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第一話
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突然の縁談と、白い結婚
王都イル=フィーレにほど近い貴族地区。その一角に、由緒正しき侯爵家――リシェール家がある。
私はその家の一人娘、エマール・リシェール。生まれながらにして“名門侯爵家の令嬢”という肩書きを背負ってはいるものの、どちらかと言えば自由を好む性格で、幼いころから堅苦しい礼儀作法や格式張った暮らしに窮屈さを感じていた。
もちろん、親や周囲の期待を裏切らない程度には社交界に顔を出してきたし、ドレスもきちんと着こなすよう心掛けてきたつもりだ。けれど、本音を言えば——
(いつか自分の好きなことに専念できる日がくればいいのに)
これが、私の本心だった。
“好きなこと”とは何か。それは“手芸”であり、“ものづくり”だった。貴族の女の子なら、花嫁修業として刺繍や縫い物を嗜む人は多い。けれど私の場合、その域を大きく超えている。素敵なレースや色とりどりの糸をこだわり抜いて仕入れ、凝ったモチーフのアクセサリーやドレスの装飾を作り出す。いつしかそれは私の密かな「生きがい」になっていた。
ところが、貴族令嬢があまり表立って手芸ビジネスを行うのは“品位に欠ける”と見なされることも多い。ましてや家の名を背負った令嬢の行動は、とかく周囲にとやかく言われがちで、自由にはほど遠かった。
私は自分の才覚を試してみたいのに、それを許す雰囲気はあまりない。
そんな不満を胸の奥底に抱え続けていた、そんなある日のこと——。
「エマール、お前は近々、公爵家に嫁ぐことになった」
父であるリシェール侯爵が、執務室に呼びつけた私に告げたのは、青天の霹靂と言っても差し支えないほど驚きの一言だった。
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、間の抜けた声を出してしまう。
しかし、父の表情はまるで冗談を言うような柔らかさがない。本気そのものだ。
「グランツ公爵家と縁談がまとまったのだ。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう? 現当主であるレオン・グランツ公爵が、正妻を求めているそうだ」
「グランツ公爵、ですか……」
王国内でも屈指の名門中の名門。地位も資産も莫大で、侯爵家であるリシェール家などよりよほど高位にある。
そんな家の公爵と、どうして私が縁組を結ぶことになるのか。にわかには理解できず、脳が混乱していると、父が淡々と言葉を続けた。
「グランツ公爵は、いわゆる“白い結婚”を希望しているそうだ。形だけの夫婦となり、当人同士は干渉しない——そういった条件であれば、娘を嫁がせるのに抵抗はないと、向こうも話を持ちかけてきた。リシェール家としても、名門グランツ家との縁組は悪い話ではない」
「白い結婚、ですか……」
耳慣れない言葉ではなかった。貴族社会では珍しくない形式の一つで、要するに“夫婦でありながら関係を持たない”“互いの自由を尊重する”結婚のことを指す。
愛のない政略結婚において、形だけの夫婦を演じるケースは多いと聞くが、まさか自分がその当事者になるとは。
しかし、妙に心がざわつくと同時に、微かな安堵を覚えている自分にも気づいた。
(本当にただの政略結婚だったら……もっと面倒なことになると思っていたけど)
干渉しない形だけの結婚であれば、私の自由が案外保たれるかもしれない。下手に“愛”を押し付けられ、妻としての窮屈なしきたりを課されるより、ずっと気が楽だ。
もちろん、貴族社会では公爵夫人としての顔を保たなくてはならない場面はある。けれど、それさえこなせばレオン・グランツ公爵は私を束縛しないのだろうか。
そんな都合のいい話があるものか、と疑う気持ちもある。しかし、父の話ぶりから察するに、グランツ公爵当人が「家を安定させるために妻を迎えたいが、深く干渉するつもりはない」と述べているらしい。
私は怖ず怖ずと、それでもどこか浮き立つ心を隠せずに尋ねた。
「……本当に、私でいいんでしょうか?」
「向こうがそう望んでいる。リシェール家の名も、それなりに歴史と誇りがある。何より、公爵様にしてみれば、“夫婦間の感情を必要としない相手”を探していたのかもしれん。お前ならさほど抵抗なく、形だけの結婚を受け入れるだろう——そう思ったのだろうな」
父が少々自嘲気味にそう言うのも無理はない。私は母親にも「あなたはもう少し情緒を表に出してもいいのよ」と呆れられるほど、結婚に対して夢見がちな乙女心というものが薄かった。
いや、正確には“愛”のない結婚はまっぴら御免だけれど、貴族の女としていずれは家のために嫁がなくてはならない宿命を受け入れざるを得ない……と冷めた目で見ていた、と言ったほうが近い。
だからこそ、白い結婚というのなら、自分にとっては最善の選択肢ではないか。
私は心の奥に芽生えた“妙な解放感”を感じながら、父に向かって静かにうなずいた。
「わかりました。そのお話、お受けいたします」
こうして私は、形だけの結婚相手となるレオン・グランツ公爵と婚約することを決めた。
このときはまだ、まさか“白いはずの結婚”に綻びが生じるとは、夢にも思っていなかったのだけれど。
王都イル=フィーレにほど近い貴族地区。その一角に、由緒正しき侯爵家――リシェール家がある。
私はその家の一人娘、エマール・リシェール。生まれながらにして“名門侯爵家の令嬢”という肩書きを背負ってはいるものの、どちらかと言えば自由を好む性格で、幼いころから堅苦しい礼儀作法や格式張った暮らしに窮屈さを感じていた。
もちろん、親や周囲の期待を裏切らない程度には社交界に顔を出してきたし、ドレスもきちんと着こなすよう心掛けてきたつもりだ。けれど、本音を言えば——
(いつか自分の好きなことに専念できる日がくればいいのに)
これが、私の本心だった。
“好きなこと”とは何か。それは“手芸”であり、“ものづくり”だった。貴族の女の子なら、花嫁修業として刺繍や縫い物を嗜む人は多い。けれど私の場合、その域を大きく超えている。素敵なレースや色とりどりの糸をこだわり抜いて仕入れ、凝ったモチーフのアクセサリーやドレスの装飾を作り出す。いつしかそれは私の密かな「生きがい」になっていた。
ところが、貴族令嬢があまり表立って手芸ビジネスを行うのは“品位に欠ける”と見なされることも多い。ましてや家の名を背負った令嬢の行動は、とかく周囲にとやかく言われがちで、自由にはほど遠かった。
私は自分の才覚を試してみたいのに、それを許す雰囲気はあまりない。
そんな不満を胸の奥底に抱え続けていた、そんなある日のこと——。
「エマール、お前は近々、公爵家に嫁ぐことになった」
父であるリシェール侯爵が、執務室に呼びつけた私に告げたのは、青天の霹靂と言っても差し支えないほど驚きの一言だった。
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、間の抜けた声を出してしまう。
しかし、父の表情はまるで冗談を言うような柔らかさがない。本気そのものだ。
「グランツ公爵家と縁談がまとまったのだ。お前も名前くらいは聞いたことがあるだろう? 現当主であるレオン・グランツ公爵が、正妻を求めているそうだ」
「グランツ公爵、ですか……」
王国内でも屈指の名門中の名門。地位も資産も莫大で、侯爵家であるリシェール家などよりよほど高位にある。
そんな家の公爵と、どうして私が縁組を結ぶことになるのか。にわかには理解できず、脳が混乱していると、父が淡々と言葉を続けた。
「グランツ公爵は、いわゆる“白い結婚”を希望しているそうだ。形だけの夫婦となり、当人同士は干渉しない——そういった条件であれば、娘を嫁がせるのに抵抗はないと、向こうも話を持ちかけてきた。リシェール家としても、名門グランツ家との縁組は悪い話ではない」
「白い結婚、ですか……」
耳慣れない言葉ではなかった。貴族社会では珍しくない形式の一つで、要するに“夫婦でありながら関係を持たない”“互いの自由を尊重する”結婚のことを指す。
愛のない政略結婚において、形だけの夫婦を演じるケースは多いと聞くが、まさか自分がその当事者になるとは。
しかし、妙に心がざわつくと同時に、微かな安堵を覚えている自分にも気づいた。
(本当にただの政略結婚だったら……もっと面倒なことになると思っていたけど)
干渉しない形だけの結婚であれば、私の自由が案外保たれるかもしれない。下手に“愛”を押し付けられ、妻としての窮屈なしきたりを課されるより、ずっと気が楽だ。
もちろん、貴族社会では公爵夫人としての顔を保たなくてはならない場面はある。けれど、それさえこなせばレオン・グランツ公爵は私を束縛しないのだろうか。
そんな都合のいい話があるものか、と疑う気持ちもある。しかし、父の話ぶりから察するに、グランツ公爵当人が「家を安定させるために妻を迎えたいが、深く干渉するつもりはない」と述べているらしい。
私は怖ず怖ずと、それでもどこか浮き立つ心を隠せずに尋ねた。
「……本当に、私でいいんでしょうか?」
「向こうがそう望んでいる。リシェール家の名も、それなりに歴史と誇りがある。何より、公爵様にしてみれば、“夫婦間の感情を必要としない相手”を探していたのかもしれん。お前ならさほど抵抗なく、形だけの結婚を受け入れるだろう——そう思ったのだろうな」
父が少々自嘲気味にそう言うのも無理はない。私は母親にも「あなたはもう少し情緒を表に出してもいいのよ」と呆れられるほど、結婚に対して夢見がちな乙女心というものが薄かった。
いや、正確には“愛”のない結婚はまっぴら御免だけれど、貴族の女としていずれは家のために嫁がなくてはならない宿命を受け入れざるを得ない……と冷めた目で見ていた、と言ったほうが近い。
だからこそ、白い結婚というのなら、自分にとっては最善の選択肢ではないか。
私は心の奥に芽生えた“妙な解放感”を感じながら、父に向かって静かにうなずいた。
「わかりました。そのお話、お受けいたします」
こうして私は、形だけの結婚相手となるレオン・グランツ公爵と婚約することを決めた。
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