あなたは“理不尽な婚約破棄の被害者”であり、なおかつ侯爵家令嬢として社交界の一定の信頼と人脈を持っている。あなたが事実を語れば、“個人的な恨み”として片付けられる危険性もあるが――同時に、“エリーザの綺麗な顔だけでは見えなかった部分”に疑問を投げかけるきっかけにもなり得る」

 公爵家当主も、言いづらそうにしながら続ける。

「かつて私は、お前を“地味で魅力のない娘”と見なしていた。だが今は、その慎み深さと堅実さこそが、公爵家を救う鍵になるのだと痛感している。……皮肉な話だがな」

(皮肉なのは、こっちの台詞です)

 喉の奥まで出かかった言葉を、シルフィはぐっと飲み込んだ。

 自分を切り捨てた人たちが、今になって「必要だ」と言ってくる。
 以前なら、ひどく惨めに感じていたかもしれない。

 けれど今は――違う。

(私はもう、公爵家のために生きるつもりはない。
 それでも、私が動くことで守れるものがあるなら、迷っている場合じゃない)

 カリブの領地。
 新しいハーブの畑。
 そこで笑う人たちの未来。

 それを守るためなら、この“皮肉な展開”も利用してみせる。

「……わかりました」

 シルフィはゆっくりと顔を上げた。

「私が動くことで、どれほど事態を変えられるかは分かりません。
 けれど、自分にできる限りのことはやってみます。社交界の友人たちにも、少しずつ事情を伝えていきます」

「ありがとう、シルフィ」

 ラングレーが、小さく息を吐くようにそう呟いた。
 その声に、かつての甘い面影はかすかに残っている。だが、胸の奥はもう揺れなかった。

(もう、あなたに恋をすることはないわ)

 心の中でだけ、静かにそう告げる。

 ちょうどそのとき――扉の外から、控えめなノックの音が響いた。

「……失礼いたします、お嬢様!」

 ステラが小走りに入ってきて、緊迫した面持ちで告げる。

「近くの廊下を、エリーザ様と思しき一行が通っているとのことです。噂では、この時間帯に王宮の高位の方とご面会されるとか……」

 室内の空気が、一気に張りつめた。

「まずいな……」

 ラングレーが、眉間に皺を寄せる。

「ここで僕たちが集まっていると知れれば、必ず疑われる。父上、書類は一旦――」

「私が預かろう。すぐに別の場所に移して厳重に保管する」

 公爵家当主は素早く帳簿をまとめ、革の鞄にしまい込んだ。

「シルフィ嬢、ここは一度離れた方がいい。廊下でエリーザと鉢合わせでもしたら、厄介なことになる」

「……わかりました」

 シルフィが頷き、ステラとともに身支度を整える。

 部屋を出る直前、“影”が一歩近づいてきた。

「あなたが社交界で起こす小さな波は、やがて大きなうねりとなるでしょう。
 カリブ伯爵家との繋がりも、いずれ重要な意味を持つはずです」

 フードの奥から聞こえる声は、不思議と穏やかだった。

「どうか無理はせず、慎重に。それでも――あなたの未来は、あなた自身の手で守りなさい」

「……はい」

 短く返事をして、シルフィは部屋を後にする。

 王宮の廊下には、わずかな緊張のざわめきが漂っていた。
 衛兵たちが普段より多く配置され、どこか慌ただしい。

 遠くから、聞き慣れた笑い声がかすかに響いてくる。
 きっと、エリーザのものだ。

 シルフィは帽子を深く被り、ラングレーたちとは別方向の廊下へと足を速めた。
 背中に何かの視線を感じたような気がしたが、振り返ることはしない。

(ここはもう、“舞踏会のための場所”じゃない。
 今の王宮は、静かに火薬が積み上げられている、危うい砦のようなものだわ)



 屋敷へ戻る馬車の中、シルフィは揺れに身を預けながら、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めていた。

 王宮の塔が遠ざかり、灰色の空の下で、街並みが少しずつ小さくなっていく。

「……真実の愛、ね」

 ふと、口からこぼれた言葉に、自分で少し驚く。

 かつてのシルフィにとって“愛”とは、ラングレーとの華やかな結婚生活のことだった。
 公爵夫人として賛美され、誰からも羨ましがられる未来。

 だが今は、それがどれほど“薄っぺらい夢”だったか、よく分かる。

(愛って、本当は――)

 誰かに従い続けることでも。
 誰かの飾りとして綺麗に微笑むことでもない。

 互いを尊重し、支え合い、困難に立ち向かおうとする意思。
 それがあって初めて、絆は“真実”に近づいていく。

 そう気づかせてくれたのは、カリブのささやかな言葉であり、ステラや使用人たちのさりげない優しさであり――何より、自分自身が体験した痛みと、その中で見つけた強さだった。

「お嬢様?」

 向かいの席から、ステラが心配そうに覗き込んでくる。

「お顔色が……少しお疲れのように見えまして」

「大丈夫。ただ、考え事をしていただけよ」

 シルフィは微笑んでから、窓の外を指さした。

 空から、細かい雪がちらちらと舞い始めている。
 まだ積もるほどではないが、冬が本気を出し始めた合図のようだった。

「ねえ、ステラ」

「はい?」

「私……やるわ」

 シルフィは、そっと胸元に手を当てる。

「もう、誰かに振り回されるだけの人生は、嫌。
 自分の力で、愛も未来も掴み取りたい。
 そして、この国を守りたいの。カリブ様との約束も、絶対に無駄にはしたくないわ」

 その言葉に、ステラはぱっと顔を輝かせた。

「……はい、お嬢様! 私も微力ながら、精一杯お支えいたします!」

「心強いわね。ふふ」

 馬車が大通りへ合流すると、道端の木々にも、うっすらと白い化粧が施されていく。
 世界が静かに色を変えていくように、シルフィの心もまた、少しずつ新しい色を帯び始めていた。

 婚約破棄から始まった苦難の道。
 あのときは絶望の淵だと思っていた場所が、今振り返れば“本当の自分を取り戻すための助走路”だったとさえ思える。

(私は、もう二度と、あの日のようにうずくまったまま泣いたりしない)

 窓の外、遠くに見える城壁が、雪の白に溶け込んでいく。
 空を見上げると、舞い落ちる雪片がひとつ、窓ガラスに張りついた。

 シルフィは、その小さな結晶を見つめながら、静かに目を閉じる。

 心に浮かぶのは、あの穏やかな笑顔と、あたたかな声。

『あなたには、まだまだ可能性がある』

 その言葉を胸に抱きしめ、シルフィはそっと微笑んだ。

(ええ、きっと――)

 本物の光を手にするために。
 偽りの輝きではなく、揺るがない“真実の愛”と“自分の未来”を掴むために。

 微笑みの未来へと歩き出す準備は、もうとっくに整っているのだと、シルフィはようやく気づいたのだった。
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