犬の町

とらとら

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犬の町

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 その日は朝から雨だった。
 シトシトと降り続く長雨の中を、いちごはお気に入りのサクランボ柄の傘をさして、愛犬のクルミと散歩に出かけた。

 今日は日曜日で学校は休みだ。本当なら、太陽が燦々と輝く昼頃だというのに、涙を流し続ける雨雲が、一面の空を覆っていて暗い。
 愛犬のクルミはラブラドール・レトリバーで、クリーム色の短い毛と、長く太い尻尾が特徴的な犬だ。
 普段、クルミには服など着せないが、雨の日の散歩には、緑色のレインコートを着せることになっていた。濡れた路面を歩くクルミは、レインコートが窮屈なのか、いつもは散歩中、嬉しそうに振っている尻尾を遠慮がちに揺らしているだけだ。

 苺は雨の日の散歩が嫌いだった。右手に傘、左手にリードとフンを入れる袋を持っていて大変なのに、クルミは草むらがあればそっちにフラフラ、空き缶が落ちていればこっちにフラフラして、全く落ち着きがない。

 クルミを飼い始めて1年になるが、その力は日増しに強くなるようで、14歳という年齢の割に小柄な苺には、雨の日の散歩は大変なことだった。
 両手でリードを持っていれば何とか踏ん張れるが、片手に傘を持っていると、それも出来ない。そうなるとクルミは行きたい放題、苺のことなどお構いなしで、縦横無尽に街を散策してしまうのだ。今日もそんな散歩をさせられるのかと思うと、苺は憂鬱にならずにはいられなかった。

 家を出て少しした頃、苺とクルミは廃墟の前を通りかかった。その廃墟は、もとは何かの工場だったのだが、今は使われておらず子供たちの遊び場になっているところだった。
 幽霊が出るなどの噂があったりして、ちょっとした探検にはもってこいの場所だったが、苺は1度も入ったことがなかった。天気のいい日には、子供たちの遊ぶ声が聞こえるのだが、今日のような雨では子供たちも外では遊ばず、廃工場は静まり返っていた。
 廃墟を探検するほど、苺は子供ではなかったが、少しの興味は持っていた。普段なら絶対に入らないが、今日は他に誰もいないようだし、苺はふと、立ち寄ってみるかという気になり、クルミを連れて廃工場へと向かった。

 廃工場の周りには申し訳程度の鉄線が張られていたが、人の侵入が多いためか、途切れていたり、すっかり地面についてしまっている所もある。苺とクルミは鉄線の切れ目から廃工場の敷地へと入った。
 土のある所は草が伸び放題だったが、子供たちが踏みならしたのか、いくつかの獣道のようなものが出来ていた。そのため、苺とクルミは、難なく建物に辿り着くことが出来た。

 建物内部は薄暗く、静寂の中で雨の降る音だけが響いていた。この暗さは、天気の悪さもあったが、何より窓が小さく、少ないせいでもあった。
 何かの倉庫だったのだろうか、だだっ広い空間が広がっているだけで物がほとんどない。あるものと言えば、隅っこの方に鉄の支柱などの資材が、幾つか置き去りにされているだけだ。赤い塗装が剥げかけた資材の上には、子供が置いていったと思われる空き缶が並んでいる。

 苺は傘をたたんだ。
 天井から雨水が滴り落ち、雨漏りしているところもあるが、そこを避ければ傘など必要なかった。

 クルミに引っ張られるように、苺は奥へと進んで行く。広い空間の中は、奥にいくほど影が濃くなっているような気がする。
 ふと、苺は頬に当たる冷たい風の流れを感じた。壁に穴でも開いていて、そこから風が入ってきているのかと思ったが、どうやら違うようだ。
 風は地の底から湧き上がるように、低く唸りをあげて吹きつけてくる。生温い風が苺の短い髪を揺らした。

 苺は少し怖くなって、引き返そうと身体を反転させた。だが、愛犬のクルミが言うことをきかない。何とか帰ろうと、両手に力を込めてリードを引こうとした瞬間、クルミが大きく吠えた。クルミの声が広い空間で反響する。
 突然の咆哮に、苺の心臓が大きく跳ねた。

「な、何なのよ……もうっ」

 声を震わせながら、苺は恐る恐る、クルミの吠えた方に目をやった。すると、すぐ目の前の地面に、大きな穴があいているのに気づいた。
 薄闇の中、辛うじて見える穴は、直径3メートルくらいだろうか、どこまでも続く真っ暗闇が口を開けて待っている。

「一体、何の工場だったんだろう……?」

 ボソッと呟いた苺の声が、広い空間で広がって消えた。恐怖はもちろんあったのだが、苺は好奇心に抗えず、穴の底を覗き見た。

 その時、何を血迷ったのか、クルミが穴に飛び込んだ。

 予測不能な出来事だった。
 何の準備もしていなかった苺の体が、落下していくクルミに引っ張られて傾く。苺は慌ててリードを引っ張ったが、後の祭り。クルミ諸共、深い穴の底へと落ちていく。
悲鳴を上げながら暗い穴を落ちていく苺は、手に持ったリードを強く強く握りしめた。

 * * * * *

 目を覚ましたとき、苺は暗闇の中にいた。
 訳がわからず、とりあえず体を起こしてみる。すると、思いのほか低かった天井に、頭をしこたま打ちつけた。

「痛いっ! 何で…!?」

 穴の中を、まっ逆さまに落ちた苺の記憶が確かなら、頭を打ちつける天井などないはずであった。
 涙目になりながら打ちつけた頭を撫でると、ポッコリと腫れてタンコブが出来ている。その感触に、さらに涙が込みあげてくる。穴への落下は夢だったのかと訝しがるが、それではこの状況の説明がつかない。

 苺は混乱していた。ふと気付くと、一緒に落ちたはずのクルミの気配が感じられない。

「クルミ?」

 名前を呼んでみたが、辺りの空気に変化はない。
 仕方がないので、周りの地面を探ってみると、ロープのようなものに手が触れた。手繰り寄せると、先の方に首輪がついている。どうやらクルミのものらしいが、肝心のクルミは、首輪が外れて、どこかに行ってしまったようだ。

 よく目を凝らして辺りを見回してみると、前方に微かな光が見える。真っ暗闇だと思っていたのに、中空に浮かぶそれは、夜空に輝く一粒の星のように小さく瞬いていた。
 苺は、それを頼りに進んでみることにした。

 光を目指して進むうちに、苺は、自分が狭い洞窟のような場所にいるらしいことがわかった。暗闇の空間には横幅がなく、すぐ上に天井が迫っていたため、四つん這いになって進むしかなかった。

 赤ちゃんのようにハイハイをして少し進むと、何かに手が触れた。ヌメッとした感触に驚いたが、自分の傘であることがわかると、少し笑えた。
 傘とリードを手に、苺は暗闇の中を進んでいく。慣れない姿勢で進まなければいけないので体力の消耗は激しいが、次第に光の粒は大きくなり、ザワザワと、町の喧騒が聞こえ始めた。
 光が外に繋がっているらしいことがわかると、苺は疲れも忘れて歩みを早めた。

 ようやく洞窟を抜け出せた時、苺はギョッとした。目の前には、子供サイズの小さな家々が立ち並び、二足歩行の犬たちが、我が物顔で闊歩していたのだ。

 犬たちは人の言葉を話し、思い思いに世間話などをしている。

「キャシーの店に行ってみたかい?」

「ああ、行ったよ、新メニューのレバーのドックフード、なかなか美味かった」

 食べ物の話で盛り上がっているのは、短い尻尾と黒い艶やかな毛並みが特徴のドーベルマンと、ラブラドールに似ているが、ラブラドールよりも長く柔らかい毛を持つゴールデン・レトリバーだ。

 視線を別に向けると、クルクルとした短い毛のマルチーズに、サラサラと長く伸びた白い毛のシーズーといった小型犬が集まり、互いの毛並みを褒めあっている。

「あなたの毛並み素敵ね~、シャンプーは何を使ってるの?」

「私はいつも犬印のシャンプーを使ってるわ。それ以外は肌に合わないのよ」

 苺が壁に開いた横穴から這い出し、呆然とその光景を見ていると、潤んだ愛らしい瞳を持つチワワが、苺の存在に気づいた。その瞬間、チワワは、その小さな体からは想像できない大声をあげた。

「人間だぁ! 人間がいるー!!」

 チワワの金切り声を聞いて、辺りの犬たちが何の騒ぎかと、こちらに注目する。そして、犬たちは人間の存在に気づくと、途端に苺に押し寄せてきた。

「わあ、人間だ! 遊んで、遊んで!」

「僕の頭を撫でよ!」

「私はお腹を撫でて!」

 種類も様々な犬たちが、口々に苺に詰め寄る。どうやら、ここの犬たちは人間の愛情に飢えているようだ。
 苺は揉みくちゃにされながら、誰かが自分の手を引っ張っていることに気づいた。

「クルミ……?」

 苺は引っ張られるまま、犬たちの集団から逃れると、人気のない路地裏に来ていた。手を引っ張っていたのはクルミかと思ったが、違ったようだ。

 苺を助けてくれたのは、クルミと同じぐらいの大きさの雑種の犬だった。
 日本犬の雑種らしく、三角の耳がピンと立ち、フサフサの尻尾が弧を描いて揺れている。

「ふ~、危なかったね! 大丈夫?」

 この犬も他の犬と同じように2本足で立ち、白く尖った歯をチラチラと見せながら、人間の言葉を喋っている。

「ボクはギンジ。君は?」

「わ、私は、苺……」

「苺さんか! 素敵な名前だね」

 小さくかすれた声で名乗ったにも関わらず、ギンジがしっかりと名前を聞き取れていたことに、苺は驚いた。さすがは犬と言ったところか。
 人間のような仕草や暮らしをしていても、人が及びもしない犬の能力は、ちゃんと持っているようだ。

 黒い肉球のついた前足を忙しそうに動かしながら、ギンジは苺に話しかける。

「さっきのでわかったと思うんだけど、ここに人間がいるのは、とても珍しいことなんだ。他の犬たちに見つかったら、また大混乱が起きちゃう……良かったら、苺さんをボクの家に招待したいんだけど……」

 ギンジは上目遣いで苺を見上げた。ひどく混乱していた苺は、ひとまず、落ち着ける場所に行きたいと思った。
 苺はギンジの言葉に甘え、ギンジの家への招待を受けることにした。

 * * * * *

 ギンジの家も他の家と同様、子供サイズで作られていた。同年代の女の子より少し背の低い苺でも、窮屈に感じられる。
 小さな入り口で苺は、身を屈めて入らなければならなかったが、ギンジは難なく二足歩行のまま通り抜けた。どうやらこの町は、犬のサイズで作られているらしい。

 苺は小さなイスに腰掛け、目の前の、これまた小さなテーブルにクルミのリードを置き、サクランボ柄の傘を立てかけた。

 ギンジは、小さなカップに水を入れて苺にさし出した。
 喉がカラカラだった苺は、小さなカップを手に取り、水を一気に飲み干した。それを見て、ギンジは嬉しそうに尻尾をパタパタ振りながら、小さなポットで苺のカップに水を注いだ。まるでおままごとみたい、と苺は思った。

 ギンジは、テーブルの上に置かれたリードをチラリと見て言った。

「このリードは苺さんの……?」

「うん、私のペットのなんだけど、はぐれちゃって……クルミっていうラブラドールなんだけど、見なかった? 緑色のレインコートを着てるんだけど」

「ごめんなさい。見てないや」

 ギンジは申し訳なさそうに、ピンと立てた耳を少し下に向けた。

「そっか……どこ行っちゃったんだろう?」

 ギンジにつられるように苺もしょんぼりと肩を落とし、カップの水を弱々しく啜った。そんな苺の様子を見て、ギンジは思い出したように呟く。

「……管理人さんなら知ってるかもしれない」

「管理人さん?」

 苺が訊ねるように繰り返したが、ギンジはそれには答えず『とにかく行こう』と、苺の手を引っ張った。
 ギンジに引っ張られ、苺は危うくカップを落として割ってしまうところだった。
 落ち着いてカップをテーブルの上に置き、リードを掴むと、苺はギンジに続いて屈んで家を出た。

「他の犬に見つかったら、また揉みくちゃにされちゃうから気をつけてね」

 ギンジにそう注意され、さっきの光景を思い出した苺は身震いした。犬は大好きなのだが、あんなに必死に、しかも大勢に詰め寄られると、怖いものがある。苺は細心の注意を払って、ギンジの後を追いかけた。

 * * * * *

 苺とギンジは町外れの丘へとやってきた。その丘は町がすっかり見渡せて、まるでミニチュアの町を見ているような気分にさせる。
 犬のサイズに合わせて作られたこの町は、そのままでも、苺にとっては充分にミニチュアのようだったけれど。
 それでも、より小さくなった町は窮屈という印象ではなく、可愛らしく見えた。

 暫く町を眺めていると、いつの間に現れたのだろう、ピエロのような格好をした男が苺の隣に立っていた。星が並んだとんがり帽子に、赤い鼻、左の頬には、水色の涙の模様がペイントしてある。

「あ、あなたが管理人さん?」

 苺は心臓が口から飛び出しそうなほど驚いたが、気持ちを落ち着けようと静かな声で訊いた。

「はいはい、そうでございますよ」

 管理人はその風貌に合った、コミカルな口調で答えた。そんな管理人に、苺は少し落ち着きを取り戻してきたようだ。奇妙な格好をしてはいるが、人間であることが苺に安心感を与えた。
 この町にはてっきり、犬しかいないものだと思っていたのだ。

「苺さん、クルミさんのことを……」

 ギンジに促され、苺は管理人に会いに来た理由を思い出した。

「あの、クルミっていう名前のラブラドールが、どこにいるか知りませんか?」

「ふむふむ。ところでお嬢さんは、ここがどういった場所か、ご存知ですか?」

 質問に質問で返され、苺はたじろいだ。さっきまでは好感が持てた管理人も、話が通じないとなると見方が変わってくる。
 苺は何だか、馬鹿にされているような気持ちになった。

「……いいえ。知りません」

「ではでは、お教えしましょう。一言で言ってしまうと、ここは野良犬が集まる町です。つまり人間に捨てられたり、飼い主のもとから逃げ出した犬を受け入れる町なのです。そして、ここが重要! クルミさんはこの町に、自らの足で来ました。しかも飼い主のお嬢さんのところに、首輪とリードを置いて……。それが何を意味するか、わかりますか?」

 話に合わせて手を動かし、コロコロと表情を変える管理人に、苺はますます馬鹿にされているような気分を強めていた。苺は、手に持ったクルミの首輪を強く握り締めた。

 不快そうな苺の表情にも気づかない様子で、管理人は話を続ける。

「首輪とリードは、飼い主とペットを繋ぐ大切なもの。言わば、お嬢さんとクルミさんの絆のようなものです。それを置いていくということは、クルミさんがお嬢さんのもとから逃げ出したということになるのですよ」

 管理人は、嘲るようにおどけてみせた。

「そんな!」

 非難の声を上げる苺に、管理人はすかさず言葉を続けた。

「思い当たることが、あるんじゃないですか?」

「そんなこと……ない、と思う……」

 言葉を紡ぐほどに、苺の声が弱々しく、途切れがちになる。苺は思い返していた。クルミが、初めて家に来た時のことを――

 生後45日で家にやってきたクルミはまだ小さく、子犬らしいでっぷりとした腹が何とも言えず愛らしかった。
 始めのうちは楽しく世話をしていた苺だったが、クルミは大きくなるにつれ、やんちゃが増え、苺を怒らせることが増えていった。
 そうして1年ほど経った今、クルミの世話は煩わしく感じることが多くなり、散歩は近所を回るだけで、遊んでやるということも少なくなっていた。

「悲しいですか? ペットに愛想をつかされて」

 涙ぐむ苺に、管理人は冷たく突き放すように言った。

「だけど、クルミさんは、それ以上に悲しかったと思いますよ。クルミさんにとって……いや、多くのペットにとって、あなたたち飼い主が何よりも大切な存在なのに、お嬢さんは、ちっともクルミさんの気持ちを考えていない。大切にされていない。愛されていない。そんな想いが、クルミさんをこの町へ連れてきたのかもしれません」

 高慢な態度に思えた管理人が、今は優しく自分を諭してくれているように思える。

 苺は悔やんでいた。犬を飼うことの責任を、ちゃんと理解していなかったことを。ペットは可愛いだけじゃない。命ある生き物なのだ。
 ペットを育てるということは、命を育てるということだ。だけど、苺はペットの可愛い部分しか見ていなかった。高慢だったのは自分の方だ。
 生きているということは当然、手間のかかる世話をするということだ。それをしっかり考えもせずに、苺はクルミを悲しませていたのだ。

 苺は管理人に返す言葉もなく、ただただ、頬を涙で濡らすばかりだった。反省と後悔の念が心の中を行ったり来たりして、苺の胸は締めつけられるように痛んだ。

 辛そうな苺を見て、ギンジが管理人に訴えた。

「だけど、苺さんはクルミさんを大切に思っています! だって、今こうして、必死に探しているんだから」

 ギンジの言葉を受け、苺も管理人に自分の気持ちを訴えた。

「管理人さん、お願い。クルミがどこにいるのか教えて! 私、クルミに謝りたいの!!」

 * * * * *

 その頃、クルミは自由を満喫するかのように酒場で、町の犬たちとドンチャン騒ぎをしていた。酒場の犬たちは、犬用のノンアルコールのビールを飲んでいる。

「人間なんて、みんないなくなっちまえばいいんだ!」

「そうだ、そうだ! 俺たちは物じゃねえ! 生きてるんだ」

「お前もそう思うだろ? 新入り!」

「う、うん!」

 緑色のレインコートを着込んだクルミは、酔いもしないビールを飲んではしゃいでいる犬たちの中で、ただ1匹、浮かない顔をしていた。そこに、苺とギンジが飛び込んでくる。

「クルミ!」

「イチゴちゃん……!」

 苺の呼びかけに反応して、クルミの瞳が一瞬、輝いた。だが、その輝きは、犬たちの声にかき消されてしまった。

「人間だ! 人間が来たぞ!!」

 さっきまで毒づいていた犬たちが騒ぎ出す。犬たちは、突如現れた人間に、ワンワンと吠えたてた。中には、牙を剥いて唸りだすものまでいる。

「お前が、クルミの飼い主だった人間だな!」

 1匹の犬が言った。すると、他の犬も呼応するように、口々に罵声を浴びせてくる。

「今更、何の用だ! クルミはお前から逃げたんだ、もう俺たちの仲間だ!」

「そうだ、そうだ! 人間は帰れ!」

「そうだ、帰れ! 帰れ!」

 険悪な雰囲気に、ギンジが慌てて仲裁をしようと、間に割って入った。しかし、人間に味方するようなギンジの行動に、酒場の犬たちは余計に腹をたて、更に吠えたてた。

 喧騒に混ざって、苺の耳にクルミの声が届く。

「帰れ…帰れ……!」

 搾り出すようなクルミの声を聞いて、苺は立ち尽くした。自分を拒絶するクルミの言葉が、胸に鋭く突き刺さる。
 凶暴な犬たちが、いつ襲いかかってくるか分からないこの状況を危険だと感じ、ギンジは、急いで苺の手を引いて酒場を後にした。

 外に出た苺とギンジを、酒場の前に集まっていた犬たちが取り囲む。
 尋常ではない騒ぎに、みんな、何事かと様子を見に来ていたのだ。そこに人間を見つけ、犬たちは興奮した様子で、ブンブン尻尾を振って苺に飛びついた。

「ねえ、僕を飼ってよ!」

「頭を撫でて!」

「遊んで遊んで!」

 愛情に飢えた犬たちを前に、苺がうろたえていると、どこから現れたのか、管理人が近づいてきた。管理人は、苺に取り縋る犬たちを指差し言った。

「どうです、思い出しませんか? クルミさんも、あなたにそう訴えていたことを……だけど、あなたはクルミさんの気持ちに気づかず、クルミさんは諦めた」

 犬たちは寂しい色をした瞳で、苺を見上げている。
 その犬たちの顔は、いつか見たクルミの顔だった。愛情をくれるはずの人を見つめる、期待を込めた瞳。

 今思えば、クルミがやんちゃをしたのだって、苺に何か言いたいことがあったからかもしれない。言葉を持たないクルミの、精一杯の訴えだったのかもしれない。だけど、苺はそれに気づかず、クルミを叱りつけた。

 苺は、さっき胸に突き刺さったクルミの拒絶を思い出した。
 クルミも、こんな気持ちを味わっていたのだろうか。こんなに苦しい思いを、させていたのだろうか。

 管理人は先程とは打って変わって、苺に手を差し伸べるように優しく言った。

「だけど、見て下さい。傷つけられても、捨てられても、その子たちは、人間の愛情を求めているんです」

 涙で顔がぐちゃぐちゃになるのも構わず、苺は周りにいる犬たちを抱きしめていた。目を閉じていても、小さく温かな存在を確かに両手に感じる。犬たちは人の温もりに触れ、目を細めて、苺に身を委ねている。

 苺はもう一度、クルミに会いに行くことを決意した。今度こそ、自分の思いを聞いてもらおう。そう心に決めて酒場へと入った。

「また来たのか人間! 何度来ても同じだ、帰れ!!」

 酒場に入るなり、いきなり吠えたてられた。だが、苺は怯まず、クルミに訴える。

「クルミ、ごめんね! 私、クルミのこと、全然わかってなかった……だけど、これからは――」

 苺がそこまで言った時、威嚇していた犬の1匹が、牙を剥いて飛びかかってきた。後ろを追いかけて来ていたギンジが、驚いて悲鳴をあげる。

 苺が再び目を開けた時、視界は鮮やかな緑に染まっていた。クルミは苺を背に、牙を剥く犬の前に立ちはだかっていた。

「クルミ……」

 飼い主を守るようなクルミの行動に、獰猛な犬たちは動揺し、再びクルミを仲間に引き入れようと説得を試みる。

「騙されるな、クルミ! そいつは、また同じことを繰り返すぞ! そして、お前はまた悲しい思いをするんだ」

 その言葉はクルミに投げかけられたものだが、自分たちに言い聞かせている言葉のようにも聞こえた。この犬たちは、どんなに深く心を傷つけられたのだろう。それを思うと苺の胸はひどく痛んだ。

 クルミは苺を、振り返った。その瞳は不安の色に染まっている。

 また、わたしを独りにするの?
 そんなクルミの思いを打ち消すように、苺は真っ直ぐにクルミを見つめた。

「そんなこと、しない。しないよ、クルミ。だって、クルミは大切な家族なんだから」

「イチゴちゃん……」

 クルミの瞳に、もう不安の色はなかった。

 苺とクルミのやり取りを見ていた犬たちの様子が一変する。説得を諦め、項垂れるように下を向き、そしてポツリと呟く。

「……信じたら、裏切られる。だけど、俺たちは信じてしまう」

「裏切られても、裏切られても。愛されたくて、頭を撫でて欲しくて……」

「……ただ、それだけなのに、どうして愛してくれないの?」

 泣き出す犬たちに、苺はただ、立ち尽くすしかなかった。
『人間なんか嫌いだ』と毒づいていても、本当は温もりが欲しくてたまらない。そんな気持ちを考えると、同情せずにはいられなかった。

「人間なんて、人間なんていなくなればいいんだ!」

 1匹の犬が叫ぶと、他の犬たちもそれに賛同するかのように唸り出した。姿勢を低く保ち、鋭い牙がそこかしこで鈍く光を放っている。

 苺とクルミは、互いを庇い合うように後退った。

「2人とも逃げて!」

 ギンジが叫ぶと、苺とクルミは弾かれたように酒場から飛び出した。その後を、数頭の犬が追いかけてくる。
 犬たちは、さっきまでの二足歩行を止め、犬本来の形、4本の脚で力強く地を蹴り追いかけてくる。
 クルミも追いつかれまいと、4本の足で地面を蹴り、必死に走っている。

 ただ1人、2本の足で走っている苺は、犬の身体能力には到底及ばず、もう少しで追いつかれてしまいそうだ。
 苺のすぐ後ろで、犬の牙がキラリと光る。

「お嬢さん、クルミさん、こっちですよ!」

 どこからか、管理人の声が飛んできた。慌ててその姿を捜すと、管理人は壁にあいた大きな穴の前で手を振っていた。
 苺とクルミは顔を見合わせ、互いに頷き、穴に向かって必死に走った。

 牙を剥いて後ろを走る犬たちに苺が追いつかれそうになると、クルミは苺が手に持っていたリードを口に銜えて力いっぱい引っ張った。

「急いで、急いで!」

 そう叫ぶ管理人の横で、穴はさっきよりも小さくなっていた。
 どうやら壁にポッカリあいた暗闇は、どんどん縮んでいっているようだ。苺とクルミは、急いで穴に飛び込んだ。

 穴の中で苺は後ろを振り返り、その姿に気づいた。

「ギンジ!」

 苺とクルミの後ろを、一緒に走ってきていたギンジに、苺が手を伸ばす。穴はどんどん小さくなり、犬1匹がようやく通れるほどに狭まってきている。
 今ならまだ間に合う。苺はそう思っていたが、ギンジは穴の前で、立ち止まった。

「ボクは行けないよ……」

 穴は今にも、苺の腕を向こうに残して閉じてしまいそうだ。
 だが、苺はそれでもギンジに手を伸ば続けた。苺の手が、ギンジの茶色い毛並みに触れた。

「ありがとう」

 ギンジが笑顔で言ったその瞬間、後ろからクルミに引っ張られ、苺は腕を巻き込まれる寸前で、穴の内側に手を引っ込めることが出来た。
 辺りが暗闇に包まれた途端、座り込んでいた地面が反転し、苺とクルミは黒い空間を落ちていった。

 * * * * *

 小さな窓から光が差し込み、暗い廃工場の中を照らしている。
 斜に差した光が、辺りに舞う塵をキラキラと輝かせていた。

 ふと、気配に気づき、苺が振り返ると、そこにはクルミが、お座りをして佇んでいた。その首にはしっかりと首輪がつけられており、そこに繋がったリードは苺の手に握られている。

 2人は、建物の外へと出た。雨上がりの太陽が、眩しいくらいに輝いている。苺は、自分の手に目をやって、不思議そうに呟いた。

「あれ? 傘がない……」

 いつの間に失くしたのだろうと、苺は首を傾げた。しかし、晴れ渡った空の下では、もう必要のないものだった。
クルミは苺を引っ張って、晴れた街へと駆け出した。

 * * * * *

 ミニチュアの町を見下ろす丘の上で、サクランボ柄の傘が回っている。
 手に持った傘をクルクルと回しながら、ギンジは青々とした空を眺めていた。

 雲一つない、青色を塗った天井みたいな空を見つめながら、ほんの一瞬味わった温もりを思い出す。
 そうして、ギンジは寂しげに、しかしニッコリ微笑んだ。
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