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等々力〜上野毛 ータエ子ー

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 朝、顔を洗って、ふと目の前の鏡を見ると、口元がにやけていた。

 バシャバシャバシャッ

 タエ子は、にやけてどうするの、ともう一度顔に水をかける。
 いつも血圧が低くて死んだような顔をしているのに、血色がいいだなんて、なんだか、楽しみにしているようで、困る。

 手早く手入れをしてキッチンに行くと、ケトルをかけてベーコンエッグを作った。普段の朝食はご飯とお味噌汁が定番だけど、昨日買ったパンを食べるので今日は洋食。

 焼いた食パンと干しぶどうパン、フォション繋がりで飲み物は紅茶にした。
 ぱちぱちと音がしたのでフライパンの蓋を開けると、卵がいい感じに白くなっている。

 キッチン側の机に置いて、いただきます、と食べ始め、行儀悪いと思いつつも携帯に手を伸ばしてメールをチェックする。片手で食パンをかじりながら簡易な連絡メールを見た後、つい、例のメールをまた開いてしまった。

「……ただの、時間チェックだし……」

 一人しか居ないのに誰に言い訳、と思いながら閉じて食事に集中する。
 フォションのくるみやら干しぶどうやらが入っているパンは、小さくて固いけれどよく噛むと味が感じられるパンで、タエ子はお店の前を通って見つけるといつも買ってしまうほど。

 もぐもぐもぐ…………  もぐ……

 いつもは頬張って、一人で美味しーと喜んでしまうのだけど……今日はこてん、と腕を伸ばして身体を倒す。

「うう、やっぱり好きなのかな、中身あの人でも、好きなのかな……」

 昨日の帰り道、仕事中のあの人を見かけた。どこからどう見ても車掌さんで、真剣な目で電車の進行方向だけを見ていた。
 タエ子が以前に、自由が丘で切なく見送った姿と同じ姿で。

 たぶん、それを確かめたくて、会うんだと思う。
 たぶん、中身あの人でも、好きは変わらないのか確かめたいんだと思う。

 たぶん……好きで、いたいんだと思う。

 そう思ったら、うわぁと心臓がドキドキしてきた。

 がばっと、起き上がってまたもぐもぐと食べ始める。だめ、とにかく集中しよう。何かに集中しなくちゃ。

「心臓、もたない……」

 ぽそっと呟いた声がやけに大きく響いて、もぐもぐもぐっとベーコンエッグをやっつけながら、ベーコン美味しい、卵好きだ。と心の中で何度も唱えた。



 ****



 その日午後を、どうやって過ごしたのかほぼ記憶がない。5時近くになっていてもたってもいられなくて、服を出し始めてベッドの上でとっかえひっかえ組み合わせてみる。
 これ、と思って着て見ても、やっぱり気に入らなくて脱いだり。

「帽子、いる?  や、なんだかすごい気合い入ってそう……やめ。……ああ、そうするとこれの、色味が……」

 スカート、パンツ、カーディガン、シャツ、サマーセーター……くるくるくるくるとベッドとクローゼットを往復して何度も姿見の前に立った。

 気がつけば六時を過ぎていて、ああもうこれでいいっと決めてバタバタとバッグと最後にグロスだけ塗ってマンションを出る。

 環八かんぱち沿いの側道を下がっていくのに、こんなに足取り軽く歩くのはいつぶりだろう。
 肩に掛けた細い紐のショルダーバッグが腰の脇で踊っている。さらさらと膝をかすめる少し濃いブラウンのプリーツスカートは、普段履かないから気恥ずかしいぐらい軽い。
 腕時計を見る為にダボついたグレーのサマーセーターを少しだけ上げた。
 カツンカツンと弾んでる靴はスニーカーと迷ったけれど、ショートブーツ。

「一応、ね、足元はちゃんとしたい……着飾ってはいないけれど、やっぱり、ね」

 部屋に居るくせで呟いて、あっと、口をつぐむ。

 ビルのショウウィンドウを歩きながらチラリと見ると、弾んで歩いている自分がいて、慌てて普通に歩いた。

 環八の高架を抜けて道沿いに歩いていると左手に大井町線の線路が見えてきた。
 タエ子は道をさらに左に折れて沿線沿いの小道を歩いた。
 左手前方にはもう、等々力のホームが見える。

 等々力駅は上下の線路に挟まれていて、改札を通ろうと思うと、どちらの方向からも一度線路を通らなければならない。
 遅刻寸前で線路が閉まると、目の前を乗りたい電車が通り抜けて行ってしまう。

 今も渡る寸前に遮断機が下がってきてしまった。ああ、と思って腕時計をみると、まだ約束の時間まで十五分はあった。

 大丈夫だね。

 そう思って自然と笑みが出て前を向くと、きっぷ売り場の近くでこちらを見て笑っている人が居た。

(いつから……)

 ぶわっと首筋まで熱が上がって、うぐっと喉が詰まったような変な顔をしたら、ゆっくりと大井町行きの電車が入ってきて視界がさえぎられた。

 ガタタンガタタン

 大井町線が音を鳴らしてホームへ入っていく。タエ子はその間になんとか体勢を整える。なんだかダメだ。すでに一本取られている気がする。

 しっかりして、ちゃんと聞かなきゃいけないんだから。
 いくら好き、かもしれないからって、ぐだぐだにしてはダメだ。
 気を、気を引き締めないと。

 とりあえず口をへの字にして、電車が通り過ぎるのを待つ。

(やだ……やけに遅い)

 への字が保てない。

 電車が通り抜けて、遮断機が上がったのでタエ子はケンの方へ歩いていった。
 少し小走りになってしまったのは、内緒だ。


「すみません、お待たせしてしまったみたいで」
「いや、俺が早く来すぎたんです。今日はありがとうございます。行きますか」

 待っていた人は、薄手のグレーのパーカーに黒ジーンズだった。なんの変哲もない格好に、ほっとするやら何だか自分だけ気を揉んで悔しいやら。でも足元のスニーカーだけはスニーカーなのに高そうだった。ネコ系の走り出しそうなフォルムロゴのスエード生地は、あまり見たことがない。

 少し気を使ってくれたのかな、と思うとすぐににやけそうな口元引き締めて、すみません、切符買ってきます、と声をかけた。

「あ、えーっと買ってあります」
「え?」
「あー……大井町線の通勤はいつも等々力から自由が丘までですよね。定期外だと思って買っておきました」
「あ、りがとう、ございます……」


 呆然と渡された切符を手に持つ。

 え?  車掌さんってそんなに乗客の事、把握してるの?  い、いつから知ってたんだろう?  えええ??

 切符を見て戸惑っているタエ子に、ケンはごほん、と一つ咳をして、先に言って置きますが、と前置きをして言った。

「全ての乗客の動向を把握している訳ではないですからね。そんな暇じゃない。でも気に……目につく乗客はいるんです。それだけです」
「目につくって」

(私が変に目立っているって事?)

 あまりの言いようにタエ子が眉をひそめると、ケンはまずい、とでも言う顔をして首筋に手をやった。

「あー、いや、目につくは、言い過ぎました。すみません。俺、かなり口悪いんです。あー……その節は、大変失礼致しました」

 砕けた口調が一瞬で改まった。
 改まるとあの車掌さんの声に近くなる。
 そしてきっちりと斜め四十五度でぴっとお辞儀をされて、タエ子は慌てた。

「や、やめてください。その事も話したくて今日来たのです。あの、電車も来ますし、い、行きましょう」

 改札の向こうから二子玉川行きの電車がこちらへ向かってくるのが分かる。ケンは、そうですね、分かりました、と言って身体を戻すと、改札に向かって行く。
 歩き出しが早くてすぐに置いていかれた。
 タエ子は足早にケンが買ってくれた切符を通して追いつこうとする。
 それに気づいたケンが立ち止まり、すみません、とまた首筋に手を当て、タエ子を待って並んで歩いた。

 ホームに入ってきた大井町線を見て、ケンがぐっ、と唸った。そして、わずかに会釈をする。

「同僚の方です?」

 ケンの顔がなんとも言えない細目とへの字になったのでタエ子が問うと、あー、上さん。上原運転士と言ってですね、とケンは開いたドアに手を当ててタエ子を先に乗車させてくれて後から乗った。

「俺の尊敬する運転士です。乗務歴も長くて二十年だったかな。でもそれをひけらかさないで、実直に日々大井町線を動かしていて。
 上さんの運転する電車は、すぐに分かる。制動が緩やかで、駅に止まる時も乗客ががくっとなったのを見たことがないんです。ほら、今もいつのまにか動き出しているでしょう」

 ケンの滑らかな話に耳を傾けていたら、本当に電車が動き出したのに気がつかなかった。
 タエ子は驚いて首をこくこくと動かすと、ケンはにっこり笑って、ここからは見えない運転席の方を見る。

「俺が新人の時にもかなり見てくれました。運転しながら、俺のアナウンスとかドアの開閉の仕方とか、後ろに目があるのかってぐらいうるさくて、最後には飲み屋に連行されるんです」

 するとまたさっき見た細目とへの字になった。

「で、さっき発見されたので、来週は蕎麦屋に連行決定です」

 その情けない顔にタエ子はたまらず、ぷっと吹くと、ケンがそんなタエ子を見てまた笑った。

 その目が優しくて、タエ子はとくんとした。


 やさしくて
 あたたかくて
 やわらかくて


 ケンと車掌さんがゆっくりと重なる。

 ああ、変わらないんだ。
 口は悪いけれど、普段の声は掠れた声だけど。なにも、変わりはしない。


 ケンさんはケンさんだ。
 私の好きな、車掌さんだ。


 とくん、とくん、と柔らかくじわじわと嬉しさがお腹に広がってきて、タエ子は、へにゃ、と笑った。


 ごほっ、とケンが口に拳を当てて横を向く。

「風邪気味ですか?」

 改札の前でも咳をしていた。
 タエ子は心配そうに顔をのぞき込むと、や、ちが、……大丈夫です。着きましたよ。とケンは、上野毛かみのげ駅に到着して開いたドアに誘導した。

「本当に着いたの、気がつかないくらい」

 上野毛のホームから動き出した電車を見ながらタエ子が呟くと、そうでしょう、とケンは、自分が褒められたみたいにいい顔をして笑うと、直ぐに少し真剣な目で電車を見送り、行きましょう、と歩き出した。

 その歩き出しが今度はゆっくりで、タエ子はまた、嬉しくて、へにゃりと笑った。







 
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