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二子玉川〜等々力 ーカエー
しおりを挟む大井町線への乗り換えに、カエは二子玉川で電車を待っていた。コンコースにびゅうと風が吹いてきて、その風の冷たさに、少しだけ秋に近づいて来たのを感じる。
カエは頭の中に響く音楽と共に、今日のレッスンで言われた事をまた思い出していた。
今勉強しているソロの曲とは別に、大学内で行われるオーディション用の曲もみてもらっていた。
晩秋の学園祭で行われるオペラのオーディション。
モーツァルトのオペラ〝フィガロの結婚〟のオーケストラ譜の一部を吹く事が試験曲の課題になっていた。
永遠に続くかのような連続した音符をなんとか指に覚えこませて、ミスなく吹ける様にし、二週間後に控えたオーディションに間に合う様に準備は出来た。筈だった。
ミスなく、規定通りのテンポで、先生の前でも、緊張しつつも張りのある気持ちで演奏出来た。自分の中ではまずまず、かな、と思い、楽器を下ろすと、中村先生はうーん、と難しい顔をした。
「いや、いいんですよ、今までになく安定してますし、そつなく、ね。うん、出来てますけれどね……」
言葉では出来ているとは言ったが、先生の顔は明らかに不満顔だった。
「うーん、山本さん。音色が、元に戻ってしまいました。良い出会いと時間と相談しなさい、と言ったのを覚えていますか?」
中村先生は、少し上がってしまっている額をペシンペシンと自分で叩きながら、どう、言おうか、というように眉を寄せている。
「は、い。自分で、決めて、少し離れています」
カエはショウゴと連絡を取るのを減らして、練習時間を取っている事を、そんな風に伝えた。
中村先生はそれを聞いてますます眉をひそめる。
「うーん、こんな事聞くのはあれだなぁ。でもなぁ。うーん、えーい、内緒で聞こう。山本さん、良き出会いと会ってない、なんて事、してないよね?」
「……え」
カエの表情が変わったのを見て、中村先生はやっぱりか、とは言わなかったが、はっきりと顔に出して残念そうな顔をした。
「うーん、そうか。どうしようかな。後二週間か。うーん、そうだねぇ」
中村先生はカレンダーを見て、カエの顔を見て、少し間をおいた後、ペシン、と額を強く叩いて、カエの方を向いた。
「えー……練習の妨げになるからって、連絡取ってないとかしてそうだけれど、それはかえって逆効果だからやめなさいね?」
「え……」
「僕もはっきり言わなかったから悪かったけれど、時間と相談しなさい、というのは、自分の練習時間もちゃんと確保して、良き出会いと会う時間も確保しなさい、という意味だったんだなぁ。言葉で伝える、というのは本当に難しいものだねぇ」
「先生」
本来は、こんなプライベートに介入するような事は言ってはいけないんだけどねぇ、と中村先生は少しだけ薄くなりつつある髪の毛をなんども撫でながら、唇をアヒルのようにとがらせて、うーん、と言いながら、自分の楽器を取った。
「これね、先週までのあなたの音色ね」
そう言って、さらりとモーツァルトを吹くと、春の日差しのような軽やかな音色が聞こえてくる。
「次が、今日のあなたの音色」
同じ曲なのに、音色が暗く、固い。
明るい曲なのに、陰りを感じる。
中村先生は楽器を下ろして机に置くと、カエに向き合った。
「音楽家はね、いろんな音色を求められて、曲に合わせて奏でなければならないのです」
「はい……」
「オペラに喜劇悲劇があるように、フルートの一つの曲の中でも、明るい曲調から少し暗めな曲調に移る時がありますよね」
「はい」
「その時に、必要なだけ、コントロールして感情を込めるのが大事になってくる。このコントロール、というのが大事になってきます」
「はい」
カエは先生の言っている事を全て分かった訳ではなかったが、頷いた。
カエはコントロールが出来ていなかったのだ。カエの気持ちがフルートに出てしまっていた。
喜劇で、明るい曲調の音楽なのに、カエの心を反映して、音色が、寂しさを帯びてしまっていた。
「あなたの今の音色が必要になってくる曲ももちろんあるので、その感情も、心に持っていてほしいのですが、今奏でる音楽には必要のない音色です。僕が言っている事、分かりますか?」
「はい」
カエは、今度はしっかりと頷いて応えた。
それを見て、中村先生は、やっといつもの穏やかな顔でにっこりと笑って頷いた。
「オーディションまで二週間、テクニック的には問題はないので、後は自分と向き合って、よりモーツァルトらしい音色を追求してみて下さい。良き出会いとの時間もね」
そう言って、中村先生のレッスンは終わった。
練習室に戻って、今度は明るい気持ちで少しだけまた曲をさらってみたけれど、カエには音色の変化があったのかどうか分からなかった。
感触としては、無理矢理に明るい気持ちを込めたので、なんだか、仮面をつけているようなチグハグな感じがして気持ちが悪かった。
やめよう、今練習しても、たぶん思ったような良い音は出ない。
そう心に決めて、いつもより早く練習を切り上げて帰る事にした。
二子玉川駅から見える多摩川を見るともなしに見ていると、駅構内アナウンスで、もうすぐ大井町線が入ってくる事が告げられた。
田園都市線よりも車両が短い大井町線に乗り込む為に、少しだけ場所を移動しようとした時だった。
カバンの中で携帯が、着信の震えを伝えてきた。ナズナちゃんかな、と携帯を開くと、見知った番号と、名前だった。
カエは息をのんでその画面を見つめる。
オーディションに集中したいから、なかなか連絡が出来なくなる、と伝えてから、初めての電話だった。
そして家に帰ったら電話をしようと思っていた相手。
ショウゴは、カエの望みを、分かった、と言って受け入れてくれた。それ以来、電話はおろかメールも打ってこなかった。
ありがたく集中して練習をし、二日ぐらいはさすがショウゴくんだな、分かってくれたんだ、と思っていた。
でも、三日も四日も経って、メールすら届かなくて、今度は逆に、不安になった。
(え……私、メールもダメって言ったかな、電話は取れないかもしれないって言ったけれど、メールは確か、大丈夫って、言ったはず……)
不安になってメールを打とうとして、はたと気がついた。
私からメールしたら、いけないんじゃ……?
自分の都合で音楽の為に、連絡取るのを控えたいって言ったのに。
楽しくて、時間を忘れてショウゴくんと話してしまうから、やめたのに。
ショウゴくんは何も悪くないのに、私が上手く時間を使えないから、お願いして連絡を取るのをやめてもらったのに。
それを今度は……ショウゴくんと繋がってないのが不安だから、メール、するの?
そんな自分勝手なこと、出来ない。
ショウゴくんが我慢してくれている以上、私から、練習が終わったからって連絡しちゃだめだ。オーディションが終わるまでは。なんとしても。
そんな風に思っていたら、その寂しさが出てしまって、逆効果だったなんて。
カエは画面を見たまま、電話を取れないでいた。
ショウゴくんに何て言おう。
せっかく、我慢してもらったのに。
家に帰って、こう言おう、と決めてから電話するつもりだった。
今出ても、言葉が、見つからない。
そうこうしている内に、電話が途切れた。
「あっ」
ぎゅっと携帯を握ると、大井町線が目の前に入ってきた。
「あ……」
扉が開き、乗客達を吐き出して、折り返し運転になるアナウンスが入る。
カエは電車に乗った。
とにかく、メールをしなきゃ、と握った携帯から、今度はメール受信のマークが点滅した。
受信ボックスを開くと、等々力に、という件名が見えた。
件名 等々力に
着いたら電話して
ショウゴ
飾りっ気もないメールに、不安がせり上がってくる。メールから、何もショウゴの感情がみつからない。
カエは、両手で携帯を握りしめた。
カチカチ、と親指で文字を打つ。
件名 今、二子玉川駅
着いたら電話します
カエ
返信はすぐにきた。
わかった、と、シンプルなものだった。
応援ありがとうございます!
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