秋のアサガオ

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秋のアサガオ

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 よく晴れた日の放課後。
 教室に残っているのは6人の生徒。教室の中央列の1番後ろから3番目の机を6つの椅子が囲うように並んでいる。

 その席で向かい合って話をする男女の生徒。
 窓から吹く風は夏と比べて少しだけ冷たい。校舎の中を反響して耳に届く吹奏楽部の演奏音、校庭でバットにボールが当たる音に元気な運動部の掛け声。

 青春に彩られた音が奏でられている。

 そして、教室の中でも青春に彩られた内容の話が進んでいる。
 季節は夏を過ぎて秋。
 この学校では文化祭の準備が着々と進んでいる。

「やっぱり、メインとなる絵は大きいやつがいいよね」

「うん。そっちの方が迫力があっていいと思う」

 話は文化祭の内容。食物バザー、射的、輪投げ、迷路、謎解き、お化け屋敷など数多くの出し物がある中でこのクラスの出し物に決まったのは『錯覚絵の展示』だった。

 いわゆる『トリックアート展』を出し物とするのだ。
 クラスのみんなで錯覚絵を用意して展示する。その中でもメインとなる錯覚絵を大きいサイズで展示しようと方針が決まった。

「そう言えば、昨日の心霊特集観た?」

「観たよ!面白かった!」
 ある男子生徒の発言により話が脱線する。


「明日、心霊写真撮りに行かない?」

 男子生徒の発言に僕の横にいる男子生徒の蔦木つたき晴洋せいようは「お、いいね!」と興奮するが、女子生徒が「えー、嫌だー」と首を振りながら拒否する。

「そんな事をしている時間は無いからね」

 眼鏡をかけた男子生徒の発言に僕の横の男子生徒は落ち込む様子を見せている。

「心霊写真なら紫音しおんと俺が役に立つのにな」

 ボソッと口を開いて怪訝な表情をする彼に興味を示した女子生徒が口を開いた。

「でも、紫音君って霊感強かったよね?」

「え、そうなの?紫音君」
 何故か目を輝かせて身を乗り出すもう1人の女子生徒。
 僕が口を開く前に隣で椅子から立ち上がった晴洋が誇らしげに胸を張った。

「そうなんだよ!紫音は霊感が強いんだ」

 先程までの落ち込みと怪訝な表情は見る影もなく僕の横にいる晴洋は鼻を高くしている。

「そんなに大したものじゃないけどね。少し霊が視えるってだけで」

 生まれつきの体質に興味深そうに驚くクラスメイト達。
 みんなの目線を一気に浴びて少し恥ずかしい気持ちになる。

「幽霊って本当に実在してるの?」

「うん、してるよ。普通に街中に居たりするし」
 僕の答えに目を輝かせる女子生徒と親友の晴洋。あとの3人は少し怯えた様子で話を聞いている。

「じゃあ、今度皆でお墓に行ってみる?」

「却下!」
 怯えた様子で話を聞いていた3人の声が重なる。





 文化祭の話し合いが進みながら話の脱線は重なり1時間くらいが経過すると恋話が話題の中心となった。

「私のタイプはゆるふわ系かな」

「俺の初恋は小学校の頃、隣の席だった女の子!」

 そんな会話が続いて盛り上がっている中、遂に自分の番がやってくる。

「紫音君は、今好きな人とかいないの?」
 女子生徒の質問に僕以外のクラスメイトの視線がまた一点に集まる。
 高校2年生にもなればそういった浮ついた話が出てきても可笑しくは無い。
 彼女ができてもいい年頃だ。現にこのクラスでもカップルは存在するし、半分以上の人が恋をしている筈だ。

「⋯⋯⋯⋯今は、居ないかな」

 少し考えた後、愛想笑いでそう答える。

 その答えにそれぞれ受け取ったものがあるらしい。

「え?ちょっと詳しく教えろよー」

 晴洋が何故かニヤニヤしながら口を開く。そこでガラッ!と教室の扉が開かれる。皆が一斉に前の扉を見詰めた。

「今日はここまでだ。早く下校しろ」
 担任が教室の中に入ってきて片付けを促す。

「はーい」と返事をしながら席から立ち上がり椅子を元の場所に戻していく。
 どうやら深く追求されずに済んだみたいだ。

 乱れた席を丁寧に直し、鞄を持って教室の外へ。
 生徒が全員出た事を確認して先生が鍵を閉める。

「一緒に帰ろうぜ」

 晴洋の言葉に「うん」と頷いて一緒に下駄箱へと向かう。

「先生さよなら」
「気を付けて帰れよ」

 決まり文句を交わしてそのまま下駄箱へ。正門までの短い道程を6人で歩き、その後別々の方向へと別れる。

 晴洋と2人で家までの道を歩く。互いに趣味や学校での愚痴を言いながら歩く。
 歩道の横には車道が通っていて車が何台も走り去っていく。歩道と車道の間には植え込みがあり、秋の葉の色をした木々が立っている。

 話に一旦区切りがつく。そこで思い出したのは先程の恋話だ。
 あの時、晴洋の質問に少しだけどう答えるか迷った。

 1人だけいたのだ。

 好きな人。そう聞かれて思い浮かぶ人が1人だけいた。

「⋯⋯実は、1人だけいるんだ」

 唐突に切り出した僕に晴洋は頭を傾げた。

「何が?」

「⋯⋯好きな人、と言っていいのか分からないけど」

 晴洋はどこか嬉しそうに口の端を吊り上げ、「そうか」と口の中で言葉を転がした。

 好きな人と言っていいのか分からない。
 何故ならその人とはもう長い時間会ってないから
 だ。

「昔、僕には仲の良い女の子がいたんだ。家が隣だった事もあってよく一緒に遊んだんだ。でもその子は少し病弱でね。家の外で遊んだ事は数えるくらいしかないんだ」

「へぇー、それが紫音の初恋か?」

「⋯⋯うん。今思えばきっとあれが初恋だったと思う。でも、彼女は7年前に引っ越してしまった。それから連絡は取ってないんだ」


 7年前に引っ越してしまった彼女が今どこで何をしているのか分からない。
 それなのに、その初恋をズルズルと引き摺っている。

 可愛らしい子だった。高校生になった今なら彼氏が居てもおかしくないくらいに。


「いつか、会えるといいな」

「うん⋯⋯」

 きっと、そんな奇跡は起こらないだろう。それでも力強く頷いてから晴洋と別れる。

 その後ろ姿はあっという間に小さくなり、次第に見えなくなった。

 親友の背中を見送った後、再び歩き出した僕は住宅街の中へと進んでいく。数分もしない内に自分の家が見えてくる。

 その横には今は新しい家族が住んでいる。

 僕は制服のポケットに手を突っ込んで家の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。鍵を開けて扉を開く。

「ただいまー!」と言えば「おかえり!」と声が返って来る。


 僕の家は2階建ての一軒家に僕と両親の3人が住んでいる。父親は仕事でまだ家には帰っていない。先程の声は台所から母親が返事をしたのだろう。

 玄関で靴を脱ぎ、姿勢を低くして靴を整える。いつもなら玄関前の階段を上って自室へと向かうのだが、今日は階段の横を通って奥の扉に手をかけた。

 横にスライドさせて開けると右側にリビング、左側にダイニングが広がっていて、ダイニングの奥にある台所で母親が夕飯の準備をしていた。

「ねぇ、お母さん」
 僕の呼び掛けに「なに?」と答えて顔を上げる。
 一旦料理を中断して話を聞いてくれる母。

 僕は晴洋との会話を思い出しながら少し重たい唇を開いた。

「7年前まで隣に住んでた青衣ちゃんって、覚えてる?」

「あら、懐かしいわね。勿論覚えてるわよ」
 母親は目を細め、柔らかい表情で答える。

「どこに引っ越したのかって知ってたりする?」

「うーん⋯⋯知らない、かな。もしかしたら、引っ越す時に聞いたかもしれないけど、覚えてないわ」


「そう、だよね。ありがとう」
 そう言い残して部屋から出る。扉を閉めてそのまま階段を上り、正面にある自室の扉を開ける。

 鞄を下ろして制服を脱ぎ、手早く部屋着へと着替えてからベッドに横になる。

「はぁ」と溜息の後にボソッと独り言を呟いた。

「⋯⋯流石に、知るわけないか」



 ♦♦♦

 昔から家が隣だったこともあり、気が付けば彼女とは仲良くなっていた。
 保育園、小学校も途中まで同じでよく一緒に遊んだのを覚えている。

 蕣堂しゅんどう青衣あおいは病弱だった。体が弱く、直ぐに体調を崩す事が多かった彼女は当然、学校を休む事も多かった。

 小学校の頃にクラスで「ズル休みしている」と噂になったこともあった。


 彼女が学校を休んだ日も心配で彼女を訪ねた事がある。そんな僕を嬉しそうに迎えてくれた彼女の両親もよく覚えている。

「いつも、ありがとね」
 自室のベッドで横になっている彼女の姿を何度も見た。
 彼女の家を訪れる度、彼女はベッドで横になっていた。

 同い年の皆が外で楽しく遊んでいる時間、僕らは彼女の部屋で過ごした。
 カードゲーム、ボードゲーム、テレビゲーム⋯⋯。屋内でも楽しく過ごす事は出来た。


 そんなある日の事。
 僕は彼女の本音を聞いた。
「学校でね、皆が私の事、羨ましいって言うんだ」

 僕から聞いた訳ではない。彼女は自分から心の内を喋り出してくれたのだ。

「学校を休んで羨ましいって、勉強しなくて羨ましいって、⋯⋯⋯⋯⋯⋯でも、私は皆の方が羨ましいの」

 弱々しい声でポロポロと零れる彼女の言葉。顔は苦しそうで、目は赤く腫れていて目尻から涙が零れる。

 そんな彼女の姿に、言葉に胸を締め付けられた。

「私も、皆と同じ様に外を走り回りたい」

 苦しそうに胸の内を吐き出す彼女。そんな彼女の言葉を僕は聞いている事しか出来なかった。

 悔しかった。何も出来ないのが。
 僕が何かをした所で彼女の病弱が治る訳では無いと知っていたから。
 まだ小学生で正義感が強かったあの頃、僕はどうにもならない現状を知ったのだ。




 ♦♦♦


 晴洋に初恋の事を話してから1週間が経過した。

 毎日を楽しく、同じ様に過ごした。平日は高校に通って授業を受ける。教科書を開き先生の話を聞いてノートをまとめる。
 放課後は文化祭の準備に勤しんだ。

 他の生徒が部活やバイトで忙しい時間帯に文化祭の準備を進めていく。

 休日は大抵家で過ごした。ゲームに読書など家に居ても楽しく過ごす事ができる。
 バイトもしていないので、外に出るのは友達と遊ぶ時ぐらい。友達も多い方とはいえない僕は家で過ごす事の方が圧倒的に多い。

 いつもの日常は変わらずに流れる。



 その日も、いつもと変わらず学校へと通い、授業を受けて文化祭の準備を進めた。

 帰りも晴洋と一緒に帰り、いつもと同じ場所で晴洋と別れ、家までの短い道を歩いていた。

 前から1人の少女が歩いてくる。背丈は僕より少し小さい。僕の身長が167cmだから彼女の身長は160くらいだろう。

 服装はダークカラーのデニムパンツに真っ白のシャツ。俯いている為、顔は見えない。肩まで伸びた黒い綺麗な髪で相手が女性だと分かった。

 僕と彼女の間の距離は5秒ほどで約1mまで狭まり、すれ違う寸前で彼女が顔を上げた。
 突然彼女が顔を上げた挙動に反応して僕は不意に視線を落として彼女を見る。

 男子高校生ならすれ違う女性が可愛いかどうか気になって無意識に相手を見てしまうのは致し方ないと思う。

 多分、この時の僕も無意識にすれ違う彼女の事が気になったのだろう。僕の視線に気付いてか、彼女もチラッとこちらを見上げた。

 僅か数秒。そのまますれ違い、互いに数歩進んだ事で距離が離れる。
 本当に僅か数秒だった。だから確信はない。それでも彼女の顔を見た瞬間に、僕の鼓動はこれまで感じた事がないくらいに高鳴っていた。

 心臓が煩いくらいに激しく動いている。少し息が荒くなっているのを感じる。
 僕はその場に立ち止まる。声を出したくても、上手く声が出てこない。
 そうしている間にも彼女はどんどん僕から離れていくだろう。

 僕は急いで後ろを振り向く。

「青衣、ちゃん?」

 何とか絞り出した声は本当に小さな声だった。蚊の鳴くような声だったのに、僕の声は彼女の耳に届いた。

 彼女は立ち止まり、咄嗟に僕を振り返った。
 驚いた様に目を見開いている。

 間違いじゃなかった。

 僕の初恋の相手、蕣堂青衣がそこにいた。




 ♦♦♦


「わ、私を⋯⋯覚えてる、の?」

 その声は物凄く震えていた。
 まるで極寒の地にいるみたいな声でそう訊ねる彼女は昔と変わらず、可愛かった。

「勿論だよ」
 笑って返せば安堵の溜息と共に「良かった」と嬉しそうに言葉を零す。

 その言葉には聞こえてない振りをした。僕もどう返したらいいか分からなかったし、何より久し振りの再会で上手く思考が働いていない。


「ほ、本当に久し振りだね」

「⋯⋯うん。久し振りに会えて嬉しい」

 互いに緊張してそれ以上会話が続かない。数秒の沈黙がかなり重い。折角、再会出来たのだ。もう少し話をしたい。

「そうだ。久し振りに家に寄っていかない?」
 そう言った後に後悔した。

 馬鹿だ。男子高校生が女子高校生を家に誘う。恋人でもない相手をだ。
 非常に馬鹿な事を口にした。

「ご、ごめん。今日は、もう帰らないと⋯⋯」

 申し訳なさそうに否定されて僕は愛想笑いで返す事しか出来なかった。

「じゃあ、もう行くね」
 そう言って去ろうとする彼女の表情はどこか寂しそうで、昔の彼女と重なった。

 必死になってつくった笑顔だと分かってしまった。それくらい彼女の笑顔はぎこちなかった。


 彼女が去っていく。彼女との距離がまた少しずつ開いていく。
 初恋の相手に再会出来た嬉しさと、何か言わないと、という使命感にかられて僕は固く閉ざした唇を開く。

「また会える?」
 口から出た言葉が恥ずかしくて顔を赤らめる。
 ここから逃げ出したくなるくらい恥ずかしい。それでも彼女からの返事を待った。
 両拳を強く握り締めて恥ずかしさを堪える。

「⋯⋯うん。また明日ね」
 その彼女の笑顔に胸が打たれる。胸に雷が落ちる衝撃を受けた。

 胸が強く締め付けられ、その場から少しの間動く事が出来なかった。彼女の背中は小さくなっていき、次第に見えなくなった。



 彼女の姿が見えなくなってから漸く足を踏み出し、家に着いた途端、勢いよく扉を開けて階段を駆け上がった。

 制服から着替えるのも忘れて自分のベッドに飛び込んだ。自分の恥ずかしい姿を思い出して枕に顔を押し付ける。

 その日は残りの時間が過ぎるのが物凄く遅く感じた。






 翌日。

 気が付くと帰りの時間になっていた。受けた筈の授業の内容を全く覚えていない。
 文化祭の準備も何をどう進めたのか分からない。

「お前、今日1日変だったぞ」
 家までの帰路を歩きながら晴洋にそう言われて重い溜息を吐いた。

「どうした?何か悩んでるのか?」

「いや、そういう訳じゃないんだけど⋯⋯」

 悩み事がないと言えば嘘になる。「初恋の相手に再会して醜態を晒した」と相談したいけど、相談しながら恥ずかしい思いを掘り起こすのが嫌だった。

「なんでもない」
 結局そう言うしかなかった。

「まぁ、1人で抱え込むのもいいけど抱えきれなくなったら早めに相談しろよ」
 そう言ってくれるだけで随分と救われる。

「ありがとう」

「あぁ。俺ならいつでも空いてるからな」

 晴洋と初めて出会ったのは中学の頃だ。それからずっと一緒にいる気がする。
 彼にならば相談してもいいかもしれない。それでも今日はやめとく。

 いつもと同じ場所で別れて僕は家までの道をゆっくり歩き出す。

 足が重い。それでも彼女に会いたい。
 家に近付くにつれて鼓動が早くなる。




 昨日と同じ場所で彼女は電柱に背中を預けて立っていた。

 僕を見付けると笑顔で小さく手を上げる。
 それだけで嬉しかった。

「ごめん。待たせたかな?」

「私も今来たとこだよ」

 昨日と同じ様な白いシャツにベージュのロングスカートを履いている。

 恥ずかしくて顔を直視できない。一緒に歩いて近くの公園まで移動する。
 公園のベンチに腰を下ろし、聞きたかったことを聞いた。

「今はどこに住んでるの?」

「都心の方、かな」

「え、じゃあここまで遠いでしょ!」
 つい大声が出てしまう。ここから都心までは電車でも1時間近くかかる。

「都心って言っても端の方だからそんなに時間はかかってないよ」

「でも、お金だって」

「大丈夫だよ」
 笑顔な彼女に僕はそれ以上何も言えなくなった。
 そんな僕を見て今度は彼女から口を開く。

「学校は、楽しい?」

「うん。今、文化祭の準備をしてるんだ。⋯⋯僕のクラスはトリックアート展をやるんだけど、青衣ちゃんのクラスは何やるの?」

「わ、私は参加してないから⋯⋯全然分かんない」

「そうなんだ」


 会話が途切れる。これ以上、会話が続きそうにない。昔は一緒に遊んで仲が良かった。でも、7年の空白はかなり大きい。思春期というのもあるのかもしれない。互いに互いの事を「異性」として認識しているからこそ、昔のようにはいかない。


 久し振りに会えた彼女はしっかりと女性として成長している。白くて細い手足、膨らんだ胸、綺麗な髪、少し幼さが残った顔。
 きっと、彼女はモテるだろう。

 2人だけの公園。辺りはもう薄暗い。そろそろ帰らなければ、彼女の帰りが遅くなってしまう。

「⋯⋯そろそろ、帰ろうか」

「⋯⋯うん」
 一緒にベンチから立ち上がる。
 ベンチから公園の出入口までの僅かな距離を一緒に歩く。公園から出てしまえば別れることになる。ここから彼女が住んでいる家まではきっと距離があるだろう。
 だから「明日も会いたい」なんて言える筈がなかった。

 公園がもっと広かったならもう少しだけ長く彼女といられるのに。

 そう思えば思う程苦しくなる。

 この感情の名前を僕は知っている。
 それを相手に伝える言葉も知っている。

 それでも、口に出せないまま公園の出入口に着いてしまう。

 あと一歩の勇気が足りない。

「じゃあ⋯⋯」

「またね」
 その単語が出てこなかった。公園の出入口に立ち竦み数秒が経過する。彼女は俯いていて表情はよく分からない。

 続きの言葉を口にすれば、次はいつ会えるのか分からないのだ。それでも、また会いたい。

 だが、この想いを口にする事も叶わない。


「⋯⋯次の休みって⋯⋯空いてる?」
 迷って悩んだ挙句、出した答え。
 緊張で声が震え、彼女に上手く伝わったのか分からない。
 視線を落とせば、そこには目を輝かせる彼女の顔。

「うん。空いてる」

「だったら、遊びに行こうよ。2人で」
 つい出てしまう本音。気付いた時には既に遅く、僕はまた顔を真っ赤に染めることになった。


「いいよ」
 嬉しそうに頷く彼女に僕も嬉しさを隠せない。つい頬が緩んでしまう。

「じゃあ、連絡先を交換しよ」

 そう言って制服のポケットからスマートフォンを取り出し、急いで連絡先の登録画面を開く。

 それから連絡先を交換してその日は別れた。
 家に着くと帰りがいつもより遅い理由を母親聞かれたが、「友達と話してた」と嘘をついて誤魔化した。





 ♦♦♦


 休みの日。

 いつもより少しだけ早く起きる。壁に掛けられた時計の針は午前7時を指している。

 ゆっくり眠れなかったのもあってか少しだけ眠いが、それでも心は踊っている。時間にゆとりを持って準備をする。
 朝食を食べて歯を磨いて顔を洗う。

 今日着る服は昨夜に決めた。

 服に袖を通して準備は完了。家を出て最も近い駅へと歩く。

 10分ほど歩いて駅に到着する。階段を上がって駅の中へ。駅の中は静かで人はほとんどいない。

 電子マネーで改札を抜けて左側の階段を下りる。電車を待つこと15分。待っていた電車が到着して目の前で扉が開く。

 降りてくる人はいない。僕はそっと電車に乗り、空いている右側の席に座った。

 スマホを触ったり外の景色を見て電車に揺られる。
 僕が乗った頃は静かだった車内はいつの間にか騒がしくなっている。
 都心に近付くにつれて人が増えていく。


 電車に乗って1時間が過ぎた頃、目的の駅に到着した。
 人の流れに乗ってそのまま電車を下りる。

 いつの間にか鼓動が高鳴っている。
 それもそのはず。今日はデートなのだから。



 改札を抜けて正面に立つ大きな柱。その頂点には大きな時計がついている。

 沢山の人がその柱を囲うように立っている。
 その中に僕の待ち人もいた。

「ごめん、お待たせ」

「大丈夫。私も今来た所だから」

 彼女はこの間と同じ服装だった。白のシャツにベージュのロングスカートにスニーカーを履いている。

「じゃ、行こっか」

 そう言って互いに歩き出す。




 ♦♦♦


 水族館の入口に並ぶこと1時間。かなり人が多く混んでいてなかなか先に進まない。

「結構並んでるね」

「そうだね。でも私は楽しいかな」

「え?」

「⋯⋯だって紫音君と一緒だからね」

 彼女の笑みに照れる僕。意図してないのに口角が上がる。
 1人なら長く感じる時間も彼女と一緒だから短く感じる。

「私は年間パスポート持ってるから」

「じゃあ、僕の分だけ買えばいいね」

 列は進み、僕達がチケットを購入する番になる。入場券購入のカウンター前へと移動する。

 1人分のチケットを購入して入場口の前へと移動した。

「あれ?」
 さっきまで隣に居たはずの青衣ちゃんがいない。
 当たりを見渡しても彼女の姿は見つからない。

 その時、ポケットの中にあるスマホの通知音が鳴った。

 急いで取り出し画面を見た。
 そこには彼女からのメッセージの内容が映っていた。

『紫音君どこにいる?私はもう中に入っちゃったけど』

 そのメッセージを見て思わず安堵の溜息が出る。
「よかった」

 いつの間にかはぐれてしまった彼女はどうやらもう水族館の中にいるようだ。

 僕も急いで入場口でチケットを確認している店員さんに声をかける。



 中に入ると正面に立つ柱の傍に彼女を見付ける。

「あ、良かった」

 彼女は嬉しそうに僕を見つけると大きく手を振ってくれた。

「はぐれちゃったね」

「そうだね」

 気を取り直して水族館の中を進んでいく。

「あ、クラゲだよ!」
 まるで子供みたいにはしゃぐ彼女。その姿がとてもなく愛おしく、胸が苦しくなる。

「この前ネットで見たんだけど、クラゲってほとんど水分らしいね。確か95から97%が水分なんだって」

「えーそうなの?知らなかった!紫音君ってもしかして博識なの?」

「いや、たまたまネットでそう言う記事を見ただけだよ」

 色んな魚を見ていく。水族館の中は暗く、魚が泳いでいる水槽にだけライトが当てられていてとても神秘的な空間が広がっている。

「あ、サメだ!」

「サメって少し怖いよね」

「そうかな?私はカッコイイって思っちゃうな」
 サメの水槽の前には男子小学生が多く集まっていた。

「でも、実際に海で遭遇したら怖いよね」

 実際に遭遇するのは嫌だけど、こうして水族館で眺めるなら悪くないかもしれない。


 ヒトデを実際に触れるコーナー。
「触る?」

「いや、私は遠慮しておくよ。代わりに紫音君が触ってきてよ」

 青衣ちゃんに促されて僕はヒトデに触れてみる。

 硬くもなく柔らかくもない。とても微妙な感触だ。
「言葉にするのが難しい感触だった」


 あっという間に時間は過ぎ、昼になる。

「何か食べに行く?」

「あ、ごめん。私これから用事があって」

「そ、うなんだ」

 少し残念だが用事があるならしょうがない。
 その日は水族館を出てそのまま駅まで歩いた。

「今日は楽しかった。また遊びに行こうよ!」

「うん、そうだね。⋯⋯遊園地とかどうかな?」

「うーん、遊園地はちょっと嫌かな。絶叫系が得意じゃないし⋯⋯ごめんね。映画はどうかな?」

「観たい映画があるの?」

「⋯⋯うん」

「じゃあ、映画にしよっか」

 名残惜しいけどそこで別れた。帰りに乗った電車。距離も電車が進む速さも朝と変わるものはないのに、とても長く感じた。



 ♦♦♦


 1週間が経過する。

 その日は休みなのに学校に向かっていた。
 文化祭の準備を進める為に学校で作業が行われている。
 この1週間なかなか作業が進まず、授業も上の空だった。

 最近、集中力が足りていない気がする。
 クラスメイトからも心配の声をかけられる事が少なくなかった。


 学校に着き、教室の中に入ると床には新聞紙が何枚も重なり広げられていた。


 直ぐに制服からジャージに着替える。縦2m、横1mのベニヤ板を2枚使用して大きな錯覚絵を描く。

 壁に飾られた絵画から髪の長い女の幽霊が飛び出しているように視える絵を描く。

 それを教室の真ん中に飾る。トリックアート展の中でメインとなる絵だ。
 失敗は許されない。

 鉛筆を使用して下書きをしていく。

「ここの線もう少し太くしといて」

「分かった」

 指示された通りに線をなぞって太くする。

「白いペンキを買ってきてくれる?」

「おう!任せとけ」

 メインとなる絵を『幽霊が飛び出してきているように視える絵』がいいと発案したは僕だ。晴洋もやりたがったが、彼は大雑把なので任せられない。

 この発案は面白く実行員ではないクラスメイトからも評判が良かった。

 丁寧に下書きをしていき、午前には下書きが終わる。
 昼からは色塗りに入る。幽霊の顔は長い黒髪で隠されていて見えないようになっている。

 こちら側に右手を突き出し、左手は絵の額縁を掴んでいる。
 服は真っ白なワンピース。絵の中は暗い色で塗り、不気味に仕上げていく予定だ。

 額縁の外側は教室の壁の色に近い色で塗るらしい。


 その日の作業が終わる頃にはジャージはペンキ塗れで汚くなっていた。


「紫音、結構汚れたな」

「これは晴洋が僕を驚かせたからでしょ?」

 僕は晴洋に驚かされた。そのせいで塗りたてのペンキの上に派手に転んでしまったのだ。


「わりいわりぃ」


 着替えを終えて帰り道を歩く。前の会話が一旦途切れたところで晴洋が足を止めた。

「どうしたの?」

「⋯⋯少し前から気になってたんだよ。紫音ってさ、もしかして彼女できた?」

 その質問に僕の心臓は一気に刻む音が速くなる。

「⋯⋯彼女とかじゃないけど、この前話した幼馴染みと再会、したんだ」

「え、マジで?」

「うん」

「⋯⋯そっかぁ、それは良かったな」

「⋯⋯うん」

 そこからまた歩き出す。晴洋は僕が幼馴染みと再会出来たことを喜んでくれた。
 再会した経緯を説明して、先週デートした事も打ち明けた。

「まさか俺より先に紫音に彼女ができるとはなぁ、負けたぜー!」

「だから、彼女じゃないってば」

「それでも、好きなんだろ?」

 肯定出来ない。恥ずかしさがこみ上げてくる。
 それでも、それは正しい。

 最近の思い出を話しただけなのに彼は僕が胸に秘める想いに気付いた。

 再会してから1回デートをしただけ。
 それだけで僕はまた彼女に想いを寄せている。

「それで、いつ告白するんだよ」

「⋯⋯まだ、決めてない」

「あんまり思い詰めるなよ。俺は応援してるからな」

「うん。ありがとう」

 いつもの場所で別れる。
 小さくなっていく親友の背中を見送って僕は帰路を再び歩き出した。




 ♦♦♦


 告白する勇気は出ないまま更に1週間が経過した。

 その日は映画デートの日。文化祭の準備は滞りなく進み順調だ。

 メインとなる幽霊の絵はほとんど完成している。あとは各々の錯覚絵を準備するだけだ。


 前回のデートと同じ様に僕より彼女が先に到着していた。かなり余裕を持って待ち合わせ場所に到着したのに彼女は既にそこに居た。

「ごめん、また待たせちゃったかな」

「うんうん。全然だよ」

 時間は昼過ぎ。午前中は都合が悪かったらしく、昼からの映画を観るという事になった。

「この映画ね、前から観たかったんだ」

「そうなんだ。どんな映画なの?」

「病気の主人公が1人の少女と出会って恋をする物語なの」

 そうして映画館に到着する。映画のチケットを買う為にカウンターへと移動しようとした所で彼女の足が止まった。

「どうしたの?」

「あ、ごめん。今細かいお金持ってないからチケットは別々に買いたいの。私はL列の9買うから紫音君は10を買ってね」

「別にいいけど、その席が取れなかったら?」

「そこまで人気のある映画じゃないからきっと空いてるよ」

 そう言われてカウンターまで移動する。確かに同時公開している他の恋愛映画が今最も注目されている。

 その為か今から観ようとしている映画は上映回数も少なく、観る人も少ないようでL列は全ての席が空いていた。

 言われた通りにL列の10番の席を予約してチケットを受け取った。

 彼女の方が先に購入し終わっていたみたいで、入場口の前で待っていた。

「買ってきたよ」

「じゃあ、入ろっか」

 そう言われて僕は頷きながら先頭で店員さんに声をかける。買ったばかりのチケットを見せてそのまま通される。

 入場した所で僕の後ろから隣に移動する彼女。そのまま2人で歩く。

 1番手前の会場に入り、階段を登ってL列へ。確かにあまり人気がないみたいで僕達以外で観に来ているお客さんは数名だけだった。

 映画が始まり、画面に集中する。



 1時間45分の映画が終わり、一緒に映画館を出る。

「面白かったね」

「うん。いい映画だった」

 映画の感想を話し合いながら途中、ゲームセンターへと寄る。
 挑んだクレーンゲームは全て敗北。
 全部惜しいところで取れず、だがそれでも楽しかった。


「今日も楽しかったね。来週も空いてる?」

「うん。空いてるよ」

「⋯⋯じゃあ、紫音君の家に行ってもいい?」

 彼女の質問に僕は思わず聞き返してしまう。

「久しぶりに紫音君の家に行きたいの」

 幼い頃、僕が彼女の家を訪ねる方が多かった。彼女が僕の家に来たのは本当に数度だ。

「⋯⋯うん、いいよ」

 その日はそれで別れた。




 ♦♦♦


 文化祭まで残り1週間となった。
 メインとなる絵は細かい修正も終え、完成した絵はなかなかの物に仕上がっていた。

 各々の錯覚絵も完成している。あとは展示場所を決めるだけ。
 教室には前と後ろにそれぞれ扉が設置されている。前の扉から入って展示された絵を見て後ろの扉から出ていく。
 そんなレイアウトにしてある。


 僕の錯覚絵はミュラー・リヤー錯視の線だ。

 展示される錯覚絵は他にも沢山の種類がある。建物の角を利用した絵、上下の高さが分からない絵、グラスと向かい合ったヒトの顔が描かれた絵、同じ色なのに違う色に視える絵など見ていて楽しい錯覚絵ばかりである。

 野球部のランニングする声が窓から聞こえてくる中、レイアウト図と向かい合って頭を悩ませるクラスメイト5人。


 今日はレイアウトの最終確認。
 全体のバランスを考えながら絵をひとつひとつ展示する場所を決めていく。

「やっぱり、この絵はこっちがいいんじゃない?」

「あ、俺もそう思う」

 着々と進み、各錯覚絵の展示位置が決まる。レイアウトの確認も終わり、時計の針は正午を示している。

「それじゃあ、僕は用事があるから帰るね」

「おう!じゃあな」

 予め伝えてあった通り、僕は教室を出て真っ直ぐに下駄箱へと向かう。

 靴に履き替えて校門へと歩く。いつもなら隣に晴洋がいるが、今日は1人だ。

 いつもより少しだけ歩くスピードが早い気がする。歩道のすぐ隣、白い防護柵の向こう側を何台も車が通り過ぎていく。

 冷えた手を制服のブレザーのポケットに突っ込む。教師に見つかれば説教を受ける事になるだろう。
 家に近付くにつれ、段々と速くなる鼓動。

 体は冷えているのにしっかりと熱を持っているのを感じる。
 この感情の理由を理解している。
 その名前を知っている。

 相手に伝える言葉も知っている。
 それでも言葉に出来ない。

 情けないと自分でも思う。
 たった数回デートしただけで、僕の心はこんなにも舞い上がってしまっている。

 言葉にしたくて、でもそれが出来ない。
 この想いを相手に伝えるのがこんなにも難しいと初めて知った。


 彼女と過ごした数日と、昔の思い出だけが頭を埋めつくし、中をぐるぐると回っている。

 気が付くと目の前には自分の家。
 いつもより半分も時間が経っていない。そう錯覚してしまうほどに彼女のことだけを考えている自分がいる。

 告白をすればどのような結果であれこの苦しみからは解放されるだろうか⋯⋯。
 得体の知れない恐怖が常に付きまとい、呼吸すら重く感じる。

 家の扉を開け、自室へと移動する。親は出掛けているようだ。
 制服から私服へと着替える。適当に家にあるもので昼食を済ます。

 その時、丁度スマホの通知音が鳴り響く。画面を見れば彼女からのメッセージが届いている。

『紫音君、着いたよ!』
 そのメッセージを見ただけで想いが溢れそうになる。
 僕は急いで玄関まで移動して扉を開ける。

「こんにちは!」

「うん、こんにちは」

 彼女の姿が視界に入るだけでその鼓動は更に早くリズムを刻み出す。





「うわぁー、懐かしいなぁー!」

 自室へと彼女を案内して最初に彼女は目を輝かせた。

「あんまり昔と変わってないでしょ」

「うん!懐かしい」

 彼女は今日も白い服だった。というより、この前と全く一緒の服装だ。
 白く細い手足。白い服と相まって綺麗だ。

「ねぇ、ゲームしよ!」

 彼女の言葉に慌てて思考を掻き消す。邪な気持ちを悟られては不味い。
「そうだね」

 テレビの電源を入れ、ゲーム機と接続を行う。コントローラーを持ち、昔も一緒にやったゲームをす
 る。


 車のレースゲーム。

 僕が青衣に勝ったところでお茶すらも出していない事に気が付いた。

「あー、負けたよー」

「お茶持ってくるね」

 悔しがる彼女に笑みを返しながら急いで自室から出ていく。

 今、親は家に居ない。つまり、この家の中には僕と青衣ちゃんだけだ。

 そう思うだけで緊張で上手く表情が作れない。
 会話すらも出来そうにない。

 台所でコップ2つにお茶を注ぐ手がブルブルと震える。
「お、落ち着け、僕」

 自分で自分を落ち着かせて、お茶が注がれたコップを2つ持って自室へと戻る。

 扉を開ける前に2度深呼吸。少し落ち着きを取り戻し扉を開ける。

「あ、ありがとう!」

 僕に気が付いた青衣は読んでいた漫画の本を閉じて笑顔になる。

「うん。ところで、何を読んでたの?」

 僕は持っていたコップを机の上に置いて訊ねる。

「これだよ。私、この漫画好きだったから懐かしいなって」

 青衣は漫画の本を僕に見せる。それは昔から僕の部屋にあるファンタジー漫画。
 主人公の少年とお姫様が旅に出る物語。

 僕も好きな漫画で、昔彼女がこの部屋に遊びに来た時も読んでいた漫画だ。

 その時の青衣の表情が昔の彼女と重なる。


「来週、僕が通ってる高校で文化祭があるんだ」

 そう言い出し、そこで止まる。
 数秒だけ悩み、思いとどまって両拳を握り締める。急激に胸を締め付けられる。

 足りない勇気。
 それでも腹の底から声を出し、想いを告げる。

「来て欲しいんだ。⋯⋯⋯⋯僕は青衣ちゃんが、好きだから」

 沢山悩んで、沢山苦しんで、何とか言葉に出来た。

 鼓動は治まらず早いリズムを刻んでいる。
 苦しみからは解放されたけど、彼女の答えが怖くて耳を塞ぎたかった。

 青衣ちゃんは黙って俯いた後、急に立ち上がる。
 僕はただ彼女を見つめる事しか出来なかった。

「⋯⋯ごめん」

 僅かな言葉だけを残し、彼女は僕の部屋から走り出す。勢いを弱めること無く僕を追い越して家から去っていく。

 訳の分からないものが込み上げてくる。鼻の奥に痛みが走る。目頭が熱くなり、目から水滴が溢れる。
 それを抑えることが出来ない。

 その日、僕の告白は失敗に終わったのだ。






 ♦♦♦

 それからの1週間はとてつもなく長く感じた。

 元気がない僕を両親は心配してくれたが、学校は休むこと無く通った。

 気力を失った僕に声を掛けてくれたクラスメイトもいたし、晴洋も僕を気遣ってくれた。

 何日も引きずって重く苦しい数日を過ごした。それでも、立ち直らなければならなかった。みんなで頑張ってきた文化祭を僕の都合で台無しにする訳にはいかなかったから。

 空元気で日常をやり過ごし、文化祭の前日。

 教室の椅子を使用されていない部屋へと移し、机を並べて展示室を作る。
 その上に展示絵を並べていく。

 教室の壁に展示するもの。机の上に展示するもの。

 それぞれを展示し終え、最後にメインとなる幽霊の展示絵の展示を行った。

 全ての準備が終わったのは外が暗くなってからだった。

「よし、あとは明日だな」

「うん。明日は皆で楽しもうね!」

 クラスのみんなは楽しそうに明日を待ち望むだろう。


「じゃあ、俺らも帰ろうぜ」

「⋯⋯うん」

 晴洋に続いて正門を通過する。明日の文化祭に向けて装飾された新鮮な正門を抜けて通学路を歩く。

 足取りはまだ重い。会話もいつもより少ない。


「⋯⋯それで、何があったんだよ」

 暗いトーンで晴洋が投げ掛けた問に僕はなかなか口を開けなかった。

「少し、公園寄っていくか!」
 そんな僕に晴洋は強引に僕を連れて公園へと向かう。

 家の近くの公園。そこは彼女と再会した翌日に彼女と一緒に来た公園だ。

 あの時の事を鮮明に思い出す。

「⋯⋯告白、したんだ」

 苦しくて、辛くて、言葉が漏れ出す。
 晴洋は最初に驚いて、その後に冷静になって僕の言葉に耳を傾けた。

「気持ちの整理とか難しいかもしれないけど、とりあえず明日は楽しもうぜ!」

 晴洋なりに僕を励ましてくれる。
 ただそれだけで救われる。

 いつまでも立ち止まる訳には行かない。先ずは目の前の行事を楽しむ事だ。

 高校生活でたった3回しかない文化祭だ。


「ありがとう」
 公園を出る直前でお礼を告げる。晴洋は目を見開いた後、照れ笑いで「俺は親友だからな!」と聞いているだけで恥しい言葉を口にする。


「じゃあ、また明日」

 そこで別れて僕はしっかりと前を向いて家への短い帰路を歩き出した。






 翌日。

 普段なら休日である土曜日。
 でも、今日は違う。

 平日と同じ時間に起き、朝食を食べて身支度をして家を出る。

 高校に着けば校内はいつもより騒がしい。
 そして、少しずつ校内に人が増え出す。

 大人、違う高校の生徒、中学生、近所の小学生⋯⋯。

 いつもと違う色で装飾された校舎に僕らの心も騒ぎ出す。
 沢山の人で賑わう文化祭。トリックアート展も盛況だった。

「わぁー、すげぇ!」
「これ、どうなってるの!?」

 驚きと感動の声で満ちる教室に僕らも喜びを隠せない。
 昨日までの暗い気持ちにも何とか整理をつけ、僕も文化祭を楽しんでいた。

「結構、人気だな!」

「うん」

 文化祭を晴洋と2人で回りながら、自分たちの教室の具合を見に来ていた。予想していたより人が集まっいて嬉しさで頬が緩む。

「次はどこ行く?」

「射的したい!」

 僕の問に間髪入れずに答える晴洋。射的の教室へと向かおうと歩き出したその時の、視界の隅で彼女の姿を発見した。

 心臓が急に縮む。一瞬、呼吸を忘れそうになった。
 白いワンピースを着た彼女も僕に気付き、慌てて身体の向きを変えて走り出した。

 咄嗟に僕も駆け出す。
「おい!」
 晴洋は驚いて声を上げるが、その声すら僕の耳には届かない。

 人と人の間を抜けて僕は走る。校舎の中を走るのは校則違反だ。だが、そんな事は頭の中にはなかった。

 ただ、必死になって彼女を追い掛ける。呼吸が荒くなり、胸が苦しい。それでも脚だけは止めない。

 人混みを抜けて階段を2段飛ばしで降り、彼女との距離を縮める。あと僅かな距離。手を伸ばせば届きそうな距離まで狭まり、僕は咄嗟に手を伸ばした。

 走り去ろうとする彼女の腕を掴もうとして⋯⋯。


「紫音君、何してるの?」

 すぐ傍で聞こえた女子生徒の声に僕は思わず立ち止まった。数歩前で彼女も立ち止まる。振り返ると心配そうな表情でクラスの女子生徒が僕を見詰めている。
 彼女を追い掛ける事に夢中で気が付かなかった。

「いや、知り合いが逃げるから」

「知り合い?紫音君、独りで走ってたけど」

 あまりの驚愕に声すら出ない。独り?彼女は目の前に居る。
 理解できない事に思考が追いつかない。肩を上下させ、僕は彼女の背中を見詰める。

「おい、急に走り出してどうしたんだよ!」

 そこで晴洋が僕らに追い付いた。彼は真っ直ぐに心配そうな表情で僕を見詰めている。


「⋯⋯⋯⋯青衣、ちゃん?」

 その言葉だけで晴洋は勘づいた。息を呑んで目を見開き、僕を見詰めた。

 蕣堂青衣はゆっくり僕を振り返る。
 その顔は言葉で表す事が出来ないほど、悲しみに満ちていた。







 ♦♦♦


 幼い頃から身体が弱かった。

 自室のベッドで横になって毎日を過ごす事が多かった。齢5歳で不平等な現実に打ちのめされたのだ。

 ただ苦しみに耐える。
 それが私の人生だった。


 同い歳の子は元気に外を走り回る。その光景を眺める事しか出来なかった。

 苦しくて、何度も泣いた。
 泣いても現実が変わる訳では無い。それでも泣き続けた。
 親は私を抱いて謝罪の言葉を並べた。

 違う。
 親を困らせたかった訳ではない。
 親に謝って欲しかった訳ではない。


 ほんの少しでいいから私もみんなのように生きたかったのだ。


 何度も嫉妬して、何度も泣いて、何度も苦しんだ。


 小学校に入学した頃、隣に住む同い歳の子が私の家に来た。
 家が隣だった。

 それが理由で彼と一緒に遊ぶ事が増えていった。


 学校を休む事が多い私は周りから疎まれていた。
 久し振りに学校に行けば皆が口を揃えて言うのだ。

「羨ましい」と。

 私が学校を休む理由を知っていて、それを羨ましいと言われた。悔しかった。苦しかった。
 みんなの気持ちを理解できなかった。

 学校に通える機会が少なかったから友達と呼べる存在は彼だけだった。
 学校が終わった後、休みの日、隣に住む彼は私の部屋を訪れてくれた。

 何度も一緒に遊んだ。それだけで嬉しくて、彼の事が気になって、気が付けば私は彼に好意を寄せていた。

 それが私の初恋だった。



 だが、10歳の誕生日を迎える頃。
 体調が悪化した。
 現在の医療では治療する事が出来ない病気だった。

 大きな病院に入院する事を余儀なくされたのだ。

 それが引っ越しの理由。
 彼と離れるのは苦しかったけど、この病気を治して彼に会いに来ようと決意した。





 自室のベッドから病院のベッドへ。
 環境が変わっても、生活が変わっても病気が治る事はなかった。

 検査と投薬の繰り返し。
 終わりが見えない闘病生活。

 1日の大半を病院のベッドの上で過ごす。
 部屋の中の気温は一定に保たれていたから季節が変わるのが感じられなかった。

 窓から視える景色が変わることは無い。
 身体を蝕む病気に耐え続けて時間だけが過ぎていった。

 毎日、感覚が衰えていく。
 筋力が落ち、食欲も減っていく。




 目を閉じても眠れない日々が続いた。
 増える薬の量に不安を隠せない。


 体重も落ち、痩せた細った状態で思い出すのは昔の日々。

「⋯⋯⋯紫音君」

 ずっと胸に残る彼との思い出だけが次々と蘇る。彼は今どこで何をしているのだろう。

 元気だろうか
 楽しく過ごしているだろうか


 病気に勝って彼に会いに行くと決めたあの日から随分と経ってしまった。彼は私を覚えていてくれているだろうか⋯⋯。


 そして、また1年が過ぎた。

 同い歳の子は高校へと入学する年。
 医師から余命宣告を受けた。











 私に残された僅か1年間。

 これ迄と変わらず私は病院のベッドの上で静かに過ごし続ける。

 春が過ぎ、夏が訪れる。年々と気温は上昇し、暑苦しい夏だという。
 その暑さすら私には感じる事が許されない。
 快適な空調設備が揃った部屋で起き上がる回数も随分と減ってしまった。

 蝉の鳴き声が段々と減り、秋になる。
 木々の葉が緑色から黄色や赤色へと変わる。

 そして、冬になり雪が降る。
 窓の外を真っ白な粒がゆっくりと落ちていくのをただ見詰めていた。
 外は寒いらしい。



 私が眠るベッドの横で両親が泣きながら外の様子を話してくれる。両親も随分と変わってしまっている。虚ろな目で外を見詰めていたその話に耳を傾ける。




 そして、また春が訪れた。


 医師から受けた余命を超えて私は生き続けた。

 もう、いつ心臓が止まってもおかしくはない。
 それでも生きたいと願う。






 途切れ途切れ想像する。
 もし、奇跡的に私の病気が治ったら⋯⋯。

 両親の喜ぶ姿が目に浮かぶ。
 彼に会いに行くと、彼は驚いて⋯⋯それから。

 昔みたいに一緒に遊んで⋯⋯デートして。
 告白して付き合って。
 一緒に水族館に行って、一緒に映画も観て、それから、遊園地にも行きたいなぁ。
 家で2人で過ごすのもいいなぁ。
 そして手を繋いで、キスをする。


 そんな、夢みたいな日々を想像するだけで胸がいっぱいになる。



「あぁ⋯⋯会い、たいなぁ」

 他の子と違う私は普通を望んだ。みんなと同じように生きたいと⋯⋯。
 それでも、それは叶えられなかった。

 自分の部屋で独り過ごす退屈な日々の中で、彼と一緒に遊んだ時間が何よりも大切な時間だった。
 彼が会いに来てくれた。
 ただ、それだけで嬉しかった。救われた。


 この想いを捨てられなかった。忘れる事なんて出来なかった。
 でも、身体は動かない。
 どれだけ想っていても、伝える術がない。


『また君に会いたい』
 そう想うだけで私は病気と闘えた。
 だが、それも限界だった。





 そして夏が来る。誕生日を迎え、夏が終わる頃、自分の終わりがすぐそこまで迫っている事を感じた。
 すぐ横で叫ぶ親の声すら私の耳には届いていない。

 唇を開く事も出来ない。声を出す事も叶わない。
 感謝の言葉を伝える事が出来ない。

『⋯⋯お母、さん。お父、さん。⋯⋯産んで、くれて⋯⋯ありがとう』

 伝わらない言葉。伝えたいと、どんなに願っても届くことはない。
 全ての音が遠ざかり、感覚も薄くなる。
 視界は限りなく狭まり、そこで意識は途絶える。










 次に気が付くと目の前には自分の身体があった。もう動く事はない私の身体。そのすぐ横で泣き崩れる両親。


 私の事は視えていない。泣き崩れ身体を震わせる両親に触れる事も出来ず、私は両親を傍で見守った。


 1週間が経過する。
 もし、許されるなら彼に会いに行きたいと思ったのだ。
 誰にも認識されることの無いこの身体で彼の今を知りたいと。
 改札を通っても何も起こらない。信号を無視して車が私にぶつかっても何も起こらない。私の身体を透けた車はそのまま去っていく。


 そして見覚えのある景色。昔、私が住んでいた街に辿り着く。
「⋯⋯懐かしいなぁ」

 昔の記憶を便りに道を歩けば昔私が住んでいた家に着く。今は名前も知らない誰かが住んでいるようだ。

 そして、その横には私の初恋の人の家。


「⋯⋯流石に、覚えてないかな」
 確かめるのが怖くて私は帰ろうと歩き出した時、前から1人の高校生が歩いて来るのを見付けた。

 久し振りで無いはずの心臓が高鳴るのを感じた。遠目でも彼だと分かってしまった。

「⋯⋯駄目だ。私」

 俯いて歩き出す。私と彼の間の距離は5秒ほどで約1mまで狭まる。すれ違う寸前で顔を上げる。最後に彼の顔を見ておきたかった。

 偶然にも彼と目が合い、そのまますれ違う。溢れそうになる涙を必死に堪えてそのまま数歩進む。

「青衣、ちゃん?」

 彼の言葉に私は咄嗟に振り向いた。嬉しかった。私自身が幽霊であるという事も忘れる程ただ嬉しかった。

 彼が私を覚えていてくれたという事実が嬉しかった。

 それから私は罪悪感を感じながら彼との日々を過ごしたのだ。私は幽霊。彼は何故か私を視ることが出来る。

 でも、私が既に死んでいる事に変わりはない。このまま生者のフリをして彼と過ごす事なんて出来ないと分かっていた。

 分かっていたのに止められなかった。


 少しでも長く一緒にいたかった。
 正体がバレるのが怖くて狡をした。飲食店に入れば正体がバレると分かっていたから。一緒に行きたいと願った遊園地も拒否した。

 一緒に過ごせる時間は限られていたけど私は幸せだった。

 7年間、自分の中で積み重ねた想いが溢れて抑制出来なかった。

 少しでも多く、彼の中に私を残したかったのだ。
 どんなに時が経っても風化する事のない思い出を残したかったのだ。

 少ししか生きられなかった私でも残せるものがあると知りたかった。私が生きた価値を、意味を残したかったのだ。


 忘れて欲しくない。ずっと覚えていて欲しい。
 おぞましくて醜い私の感情。理解していても抑える事の出来ないこの想い。
 君に恋焦がれるこの感情が愛おしい。


 君と過ごした全ての時間が何よりも尊くて、君から受けた愛の告白が何よりも嬉しかった。
 でも、付き合う事は許されない。これ以上を望んではいけない。

 そうして彼から離れようと試みて⋯⋯。
 出来なかった。最後にもう一度会いたいと心が叫び、私の足は自然と彼が通う高校へと向かっていた。


 遠目から彼を眺めるだけでよかった。彼に見つかり、走って逃げて⋯⋯。

 そして、彼の指が私を透過して、私は立ち止まる。






 ♦♦♦



 文化祭の途中で学校を抜け出して公園まで移動する。

「⋯⋯私ね、幽霊なんだ」

 そう告げられて、これ迄の経緯を説明される。
 あの公園であの時と同じ様にベンチに座って彼女の言葉を聞いて受け入れていく。


 信じたくなどなかった。でも、触れる事が出来ないという事実が彼女が幽霊である事を示している。

「紫音君に会いたくて、私頑張ったんだよ。頑張って病気と闘ったの。でも、駄目だった」

 何も言えなかった。彼女がどんなに苦しんだか想像もつかない。

「幽霊になって紫音君に会いたいって思って会いに来たの。そしたら紫音君、私の事視えるからびっくりしたよ⋯⋯でもね、嬉しかった。私の事、覚えててくれて」

 気持ちの整理が出来ない。思考が追いつかない。でも、変えようのない現実だ。俯いて彼女の言葉に耳を傾ける。

「私、ずっとベッドの上で過ごしてきたから紫音君とデート出来て凄く楽しかったよ。水族館にも行けたし、一緒に映画も観たし、久し振りに紫音君の家にも行けた⋯⋯⋯⋯ねぇ、紫音君は楽しかった?」

「そんなの!⋯⋯当たり前でしょ」

「えへへ。嬉しいな」

 顔を上げれば照れながら笑う彼女。僕の瞳には生きている人と同じ様に映っている。区別なんて出来ない。それでも、彼女は既に⋯⋯。

「⋯⋯ごめんね。告白してくれた時、凄く嬉しかったけど、私も紫音君の事好きだけど⋯⋯付き合えない」

 例え、彼女が幽霊だとしてもこの気持ちが変わることは無い。触れる事が出来なくても構わない。もう一度、ここで告白をしようと僕は勇気を振り絞り、口を開きかけた所で彼女がベンチから立ち上がった。

「⋯⋯もう、時間なの」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯え?」

 彼女の身体が少しずつ薄くなっている。透けてその向こう側が少しずつ視え始めている。

「⋯⋯私は幸せを感じてしまった。君に会えてデートして、君の中に私自身を刻めたから。⋯⋯もう未練がなくなっちゃったの」

 それは彼女がこの世から消える事を示している。彼女の魂はあの世へと向かうのだ。それを止める事など誰にも出来ない。

 僕は不意に立ち上がり、彼女に手を伸ばす。

 そんな僕を見て彼女は微笑む。
「ねぇ、紫音君は私の事、ずっと覚えててくれる?」


「当たり前だ、絶対に忘れない!」

 彼女の目尻から透明な雫が頬を伝って落ちる。落ちた涙は弾けてこの世から消えていく。

 夕陽が2人だけの公園をオレンジ色に染める。彼女の身体は更に薄くなり、透明に近付く。

 もう時間は残されていない。
 何か言わないと⋯⋯。


「紫音君、好きだよ」

 焦る僕の唇に彼女の唇が重なる。
 一瞬の出来事だった。感触はない。それでも僕の唇は確かに彼女の唇に触れた。



 想いが溢れ身を震わせ慟哭する。
 自分でも何を叫んでいるのか分からない。


「絶対に忘れないから!君を想ってずっと苦しんで生きていくから!だから⋯⋯⋯⋯」



 最後に無邪気な笑顔で彼女はスっと光に飲まれて消えた。






 ♦♦♦



 あの日、彼女が消えてからの記憶はない。どうやって家に帰ったのか思い出せない。

 気が付いたら次の日の朝だった。


 僕はまた大切な人を失ってしまった。
 そう思えば悲しみが込み上げてきて⋯⋯それでも歯を食いしばって堪えた。
 その日は部屋に閉じこもって独りの時間を過ごした。


 食事を取らなかったから両親に心配されたが「何も無い」と言い張り追求から逃れた。


 次の日。僕は文化祭の代休で学校が休みだったが両親は仕事の為、朝早くから家を出て行った。家を出る最後まで僕の事を心配していた。物凄く申し訳ないとも思ったが、それでも活力が湧くことはなかった。



 そして昼を過ぎた頃、僕の部屋に彼が訪れた。


「失礼するぞ」
 そう言って僕の目の前に突如現れる親友。


「お前、何も食ってないだろ。ちゃんと食わないと元気でないぞ」

 分かってはいても食欲がないのだ。何も喉を通らない。口に物を入れたくない。何も手が付かず、息をしているだけで苦しかった。

「⋯⋯あの子も幽霊だったんだな」

 黙る僕を見て晴洋は静かにベッドに腰を下ろした。そして、自身の横を2回叩く。
 それに促されて晴洋の隣に腰を下ろした。

「俺には残される方の気持ちは分からないけど想像は出来る。きっと辛かったよな。苦しかったよな。だから泣いていいんだぞ」

 その優しい言葉に鼻の奥に痛みを感じる。それでも顔を横に振る。

 泣けない。泣いたらきっと止まらない。
 出来る限り心配をかけたくない。
 辛い時こそ笑わなければ、彼女の分まで笑わなければいけないのだ。


「紫音、苦しい時は泣いていいんだよ。強がらなくていいんだ。我慢なんてしなくていいんだよ。泣きたい時は泣くんだよ」

「でも⋯⋯⋯」

「感情を殺す必要なんてない。俺たちは人間なんだからもっと感情を大切にしていいんだよ。心のままに生きていいんだよ。だから、泣いていいんだよ」

 その言葉は僕の胸に深々と突き刺さる。その瞬間、塞き止めいていた水が溢れかえるように僕は泣いた。ボロボロと大粒の涙を零して、声を上げて泣いた。

 鮮明に蘇る彼女との思い出。

 もう手が届かない思い出に胸を強く締め付けられる。




 それから、4ヶ月が経過する。

 晴洋のあの言葉があったからこそ僕は再び前を向いて歩き出す事が出来た。
 時折、立ち止まる事があるかもしれない。それでも僕は少しずつ前へと進んでいく。

 高校3年の春。


 この先の進路は既に決めてある。


「紫音が医者になりたいって言うなんて驚いたわ。頑張れよ」
 

「うん。ありがとう」
 晴洋の言葉に強く頷く。

 医者になる。
 それが僕の目標だった。簡単にいかないと理解している。それでも僕は前に進む。

 君と同じ様に苦しむ少年少女を救いたい。
 その望みを叶える為に僕は今日も勉強に勤しむ。

「そう言えば、晴洋がまだこっちに居るのは未練が残ってるから?」

「ん?あー、そうだな。こんな俺にも叶えたい願いがあるんだよ」

「そうなんだ。まだ叶える気はないの?」

「あぁ。もう少しこっちに居るのも悪くはない。お前と一緒だからな」
 眩しいその笑顔に少しだけ照れくさい。


 そうして、僕らは今日も生きていく。
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