ひだまりで苔むすもの

Cleyera

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その後

19 忘れていた人

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 もやもやする気持ちをぐるぐるとこね回していたら、ほほに温もりがふれた。

「兄ちゃん」
「唇がどうかしたのですか?」

 そういえば、食事中だった。
 視線をさまよわせてみれば、いつのまにか卓上には食後の果物が並んでいた。

「ううん、なんでもない」
「きちんと食べなくては、体調が悪くなってしまいますよ」
「うん、うんっ」

 慌てて手を膝の上に下ろして、差し出された果物をぱくりと口におさめる。

 一口の大きさに切られたオメナは柑橘の果汁水を潜らせて、切り口の色が変わらないようになっている。
 シャキシャキした歯応え、噛み砕くと同時にあふれて、口の中を満たしてくれる甘酸っぱい果汁。

 色鮮やかな皮を飾り切りして、白い果肉がきれいな模様として見えているのは、料理人さんではなくて、庭師さんの遊び心だろう。

「ヘイディ、果汁が垂れていますよ」
「!?!?」

 兄ちゃんの顔が近づいてきて、ぬる、と口の端を温もりが撫でていった。

「あれ、ヘイディ、ヘイディ?」





 気がついたら、朝だった。
 寝台の中で目が覚めて、寝返りをうとうとして気がついた。
 なめらかすべすべの、大好きな敷布の触感。
 どこかで知ってる。

 ……あ。

 兄ちゃんの神官服にそっくりだ。
 今のパリッとした神官服ではなくて、おれが子供の頃に兄ちゃんが着ていた、ちょっとくたくたの神官服に。

 気がついてしまったら恥ずかしくて、昨夜、兄ちゃんがおれの口の端をな、なめ、なめた!、なめられた!、ことを思い出してしまった。

 なんで、口付け一つで恥ずかしいと思ってしまうんだ。
 相手は兄ちゃんだ。
 おれの養父!
 父親が子供に大好き、ってするのと同じ!

 おれはもうすぐ二十五歳だけど、兄ちゃんにとってはきっと、何歳になっても子供なんだろう。
 だよな。
 そうでないと口付けなんてしないよな。

 でも、昔は口付けなんてされたことない。
 じゃあなんで、兄ちゃんはおれに口付けしたんだ?
 昔は、養父ではなかったから?

 母さんは言ってた。
 口付けは好きな人と。
 おれは兄ちゃんが大好きだ。

 大好きだから、だから、……うぅ、おれは一体どうしたら良いんだ。

 今は何時だろう。
 兄ちゃんは、もう神殿に行ったかな。
 忙しい時期だと知っていても、夕食時しか一緒にいられないのが寂しい。

 あと十日もすれば新年。
 新しい年の訪れを祝って、新しい年が良い年でありますようにと願う。

 祭りの日の特別感なのか、いつも以上におれの庭の果実が売れている。
 採っても新しく実ってどんどん育つ果実。
 切ってもどんどん伸びて咲き乱れる花。
 ここしばらくの報告書は、見るのが怖い金額だ。

 庭師さんたちはまだ薄暗い早朝から果菜を収穫して、それから果樹や草木の手入れをしてくれている。

 おれが庭にいるのは、太陽が庭を照らしている間。
 庭に向かうと、たいてい庭師さんたちは用具の片付け中で、この果物や花が好調とか、この果物をもう少しこうしてほしい、と話しあう。

 日中はおれがのんびりできるように、使用人さんたちが軽食と飲み物を運んでくれて、夕食までそのまま。

 暑い季節も寒い季節も、おれの庭にはあまり関係ない。
 いつもポカポカと暖かくて、兄ちゃんがいる時は、花が一斉に咲く。

 晴れの日だけでなく、雨の日も悪くない。
 屋根の下で雨音を聞いていると、すごく落ち着く。
 しとしとも、ざーざーも、同じく恵みの雨だ。

 おれの庭は、春と夏に来る嵐をまだ知らない。

 兄ちゃんが守ってくれるという、根拠のない安堵感。
 もし無理でも実りは巡るものだから、今生きている草木が朽ち果てても、次の命が生まれていくだけ。

 婚姻の儀式ができなくて、兄ちゃんと再会してから。

 こんなに穏やかな日々を手に入れられると、半年前のおれは知らなかった。
 言われても、きっと信じなかっただろう。

「あっという間、だったな」

 呟いて、ふと思い出した。
 喫茶からの帰り道で話しかけてきた女性が誰なのか。

「……エッキ・エルスケア・ヘゴミ?」

 ヘゴミ中佐の娘で、おれの嫁になるだった人。
 ……だよな?

 おれの知っている彼女は、いつ会っても色鮮やかで肌の見える服装で、化粧もしっかりとして、けらけらと甲高い声で笑う人だった。
 その笑い声がおれを嘲笑するものだと知りながら、それでもあの頃のおれは彼女と結婚することが幸せにつながると思っていた。

 今の彼女は幸せなのだろうか。

 よれよれの服。
 ぼさぼさの髪。
 化粧気のない顔。
 しなびた野菜を素手で持っていた。
 よく見ていないので思い出せないけれど、前とは違っていた。

 おれと結婚しなかったからと言って、彼女自身に不利益はないはずだ。
 でも、ヘゴミ家の名前を汚したことに、なったのかもしれない。

 謝罪には回ったけれど、おれ一人が頭を下げたところで、神殿に来てくれていた人々に迷惑をかけた事実は覆らない。

 彼女には申し訳ないけれど、おれは安堵していた。

 結婚しなかったことを。
 彼女と、一生を共にしなくてすんだことを。
 誓いの口付けをせずに済んだ……口付け!!

 思い出すな!、と額を敷き布にこすりつけた。
 そのままぐりぐりと頭を振っていると、扉を叩く音がした。

「若旦那さま、起きておられますか」
「はい!」

 がばりと体を起こして、掛け布団をめくった。
 寝坊したのかも、と寝台から降りた所で、扉が開かれた。

「おはようございます、少々お耳に入れておきたいことがございまして」
「おはよう、兄ちゃんになにかあったの?」

 不安に胸が音を高めそうになったその時、いいえ、と返事が聞こえた。

「衛兵詰所から人が来ているのですが、若旦那さまはエッキ・エルスケア・ヘゴミという女性をご存じですか?」

 兄ちゃんの名代として、家の管理をしている使用人さんストロナンディには、おれの前職のことを話してある。

「妻になるはずだった人で……」

 その後の言葉が続かなかった。
 婚姻儀式の当日に逃げられた、と言いづらくて。
 おれがダメな男だと使用人さんは知っているだろうけれど、自分の口から言うのはつらい。

「若旦那さま、不安にさせてしまい申し訳ありません。
 ご心配には及びません、名前は存じませんでしたが、その方のことは以前に伺っております。
 あとはこちらで話をつけますのでお任せください、朝食まで少々お待ちいただけますでしょうか」

 この家の使用人さんたちは、兄ちゃんと同じだ。
 おれを真綿でくるむように守ってくれようとする。

 おれも、みんなを守りたいのに。

「一緒に行っていい?」
「あまり、愉快ではない話になりそうですので」
「それでも」

 使用人さんは少し目を伏せて、きゅ、と口元をすぼめた。

「……わかりました、参りましょう」
「ありがとう」
「礼の言葉は」
「それでもありがとう」

 使用人さんたちには礼を言ってはいけない。
 それを教えてくれたのは使用人さんストロナンディだ。

 使用人にかける礼の言葉は「ご苦労」だと。

 でもこの家にいるみんなは、おれの家族だ。
 おれの領域にいる仲間だ。

「人前ではやめてくださいませ」
「わかった」

 おれよりもよっぽどできた人のストロナンディさんを、使用人だからという理由で下に見たくない。
 それはおれがきっと、使われる側だったから。

 この家の使用人さんたちを、かつての哀れな自分と重ねている訳じゃない。
 おれ自身に、この家の人たちは大切な人だよ、と刷り込むためだ。

 ぼんやりなおれが、二度と家族を失わないように。
 大事な人を失わないために戦うことを、恐れないように。
 自分が強くなったと勘違いしないために。

 必要なことだ。

 
   *

ヘイディは簡単に丸め込めるので、交渉ごとには壊滅的に向いてません
心配!!
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