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9,上野

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 それから数日後――。
 その日は若手の演技指導がある日で、俺は朝から北創の撮影所に来ていた。発声練習から実際の台本を使ったキャラクターの解釈、キャスト同士でのかけ合いなどをこなしたあと、アクション監督から個別の指導を受けることに。
 今さら説明するまでもないと思うけれど、ユーマニオンレッドは変身ヒーローであって変身後のアクションシーンはスーツアクターが担当する。けれども変身前の役者、つまり俺も、そこまでのつなぎとして軽いアクションをこなすことになる。

「素手のアクション、それから小道具を使ったアクション。一通りやっておこう。まずは受け身の練習かな」

 アクション監督は、スタジオ内に敷かれたマットの方へと歩きだす。穏やかで褒め上手な監督に比べると、彼は職人気質で厳しそうな雰囲気の人だ。

「ちょうどいい、彼らに手伝ってもらおう」

 近くで稽古をしていたアクションチームの面々が、それを中断してさっと並んだ。皆怪人の衣装を身につけている。その中に熊谷さんもいた。
 格好からして彼らは放映中の『ユーマニオン・ネオ』の撮影に参加していて、その待ち時間に稽古をしていたんだろう。

「こうしよう。怪人部隊が左右から1人ずつかかってくるから、一月くんはそれを交わして前転で距離を取る」
「分かりました」

 俺の返事と前後して、怪人部隊は目線でお互いを確認しながら立ち位置に散らばった。さすが連携が取れている。

「一発目は熊谷くんのお手本だ。細かい動きは彼のセンスに任せよう」
「うっす!」

 アクション監督の合図で熊谷さんが手本を見せてくれる。手慣れた動きを大きなアクションでゆっくりと。
 立ち位置、動き、タイミングを頭に入れ、俺はそれをトレースした。

(右から1人目!)

 大きなアクションでつかみかかってきた、相手の腕の下をすり抜ける。

(次は左!)

 こちらもアクションが大きい。相手の腕を手のひらで押し、なぎ払った。抵抗もないのに怪人は、斜め後ろへ飛んで倒れる。
 俺はそのまま体勢を低くして前転、距離を取って振り返った。

「オーケー!」

 アクション監督が手を叩いた。

「一月くんは筋がいいな。これならこの先もまごつくことはないだろう」
「ありがとうございます」

 演技というより体操をするような感覚だった。すんなりこなせたことで、俺も少しホッとする。
 ただアクションチームからしたらこれくらい当然なんだろう。アクション監督が背を向けると、彼らはさっと元の場所に戻っていった。
 そこで外から「用意スタート!」の声が聞こえてくる。

(きっと本番はこんなもんじゃないんだろうな……)

 ふとした不安が生まれる。オーディションに合格して主演の座をつかんだのに、自分がユーマニオンレッドになれるのかと思うと、自信を持ってそうだとは言えなかった。
 理想のレッドが、そのヒーロー像が大きすぎる。それに最も近いのは、やっぱり俺じゃなく羽田さんなのかもしれなかった。



 その後オープニング用、宣伝用の動画や写真の撮影が行われ、翌月。いよいよ『ユーマニオン・ネクスト』本編の撮影がスタートした。
 その日は上野で早朝のロケが行われていた。息を吸うほどに肺が冷気に侵されるような、寒々とした朝だった。

「ここは隕石群が降ってくるのを、CGで表現します。みなさんはそのつもりで演技をお願いします」

 駅のコンコースの上。監督が自らメガホンを手に、エキストラさんたちに指示を出す。彼の吐き出す息も白かった。
 それから監督は怪我の特殊メイクを施された俺に向き直る。

「向こうからとこっちから、逃げる人が途切れたところでカメラが寄っていくから、そこで一月くんは演技開始だ。焦らなくていいから、自分のタイミングで始めて」
「分かりました」
「それで向こう……」

 監督の指さす方向へ目を向ける。

「今、羽田くんのいるポイントまで歩いて、隕石の変身ブレスで変身。スタジオでもやった通りだから分かるよね?」

 視線の先の羽田さんは、すでにレッドのヒーロースーツを着ていた。彼の足下を中心に、落ち葉が渦を巻いて吹き上がる。まるで風を従えているみたいだった。
 ふいに鳥肌が立つのを感じていると、彼がこっちを見てニヤリと笑う。

(あ……!)

 その挑戦的な笑みに、目が釘付けになった。

 ――楽しみにしてる。

 顔合わせの会議室での羽田さんが、余裕の笑みを浮かべた。あれはちょうど1カ月前の記憶だ。
 そして今日、俺はいよいよ彼の前で演技をする。あの人にナメられるわけにはいかない。

 エキストラも役者も立ち位置に移動し、スタートの合図でリハーサルが始まった。
 俺はうつ伏せに倒れた状態から、演技を始めることになる。レールに乗せられたカメラが、本番さながらに動きだした。俺は自分の演じるべき主人公、スバル青年の声に耳を傾ける――。
 吹きつける風のざわめき、早朝の大通りを行き交う車の音。それからかすかに電車の走行音。いつもなら演じるべき主人公を見つけられるのに、なかなかそれを見つけることができない。
 うつ伏せに倒れている俺の指の先を、何人ものエキストラが駆け抜けた。
 コンコースが揺れる。カメラと、その向こうにいるスタッフたちの気配。俺の動きを待つみんなの視線。それらを手に取るように感じた。

(あの人に、無様な姿は見せられない)

 気持ちが焦っていた。自分のタイミングで始めていい。そう言われはしたけれど、想定されるタイミングはとっくに逃してしまった。
 相変わらずスバルは見つからない。スバルなら今それどころじゃないのに、アスファルトに当たっている頬が痛かった。

「……一月くん?」

 動かない俺を待ちかねたのか、監督が声をかけてきた。
 息を詰めていたスタッフたちがざわめきだす。

「……すみません。上手く演技に入れませんでした」

 腕をアスファルトの床に突き、頭を持ち上げて謝った。上手くは入れなかったのは演技にじゃない、主人公のスバルにだ。

「初めからやり直そう」

 監督のそのひと声で、現場は仕切り直しとなる。

「大丈夫か? 一月らしくない……」

 俺の衣装についた砂粒を払いながら、マネージャーが言ってきた。

(そんなことは分かってる、分かってるけど……)

 そして2度目のリハーサルも俺はスバルになりきれないまま、中途半端に動きだした。
 こんなのは演技じゃない。ただセリフと立ち位置の確認だけで終わる。

(どうして……)

 稽古では、スタジオ収録ではシンクロできていたスバルが、今日はどこにも見当たらない。日の光が差してきて、指はかじかんだままなのに額には嫌な汗が出た。
 スタッフの輪の後ろで俺の上着を抱いている、マネージャーの姿が見えた。
 彼も明らかに不安そうだ。俺がこれっぽっちも演技に集中できていないことは、マネージャーにはとっくにバレている。そして……。

(羽田さん……)

 彼は自分の出番が当分来ないことを知っているかのように、マスクを小脇に抱えたまま遠い目をしていた。こっちを見られているとプレッシャーなのに、見られなければ見放された気分になる。
 俺はあの人を意識しすぎている。分かっていても彼を意識から遠ざけられなくて、イライラが募った。これじゃあとても役柄をつかまえるどころじゃない。

「本番!」

 カメラにRECランプが灯っても、リハーサルの時と同じつかめない演技が続いた。

「うーん、悪くはないんだけどな。一月くんなら、もっと魅せる演技ができる気がする」

 監督はそんなことを言いながら、渋い顔で映像をチェックしている。

「魅せる演技って……」

 助監督が聞き返した。すると監督は助監督にではなく、俺の方へ視線を送る。

「一月くん、このシーンはオーディションの最終審査で、君が演じたシーンだ」
「はい……」
「あの時の君には、もっと鬼気迫るものがあった」

 それはそうだ。あの時の俺は俺じゃない。主人公のスバルに、ユーマニオンレッドとなる男になりきれていた。

「つかめていないんです、今日は……」

 そんな本音を口にすると、監督は腕組みして遠くの空を見上げた。

「……そうだな。日を改めて撮り直そう。本人が駄目だと思うなら尚更だ」
「えっ!? 今なんて……」

 思わず耳を疑う。今日は野外ロケで、エキストラも大勢集められている。そう簡単に後日になんてわけにはいかないはずだ。
 そばにいた助監督やカメラマンも、ぎょっとした顔で監督を見ていた。

「いやいや、続行しましょう! 多少調子が悪くたって、編集でいい感じに繋げますよ」
「そうですね! 羽田さんもずっとスタンバってますし」

 2人がフォローしても、監督の考えは変わらなかった。

「いや、撤収しよう。今日は日が悪い」

 他のみんなにも撤収が伝えられる。

(そんな、俺のせいで……)

 みんなの顔が見られない。俺はいたたまれない気持ちで唇を噛んだ。
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