1 / 6
1.紫式部、現る
しおりを挟む
地下鉄の駅構内にある書店。その店は、出入口付近に新刊本の山がいくつもある。その中でも、ひと際広いスペースを与えられ、「今年一番泣ける本」「読みたいランキング1位」「珠玉の恋愛小説」「一番売りたい!賞ノミネート」などと、大仰な売り出し文句をいくつも冠しているその本に一瞥をくれると、僕は店を出た。
地下鉄に乗れば、中吊り広告がこれ見よがしに視界に入る。それは、先ほど目にした本、『この愛の果てに』の宣伝広告だ。今やベストセラー作家となった藤原宣孝の新刊のプロモーションに辟易として、空いている座席に深く腰掛けると、僕は目を固く閉じた。
本当にこれで良かったのか。
何度目になるかわからない自問自答を繰り返したところで、もう世に出てしまったものは仕方がない。これから先、僕はどうするべきか。それを考えなくてはいけない。
そんなことを考えながら、自宅に帰りつくと、玄関を開け、奥の部屋へ声をかける。
「師匠、ただいま~」
物音ひとつしない。けれど、それはいつものことだ。僕は気にすることもなく、靴を脱ぐと、廊下をぬけ、部屋のドアを開けた。ドアの先は、リビングへと繋がっている。間取りは1LDK。26歳の独身男子の自宅としては、少々無駄な間取りかもしれない。
そんな無駄な空間へ足を踏み入れると、白檀の涼やかで甘い香りがほんのりと鼻腔を擽る。これは、師匠の残り香だ。この匂いがするということは、つい先ほどまで師匠はここにいたはずだ。
「師匠~。戻りましたよ~。出てきて下さいよ~」
そう言いながら、僕は入口のすぐ横に置いてある、卓上の紫水晶ドームを一撫でして、紫水晶の窪みを覗き込んだ。岩の内側に空洞状に水晶が形成されたそれは、僕の家で代々受け継がれていた物らしく、今は、僕が譲り受けている。ドームを撫でて程なくすると、空洞内の紫水晶に、まるで夜空が星を抱き始めたかのように、いくつかの小さな煌きが浮かび、先ほどまで僕の鼻腔を擽っていた香の薫りが濃くなった。
「なんじゃ宣孝。私は、つい今しがた眠りについたところなのじゃぞ」
ドーム内を覗き込んでいた顔を上げると、僕の正面には、扇子で口元を覆いながら、眠そうな声を上げる師匠、紫式部その人が立っていた。
地下鉄に乗れば、中吊り広告がこれ見よがしに視界に入る。それは、先ほど目にした本、『この愛の果てに』の宣伝広告だ。今やベストセラー作家となった藤原宣孝の新刊のプロモーションに辟易として、空いている座席に深く腰掛けると、僕は目を固く閉じた。
本当にこれで良かったのか。
何度目になるかわからない自問自答を繰り返したところで、もう世に出てしまったものは仕方がない。これから先、僕はどうするべきか。それを考えなくてはいけない。
そんなことを考えながら、自宅に帰りつくと、玄関を開け、奥の部屋へ声をかける。
「師匠、ただいま~」
物音ひとつしない。けれど、それはいつものことだ。僕は気にすることもなく、靴を脱ぐと、廊下をぬけ、部屋のドアを開けた。ドアの先は、リビングへと繋がっている。間取りは1LDK。26歳の独身男子の自宅としては、少々無駄な間取りかもしれない。
そんな無駄な空間へ足を踏み入れると、白檀の涼やかで甘い香りがほんのりと鼻腔を擽る。これは、師匠の残り香だ。この匂いがするということは、つい先ほどまで師匠はここにいたはずだ。
「師匠~。戻りましたよ~。出てきて下さいよ~」
そう言いながら、僕は入口のすぐ横に置いてある、卓上の紫水晶ドームを一撫でして、紫水晶の窪みを覗き込んだ。岩の内側に空洞状に水晶が形成されたそれは、僕の家で代々受け継がれていた物らしく、今は、僕が譲り受けている。ドームを撫でて程なくすると、空洞内の紫水晶に、まるで夜空が星を抱き始めたかのように、いくつかの小さな煌きが浮かび、先ほどまで僕の鼻腔を擽っていた香の薫りが濃くなった。
「なんじゃ宣孝。私は、つい今しがた眠りについたところなのじゃぞ」
ドーム内を覗き込んでいた顔を上げると、僕の正面には、扇子で口元を覆いながら、眠そうな声を上げる師匠、紫式部その人が立っていた。
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
『お前を愛する事はない』なんて言ってないでしょうね?
あんど もあ
ファンタジー
政略結婚で妻を娶った息子に、母親は穏やかに、だが厳しく訊ねる。
「『お前を愛する事は無い』なんて言ってないでしょうね?」
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる