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本編と補話
13 大切なもの
しおりを挟む養子縁組の書類に署名をしたら、おれはあっという間に正式にトリル兄ちゃんの息子になった。
真新しい戸籍書類の名前は〝ヘイランディ・ボロストファ=スケル〟。
両親からもらったボロストファ家の名前と、兄ちゃんからもらったスケル家の名前が並ぶことになった。
こういう手続きって、何日もかかるものだと思っていたのにな。
……兄ちゃんが初めから根回しを済ませていた、その可能性は無視しておく。
兄ちゃんの本性を、おれは知っている。
戦場で四十年を戦って生き延びた、古兵で、絶対に嫌われたくない、敵に回す気にもなれない、おれの憧れの兄ちゃんだ。
すごく大好きな兄ちゃんだ。
兄ちゃんの戸籍には二つ、名前があった。
生誕名がトリルトゥ・ヴィグォルウ。
下賜名がエイン・オグ・スケル。
下賜ってなんだ?、とその時は思った。
使用人さんが教えてくれた。
偉い人が頑張ったご褒美として渡すものだと。
つまりエイン・オグ・スケルの名前は、偉い人に兄ちゃんがもらったもの。
なんのご褒美でもらったのかも、説明してもらった。
息子だから勉強するんだ。
ただ、聞けば聞くほどすごくややこしくて、とりあえず従軍神官としての名前が戦場で有名になり過ぎたので、政争に巻き込まれないため、とまとめられた。
簡単にいうと、兄ちゃんの表向きの顔はエイン・オグ・スケル神官なのだ。
八十歳近い(書類上は)老人のトリルトゥ・ヴィグォルウ従軍特務神官長には、血縁者が残っていない。
故郷が滅んでいることもあって、王都で静かに隠居生活を送っている老神官設定。
兄ちゃんを爺さん扱いしたら、ものすっごい怒りそうだけど、名前が売れるとろくなことがないらしい。
戸籍上はエイン・オグ・スケル神官が養父だけれど、父親を名前呼びする成人男性は少ないから、外出先で気をつければ良いはずだ。
並ぶとおれのほうが年上に見えるから、本当に気をつけないと。
気にしないと言われても気になる。
天気の良い日が続いて。
布で弱められた日差しを浴びながら、とろとろとうたた寝をすることが増えた。
吹き込む風は移動式の壁で止められているので、ぽかぽかとした陽気の恩恵を、一身に受けられる。
これが新しく得た仕事。
一日中、天気が良い日は庭で過ごす。
もちろん日差し避けの布もあるし、壁もあるし、三人に増えた庭師さんたちがいて、使用人さんたちもときどき様子を見にきてくれる。
おれが、サンマレイネンとかいう種族の血を受け継いでいることは、疑いようがなくなった。
吊り寝床がある庭だけ、やけに草木が元気はつらつになってきたのだ。
おれが過ごす、この中庭だけ、庭師さんたちが毎日下草を刈っているという。
ここだけまるで夏のように植物が元気なんですよ、とにこやかに言われて、そうなんだ、としか反応を返せなかったが、喜ばれているらしい。
夏の雑草抜きは、すごく大変だと思うのに、庭師さんには嬉しいものなのか。
数日前から、おれが実りもたらしている証の中庭の草木や果実を、出所を明かさずに少しずつ市場に流して、様子を見ているという。
つまり、庭にいるだけで金が入るようになった。
世話になっているのになにもしてない、と思うと心苦しかった。
草木や果実が売れたお金を、これまでの生活費に充ててほしいと頼んだら、あっさりと受け取ってもらえた。
売れる度に報告書を見せられて、売上の半分がおれの好きに使えるお金。
半分を生活費として受け取ってもらっている。
貰いすぎだと思うけど、使用人さんが、これが適正です、って言うから。
安心してる。
これでおれは役立たずじゃなくなった、と。
使用人さんが嬉しそうに「とても良い品質だと店主が喜んでいました」と教えてくれた。
今だって、実って熟れる季節でもないのに、つやつやと光る果実がたわわに実っているのが見えている。
庭師さんたちが、明朝早くに収穫しようと計画していた。
結実する季節ではないから、すごく高く売れるらしい。
咲く季節ではないのに、甘やかな香りが庭を満たしている。
どこかで見たことがある気がするきれいな花だと思ったら、高級な贈答品として使われる花らしい。
つまり、すごく高く売れるらしい。
なにもかもを金銭に換算できるとは思ってないけれど、やっぱり金に余裕があると気持ちにも余裕ができる。
兄ちゃんの世話になっているだけでは心苦しい。
使用人さんたちに、お礼がしたい。
甘やかされると嬉しいけれど、おれだって兄ちゃんの役にたちたい。
もやもやしていた気持ちが、満たされていく。
おれだって、役にたってる。
大好きな兄ちゃんの役にたてる。
花と果実の甘い匂いに、ほんのりと混ざった苦い鼻をつく匂い。
鉢植えにされた虫除けの香草。
食用にもなる。
この香草は苦手だけれど、鉢に植えられているのを見るのは嫌いじゃない。
これも売れるらしい。
というか、高く売れるものを庭師さんたちと使用人さんで厳選して、中庭を総入れ替えする勢いで植え替えたと聞いた。
……おれのためなのか、兄ちゃんのためなのか。
そんなことを考えていたら、今日、衝撃的な事実を知った。
おれが味が苦手だと思っていたこの香草は、庭に植えてしまうと他の草花を駆逐してしまうほど繁殖力が強い。
本能的に、香草を受け入れたくないと思っていたらしい。
庭師さんが、それだけは地植えしませんからね!、と使用人さんに言っていた。
虫除けとして鉢植えにしておくのが、一番扱いやすいらしい。
使用人さんは、必ず売れるから増やしたかったようだけど。
庭中が香草だらけになったら、たしかに困る。
庭なのか畑なのか。
初めて訪れた時には、上流階級の家らしくきれいに整えられていた庭が、季節関係なく熟れていく果実と、満開の花が咲き乱れる謎の空間になっていく。
でも、とても心地よい、おれの居場所だ。
ここはおれの領域だ。
そんなふうに、おれは少しだけ草木に詳しくなりながら、日々を過ごしていた。
兄ちゃんが忙しくしていた仕事にもひと段落ついたのか、朝食と夕食を一緒に食べられるようになった。
幸せだ。
そう感じる心と共に、体調が落ち着いていく。
抜けなかった疲労感が。
ずっと残っていた寂しさが。
孤独に怯える胸の痛みが。
少しずつ溶けるように消えていく。
あの日以来、毎日、兄ちゃんに風呂で全身を洗われるのは、まだ慣れないけれど。
親が子供の体を洗うのは、健康状態を確認する意味もあるのですよ、と癒術の専門家の兄ちゃんに言われてしまうと否定しようがない。
一人で風呂に入って、頭が洗えてないと指摘されるのも恥ずかしいからな。
大人になったのに、うまく洗えてなかったと指摘された。
血吸い虫はわいてなくても、耳の後ろや後頭部、襟足の辺りに垢が残っていると言われて、自分で洗うのを諦めた。
くやしいけれど不器用なのは生まれつきだ。
いっそのこと髪の毛を剃れば兄ちゃんの迷惑にならないのでは、と使用人さんに聞いたら「それだけはおやめ下さい、若旦那さま!」と絶叫された。
おれは、わかだんな、らしい。
くすぐったいし、はずかしいのは、なぜだ。
もだえてしまった。
大切なもの。
おれは知ってしまった。
穏やかに過ごせる日々の大切さを。
両親が死んでから、自分だけで生きようと頑張ったけれど、おれにはできなかった。
このまま兄ちゃんに頼りきるつもりはない。
息子だから。
おれは息子として、兄ちゃんの末期の水をとる!
と心に決めたけど。
……改造神官は何歳まで生きるのかな。
見た目通り、ずっと若かったりするんだろうか。
応援ありがとうございます!
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