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海斗を待ち受ける運命とアップルパイ

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「河野さん、河野海斗さん。1番窓口にお越しください。」

はい、そう小さく返事をしながら求職相談窓口に向かうと告げられたのは衝撃の事実だった。

「こちらの会社様が出しておられる求人が河野さんの為に出されたかのようにぴったりでしてね。いかがかと思いまして。しかもよく見たら、昨日面接にも行かれてますね。ふむふむ。これはちょっと後押しさせて下さい。少々お待ちくださいね。」

メガネをかけた窓口の担当さんは目をキラキラさせ、そして意気揚々と求人票に記載された先に電話をしている。僕は矢継ぎ早に話されてイマイチ内容を聞き取れていなかったから、とりあえずこの人の次のアクションを待つ事にした。やる気に満ちていたのはわかったし、そこで話の腰を折るのも気が引けた。が、ここでちゃんと聞き直しておくべきだったのだ。適当に相槌を打つ事の恐ろしさが身に染みるのは10分もしない直近の未来だった。

「河野さん!おめでとうございます!内定ゲットですよ!」

ぼーっとしている間に何か大変な事態になってしまった事に気がつくまで数分かかって、その間に他の職員にも話が伝わり、周りの人からまでおめでとうとか頑張ってとか言われてしまって、全くもって後に引けなくなってしまった。

「あ、あーっと、ありがとうございます・・・?」
「はい!良かったですね!条件もかなりいいですし、実際怪しい程ですが、こちらの企業様は以前に別の方を採用された実績もあります。だからまあ大丈夫でしょう!とにかくおめでとうございます!」
「え、あのごめんなさい。その会社の名前を念の為教えてもらえますか?」
「株式会社夏梅、です。」
「はぁ。そこの内定が取れた、と。」
「そうです。勤務開始日に関しては直接ご連絡が行くそうです。入社日が決まったらまたその前日までに一度こちらにいらして下さいね。予約は要りませんので、開所時間内であればいつでも構いません。」
「(あー、これもう断るとか言う選択肢がないやつだ)わかりました・・・。」
「はい!では重ね重ねではありますが、内定おめでとうございました!」

手隙の職員も口々におめでとうと言って、笑顔を向ける。僕の意見は全く介在していないのに、それを回避する手段もなく、ものの見事に外堀を埋められたようだ。だからと言って、この会社の人って猫なんですよ?何か変な術使うんですよ?とか言ったら最後。窓口変更で違う心配をされる事は必至だ。本当の事だと必死になればなる程に分が悪くなるのは目に見えている。一旦はそのまま帰るしかない。ただ次の予定がもらえなかった以上、どこかで翻意した事を伝えねばなるまい。それにしても何と断るのか。断る理由も考える必要があるものの、言い方によっては選り好みをしているわがままな中年男性になってしまう。ここをどう回避したらいいのか・・・。

「だから、そのまま就職すれば八方上手く収まると思いません?その方が楽ですよ?」
「そうなんですよね。就職しちゃえば確かに・・・。って、え、リョウスケさん?!」
「お久しぶりです。昨日振りですね、海斗さん。たい焼きは美味しかったですか?」
「あ、朝ごはんにいただきました。美味しかったです。じゃないですよ!こんなとこにまで手を回したんですか?」
「何をおっしゃる。正当な手段で求人を出し、それに見合う方が見つかって、職員の方にもご推薦いただいた、それだけですよ。ちなみに弊社はちゃんと年金も健康保険もあるし、企業型確定拠出年金の運用もしています。そこいらの会社よりもしっかりした福利厚生完備ですよ。」
「うううううう。」
「おやおや。じゃあここでは埒があきませんので、またお茶でもしましょう。」

リョウスケの目に見据えられていたかと思えば、大きくゆっくりと瞬きをした。その瞬間に気がつくと、あの応接セットに辿り着いている。この前の感じだと、時間の流れは同じはず。だけどここまでどうやって来るのか、その見当がつかない。瞬間移動?テレポーテーション?それとも召喚魔術みたいな・・・?

「海斗さん、ラノベ読みすぎですよ。そんな召喚魔術なんて・・・。プププ。」
「もうっ!ここで働けって言うなら、思考読むの辞めて下さい!」
「わかりました。皆にもそう伝えておきます。仲間の嫌がる事はするべきではないですからね。では・・・」

「ようこそ!株式会社夏梅へ!」

あんなに訝しげに思っていたのに、みんなが笑顔でクラッカーを鳴らして、焼きたてのアップルパイと一緒に、笑顔で歓迎してくれるから、拒否する理由を見失ってしまった。実際条件は信じられない破格の待遇で、これを見てしまうと他の会社とは比べられない。実際のところ、人間界でちゃんと会社として認められる体ではあると言う事だ。(いやもしかしたら妖術とか使っているのかもしれない・・・)ただそうであっても、ここまで来てしまったらもう乗りかかった船。いっそ一度楽しんでみるのも手なのかもしれない。人を化かすのはタヌキやキツネが多いが、さしづめここは化け猫集団と言ったところだろう。まあ何をするにしてもその世界の人間がいるのといないのとではビジネスの潤滑さは違う。それはそうだ。でも今ここでこの条件を蹴って失うものは幸い何もない。それならば、たった一度の人生で一度くらい騙されて見るのも面白いのかも知れない。

こうして唐突に仕事を得た僕は文字通り新しい世界へと飛び込む事となり、人間でありながら上司も同僚も猫と言う特殊環境に身を置く事になった。
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