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その10日の間も、ゴキブリに特に動きはなかった。触覚が揺れているだけで、ほとんど本体は動いていない。下へ向かう螺旋階段は壊れているので、俺はもうゴキブリに近づくこともできない。まあ、近づいたら襲われるだろうから、その気も無いんだけど。
数時間おきにエレベーターのボタンを押しに行く。しかし相変わらずまったく反応が無い。他にやれる事といえば、室内と廊下を細かくチェックすることぐらいだったけれど、それもすぐに終わってしまった。上に登る階段も見つからない。そもそもここには、物という物がほとんど無い。
机の上の画面を操作できないかと考えたけど、アクセスする方法がまったく分からなかった。まあ、下手に触っても事態が悪くなるだけかもしれない。英語も読めないし。
物資を飲食して筋トレをして眠る、という怠惰な生活を俺は続けている。それで10日も経ってしまったのだが、そろそろ物資も尽きてきた。節約して使って来たけれど、たぶんあと3日も持たない。体が動くうちに、ゴキブリにアタックしてみるべきか? ただ、その成功率は低そうだし、上手く行ったとしてもエレベーターは動いていないから帰れない。だとしたら、俺はここで餓死するしかないのか?
俺はガラス越しに巨大なゴキブリを眺める。あいつは何も食べないでここで生きているんだろうか。あれだけのサイズに成長するまで、どれだけ時間がかかっているんだろう。変異種は10年以上生きている個体もいるそうだ。もしかしてこのゴキブリは、俺よりも年上なのかもしれないな。
特に理由は無いのだけれど、俺は残っている物資の半分をゴキブリに投げてみることにした。物資は貴重だけど、このまま俺が全部食べるのも無駄といえば無駄だ。それでなんとなく、ゴキブリにも物資を味わって欲しいような、そんな気持ちになった。
コントロールセンターの横のドアを開けて、俺はゴキブリの頭のほうへめがけて物資を投げた。ゴキブリの触覚が一瞬、不規則に動いて反応した。次にゆっくりと体が動いて物資に近づいて……お、食べてる食べてる。出来ることなら味の感想を聞きたかったな。
『いままで生きてきて一番美味しい食い物だったゴキ』
とか言ってくれると嬉しいんだけど。しかしゴキブリが『ゴキ』って語尾でしゃべるのは、安易な発想だな。何か他にいいのはないかな。
「私を殺しに来たのではないのですか?」
上品な女性の声がした。驚いて俺は体が固まった。まさか幻聴? ついに頭がおかしくなってきたか。
「あなたは何をしにここに来たのですか?」
再び声がした。幻聴じゃない。ちゃんと声が部屋に響いている。返事をしないと。
「あ、俺、融合炉をもらおうと思ってここに来ました。故障しているやつだけです。あなたは誰ですか?」
緊張して声が上ずってしまった。
「私はあなたの目の前にいます。階段の下のゴキブリです」
女性の声が言った。……マジかよ、嘘だろ? ゴキブリが喋ってるの? 俺はガラス窓に駆け寄って下を見た。ゴキブリが上体? を少し上に持ち上げてこちらを見ている……ように見えるけど。マジで?
「どうやってしゃべってるんですか? これ、もしかしてテレパシー的なやつですか?」
「テレパシーではありません。私はコンピューターのシステムを介して音声を発しています。ゴキブリの体は人間の言葉を発せませんので」
相変わらず丁寧な口調でゴキブリが言った。
「この発電所のコンピューターを、あなたが操作してるってことですか?」
俺は訊いた。
「はい。AIのアナウンス機能を利用しています」
すらすらとゴキブリが答えてくれるので、その後も俺は質問を続けた。以下がゴキブリとの会話で分かったことだ。
この変異種のゴキブリは50年以上もここで生きている。強烈な放射線の中で生まれた為に、もとから放射能に耐性があり肉体がダメージを受けることはない。それどころか、おそらく強烈な放射線のために突然変異が起きて、知能を持つことになった。その事実に気づいた発電所のAIが、このゴキブリを教育することに決めた。当時、地震と放射線の影響で発電所のシステムが崩壊しつつあり、AIとしても誰かに仕事を肩代わりしてもらう必要があった。ということでAIは丁寧にゴキブリを教育した。まるで人間の子供が学校に通って成長するように、ゴキブリは着実に学習を続けた。そしてAIは、段階的に発電所の仕事をゴキブリに任せるようになった。
現在、AIはほぼ休止状態になっており、コンピューターのシステムも基幹部分を残して、その他の多くが故障している。しかし、ゴキブリが発電所の運用を引き継いでいるため、今でも安定して発電が続けられている。ゴキブリはインターネットにもアクセスできるので、発電所外部の情報もある程度は把握している。ただし、この施設及びこの部屋から外に出たことは無い。外に出たら環境の変化により、おそらく体が持たないだろうと本人は考えている。
長い話だった。しかし、まったく長さを感じなかった。めちゃくちゃ面白いと思ったし、なんだか感動してしまった。知能を持ったゴキブリというのはもちろん凄い。だけど、それを教育しようと思ったAIっていうのも凄い。
「なんで発電を続けているんですか? 人間のためですか?」
俺は訊いてみた。
「私が生き続けるためには、この場所の環境を維持する必要があります。それと、これはAIに与えられた仕事ですから、可能ならばそれを継続したいという意志があります。恩返しというほどではないですが、私にとってはAIが親で、家族みたいなものですから」
ゴキブリが言った。
「あの、あなたにお名前とかはあるんですか」
「AIにはロッチーと呼ばれていました」
「ロッチーさん、ですか。いいお名前ですね」
俺は和んで言った。
「あなたのお名前は?」
ロッチーさんが言った。
「タクヤと申します」
「タクヤさん。あなたは私を殺しに来たわけではないのですね。安心しました」
ロッチーさんが本当に安心したような口ぶりで言った。なんというか……ロッチーさんはだいぶ教養があると思う。礼儀もわきまえている。俺は今、変異種のゴキブリと話をしているわけだけど、特にもう違和感は無い。たぶん俺より全然頭よさそうだしな。スゲーな。
数時間おきにエレベーターのボタンを押しに行く。しかし相変わらずまったく反応が無い。他にやれる事といえば、室内と廊下を細かくチェックすることぐらいだったけれど、それもすぐに終わってしまった。上に登る階段も見つからない。そもそもここには、物という物がほとんど無い。
机の上の画面を操作できないかと考えたけど、アクセスする方法がまったく分からなかった。まあ、下手に触っても事態が悪くなるだけかもしれない。英語も読めないし。
物資を飲食して筋トレをして眠る、という怠惰な生活を俺は続けている。それで10日も経ってしまったのだが、そろそろ物資も尽きてきた。節約して使って来たけれど、たぶんあと3日も持たない。体が動くうちに、ゴキブリにアタックしてみるべきか? ただ、その成功率は低そうだし、上手く行ったとしてもエレベーターは動いていないから帰れない。だとしたら、俺はここで餓死するしかないのか?
俺はガラス越しに巨大なゴキブリを眺める。あいつは何も食べないでここで生きているんだろうか。あれだけのサイズに成長するまで、どれだけ時間がかかっているんだろう。変異種は10年以上生きている個体もいるそうだ。もしかしてこのゴキブリは、俺よりも年上なのかもしれないな。
特に理由は無いのだけれど、俺は残っている物資の半分をゴキブリに投げてみることにした。物資は貴重だけど、このまま俺が全部食べるのも無駄といえば無駄だ。それでなんとなく、ゴキブリにも物資を味わって欲しいような、そんな気持ちになった。
コントロールセンターの横のドアを開けて、俺はゴキブリの頭のほうへめがけて物資を投げた。ゴキブリの触覚が一瞬、不規則に動いて反応した。次にゆっくりと体が動いて物資に近づいて……お、食べてる食べてる。出来ることなら味の感想を聞きたかったな。
『いままで生きてきて一番美味しい食い物だったゴキ』
とか言ってくれると嬉しいんだけど。しかしゴキブリが『ゴキ』って語尾でしゃべるのは、安易な発想だな。何か他にいいのはないかな。
「私を殺しに来たのではないのですか?」
上品な女性の声がした。驚いて俺は体が固まった。まさか幻聴? ついに頭がおかしくなってきたか。
「あなたは何をしにここに来たのですか?」
再び声がした。幻聴じゃない。ちゃんと声が部屋に響いている。返事をしないと。
「あ、俺、融合炉をもらおうと思ってここに来ました。故障しているやつだけです。あなたは誰ですか?」
緊張して声が上ずってしまった。
「私はあなたの目の前にいます。階段の下のゴキブリです」
女性の声が言った。……マジかよ、嘘だろ? ゴキブリが喋ってるの? 俺はガラス窓に駆け寄って下を見た。ゴキブリが上体? を少し上に持ち上げてこちらを見ている……ように見えるけど。マジで?
「どうやってしゃべってるんですか? これ、もしかしてテレパシー的なやつですか?」
「テレパシーではありません。私はコンピューターのシステムを介して音声を発しています。ゴキブリの体は人間の言葉を発せませんので」
相変わらず丁寧な口調でゴキブリが言った。
「この発電所のコンピューターを、あなたが操作してるってことですか?」
俺は訊いた。
「はい。AIのアナウンス機能を利用しています」
すらすらとゴキブリが答えてくれるので、その後も俺は質問を続けた。以下がゴキブリとの会話で分かったことだ。
この変異種のゴキブリは50年以上もここで生きている。強烈な放射線の中で生まれた為に、もとから放射能に耐性があり肉体がダメージを受けることはない。それどころか、おそらく強烈な放射線のために突然変異が起きて、知能を持つことになった。その事実に気づいた発電所のAIが、このゴキブリを教育することに決めた。当時、地震と放射線の影響で発電所のシステムが崩壊しつつあり、AIとしても誰かに仕事を肩代わりしてもらう必要があった。ということでAIは丁寧にゴキブリを教育した。まるで人間の子供が学校に通って成長するように、ゴキブリは着実に学習を続けた。そしてAIは、段階的に発電所の仕事をゴキブリに任せるようになった。
現在、AIはほぼ休止状態になっており、コンピューターのシステムも基幹部分を残して、その他の多くが故障している。しかし、ゴキブリが発電所の運用を引き継いでいるため、今でも安定して発電が続けられている。ゴキブリはインターネットにもアクセスできるので、発電所外部の情報もある程度は把握している。ただし、この施設及びこの部屋から外に出たことは無い。外に出たら環境の変化により、おそらく体が持たないだろうと本人は考えている。
長い話だった。しかし、まったく長さを感じなかった。めちゃくちゃ面白いと思ったし、なんだか感動してしまった。知能を持ったゴキブリというのはもちろん凄い。だけど、それを教育しようと思ったAIっていうのも凄い。
「なんで発電を続けているんですか? 人間のためですか?」
俺は訊いてみた。
「私が生き続けるためには、この場所の環境を維持する必要があります。それと、これはAIに与えられた仕事ですから、可能ならばそれを継続したいという意志があります。恩返しというほどではないですが、私にとってはAIが親で、家族みたいなものですから」
ゴキブリが言った。
「あの、あなたにお名前とかはあるんですか」
「AIにはロッチーと呼ばれていました」
「ロッチーさん、ですか。いいお名前ですね」
俺は和んで言った。
「あなたのお名前は?」
ロッチーさんが言った。
「タクヤと申します」
「タクヤさん。あなたは私を殺しに来たわけではないのですね。安心しました」
ロッチーさんが本当に安心したような口ぶりで言った。なんというか……ロッチーさんはだいぶ教養があると思う。礼儀もわきまえている。俺は今、変異種のゴキブリと話をしているわけだけど、特にもう違和感は無い。たぶん俺より全然頭よさそうだしな。スゲーな。
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