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木寺千紗 26歳 行き先:箱根町
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箱根湯本駅の前に黒塗りベンツを停め、今回のお客様を待つ。箱根という観光地はこんなにも山に囲まれていたのかと感じる。大涌谷のもくもくとした煙と山の緑が作る独特な空気を吸い込む。鎌倉と箱根はどちらも神奈川なのにこんなに違うんだなぁ…と日本の地理歴史の奥深さを実感する。
「プライベートツアーの方?」
と女性が声をかけてきた。
「はい、木寺千紗様でいらっしゃいますか?」
と尋ねる。26歳と聞いていたが、かなり大人っぽい雰囲気を纏っている。言葉遣いも綺麗で知的な印象だ。
「はい。木寺千紗と申します。本日はよろしくお願い致します」
と深々とお辞儀をする。僕は慌てて、
「こちらこそこの度はFプライベートツアーをご利用頂きまして誠にありがとうございます。私が担当のドライバーでございます。本日は1日よろしくお願い致します。」
と挨拶をし、ドアを開ける。
「どうも」
と屈んで入っていく。
「失礼致します」
と僕も車に乗りこみ、
「本日は箱根の美術館を巡るとのことですが、お間違いないでしょうか」
と今日のプランを訊ねる。
「はい、行く美術館はこちらで決めていいんですよね」
「もちろんでございます」
「嬉しいです、そんなツアーに参加できるなんて」
と彼女は手を合わせて喜んだ。
「では、まずポーラ美術館に。次にラリック美術館、最後は…うーん、ガラスの森美術館にしようかしら」
と楽しそうに話す。
「ポーラ美術館、ラリック美術館、ガラスの森美術館ですね。かしこまりました。道中山道を通ることが想定されますので、シートベルトのご着用をお願い致します。ご気分が悪くなられましたら遠慮無くお声かけください」
とルートを練り注意事項を伝える。
「わかりました。楽しみだわ。あ、時間は大丈夫なのかしら。閉館時間とかあるでしょうし」
「その点はお気になさらないでください。それぞれの美術館をご満足されるまでお楽しみいただけます。行く順序は如何なさいますか」
「まぁ凄い!想像以上に楽しめそうだわ!順序はお任せするわ。行きやすい順序があるでしょう」
「かしこまりました、ではまず、ガラスの森美術館へ向います」
とお客様がシートベルトをしたのを確認して発車した。今回はどんな旅になるだろう。
「お兄さんはこの辺来たことがあるんですか?」
お客様がわくわくしながら声をかけてくる。
「いいえ、ないですね。美術館に縁がなかったものですから」
「あらまぁ!それは人生損してますわ、ではお兄さんも今日は楽しんでくださいね」
「ありがとうございます」
思えば、箱根どころか美術館に行く経験はほとんどなかった気がする。昔あったかもしれないが、記憶にない。僕にとっては退屈でしかなかったのだろう。とはいえ、今日の美術館3つのうち2つは少し変わり種だ。ガラスの森美術館とラリック美術館はガラス工芸の美術館らしい。西洋美術史に疎い僕でも楽しめそうだ。にしても、山奥にあるんだな。曲がり道をぐんぐん登っていく。
「曲がり道と上り坂が続きますのでお気をつけください」
と言うと、
「はーい」
と元気のいい返事が返ってくる。なるべく負荷をかけないように山道を進んでいく。
ガラスの森美術館に到着した。入口時点できらきらとしたガラスの木が見える。
「お客様、お待たせいたしました。ガラスの森美術館に到着致しました」
と言って車を停め、お客様を降ろす。
「ありがとうございます、やっぱりここは素敵ですね!」
ときょろきょろしながら言う。
「以前もいらしたことがあるのですか」
「ええ!でもこの時期じゃなかったわ」
「時期によって違いが?」
「そうよ!お庭のガラス装飾が変わるのよ!」
と嬉しそうに言う。はしゃいでいる彼女の空気感にのまれそうになりながら入口を通り、庭園へ向かう。そこにはガラスでできた水上花火があった。
「あれは…花火ですか?」
「そうみたいです!あそこには紫陽花もありますよ!」
「本当ですね」
美しいガラスの庭園に心が奪われる。彼女はその庭園をうろうろしており、展示室に向かおうとしない。
「展示室には行かれないのですか」
と尋ねると、
「ここは庭園がいいんですよ。ガラスなら次行くラリックでも見れますから」
と言った。僕は案内人ではなく、お客様にとっての脚である。
「かしこまりました」
とはしゃぐ彼女を見るだけだった。彼女は間近でガラスを見ながら話を始める。
「私ここ何度も来てるんですよね。桜の時期も、クリスマスの時期も、秋も。ただ夏だけは今回初めて来ました。だから来れて本当に嬉しいです」
「左様ございますか。それはよかったです」
「特に桜の時期が最高でしたね。透明なはずなのに桜に見える植物。今にも散ってしまいそうな儚さを漂わせているのに絶対に散らない花びら。こんなことができてしまう人間がいるんだなぁと…」
話す彼女は少し悲しそうだった。太陽の光を反射して目を突き刺す刃となったガラスの花を瞬きもせず眺め続けていた。
車に乗りこみ、ラリック美術館に向かう。悲しそうな表情をしている彼女をバックミラー越しに見て、次の案内をする。
「次はラリック美術館に向かいます。失礼ながら、ラリックという人物を初めて知りました。ガラスが見れるとのことでしたね。ガラス作家の方なのですか?」
と彼女の元気を引き出せるように声をかける。
「えぇ。ガラスだけじゃなくて彫刻とか絵とか幅広くやってる人ですよ。香水瓶とか作ってる人です」
「そうなのですね。お詳しいのですね」
「えぇ、まぁ。私も美術を学ぶ者でしたから」
「過去形ですか?」
「このツアーは明日死ぬ人のためのツアーでしょう?だから過去形でもいいじゃありませんか」
僕は何も答えない。返すべき言葉が見つからず、ただハンドルを握って曲がり道を見つめる。
「聞いたりしないんですね」
「何をです?」
「そりゃぁ…死因だったり動機だったり」
「お客様個人のことに首を突っ込むつもりはありませんから」
「まぁさすが接客業の方。でもまぁ私が勝手に話すことは構わないのでしょう?」
また何も答えない。
「そこで黙ってしまうのね。新人さんではないでしょうに」
「…困りますよ」
と溜息をつきバックミラーを見ると彼女はくすくすと笑っていた。
「ごめんなさいね、つい。勝手に話すから気にしないでくださいね。私はね、自殺ですよ」
と自分の死の動機を話し始めた。
私は東京の美大生でした。といっても現役合格はできなくて2浪して入学しました。でも、私には絵の才能がなくて、底辺を進んでいる感じです。そんなとき、教授に才能があると言われたのは彫刻だったんです。ガラス細工なら興味があったのでそれを教授に伝えたらガラス細工はまた別のものだからと。その教授の言葉は確かに正しくて、専攻を彫刻に変えたらいい成績が取れるようになって、賞も貰えるようになりました。でも、私は絵がやりたい気持ちを忘れられなくて。卒業制作では絵も活かしたいと伝えても受け入れてくれなかったんです。私はなんのために高いお金と時間を費やして美大に入ったんだって考えるようになってしまって。そしたらプツリと何かが切れてしまいました。それで死にました。
「 」
本当に何も言わないんですね。私がここまでなってしまったのは彫刻のせいでした。だから凶器は彫刻刀を選びました。彫刻刀で喉を掻っ切ってやりました。痛いけど何年も共にした刀ですから、思い通りに使えてしまうんですよね。
「行き先、変えてもよろしいですか」
えっどこへ?
「近くにありますでしょう、彫刻の森美術館というところが」
さっきの話本当に聞いてなかったんですね?彫刻嫌いなんです。
「だからですよ」
はい?
「この車に乗ってしまった時点であなたの死は確定です。この時間はあなたが意志を持って行動できる最後の時間です。その時間まで彫刻を憎み続けているのが悲しいのです。あなたは絵がやりたかっただけで彫刻が元々嫌いだったわけじゃないのでしょう?」
…なんだ、ちゃんと聞いてるじゃないですか。あそこは彫刻の森、といってもほぼ現代アートですから少し違うと思いますよ。
「それでも、私はあなたが彫刻と向き合う時間を差し上げたいと思っております」
…わかりました。彫刻の森、行きましょう。そのあとのポーラはよろしくお願いしますね?
「もちろんでございます。ちょうど、ほら」
運転手が窓の外を指差すと彫刻の森美術館を象徴する塔があった。車は駐車場に向かっていく。私は切ったはずの喉を擦り手を見る。喉は切れてないし手元に彫刻刀はない。確かにあなたにはお別れを言っていないねと思いながら車を降りた。
僕としたことが、らしくないことをした。らしくないことというより、ドライバーとして良くないことをしてしまった。お客様の希望のルートを変えてしまうなんて大変なことだ。不安になってしまって、ドアを開ける時に、
「申し訳ございません、出過ぎた真似を」
と謝罪した。
「お気になさらないで。確かに私は彫刻にお別れを言っていないんです」
と入口に進んでいく。ああ確かに、ここは彼女が学んでいた「彫刻」とは違うかもしれないと思った。完全に現代アートで、広々した敷地内に沢山のオブジェが散りばめられている。もっと調べてから言うべきだったと思った。だが、彼女は一つ一つのオブジェをまじまじと眺めている。
「私に足りなかったのは、自由だったのかもしれませんね」
と呟いた。
「ステンドグラスに囲まれた螺旋階段も、目玉焼きみたいな低いベンチも、全部授業で習った「彫刻」ではない。でも、これらは確かに人を魅了している。「彫刻の森」って名前も素敵よね。屋外に置くことによって空間そのものを彫刻にしてしまう。この空間は自由で、人を楽しませる彫刻で溢れてる。こういうことが出来ると知っていたら、私も彫刻を受け入れられたでしょうに」
と螺旋階段を見上げて言う。僕のような芸術に対して学がない者にはよくわからないが、彼女なりに彫刻と向き合っていることがわかる。
僕は彼女に彫刻刀を手渡した。
「これって」
「あなたの物です。我々Fドライバーはどんな要望でも叶えられるのですよ」
と言って彼女が彫刻と向き合うには「孤独」と「時間」が必要だ。
「制限時間はありません。満足されるまでご堪能ください。別れが済みましたら出口までお越しください」
と彼女のもとを去った。
3時間ほど経っただろうか。彼女が出口にやってきた。
「もう、よろしいのですか」
「ええ、ありがとう。別れを告げないといけないのは彫刻だけではないから」
と車の元に戻っていく。その背中には力強さが溢れていた。きっと上手く別れを言えたのだろう。
「お兄さん、お願いしますよ」
と振り返る。その顔はもう笑顔になっていた。
「は、はいっ、かしこまりました」
と僕は走っていった。
「ポーラ美術館には行かれたことがありますか」
と尋ねた。
「そりゃもちろん、絵画好きなら必ず行きますとも」
と彼女は言った。
「そうなんですね、僕は絵画に疎くて申し訳ないです」
と言うと、
「お兄さんは自由に見てていただいて構いませんよ。ポーラ美術館にも別れを告げなければならない相手がいるんです」
と真剣な声で返ってきた。
「左様でございますか。ですがそれだと最期の合流ができませんので時間を指定していただけますか」
「あー、そうなりますよね。うーん、3時間経ったら入口に戻ります」
「かしこまりました」
ちょうど目的地に着いた。とんでもなく停めにくい駐車場に僕が齷齪している間、彼女はガラスでできたその建物をじっと眺めていた。
「それでは、いってらっしゃいませ」
と言われて私は真っ先に印象派のエリアを目指した。常設エリアの場所はわかっているのでそこに向かおうとしたが、企画展でモネのコレクション展が行われているようだった。私はそこに向かった。
そこにはモネの作品が壁にズラリと並んでいた。あぁ、モネ。私が初めて見た睡蓮を生み出した人。私がカメラではなく筆を手に取るようになったきっかけを作った人。睡蓮の実物を見たことがあったかは忘れてしまったけれど、そもそもここにあの睡蓮はないということはわかっているけれど、最期にあなたの絵を見たかった。あなたが描く自然が見たかった。
ここは人気が全くない。私が来た時は人でごった返していたような気がするのだが。しかも最近は「映えるスポット」として見つけられてしまったらしく、マナーの悪い客が多いイメージだった。だが、ここは人気が全くない。私が一つ一つ絵を見るには十分だった。最期にこんな最高な環境であなたの世界を見れるだなんて。
その瞬間、ここはもはや美術館ではなくなった。窓だ。モネという神が創造した自然の風景を私は眺めている。モネという神が創造した国を旅行しているみたいだ。私はこの感覚が好きだ。この異世界に迷い込んだようなこの感覚が好きだ。車窓から煌びやかに変わる世界を眺めているようなこの感覚が好きだ。これをずっと味わっていたい。私がモネのように創造する側になれなかったという悔しさは一瞬で消えた。ただ、この旅の感覚を味わえなくなってしまうことが悲しくなった。
死にたくない
この景色をずっと見ていたい
この旅を終わらせたくない
そんな気持ちが溢れて景色が歪んでいく。3時間なんて時間じゃ全く足りない。3時間なんてタイムリミットを定めやがって!時間を意識した瞬間、私が乗る列車は速度を上げた。鮮明さが低くなった。もうすぐ終わってしまうのがわかる。終わらないで、終わらないで、おわらないで……
終点には、あの睡蓮があった。涙でぐしゃぐしゃになったこの酷い目でもはっきりと見える。最期に相応しい睡蓮の風景。その風景が私をこの世から送り出してくれるように感じた。きっと私はこの景色を想って死ぬのだろうと直感的に感じた。そして、死んでからも睡蓮の中で目が覚めることを強く望んだ。その時、手から零れ落ちるような創作意欲が浮かんできた。あぁもう、やめてくれ。私はこの後死んでしまうんだ。死ぬ前に作品を描きたいだなんて思う権利すらないんだ。でも描きたくて仕方ない。涙はいっそう多く溢れ、何も見えなくなった。
「おかえりなさいませ。お楽しみ頂けましたでしょうか」
と随分早く戻ってきた彼女に聞く。どうも急いでいる様子で、息を切らしていた。
「まだ時間はありますが」
「この後生きることは…出来ないんですよね…」
「ええ」
「死ぬ前に…なにか残すこともできないんですか」
あぁ、と思った。彼女はこの美術館で未練を生んでしまったのだろう。
「それは、あなた次第です。私が決めることではありません」
「そうですか…私、最期の足掻きをしたいんです」
と涙の跡をくっきり残した顔で言った。
「では、ここで?」
「えぇ。お世話になりました」
とお辞儀をする。
「はい。お気をつけておかえりください。この度はFプライベートツアーをご利用頂きまして誠にありがとうございました。」
と僕も深くお辞儀をした。顔を上げると彼女の姿は無く、夕焼けに照らされてキラキラと光る美術館だけがあった。彼女は何を遺すのだろう。
彼女、木寺千紗様の自殺は
『美大生、彫刻刀で自殺 絵画を一つ遺して』
と大々的に報道された。彼女は絵画を遺したようだ。その絵画は睡蓮の池に溺れた女性を描いたものだった。その絵は非常に高い評価を受け、在籍していた美大で作られた作品も評価されるようになった。彼女は今頃睡蓮に溺れて幸せに眠っているのだろうか。自分の作品に自信を持っていなかった彼女だったが、今の評価を知ったときどう思うのだろうか。
ふと、新聞の間から手紙が落ちる。
Fプライベートツアー運転手さま
先日お世話になりました、木寺千紗です。無事に死ぬことができて、なんと作品を描くこともできました。睡蓮と名付けました。最後に寄ったポーラ美術館で見た睡蓮の風景を描いたものです。あの時の私は涙で視界がぼやけて、それこそモネの世界に溺れていました。私はまだ絵がやりたいと思ってしまった。睡蓮に魅入られてしまった。そんな想いを込めて描きました。絵の才能がないと言われた私は、自分が見た景色をそのまま描くことに決めました。私が描いてきた絵の中で最も写実的な絵になりました。これで絵に別れを告げられたと思いました。もう満足です。あぁそれと。自分のイニシャルを彫刻刀で彫りました。自殺の道具にしてごめんなさい、あなたも私の作品の一部ですよと謝罪を込めたつもりです。絵は私の死体の横にあると思います。この絵は大した評価もされずに燃えるかもしれないけれど、それでもいいと思いました。燃えて、モネに届いてでもくれたらそれこそ人生最高の幸せです。あの時あなたは気付いていたんでしょうが、モネの絵を見た瞬間にまだ生きたいと思ってしまいました。爆発した創作意欲をどうにかしたくて堪りませんでした。あなたはあの時、「あなた次第です」と言いましたね。その言葉が最期に勇気をくれたのです。その言葉が遺作を創らせたのです。あなたは凄い方ですね。きっとあなたは今までも多くの人を救ってきたのでしょう。これからも最期に人を救ってあげてください。
木寺千紗
自殺を選ぶのは一般的には良くないとされている。彼女も未練を感じて苦しんだように、自分で人生を終えてしまうのはあまりにも後悔の多い選択だろう。でも、他人に自分の傷跡を遺せるかどうかは自分次第。彼女は自分が生きた証を最期に遺せたのだ。きっと彼女は笑っている、睡蓮の中で。
第3話 木寺千紗 26歳 行き先:箱根町 終
「プライベートツアーの方?」
と女性が声をかけてきた。
「はい、木寺千紗様でいらっしゃいますか?」
と尋ねる。26歳と聞いていたが、かなり大人っぽい雰囲気を纏っている。言葉遣いも綺麗で知的な印象だ。
「はい。木寺千紗と申します。本日はよろしくお願い致します」
と深々とお辞儀をする。僕は慌てて、
「こちらこそこの度はFプライベートツアーをご利用頂きまして誠にありがとうございます。私が担当のドライバーでございます。本日は1日よろしくお願い致します。」
と挨拶をし、ドアを開ける。
「どうも」
と屈んで入っていく。
「失礼致します」
と僕も車に乗りこみ、
「本日は箱根の美術館を巡るとのことですが、お間違いないでしょうか」
と今日のプランを訊ねる。
「はい、行く美術館はこちらで決めていいんですよね」
「もちろんでございます」
「嬉しいです、そんなツアーに参加できるなんて」
と彼女は手を合わせて喜んだ。
「では、まずポーラ美術館に。次にラリック美術館、最後は…うーん、ガラスの森美術館にしようかしら」
と楽しそうに話す。
「ポーラ美術館、ラリック美術館、ガラスの森美術館ですね。かしこまりました。道中山道を通ることが想定されますので、シートベルトのご着用をお願い致します。ご気分が悪くなられましたら遠慮無くお声かけください」
とルートを練り注意事項を伝える。
「わかりました。楽しみだわ。あ、時間は大丈夫なのかしら。閉館時間とかあるでしょうし」
「その点はお気になさらないでください。それぞれの美術館をご満足されるまでお楽しみいただけます。行く順序は如何なさいますか」
「まぁ凄い!想像以上に楽しめそうだわ!順序はお任せするわ。行きやすい順序があるでしょう」
「かしこまりました、ではまず、ガラスの森美術館へ向います」
とお客様がシートベルトをしたのを確認して発車した。今回はどんな旅になるだろう。
「お兄さんはこの辺来たことがあるんですか?」
お客様がわくわくしながら声をかけてくる。
「いいえ、ないですね。美術館に縁がなかったものですから」
「あらまぁ!それは人生損してますわ、ではお兄さんも今日は楽しんでくださいね」
「ありがとうございます」
思えば、箱根どころか美術館に行く経験はほとんどなかった気がする。昔あったかもしれないが、記憶にない。僕にとっては退屈でしかなかったのだろう。とはいえ、今日の美術館3つのうち2つは少し変わり種だ。ガラスの森美術館とラリック美術館はガラス工芸の美術館らしい。西洋美術史に疎い僕でも楽しめそうだ。にしても、山奥にあるんだな。曲がり道をぐんぐん登っていく。
「曲がり道と上り坂が続きますのでお気をつけください」
と言うと、
「はーい」
と元気のいい返事が返ってくる。なるべく負荷をかけないように山道を進んでいく。
ガラスの森美術館に到着した。入口時点できらきらとしたガラスの木が見える。
「お客様、お待たせいたしました。ガラスの森美術館に到着致しました」
と言って車を停め、お客様を降ろす。
「ありがとうございます、やっぱりここは素敵ですね!」
ときょろきょろしながら言う。
「以前もいらしたことがあるのですか」
「ええ!でもこの時期じゃなかったわ」
「時期によって違いが?」
「そうよ!お庭のガラス装飾が変わるのよ!」
と嬉しそうに言う。はしゃいでいる彼女の空気感にのまれそうになりながら入口を通り、庭園へ向かう。そこにはガラスでできた水上花火があった。
「あれは…花火ですか?」
「そうみたいです!あそこには紫陽花もありますよ!」
「本当ですね」
美しいガラスの庭園に心が奪われる。彼女はその庭園をうろうろしており、展示室に向かおうとしない。
「展示室には行かれないのですか」
と尋ねると、
「ここは庭園がいいんですよ。ガラスなら次行くラリックでも見れますから」
と言った。僕は案内人ではなく、お客様にとっての脚である。
「かしこまりました」
とはしゃぐ彼女を見るだけだった。彼女は間近でガラスを見ながら話を始める。
「私ここ何度も来てるんですよね。桜の時期も、クリスマスの時期も、秋も。ただ夏だけは今回初めて来ました。だから来れて本当に嬉しいです」
「左様ございますか。それはよかったです」
「特に桜の時期が最高でしたね。透明なはずなのに桜に見える植物。今にも散ってしまいそうな儚さを漂わせているのに絶対に散らない花びら。こんなことができてしまう人間がいるんだなぁと…」
話す彼女は少し悲しそうだった。太陽の光を反射して目を突き刺す刃となったガラスの花を瞬きもせず眺め続けていた。
車に乗りこみ、ラリック美術館に向かう。悲しそうな表情をしている彼女をバックミラー越しに見て、次の案内をする。
「次はラリック美術館に向かいます。失礼ながら、ラリックという人物を初めて知りました。ガラスが見れるとのことでしたね。ガラス作家の方なのですか?」
と彼女の元気を引き出せるように声をかける。
「えぇ。ガラスだけじゃなくて彫刻とか絵とか幅広くやってる人ですよ。香水瓶とか作ってる人です」
「そうなのですね。お詳しいのですね」
「えぇ、まぁ。私も美術を学ぶ者でしたから」
「過去形ですか?」
「このツアーは明日死ぬ人のためのツアーでしょう?だから過去形でもいいじゃありませんか」
僕は何も答えない。返すべき言葉が見つからず、ただハンドルを握って曲がり道を見つめる。
「聞いたりしないんですね」
「何をです?」
「そりゃぁ…死因だったり動機だったり」
「お客様個人のことに首を突っ込むつもりはありませんから」
「まぁさすが接客業の方。でもまぁ私が勝手に話すことは構わないのでしょう?」
また何も答えない。
「そこで黙ってしまうのね。新人さんではないでしょうに」
「…困りますよ」
と溜息をつきバックミラーを見ると彼女はくすくすと笑っていた。
「ごめんなさいね、つい。勝手に話すから気にしないでくださいね。私はね、自殺ですよ」
と自分の死の動機を話し始めた。
私は東京の美大生でした。といっても現役合格はできなくて2浪して入学しました。でも、私には絵の才能がなくて、底辺を進んでいる感じです。そんなとき、教授に才能があると言われたのは彫刻だったんです。ガラス細工なら興味があったのでそれを教授に伝えたらガラス細工はまた別のものだからと。その教授の言葉は確かに正しくて、専攻を彫刻に変えたらいい成績が取れるようになって、賞も貰えるようになりました。でも、私は絵がやりたい気持ちを忘れられなくて。卒業制作では絵も活かしたいと伝えても受け入れてくれなかったんです。私はなんのために高いお金と時間を費やして美大に入ったんだって考えるようになってしまって。そしたらプツリと何かが切れてしまいました。それで死にました。
「 」
本当に何も言わないんですね。私がここまでなってしまったのは彫刻のせいでした。だから凶器は彫刻刀を選びました。彫刻刀で喉を掻っ切ってやりました。痛いけど何年も共にした刀ですから、思い通りに使えてしまうんですよね。
「行き先、変えてもよろしいですか」
えっどこへ?
「近くにありますでしょう、彫刻の森美術館というところが」
さっきの話本当に聞いてなかったんですね?彫刻嫌いなんです。
「だからですよ」
はい?
「この車に乗ってしまった時点であなたの死は確定です。この時間はあなたが意志を持って行動できる最後の時間です。その時間まで彫刻を憎み続けているのが悲しいのです。あなたは絵がやりたかっただけで彫刻が元々嫌いだったわけじゃないのでしょう?」
…なんだ、ちゃんと聞いてるじゃないですか。あそこは彫刻の森、といってもほぼ現代アートですから少し違うと思いますよ。
「それでも、私はあなたが彫刻と向き合う時間を差し上げたいと思っております」
…わかりました。彫刻の森、行きましょう。そのあとのポーラはよろしくお願いしますね?
「もちろんでございます。ちょうど、ほら」
運転手が窓の外を指差すと彫刻の森美術館を象徴する塔があった。車は駐車場に向かっていく。私は切ったはずの喉を擦り手を見る。喉は切れてないし手元に彫刻刀はない。確かにあなたにはお別れを言っていないねと思いながら車を降りた。
僕としたことが、らしくないことをした。らしくないことというより、ドライバーとして良くないことをしてしまった。お客様の希望のルートを変えてしまうなんて大変なことだ。不安になってしまって、ドアを開ける時に、
「申し訳ございません、出過ぎた真似を」
と謝罪した。
「お気になさらないで。確かに私は彫刻にお別れを言っていないんです」
と入口に進んでいく。ああ確かに、ここは彼女が学んでいた「彫刻」とは違うかもしれないと思った。完全に現代アートで、広々した敷地内に沢山のオブジェが散りばめられている。もっと調べてから言うべきだったと思った。だが、彼女は一つ一つのオブジェをまじまじと眺めている。
「私に足りなかったのは、自由だったのかもしれませんね」
と呟いた。
「ステンドグラスに囲まれた螺旋階段も、目玉焼きみたいな低いベンチも、全部授業で習った「彫刻」ではない。でも、これらは確かに人を魅了している。「彫刻の森」って名前も素敵よね。屋外に置くことによって空間そのものを彫刻にしてしまう。この空間は自由で、人を楽しませる彫刻で溢れてる。こういうことが出来ると知っていたら、私も彫刻を受け入れられたでしょうに」
と螺旋階段を見上げて言う。僕のような芸術に対して学がない者にはよくわからないが、彼女なりに彫刻と向き合っていることがわかる。
僕は彼女に彫刻刀を手渡した。
「これって」
「あなたの物です。我々Fドライバーはどんな要望でも叶えられるのですよ」
と言って彼女が彫刻と向き合うには「孤独」と「時間」が必要だ。
「制限時間はありません。満足されるまでご堪能ください。別れが済みましたら出口までお越しください」
と彼女のもとを去った。
3時間ほど経っただろうか。彼女が出口にやってきた。
「もう、よろしいのですか」
「ええ、ありがとう。別れを告げないといけないのは彫刻だけではないから」
と車の元に戻っていく。その背中には力強さが溢れていた。きっと上手く別れを言えたのだろう。
「お兄さん、お願いしますよ」
と振り返る。その顔はもう笑顔になっていた。
「は、はいっ、かしこまりました」
と僕は走っていった。
「ポーラ美術館には行かれたことがありますか」
と尋ねた。
「そりゃもちろん、絵画好きなら必ず行きますとも」
と彼女は言った。
「そうなんですね、僕は絵画に疎くて申し訳ないです」
と言うと、
「お兄さんは自由に見てていただいて構いませんよ。ポーラ美術館にも別れを告げなければならない相手がいるんです」
と真剣な声で返ってきた。
「左様でございますか。ですがそれだと最期の合流ができませんので時間を指定していただけますか」
「あー、そうなりますよね。うーん、3時間経ったら入口に戻ります」
「かしこまりました」
ちょうど目的地に着いた。とんでもなく停めにくい駐車場に僕が齷齪している間、彼女はガラスでできたその建物をじっと眺めていた。
「それでは、いってらっしゃいませ」
と言われて私は真っ先に印象派のエリアを目指した。常設エリアの場所はわかっているのでそこに向かおうとしたが、企画展でモネのコレクション展が行われているようだった。私はそこに向かった。
そこにはモネの作品が壁にズラリと並んでいた。あぁ、モネ。私が初めて見た睡蓮を生み出した人。私がカメラではなく筆を手に取るようになったきっかけを作った人。睡蓮の実物を見たことがあったかは忘れてしまったけれど、そもそもここにあの睡蓮はないということはわかっているけれど、最期にあなたの絵を見たかった。あなたが描く自然が見たかった。
ここは人気が全くない。私が来た時は人でごった返していたような気がするのだが。しかも最近は「映えるスポット」として見つけられてしまったらしく、マナーの悪い客が多いイメージだった。だが、ここは人気が全くない。私が一つ一つ絵を見るには十分だった。最期にこんな最高な環境であなたの世界を見れるだなんて。
その瞬間、ここはもはや美術館ではなくなった。窓だ。モネという神が創造した自然の風景を私は眺めている。モネという神が創造した国を旅行しているみたいだ。私はこの感覚が好きだ。この異世界に迷い込んだようなこの感覚が好きだ。車窓から煌びやかに変わる世界を眺めているようなこの感覚が好きだ。これをずっと味わっていたい。私がモネのように創造する側になれなかったという悔しさは一瞬で消えた。ただ、この旅の感覚を味わえなくなってしまうことが悲しくなった。
死にたくない
この景色をずっと見ていたい
この旅を終わらせたくない
そんな気持ちが溢れて景色が歪んでいく。3時間なんて時間じゃ全く足りない。3時間なんてタイムリミットを定めやがって!時間を意識した瞬間、私が乗る列車は速度を上げた。鮮明さが低くなった。もうすぐ終わってしまうのがわかる。終わらないで、終わらないで、おわらないで……
終点には、あの睡蓮があった。涙でぐしゃぐしゃになったこの酷い目でもはっきりと見える。最期に相応しい睡蓮の風景。その風景が私をこの世から送り出してくれるように感じた。きっと私はこの景色を想って死ぬのだろうと直感的に感じた。そして、死んでからも睡蓮の中で目が覚めることを強く望んだ。その時、手から零れ落ちるような創作意欲が浮かんできた。あぁもう、やめてくれ。私はこの後死んでしまうんだ。死ぬ前に作品を描きたいだなんて思う権利すらないんだ。でも描きたくて仕方ない。涙はいっそう多く溢れ、何も見えなくなった。
「おかえりなさいませ。お楽しみ頂けましたでしょうか」
と随分早く戻ってきた彼女に聞く。どうも急いでいる様子で、息を切らしていた。
「まだ時間はありますが」
「この後生きることは…出来ないんですよね…」
「ええ」
「死ぬ前に…なにか残すこともできないんですか」
あぁ、と思った。彼女はこの美術館で未練を生んでしまったのだろう。
「それは、あなた次第です。私が決めることではありません」
「そうですか…私、最期の足掻きをしたいんです」
と涙の跡をくっきり残した顔で言った。
「では、ここで?」
「えぇ。お世話になりました」
とお辞儀をする。
「はい。お気をつけておかえりください。この度はFプライベートツアーをご利用頂きまして誠にありがとうございました。」
と僕も深くお辞儀をした。顔を上げると彼女の姿は無く、夕焼けに照らされてキラキラと光る美術館だけがあった。彼女は何を遺すのだろう。
彼女、木寺千紗様の自殺は
『美大生、彫刻刀で自殺 絵画を一つ遺して』
と大々的に報道された。彼女は絵画を遺したようだ。その絵画は睡蓮の池に溺れた女性を描いたものだった。その絵は非常に高い評価を受け、在籍していた美大で作られた作品も評価されるようになった。彼女は今頃睡蓮に溺れて幸せに眠っているのだろうか。自分の作品に自信を持っていなかった彼女だったが、今の評価を知ったときどう思うのだろうか。
ふと、新聞の間から手紙が落ちる。
Fプライベートツアー運転手さま
先日お世話になりました、木寺千紗です。無事に死ぬことができて、なんと作品を描くこともできました。睡蓮と名付けました。最後に寄ったポーラ美術館で見た睡蓮の風景を描いたものです。あの時の私は涙で視界がぼやけて、それこそモネの世界に溺れていました。私はまだ絵がやりたいと思ってしまった。睡蓮に魅入られてしまった。そんな想いを込めて描きました。絵の才能がないと言われた私は、自分が見た景色をそのまま描くことに決めました。私が描いてきた絵の中で最も写実的な絵になりました。これで絵に別れを告げられたと思いました。もう満足です。あぁそれと。自分のイニシャルを彫刻刀で彫りました。自殺の道具にしてごめんなさい、あなたも私の作品の一部ですよと謝罪を込めたつもりです。絵は私の死体の横にあると思います。この絵は大した評価もされずに燃えるかもしれないけれど、それでもいいと思いました。燃えて、モネに届いてでもくれたらそれこそ人生最高の幸せです。あの時あなたは気付いていたんでしょうが、モネの絵を見た瞬間にまだ生きたいと思ってしまいました。爆発した創作意欲をどうにかしたくて堪りませんでした。あなたはあの時、「あなた次第です」と言いましたね。その言葉が最期に勇気をくれたのです。その言葉が遺作を創らせたのです。あなたは凄い方ですね。きっとあなたは今までも多くの人を救ってきたのでしょう。これからも最期に人を救ってあげてください。
木寺千紗
自殺を選ぶのは一般的には良くないとされている。彼女も未練を感じて苦しんだように、自分で人生を終えてしまうのはあまりにも後悔の多い選択だろう。でも、他人に自分の傷跡を遺せるかどうかは自分次第。彼女は自分が生きた証を最期に遺せたのだ。きっと彼女は笑っている、睡蓮の中で。
第3話 木寺千紗 26歳 行き先:箱根町 終
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