婚約破棄された幼い公爵令嬢、目覚めたら絶世の美女でした

鍛高譚

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3章

3-3

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 それから数日後の昼下がり。王都の貴族街にある豪奢な屋敷の一つで、アメリアが主催するお茶会が開かれるという噂が広まった。招待状を受け取った貴族令嬢たちの中には、招かれたところで何をされるか分からないと怖れる者もいたが、社交界に名を連ねる以上、主催者を無視できないという考えの者も少なくない。

 実は、その招待状はシルフィーネにも届いていた。しかも、まるで「わざわざ子供を招いてあげるわ」と言わんばかりの、高慢な文面が記されていたという。明らかな挑発である。しかし、公爵家としては、これを無視するかどうか悩ましいところだった。



「どう考えても、わざわざ私を呼んで、何かしようとしているとしか思えませんわ」



 シルフィーネは自室で招待状を広げながら、苦笑交じりに言う。そこには金文字で彼女の名が刻まれている。日時は三日後の午後、場所はローゼリック伯爵家の離れだという。

 ちなみに、離れというのは庭を挟んだ場所に建てられた小ぶりな洋館で、アメリアの私室もあるらしい。わざわざそこを使うお茶会というだけで、企みの匂いが漂う。



「行かない方がいいのでは……と、個人的には思いますけれど」



 傍らに立つフロランス夫人が、心配そうに声をかける。彼女はシルフィーネが幼い頃から世話をしてきた乳母であり、娘同然に慕っている。先日の審議の様子や、アメリアの明らかな敵意を見れば、危険しか感じないというのも無理はない。

 しかし、シルフィーネはわずかに困ったような笑みを浮かべた。



「ええ、私もあまり行きたいとは思わないのです。でも、公の場で招待を断れば、あちらに“エルフィンベルク家はやましいことがあるのでは”と吹聴される可能性もあります。何より、あのアメリア様がおとなしく私を招くなんて、きっと裏がある。むしろ好都合かもしれません」



 別の言い方をすれば、アメリアが仕掛けてくるからこそ、その場で証拠を掴むチャンスがあるかもしれない、というわけだ。それに、エルフィンベルク家は公的な審議で有利に立ちかけているとはいえ、まだ決着には遠い。むしろ今こそ、敵を観察しに行く機会でもある。

 もちろん、無防備に乗り込めば危険がつきまとうが、ルドルフ公爵とマリア夫人も、この誘いを利用すべきだと慎重に検討した結果、「護衛をつけつつ、シルフィーネを参加させる」という方針を決めた。



(アメリア様が、私に何を仕掛けるのか……それとも、ただの嫌がらせかしら。どちらにしても、相手の出方を見極める大切な場になるはず)



 シルフィーネは、そう決意を新たにしながら、胸元で招待状をそっと握りしめるのだった。

 三日後の昼過ぎ。ローゼリック伯爵家の離れで催されるお茶会には、十数名の貴族令嬢が集まると見られていた。最初はシルフィーネを含めて数名しか招かれない予定だったが、アメリアが後になって「もっと多くの方々にも楽しんでいただきたい」と追加で招待を広げたのだという。

 しかし、それが果たして“好意”によるものなのか、それとも“より多くの目撃者を呼び集める”意図なのかは、誰にも分からない。



 エルフィンベルク公爵家からはシルフィーネと、その護衛として数名の騎士が同行した。ただし、表向きには「公爵令嬢の付き人」という形で、あまり目立たないように手配されている。フロランス夫人も自ら従者として付き添いたいと申し出たが、今回は「大人たちが同行すると、お茶会の雰囲気が壊れてしまう」というアメリア側の(もっともらしい)言い分により断られていた。

 それでも、シルフィーネは淡い薄紫色のドレスに身を包み、髪をゆるやかに結い上げて気品を漂わせている。その幼い外見からは想像しにくいほど、落ち着いた雰囲気が漂っていた。



「さあ、お入りくださいませ。アメリアお嬢様がお待ちですわ」



 扉を開けてシルフィーネを出迎えたのは、ローゼリック伯爵家の女中頭らしき初老の女性だった。顔には笑みを浮かべているが、目はどこか警戒しているようでもある。

 離れの中へ足を踏み入れると、すぐに広いサロンのような部屋が目に入る。天井は高く、壁には淡い花柄のクロスが貼られており、豪奢なシャンデリアが輝いている。中央には丸いテーブルがいくつも並べられ、菓子や果物、紅茶セットが所狭しと並んでいた。既に何人もの貴族令嬢が談笑を始めており、その華やかな姿は一見すると和やかなお茶会の景色そのものだ。



「ごきげんよう、シルフィーネ様。ようこそお越しくださいましたわ」



 不意に、艶のある声が聞こえた。サロンの奥で、アメリア・フォン・ローゼリックがシルフィーネを迎えるように立っている。やわらかな若草色のドレスを身にまとい、胸元には大粒の宝石がきらめいている。彼女は微笑みを浮かべながらも、その目は一瞬だけ冷酷な光を帯びた。



「こんにちは、アメリア様。ご招待いただきありがとうございます」



 シルフィーネも笑みを返しながら、ごく自然に会釈する。その礼儀正しい振る舞いに、周囲の令嬢たちは「やっぱりエルフィンベルク家のお嬢様はしっかりしているわね」と小声で囁き合う。だが、アメリアにしてみれば、それが余計に面白くないのだろう――微かな苛立ちを隠すように、グラスを手に取りシャンパンを一口含んだ。



「あなたが来てくれたことを嬉しく思いますわ。あの審議で嫌な思いをしたでしょう? 少しでも気分転換になればいいのだけれど……子供にとっては、こういう場も退屈かしら?」



 まるで悪意を塗した棘のある言葉。しかし、シルフィーネは軽く微笑んだまま、「いいえ、私はこうした社交の場が大好きです」とさらりと受け流す。

 アメリアはその態度にまたも不快げに目を細めたが、すぐに上機嫌を装い、「そう、なら楽しんでちょうだいな」と言い残して他の令嬢たちの輪へと姿を消した。



(やはり……あれほど敵意をむき出しにしていたというのに、こういう場では笑顔を繕うのね。もっとも、貴族社会ではそれが当たり前か)



 シルフィーネは心の中でそう呟きつつ、部屋の隅に目を向ける。そこには数名の若い娘たちが集まっており、その中には彼女の友人リヴィアの姿も見える。リヴィアはシルフィーネの来訪に気づくと、そっと手を振って合図してきた。



「シルフィーネ、こっちへどうぞ。あなたが来てくれて嬉しいわ」



「リヴィア、あなたも招かれていたのね。挨拶が遅くなってごめんなさい」



 リヴィアは侯爵家の令嬢であり、以前の王宮での審議の際にもシルフィーネを擁護してくれた友人だ。彼女のそばにいるのは、同世代の貴族令嬢たち数名で、皆アメリアとの間に特別な親交があるわけではないらしい。

 シルフィーネはテーブルに案内され、香りの良い紅茶を注がれる。周囲からは、お茶やお菓子を楽しむように見えるが、彼女の耳には様々な噂や会話が飛び込んでくる。



「ねえ、あのアメリア様って最近すごく金回りがいいらしいわ。ローゼリック伯爵家って借金まみれだったはずなのに、不思議よね」



「それに、グラント侯爵家のライオネル様との結婚の話もあるでしょう? あれ、本当に正式に決まるのかしら。審議がどうのとか、色々噂が絶えないけど」



「でも、王族の甥であるライオネル様が後ろ盾になれば、ローゼリック家の借金問題なんて朝飯前じゃない? 実際、国王の弟ロドリゲス公爵も絡んでいるって聞くし……」



 気配を殺して耳を澄ませば、こうした話題があちこちで交わされている。シルフィーネにとっては、まさに欲しかった情報の一端でもある。まだ具体的な証拠にはならないが、やはり多くの人々がアメリアとライオネルの金銭関係を疑問視していることが分かる。

 ――貴族社会は疑心暗鬼の温床であり、誰もが誰かを探り合う。だからこそ、ここで確たる証拠を押さえれば、一気に流れを変えられるのだ。



 しばらくして、アメリアが中央のテーブルに戻ってきた。グラスを軽く鳴らして周囲の注意を引きつけると、満面の笑みでこう告げる。



「皆様、本日は私のお茶会にお越しいただきありがとうございます。せっかくですから、少し趣向を凝らしたゲームでも楽しみませんこと?」



 パチパチと小さな拍手が起こる。アメリアは続けて、テーブルに用意された木製の箱を開くと、中から数枚の紙を取り出した。



「これは“お題カード”と呼ばれるものでして、書かれたトピックについて自由に語り合うゲームです。皆さんでカードを引き合い、それに書かれたお題に沿ってお話をするだけ。とっても簡単でしょう?」



 どうやら、カードゲームのようなものらしい。一見すると harmless(無害)だが、社交界の「お題トーク」は、時に当人の秘密を暴き合うきっかけにもなる。アメリアは、それを狙っているのかもしれない。

 シルフィーネは、リヴィアと顔を見合わせながら「嫌な予感がするわね……」と目で語り合ったが、周囲の令嬢たちは面白半分に「やってみたい」と盛り上がり始めている。今さら断るのも難しいだろう。



「では早速、皆様が一枚ずつカードを引いてください。それを読んだら、思いつくことを遠慮なく話すの。秘密の暴露でも、愚痴でも、妄想でも大歓迎ですわ。もちろん、守秘義務はありませんから、誰かが面白い話をしてくれたら皆で共有してしまいましょう♪」



 最後の一言には、明らかな悪意が滲んでいる。つまり「ここで何かを話したら、すぐに噂として広まるわよ」という警告でもあるのだ。

 一人ずつカードを引いていくと、恋愛の話、趣味の話、将来の夢など、無難なお題が出る場合もあれば、「ここだけの秘密を白状して」「嫌いな人を挙げて理由を述べて」など、際どいものも含まれている。

 無論、まともな貴族令嬢であれば、あまりに露骨な秘密を晒す真似はしない。うまく話をぼかしてやり過ごすか、あるいは盛り上げる程度に巧みに本音を交えるか――それも一種の社交スキルだ。



 ほどなくして、シルフィーネの番が回ってきた。彼女は慎重にカードの束から一枚を引き、「何が書かれているのかしら……」と内心で身構えながら読んでみる。

 すると、そこにはこんな一文があった。



――“もし一つだけ嘘をついていいなら、誰に何を隠したい?”――



 一見すると抽象的なお題だが、社交界の文脈で考えれば、かなり危険な質問でもある。ここでうっかり大きな秘密を匂わせると、根掘り葉掘り詮索される恐れがある。シルフィーネは冷静に頭を回転させながら、どう答えるべきか思案した。



「あら、面白そうなお題ね。さあ、シルフィーネ様、教えてくださらない? あなたは“誰に何を隠したい”のかしら?」



 アメリアがわざとらしく身を乗り出してくる。周囲の視線も、「エルフィンベルク家の令嬢は何を言うのだろう」と好奇心に満ちていた。

 シルフィーネは、カードを脇に置き、軽く息を吐いてからゆっくりと口を開く。



「そうですね……もし“一つだけ嘘をついていい”なら――私は“自分が抱えている不安や弱さ”を、好きな人に隠したいかもしれません」



 そう言って微笑むシルフィーネの表情は、あえて曖昧に感情を混ぜ合わせたような仕草だ。誰がその“好きな人”なのかを具体的に名指しせず、「あくまで一般論」と受け取れる答え方をしている。

 ところが、周囲の一部は「もしかして、それはライオネル様のこと?」と勘繰る者もいれば、「意外とロマンチストなのね」と微笑ましく受け止める者もいる。思惑は様々だが、少なくとも「家の大きな秘密を隠している」とは解釈されにくい。



「なるほどね。シルフィーネ様らしい答えだわ。けれど、本当にそれだけ?」



 アメリアはまだ追及の手を緩めない。まるで「本当はもっと大きな嘘、もしくは秘密があるのでは?」と煽るような言い方だ。

 シルフィーネは内心で苦笑する。まさか“ローゼリック伯爵家の不正を暴こうとしていること”を、ここで晒すわけにもいかないし、そもそも「私は幼く見える外見を嘘で隠したいの」なんて言う気もない。

 だからこそ彼女は、さらに言葉を付け足した。



「人は皆、多かれ少なかれ“不安”や“弱さ”を抱えていると思います。私もまだ若く、至らないところだらけなので……できれば、それを悟られずに過ごしたいのです。嘘をつくことは良いことではありませんが、時には自分を守るための手段になるかもしれませんから」



 この言葉に、「確かにそうね」と納得の声を上げる令嬢たちもいれば、「まだ十六歳だもの、仕方ないわね」と微笑ましく見る者もいる。アメリアが狙ったほどの波紋は起きない。むしろ、シルフィーネの飾らない言葉に共感する者も出始めるほどだ。



(この程度の挑発なら、容易く乗り越えられる。アメリア様、もっと直接的な手を使ってくるかしら?)



 シルフィーネがそんなふうに構えていると、今度はアメリア自身がカードを引き、「私の番ね」と挑むように宣言した。そこには――



――“今、一番消えてほしいと思う存在は?”――



 という、より直球なお題が書かれていた。普通の貴族令嬢なら「こんなの答えられないわ」と困惑するか、「特にいません」とお茶を濁すだろう。だが、アメリアは違った。

 彼女は唇を歪めて微笑み、わざと意味深な視線をシルフィーネへ送りながら、小首を傾げる。



「そうねえ……消えてほしい存在、ですって? 私にとっては、やっぱり“子供じみた女の子”かしら。人前では猫を被っているくせに、裏では他人の大切なものを奪おうとする、そんな幼稚な存在は邪魔でしかないわ」



 確実にシルフィーネを指していると分かる言い回し。しかし、アメリアはあえて名前を出さない。周囲の令嬢たちも、その場の空気を読んで「これはシルフィーネ様のことを言っているのでは……」と察しながらも、直接には口を挟めない。

 静まりかえる空間の中で、アメリアは続ける。



「でも、まあ……私が本気になれば、そんな子供っぽい存在はいつだって排除できるの。だから、あえて“消えてほしい”なんて思わないようにしているわ。だって、面白くないですもの。あっさり消えてもらったら、私が退屈でしょう?」



 その言葉には、ゾッとするほどの悪意が満ちていた。まるで「いつでも殺せる獲物を楽しむ捕食者」のような冷酷さ。これまでの「貴族らしい優雅さ」をかなぐり捨て、全員の前で暗にシルフィーネを威嚇しているのだ。

 当然、シルフィーネの友人リヴィアなどは「アメリア様、それはいくらなんでも……」と口をはさもうとするが、アメリアは彼女を睨みつけ、「あら、気に障ったかしら?」と嘲笑する。誰もが息を呑み、この場の不穏な空気に呑まれそうになる。



(さすがに、ここまで直接的に敵意を向けられるとは思わなかったわ。でも、だからこそ、チャンスでもあるかもしれない)



 シルフィーネは深呼吸をし、ぐっと心を落ち着かせる。そして、可憐な笑みを浮かべたまま、あくまで冷静に応じた。



「そう……確かに、あなたがおっしゃるように、“子供じみた存在”は鬱陶しいかもしれませんね。でも、人は誰しも未熟だった時期があります。大人だと思っていても、心の内側は幼いままかもしれませんし」



「何が言いたいの?」



「私もまだ子供と呼ばれる年齢ですから、未熟な部分は多いでしょう。でも、それを理由に侮るのは得策ではないと思います。誰がいつ、どんな形で成長するか分かりませんから」



 これは遠回しな“警告”だ。アメリアにははっきり伝えないが、「子供だと侮っていると痛い目を見るかもしれないわよ」と示唆している。周囲の令嬢たちも、この微妙なやり取りに気づき、「まさか、シルフィーネ様がこんなに毅然と返すなんて……」と驚きを隠せない。

 だが、アメリアは「ふん」と鼻を鳴らして、すぐに座を立った。どうやら、あまり長引かせるつもりはないらしい。



「まあ、いいわ。さっきも言ったけれど、退屈しのぎにはなってちょうだい。あなたのその生意気なところ、いつまで続くかしらね」



 そう言い残すと、アメリアは取り巻きの侍女を引き連れ、別室へと去っていく。後には微妙な空気が残り、他の令嬢たちが口々に「す、すごい迫力……」「いったいどうなってしまうの……」と怖気づいていた。

 シルフィーネは手のひらにじんわりと汗が滲んでいるのを感じる。緊張していないといえば嘘になる。しかし、こうして正面から挑発されても、毅然と受け返せたのは大きな収穫でもあった。



(アメリア様、やっぱりどう考えても私を潰す気だわ。でも、どうやって? もし裏で危ない手段を使っているなら……そこにつけ込む隙があるはず)



 そう自問していると、ふと視線の端に「アメリアの侍女の一人」が映った。どこかうろたえた様子で、廊下の奥へ駆けて行くようにも見える。何やら急いでいるのか、キョロキョロと周囲を見回しながら、厳重に扉を閉めて別の部屋に入っていった。

 シルフィーネの勘が「何かある」と告げていた。ここで下手に追いかけるのは危険かもしれないが、状況を探るチャンスかもしれない。部屋から出ることが許されるかどうか――お茶会の最中だが、幸い参加者たちは今の一件で重苦しい雰囲気に包まれ、「帰り支度」を始めたり、「一息つこう」と席を立ったりする姿が目立ち始めている。

 シルフィーネは友人リヴィアに軽く声をかけ、用事があるフリをして席を外すことにした。



「リヴィア、少し疲れてしまったわ。外の空気でも吸ってくるから、先に帰っていてちょうだい」



「でも、一人で大丈夫? 本当に嫌な予感がするのだけれど……」



「平気よ。すぐ戻るから」



 リヴィアは渋々うなずき、ほかの令嬢たちと連れ立って退出していく。残ったシルフィーネは、部屋の隅に控えている自前の護衛――“侍女の姿をした女騎士”――と視線を交わし、最低限の安全を確保できるようにしつつ、さきほどの侍女が消えた廊下へと足を向ける。

 ローゼリック伯爵家の離れは、それほど広大というわけではないが、廊下が入り組んでおり、部屋の配置が複雑だ。気を抜けば迷いそうになるほど。

 慎重に足を進めると、奥まった場所にある扉の前で、先ほどの侍女らしき人影がうろうろしているのが見えた。鍵を手にしてドアを開けようとしているのか、カチャカチャと音がしている。



(あの部屋に何が……?)



 シルフィーネは壁際に身を寄せながら息を潜め、相手の動向を伺った。すると、侍女は周囲に人影がないことを確認すると、素早くドアを開けて室内に滑り込んでいく。

 チャンスだ。シルフィーネはそっと近づき、扉が閉まる寸前にわずかな隙間を残して手を添える。扉が完全に閉まるのを阻止し、中を覗ける程度の隙間を作ることに成功した。

 そして目に飛び込んできたのは――意外にも広々とした書庫のような部屋。棚が壁一面に設置され、様々な本や書類がぎっしり詰まっている。

 侍女は部屋の中央にある机へ歩み寄り、何やら大きな帳簿のようなものを開いている。その表情は真剣そのもので、ひどく焦燥感が漂っていた。どうやら、その帳簿から特定のページを破り取ろうとしているように見える。



(あれは……ローゼリック伯爵家の“財務関係の記録”か何かかしら。もしかして、消したい証拠がある?)



 シルフィーネの心臓が高鳴った。まさに、彼女たちが追い求めている証拠を処分しようとしている場面に遭遇した可能性が高い。ここで声をかけて拘束すれば、何かしらの資料を確保できるかもしれない。

 だが、いきなり「何をしているの?」と問い詰めるのは危険だ。相手が大声を出して逃げたり、書類を破り捨ててしまうかもしれない。最低限、あの書類に何が書かれているのかを確認する術はないのだろうか……。



(護衛の騎士に突入してもらうべきか、それとも、私が先に近づいて話しかけるか……)



 シルフィーネが逡巡している間にも、侍女は一心不乱にページを探し、開いた箇所から何かを破り取ろうとしている。心なしか、その紙には細かな数字や人名らしきものが書かれているようだが、遠目では判読しづらい。

 しかし、思案の猶予はほとんどなかった。次の瞬間、侍女が破り取った書類を掴み、懐に押し込もうとしたのだ。

 シルフィーネは咄嗟に決断し、廊下に控えていた護衛(女騎士)に目配せを送る。合図を受け取った護衛は、物音を立てないよう素早く扉の陰に回り込み、いつでも制圧に動ける体勢を取った。

 そしてシルフィーネ自身は、あえて少し大きめの足音を立てて廊下を歩き始めた。わざと存在をアピールすることで、相手が慌てて書類を落とす可能性に賭けるのだ。



 トンッ、トンッ、トンッ――



 響く足音に、書庫の中の侍女ははっと顔を上げる。慌てて帳簿を閉じ、破った紙をどうにか隠そうと身構えるが、その拍子に紙がはみ出して床に落ちてしまう。

 さらに焦った侍女は、ドアの方へ来ようとして、開きかけの帳簿や他の書類を盛大に床へ散乱させてしまった。カサカサと紙が舞い散り、机の上のインク壺が倒れ、部屋は一気に修羅場と化す。



「わ、わわっ……!」



 侍女が悲鳴を上げると同時に、シルフィーネはドアを押し開けて中へと進み、まるで驚いたふうを装いながら声をかける。



「あの、だ、大丈夫ですか!? すごい音がしましたが……」



「な、なにも問題ありません! あなたは何者ですか、勝手に入ってこないで!」



 侍女は必死に隠しごとをしようとしているが、その顔は真っ青だ。よほど追い詰められているのだろう。足元には複数の紙が散らばっており、その中には先ほど破り取ったページも含まれている。インクがこぼれ落ちてまだ乾いていないので、紙を拾い上げようにも文字が滲んでしまうかもしれない。

 ここだ。シルフィーネは素早く床に視線をやり、破片を探す。すると、ひときわ目立つ紙片が目に入った。何やら金額や日付、そして署名のようなものが書かれている――しかも、“L”で始まる名前が見える。



(“L”……Lionel? まさか、ライオネルの名前が記されているの……?)



 一気に心臓の鼓動が高まり、シルフィーネは本能的にそれを拾おうと身を屈めた。しかし、侍女もまたそれに気づき、慌てて手を伸ばしてくる。

 互いの手が紙片に重なろうとした瞬間――廊下に隠れていた護衛が音もなく部屋に入り、侍女の腕をひしっと掴んだ。



「きゃっ……!?」



 驚きの声を上げる侍女に構わず、護衛はその腕をねじ上げるようにして押さえ込む。シルフィーネはすかさず紙片を拾い上げ、軽く見たところ、インクで文字が一部滲んでいるが、まだ判読できそうだ。



「な、なんなのよ! 離して! これは私の仕事です! あなたたちこそ不法侵入よ!」



 侍女は必死に抵抗するが、護衛の腕力には叶わない。シルフィーネは紙片を握りしめたまま、一瞬でも内容を確認しようと目を走らせる。

 そこには、確かにローゼリック伯爵家とグラント侯爵家の間で金銭の授受があったと読める一文が記されていた。金額は相当なもので、さらに日にちを見ると、ライオネルがエルフィンベルク家との婚約を破棄する前後のタイミングだ。しかも、受領者の署名が途中までしか読めないが、“Lionel G”のように見える部分がインクに滲みつつも残っている。

 これは、もし正真正銘の原本であれば、ライオネルとローゼリック家が不正なやり取り――恐らくは資金援助と引き換えに、シルフィーネを貶める計画を進めていた証拠の一端になりうる。



(やった……! これなら、私たちが追い求めていた“不正”に繋がるかもしれない。だけど、これだけでは不十分。もっとはっきりした契約書や領収書が必要ね)



 それでも、大きな前進であることに変わりはない。シルフィーネは紙片をしっかりと握り、侍女に向き直る。



「あなたは、この書類をどうして破り取って捨てようとしたの? 普通、財務記録を処分するなんてあり得ません。説明してください」



「し、知りません! 私は命じられただけです。財務記録が乱雑になっていたから整理しろって……!」



 侍女は目を泳がせながら言い訳をするが、さすがに通じるわけがない。破り取った紙を懐に隠そうとしたところを見られている。

 だが、この場で問い詰めても、末端の使用人では大した情報は出てこないだろう。むしろ、騒ぎになってアメリアが駆けつけてきたら、押収した紙を奪い返される可能性もある。

 シルフィーネは、護衛に目配せしてから静かに宣言した。



「分かりました。あなたが何を命じられたのかは追及しません。ですが、この書類は公爵家が預かります。ローゼリック家が後で弁明したいなら、正当な手続きを踏んで取り返せばいいでしょう。今はそれで充分です」



「な、なんですって……!? そんな勝手が許されるわけが――」



「おかしいと思うなら、アメリア様にお伝えくださいな。“財務記録を廃棄しようとした侍女を取り押さえたが、正当な理由があるなら教えてほしい”と」



 シルフィーネは毅然と言い放つ。これ以上の長居は無用だ。アメリアに知られれば面倒が増す。侍女をこのまま拘束しておくことはできないが、とりあえず相手に「エルフィンベルク家が証拠を握った」と知らしめる効果はある。

 わずかな間に策略を巡らせていたシルフィーネは、護衛が侍女を離したのを確認し、すぐに踵を返す。侍女はなおも怒鳴っているが、このまま騒ぎになれば自分こそが咎められる立場――それが分かっているのか、遠巻きに見送りするしかない。



(何にせよ、あの紙片が手に入ったのは大きい。これを手がかりに、より確かな証拠を見つけ出せるかもしれないわ)



 こうして、シルフィーネはローゼリック伯爵家の離れを後にする。お茶会は事実上“強制的に中座”という形になったが、他の令嬢たちもアメリアの豹変に怯えて早々に帰ってしまったため、すでに表向きはお開きの流れになっていた。

 屋敷の門を出るとき、ちらりと視界の端にアメリアの姿が見えた。彼女は高い場所からシルフィーネを睨み下ろすように立っている。まるで「何をした」と問うかのように目を細め、得体の知れない笑みを浮かべていた。



(私が紙片を手に入れたこと、どこまで気づいているのかしら……。どのみち、これから先は一層危険が増すでしょうね)



 シルフィーネの背筋に寒気が走る。アメリアは本気で、彼女を「奈落の底に落とす」つもりだろう。いや、既に牙を剥き始めている。

 ――しかし、同時にシルフィーネも新たなカードを手に入れた。ライオネルとローゼリック家の間に不正な取引があった可能性を示す紙片。これだけではまだ弱いが、ラグナル顧問に解析してもらい、繋がる情報を探ることで、間違いなくライオネルを追い詰める武器になるはずだ。



(このまま逃げるわけにはいかない。私がやらなければならないことは一つ――“真実”を暴いて、彼らの横暴を止める。それが公爵令嬢としての責務でもある)



 そう心に刻みながら、シルフィーネは護衛とともに馬車へと乗り込む。窓の外にはローゼリック伯爵家の門が見え、その門柱の陰にアメリアの侍女と思しき人影が立ち尽くしているのがうっすら視界に入った。

 これから先、さらに荒れ狂うであろう嵐の予感。しかし、その逆境がシルフィーネの闘志をますます燃え上がらせていた。







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