ひだまりで苔むすもの

Cleyera

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本編と補話

09 飛び出した

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「エイノカ助神官、貴方には関係ありません。
 ボロストファ軍曹、顔色が悪いですよ、今日は休めていませんか?」

 兄ちゃんが手を伸ばして、美しい若者の体を押すけれど、その仕草は優しい。
 おれを抱き上げる時のような力強さはない。
 優しくしてあげないといけない人、だからなのかも。
 ジョシンカンがそういう人なのかも。

 こつこつと木靴を鳴らして、兄ちゃんがおれに寄ってくる。
 無表情のまま。

 ほんの一瞬前、兄ちゃんは美人に抱きつかれて、口付けを許していた。
 おれは、兄ちゃんにご奉仕させてもらえなくて。
 触れることすらさせてもらえない。
 必要ないって。

 股間のものがないから、と思っていたのに違うのか。
 必要ないのはご奉仕じゃなくて、おれが触れること。
 つまり、おれが、必要ないんだ。

 落ちこぼれ軍人のおれに、唯一できるのは職務のご奉仕だけで、それは兄ちゃんには必要ない。
 おれは、兄ちゃんに必要ないんだ。

 まだ配属先が決まったと通達は来ていないけれど、しばらく宿に泊まるくらいの金はある。
 出ていかないと。
 兄ちゃんに助けてもらうことに、慣れてはいけなかったんだ。
 きっと兄ちゃんは我慢してくれてたんだ。

 薄汚いおれを、自分の家に置いておくことを。
 もしかして、だから、忙しくしてあまり帰ってこなかった?

「……っ、はっ」

 後ずさると、兄ちゃんが驚いたように目を丸くした。

 息が苦しい。
 なんだこれ。
 おれ、どうして。

 兄ちゃんが手を伸ばしてきたけれど、触れられることに耐えられない。
 裸足で袖付き布団を着たまま、門から走り出した。



 駆け出した先は、住宅街だった。

 兄ちゃんの家は、これまで入ったことのない高級住宅区画にあった。
 見上げる高さの壁を備えた広い敷地を持つ家屋が、同じように何軒もそびえている。

 連れてこられた時は周囲を見る余裕がなくて、気が付いていなかった。
 ここは、子供の頃に上町と言ってた地区だ。

 下町暮らしの町人は、入れない場所だ。

 どうしてこれまで、屋敷の敷地外に出してもらえなかったか納得してしまった。
 住所不定所属不明のおれがうろついて上町の警邏ケイラに声をかけられたら、兄ちゃんが変な奴をつれこんだと責められてしまう。

 ここは地位も権力も財力もある人々が住む区画だ。
 でも、どうしてここに家があるのに、昔の兄ちゃんは下町と貧民街の境目の小神殿にいたんだろう。
 戦えるから、だけを理由に配属されるには、あまりにも兄ちゃんの扱いが悪い。

 ぺたぺたと歪みの少ない石畳を踏みながら、下町らしき方向に向かっていく。
 太陽の向きがあっちだから、右のはず。

 高級住宅が並ぶからなのか、周囲には誰も歩いていない。
 きっとみんな、日常的に自家用の移動車を使うのだろう。
 それを買える人だけが、ここに住める。

 庭でお昼寝していた間は、ぽかぽかと降り注いでいた心地よい日差しも、今はただ眩しい。
 そういえば、と服を探って気がついた。

 財布を持ってない。
 それどころか、荷物を丸ごと置いてきてしまった。

 どうしようか。
 豪邸に取りに戻る、と一瞬頭に浮かんだものの、それは絶対にしたくない、となけなしの自尊心が訴える。

 きっと兄ちゃんは優しく迎えてくれるだろう。
 なにも無かったように。

 そんなの、耐えられない。

 行き場所がない。
 身分証明証の代わりになる階級記章は荷物の中だ。
 軍服さえ着ていない。
 独身寮は引き払ってしまって、所属部署すらない。

 おかしいな。
 国境に異動が決まった時に、後が無いところまで追い詰められたはずなのに、さらにどこにも行けなくなっている。

 唯一の希望を持って、両親の店の売却を頼んだ不動産屋へ向かうことにした。
 まだ売れていなければ、中で一晩を過ごすことくらいはできるだろう、と。


「ヘイディ!」


 びくっ、と体が勝手に動いた。

 振り返りたくない。
 兄ちゃんに合わせる顔がない。

 おれは二十四歳の成人男性だ。
 結婚するはずだった。
 大人の男なのに、兄ちゃんに甘やかされるのが好きだ。
 兄ちゃんが大好きだ。

 間違ってる。
 一人でも生きていけるはずなのに。

 軍人として身を立てることは諦めるべきだ、と理解してる。
 おれは戦いに向いてない。
 体格だけは優れていても、雄々しい男たちの中で疎外感を感じていた。

 国境までいかなくても、王都から離れたどこかで農作業しながら、のんびり暮らしたい。
 したこともない農作業がいきなりできるはずないだろ、と自分の短絡さに呆れながら、そうとでも考えないと兄ちゃんに縋り付いてしまいそうで、苦しい。

「ヘイディ、どうしました、なにがあったのです」

 寄ってくる足音が、兄ちゃんが走りにくい木靴を脱ぎ捨てて追いかけてきてくれた、と教えてくれる。

「なにもない、よ」
「なるほど、散歩に行きたくなったのですね」
「……うん」

 絶対に違うと分かっているはずなのに、兄ちゃんはそれ以上追求しないでくれるようだ。

「足は痛くないですか?」
「……」

 もちろん痛い。
 裸足で長距離を歩いたことなんてないから、落ちている小石が足の裏に刺さってすごく痛い。
 でも、痛いと口にしたら、衝動的に外に出てきてしまったと白状するようで、言えない。

 兄ちゃんだって靴をはいてないから、同じはずなのに。

「ヘイディ」

 するりと身軽な動きで前に回り込まれて、見上げられた。

 いつもは静かな水底を思わせる瞳が、ぬめつくように光って見えた。
 まるで金属の表面に油を流したような、不穏な光。
 ぞくりと背筋が寒くなる。

 なにを言われるのか。

 じわじわと気持ちが沈んでいく。
 呆れられた、見捨てられる、でも、そうしてくれたら、もう迷惑をかけずに済むのに。
 兄ちゃんに迷惑をかけたくない。

 黙って待った。
 兄ちゃんになにを言われても耐えられるように、歯を食いしばって。
 表情を動かさないように、力を入れて。


「愛してる」


 兄ちゃんの言葉の意味が理解できなくて、その場に立ち尽くした。
 呆然と兄ちゃんを見つめる。

 いつもとなにも変わらない、美しい姿を。
 瞳をぬめりと光らせる姿を。

「さあ、一緒に、帰りましょう」

 手を差し出されて捕まえられて、ぎゅ、と手のひらを握られて。
 いつでも温かかった手が、強張っていることに気がついた。
 かすかに震えている小さな手は、本物の子供の手のように柔らかいけれど、まるで作り物のように違和感を感じた。

 聞きたいことは山ほどあるのに、聞いてはいけない気がしたから、口を閉じた。
 きちんと考えて、おれの中で答えを出さないといけない。

 兄ちゃんは、おれに嘘をつかない。
 嘘をついたことがない。

 だから、真剣に考えないといけない。

 愛してる、と子供の頃に面倒を見ていただけのぼんやり男に告げるのは、どんな時だろう。

 トリル兄ちゃんがおれに向けてくれる愛は、兄が弟へ向ける類のものなのか、親が子へ向けるものなのか。
 どちらかだろうとは思っても、おれは一人っ子で親も死んでしまったから、相談できる相手がいない。

 おれが兄ちゃんの家にいても、なに一つ貢献できていないのは、周知の事実だ。
 家の維持管理は使用人さんたちが手際よく済ませる。

 おれは神官や神殿のみならず、教典や教義に明るくない。
 ご奉仕だってさせてもらえない。
 庭でぼんやりと日向ぼっこする仕事、そんなものがあるわけない。

 だから、兄ちゃんの言葉はきっと、優しさだ。

 子供の頃に面倒を見たから、見捨てられない。
 そういうことなんだろう。

 
   *




みなさま、良いお年をお迎えください☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
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