居丈高ですが何か?

一條 恭香

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社会人編 第二章

プロジェクトチーム

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翌週の月曜、会議室には珍しく人が揃っていた。
壁一面のホワイトボードには、太い字でこう書かれている。

――エネルギー統合プロジェクト(仮)

居鴨は席に着きながらその文字を眺めた。
「仮」と付いているが、誰も仮だとは思っていない。金額も規模も、もはや後戻りできない段階に入っている。
越谷が、いつもより張りのある声で口を開いた。

「今回のプロジェクトは、我が社としても過去最大級だ。
 国内外の金融機関からの資金調達、エネルギーインフラの整備、リスク管理――どれ一つ欠けても成立しない」

居鴨は資料に目を落としながら、名前の一覧を追った。
自社メンバー。
法務。
技術。
そして――外部協力先。

「証券会社側のメイン窓口は、越野さんです」

その瞬間、視線が集まる。
惹子は静かに立ち上がり、簡潔に頭を下げた。

「越野惹子です。
 本件では、国内外の金融機関との調整および、資金調達スキーム全体の設計を担当します」

淡々としているが、揺るぎがない。
居鴨は、彼女が“前に出る人間”だと、改めて実感した。

「居鴨くん」

越谷の声が、居鴨を呼ぶ。

「君には、全体のリスク評価と事業性の精査を任せる。
 越野さんとは、二人三脚になるだろう」

二人三脚。
その言葉に、居鴨は小さく眉を動かした。

「……了解しました」

周囲の視線が、微妙に変わる。
居鴨はこれまで、単独で動くことが多かった。だが今回は違う。誰かと“組む”前提で配置されている。

「長澤」

越谷は次に名を呼ぶ。

「君は社内調整と進行管理だ。
 居鴨と越野さんの間に立って、衝突を未然に防げ」

長澤は軽く手を挙げる。

「板挟み役ですね。お任せください」

冗談めかしているが、その目は真剣だった。
会議が進むにつれ、役割が次々と決まっていく。
個々の“得意”と“欠点”が、無遠慮に配置されていく感覚。

居鴨は、逃げ道が塞がれていくのを感じていた。
会議終盤、惹子が口を開いた。

「一点だけ、確認させてください」

全員の視線が向く。

「このプロジェクトでは、
 “正しさの優先順位”を最初に決めておきたい」

居鴨は、思わず彼女を見た。

「数字、スピード、関係性。
 どれを最優先にするかで、判断が変わります」

短い沈黙。
越谷が答える。

「最優先は――成立だ」

惹子は頷いた。

「了解しました。
 では、必要に応じて、数字も、感情も使います」

その言葉は、居鴨に向けられたものだと彼は分かっていた。
会議が終わり、人が立ち上がる。
資料をまとめながら惹子が居鴨に視線を向けた。

「居鴨さん」

「……何でしょう」

「これから、長くなります」

「承知しています」

惹子は微かに笑った。

「逃げないでくださいね」

冗談とも本気ともつかない声。
居鴨は一瞬だけ言葉に詰まった後、静かに答えた。

「……逃げるつもりはありません」

それは自分自身への宣言でもあった。
プロジェクトチームは、こうして動き出した。
それぞれの思惑と癖を抱えたまま、同じ方向を向くことを強いられながら。

居鴨は、初めて気づく。
この仕事は数字だけでは終わらない。
そして、この人間関係からは、もう降りられない。

トラブルは準備が整った矢先に起きた。
海外の金融機関向けに送付する一次資料。
その草案が、チーム内で回覧された翌朝だった。

居鴨は自席で資料を読み終え、即座に赤を入れた。
数字の前提条件。為替リスクの扱い。政治的リスクの注記。
どれも、彼の基準では甘い。

「……削りすぎだ」

低く呟き、修正版を共有フォルダに上げる。
注釈は増え、ページ数は一気に膨らんだ。

数十分後、チャットが鳴った。

――越野:この修正、確認しました。
――越野:少し話せますか?

会議室。
二人きり。
居鴨は資料を机に置き、率直に切り出した。

「海外ファンド相手なら、最悪のケースを隠すべきじゃない。
 最初から全部出すべきです」

惹子は腕を組まず、ただ聞く姿勢を取る。

「全部、というのは?」

「想定し得るリスクすべてです。
 為替、政変、規制変更、技術遅延――」

「それを、最初の一手で?」

「ええ」

惹子は一拍置いた。

「それをやると、交渉は始まりません」

即答だった。

「彼らは投資家です。
 “怖い話”を聞くために来るわけじゃない」

居鴨は眉をひそめる。

「リスクを理解しない投資は、投機です」

「理解させる順番の話です」

惹子の声は冷静だ。

「最初に見せるのは、“参加する理由”。リスクは信頼関係ができてから共有する」

「それは誤解を誘う」

「いいえ」

惹子は、はっきり言った。

「それは相手の思考プロセスに合わせる、ということです」

居鴨は机に手を置く。

「合わせる必要はない。こちらは事実を出す。それで判断するのが彼らの仕事だ」

「……居鴨さん」

惹子は初めて声を少しだけ強めた。

「あなたは、“正しい情報”と“正しい伝え方”を混同している」

空気が張り詰める。

「海外ファンドの意思決定は、数字だけじゃない。
 背景、ストーリー、信頼――それを無視したら、この案件は潰れる」

「感情論です」

居鴨は言い切った。

「現実論です」

惹子も譲らない。しばらく沈黙。
その場にいたら、長澤が止めていただろう。
だが今は、二人だけだ。

「……分かりました」

先に折れたのは、居鴨だった。
だが、それは納得ではない。

「では、あなたの案で行きましょう。
 ただし、後で問題が出ても私は責任を取りません」

惹子は、彼を真っ直ぐ見た。

「その時は、一緒に取ります」

居鴨は言葉を失った。

「これは、あなた一人の案件じゃない。私も、同じだけ賭けています」

その一言で何かが変わった。
居鴨は初めて気づく。
彼女は“正しさ”を捨てているのではない。
“守る対象”が違うだけだ。

「……分かりました」

今度の声は少しだけ低かった。

「ただし、第二フェーズでは必ず私の案を入れてください」

惹子は、わずかに笑った。

「約束します」

こうして最初の衝突は収束した。
完全な和解ではない。だが破綻もしなかった。

会議室を出るとき、居鴨は思った。
この人と組むのは、厄介だ。
だが――
逃げたくない。

初交渉は、穏やかに終わった。
オンライン会議の画面には、欧州系ファンドの投資責任者たちが並び、誰一人として声を荒げることはなかった。

質問は端的で、反応は概ね良好。
終了時には「前向きに検討したい」という言葉も引き出せた。
会議が切れた瞬間、チームの空気が一気に緩む。

「……行けそうですね」

誰かが言い、数人が頷いた。長澤が居鴨の肩を軽く叩く。

「初回としては上出来だろ」

居鴨は曖昧に頷いた。確かに失敗ではない。
だが成功とも言い切れなかった。会議中、彼は何度か口を開きかけた。
為替ヘッジの条件。政権交代時のリスク分岐。長期契約に潜む“不確実性”。
だが、そのたびに惹子が先に話し、柔らかく、しかし巧妙に論点をずらした。

――今はそこではない。
そう言われている気がした。会議後、惹子は冷静に総括する。

「第一関門はクリアです。次回、詳細をデューデリで詰めましょう」

誰も異論を挟まなかった。居鴨だけが、資料を閉じる手を止めていた。

「……一つだけ」

彼は言った。

「こちらから提示したリスク、向こうは軽く受け取りすぎていませんか?」

惹子は即答しない。

「軽く、ではありません」

「そうは見えなかった」

「見せ方の問題です」

彼女は落ち着いて続けた。

「“問題ない”と錯覚させる必要がある段階でした」

居鴨は眉を寄せる。

「錯覚、ですか」

「誤解しないでください」

惹子は言葉を選ぶ。

「錯覚は、後で必ず現実に戻します。そのための準備も、もう始めています」

居鴨は、それ以上追及しなかった。
会議室を出ると、長澤が小声で言う。

「お前、珍しく大人しかったな」

「……そうか?」

「いつもなら、三回は噛みついてる」

居鴨は苦笑した。

「噛みつく必要がなかっただけだ」

だが、それは半分しか本心ではない。
自席に戻り、会議メモを見返す。
ファンド側の反応。好意的な表情。前向きな言葉。
――なのに、胸の奥に、針のような違和感が残っている。

正しいことを言わなかった。いや、言えなかった。
それが、居鴨にとっての“負け”だった。
同時に、認めざるを得ない事実もあった。
彼女のやり方は通用した。自分の正しさより結果が先に出た。

「……くそ」

誰にも聞こえない声で呟く。
斜に構え、距離を取ることで自分を守ってきた男は、
初めて“結果を出す他人”の背中を見ていた。
そして、その背中が少しだけ――
悔しいほど、まっすぐに見えた。

その連絡は、日付が変わる少し前に来た。
欧州ファンドからの追加要請。想定以上に踏み込んだシナリオ分析。
期限は明朝。

「……今から、やりますか」

惹子の声は電話越しでも疲れていた。

「当然です」

居鴨は即答した。会社に戻るか、近くでやるか。
迷った末、二人はビル近くの、深夜まで開いている小さなコワーキングスペースに入った。

蛍光灯は白く、音はキーボードだけ。
向かい合って座り、言葉はほとんど交わさない。
居鴨は、いつもの倍の速度で手を動かしていた。

為替感応度。最悪ケースのキャッシュフロー。
彼の得意分野だ。
一方、惹子は全体構成を整え、数字に物語を与えていく。
二時間が過ぎた頃だった。

「……ここ」

惹子が画面を指す。

「この前提、少し保守的すぎませんか?」

居鴨は即座に反論しようとした。だが言葉が喉で止まった。
保守的。それは彼が最もよく使う、安全側の逃げ道だ。

「……リスクは見積もるものです」

「恐れるものではない」

惹子は穏やかに言った。
沈黙。
居鴨は、キーボードから手を離した。

「……正直に言います」

自分でも驚くほど、声が低かった。

「私は失敗するのが怖い」

惹子は何も言わない。ただ視線を逸らさず待った。

「だから最初から最悪を出す。そうすれば裏切られない。期待されなければ、傷つかない」

言葉が止まらなくなる。

「人も同じです。期待しなければ、失望しない。近づかなければ、負けない」

惹子は初めて少し息を吐いた。

「……それで、楽でしたか?」

居鴨は答えられなかった。楽だったか。確かに安全だった。
だが満たされてはいなかった。

「私は」

惹子が、ゆっくり口を開く。

「失敗する前提で動きます」

「え?」

「うまくいかない可能性を最初から受け入れる。だからこそ、人にも案件にも賭けられる」

居鴨は彼女を見る。

「怖くないんですか」

「怖いです」

即答だった。

「でも、怖いからって距離を取ったら、何も始まらない」

また、沈黙。
居鴨は、画面に目を落としたまま言った。

「……ずるいですね」

「何が?」

「あなたは、正しさも、怖さも、両方引き受けている」

惹子は少しだけ笑った。

「それ、大人ってことかもしれません」

居鴨は初めて自嘲ではなく、弱さを込めて笑った。

「……私は、ずっと子供でした」

その言葉は軽くも重くもなかった。ただ事実だった。
時計を見ると、もう午前二時を回っている。

「この前提」

居鴨は修正案を開いた。

「少しだけ、攻めます。あなたのやり方で」

惹子は頷いた。

「その代わり」

「はい」

「危なくなったら、止めてください」

居鴨は、はっきり言った。惹子は静かに答えた。

「一緒に止めます」

その夜、提出した資料は、彼にとって初めて「守りだけで作らなかった」ものだった。
居鴨は初めて自分の弱さを言葉にし、それでも立っていられることを知った。
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