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第一話 因果応報な強盗事件

適応力に定評のある助手

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 一週間後の朝。
 朽梨探偵事務所では、罵声の応酬が繰り広げられていた。

「ちょっと先生! ゴミは分別するように言ったじゃないですか!」

「アルバイト風情が俺に指図するな。それにちゃんと集めておいただろう」

「燃えるゴミと燃えないゴミが混ざっているんです! 余計な手間がかかるんですよ」

「細かいことばかり気にしていると老けるぞ」

 玄関に仁王立ちする杏子は、両手に大量のゴミ袋を持って抗議していた。
 慌てて出勤したのか、頭髪の寝癖が目立つ。

 対する朽梨は、事務所の奥にあるキッチンで朝食の準備をしていた。
 白い皿に焼きたてのトーストを載せ、表面にバターを塗りたくる。
 底の深い器にはサラダが盛られていた。
 他にも何品か用意している。

 朽梨はそれらを手際よくダイニングテーブルへと並べていった。
 騒々しい玄関のことなど、どこ吹く風といった様子である。

「それより早く行かないと収集車が来てしまう。何のためにお前を雇っていると思っているんだ」

「……その頭の麻袋も一緒に捨てた方がいいんじゃないですかね」

「何か言ったか」

「ゴミ捨て行ってきまーす」

 飛んできた鋭い視線をスルーし、杏子は颯爽と事務所を出た。

 ゴミ捨て場は事務所から一本外れた住宅街にある。
 ゆっくり歩いても数分で往復できる距離だ。
 両手のゴミ袋を揺らしながら、杏子はここ数日を振り返る。

 結論から述べると、杏子は探偵事務所での仕事に順応できてしまった。
 最初は一体どうなるのかと絶望したが、今では毎朝のゴミ捨てを率先して行えるほどになっている。
 杏子が勤勉家なことに加え、底抜けのポジティブ思考だったのが功を奏したのかもしれない。

 雇い主の朽梨は口が悪い上に人使いが荒いものの、業務に関する指導は適切だった。
 新しい作業を頼む際は丁寧な説明から始まり、杏子がミスをしてもそれとなくアドバイスをくれる。

 無論、そういう時に小言や悪態を一緒に貰うことは多々あるが、感情的に叱られることはない。
 おかげで杏子の働きぶりはみるみるうちに良くなり、簡単な事務作業ならそつなくこなせるほどになっていた。

「偏屈だけど意外に優しい、のかな……もしかしてツンデレ?」

 妙な憶測をしつつ、杏子はゴミ袋を捨てて事務所に戻る。

 働き始めて気付いたこととして、この探偵事務所の広さが挙げられる。
 外観からは分からないが隣接する建物と内部で繋がっており、想像よりもずっと部屋数が多い。
 応接室や所長室、ダイニングやキッチンといった頻繁に使う場所もあれば、半ば物置状態のスペースも少なくなかった。

 朽梨曰く「狭いよりはマシ」とのことで、数年前に思い切って改築したらしい。
 掃除を任されることもあり、杏子も間取りを把握しつつあった。

 いい香りのするダイニングへと赴くと、そこには手作りの朝食が並べられていた。
 焼きたての分厚いトーストに色とりどりの野菜を使ったサラダ、とろとろのスクランブルエッグやハーブを練り込んだソーセージなどがある。
 食欲をそそるラインナップを前に、杏子は強い空腹感を覚えた。

 それらを作った朽梨はそばの椅子に座り、じっと杏子を眺めていた。
 相変わらず表情は窺えないものの、なんとなく誇らしげなのは伝わってくる。

「先生って性格は悪いのに料理はお上手ですよね」

「余計な一言が混ざったな。訂正しろ」

「先生って性格が悪いですよね」

「ぶっ飛ばされたいのか」

 コントのようなやり取りもそこそこに、二人の朝食は始まる。

 この光景も習慣の一つと化していた。
 数日前、杏子が朽梨の朝食の風景を目撃したのがきっかけである。

 杏子の食卓事情は、お世辞にも良いとは言えない状況だった。
 彼女自身の料理の腕が絶望的なことに加え、外食をしようにも懐が寂しくて叶わなかったのだ。
 残念ながら杏子には頼れる友人がいない。
 スーパーで半額になった惣菜や弁当が主食という有様であった。

 そんな折、豪華な食事を見た杏子が何もしないはずがない。
 彼女は驚異的な執念を以て頼み込み、朽梨の食事に同席する許可を得た。
 当初は嫌そうだった朽梨も今ではすっかり慣れたもので、この時間は専らミーティングも兼ねるようになっている。

「今日は昼前に出かける。準備をしておけ」

「あれ、私も一緒に行くんですね」

 杏子は意外そうに首を傾げる。
 ここ一週間、朽梨が仕事で外出することはあれど、杏子が同行することはなかった。
 留守番中に掃除や買い出しを済ませておくのがいつもの流れである。

 朽梨はナイフでソーセージを切り分けつつ答える。

「雑務にはもう慣れただろう。そろそろ別の仕事も任せたい」

「つまり信頼度が上がったということですね」

「己惚れるな。給料に見合う働きをしてもらうだけだ」

 不愉快そうに鼻を鳴らした朽梨は、麻袋の隙間からソーセージを口に運ぶ。
 片時も素顔を晒さないのは何かの意地なのか。
 朽梨は黙々と食事を進めていく。

 それで話は終わりらしく、杏子も朝食に集中することにした。

 まずはトーストを手に取る。
 齧り付きたい衝動に耐え、ゆっくりと匂いを確かめた。
 素朴ながらも芳醇な香ばしさが広がる。
 杏子は自然と口元が緩むのを感じた。

 嗅覚で存分に楽しんだ後は、いよいよ一口噛み締める。
 カリカリに焼かれたトーストの表面が、ざくりと小気味よい音を立てた。
 焦げ目の付いた表面とは対照的に、中身はもちもちとした食感だ。
 熱気と共にパンの優しい甘みが浸透する。
 塗り込まれたバターの濃厚な風味が飽きを来させない。

 言うまでもなく美味しい。
 杏子は夢中になって二口目、三口目とトーストを食べ進めた。

 気が付けばトーストを完食してしまったので、今度はサラダに手を付ける。
 なかなかに具だくさんで視覚的な楽しさがあった。
 フォークで豪快に突き刺す。
 それを口に入れた途端、杏子は目を白黒とさせた。

 しゃきしゃきとした野菜の食感に加え、ドレッシングの程よい酸味が舌を驚かせる。
 噛めば噛むほど食材本来の旨みも感じられた。
 時折現れるベーコンチップとチーズが良いアクセントになっている。
 ただのサラダとは侮れない味だ。

 他のメニューも同様に、杏子を唸らせた。

 絶妙な半熟具合のスクランブルエッグは滑らかな舌触りを秘めている。
 食べれば食べるほど癖になり、飾らない味わいを披露した。
 横に添えられたトマトケチャップもまた憎い。
 まろやかな卵の味に嬉しい変化をもたらしてくれる。
 杏子は頬に手を添えて悶絶した。

 そして、極めつけはボイルソーセージである。
 誘われるままに食い破ると、濃縮された肉汁が溢れてきた。
 レモン果汁を絞ってあるらしく、それがハーブの風味と合わさってさらに食欲を掻き立てる。
 ちりばめられた粗挽きの黒コショウも、味を引き締めるのに一役買っていた。

 表情をころころと変化させながら、杏子は次々と皿を空けていく。
 この朝食が絶品であることは認めざる得ない。
 しかし、誰か作ったかを考えると、素直に喜ぶのは憚られた。

 杏子は悔しそうに朽梨を見る。

「可憐な女子の胃袋を掴むなんて、先生ってば極悪非道です」

「素直に美味いと言えないのか。というか、どこに可憐な女子がいる。鏡を確認してこい。卑しいゴリラが映るだろう」

「先生も鏡を見た方がいいです。麻袋頭のクリーチャーが映りますよ」

「誰がクリーチャーだコラ」

 朽梨と杏子は軽快に悪口をぶつけ合いながら朝食を満喫する。
 早くも定着しつつある、奇妙な探偵事務所の日常であった。
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