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第8話:異界の夜に

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「さて、じゃあ一緒に脱出することも決まったし、続けようか」

「何勝手に決めてんのさ…!僕は帰りたいとは言ってないから……」

 打ち解けた雰囲気となったため、軽い気持ちで言った言葉だったが昴はそれにかぶりを振った。

「だってお前、もうここにいるのが怖いんだろう?」

「まだ決めてないよ……」

 目線を伏せてしまいこちらを見ようとしない。

「でも。」

「あああ、もうっ、君、口開くの禁止!」

 茶化したような言い方に口調を戻しているが、怒っていても冗談めいた様子のあった先ほどとはまるで違う、本当に触れてほしく無さそうな様子。
 目もあわせず横を見ながら言葉を切るように紡いでいる。

 間違いなく、昴には何かの事情があり現世に戻りたくないのだろう。
 多少打ち解けたとはいえ出会ったばかりの他人がこれ以上踏み込むべきではないと思う。

「…そうか、じゃあもう遅いことだし、話の続きは明日にしようか」

 昴の心の琴線に触れてしまったようでもあるし、実際夜も遅い。今日はここまでで話を閉じてまた明日仕切り直した方が良さそうだ。

「待ちなよ。…どうして帰るのさ?
 まだあらすじを話してないよ?」

 昴は顔を上げて怪訝そうにこちらを見る。

「もう暗いし、明日の朝は委員会があるようだ、一旦仕切りなおそう」

 口実に過ぎないことを口にする。
 委員会は実際にあるが、別に今帰らなければ睡眠時間が取れないわけではない。

「…分かった。また明日ね」

 じっとこちらを見た後、抑揚をつけずにそう言ったと思うと昴は何の予測動作も無く突然紅茶に口をつけた。
 俺は驚きまじまじとその動作を見ていた。

 数秒、カップの上で顔を伏せていた昴はゆっくりと顔を上げて、そして真っ直ぐこちらを見る。

「へえ、飲んだって何も起きないみたいだよ。…わかんないだけで起きてるかもしれないけどさ」

 何の表情も読み取れない真顔でそう告げた。

 それを見て俺はすぐその場に座り直し、マグカップのココアをあおった。
 意図も無ければ考えも追いついてない。ただその目をみて今そうしなければならないと感じた。

 ああ、だが…ヨモツ…
 心底では恐怖がわき上がる。
 だが、もうままよ。

 カップの底までココアを飲み干し、タンと机に置く…つもりだったが、よそ事を考えすぎたか勢いあまって結構大きな音を立ててしまった。

 一つも余さずそれを見る昴の視線を終始感じていた。

 昴はしばらく俺の手元を見て何も話さなかったが、ティーカップをおもむろに持ち上げ残っていた紅茶を全て飲み干した。
 そして、何も言わずカップの底をこちらに見せた。

 片手で頬杖を付き、片手でカップの底をこちらに見せた姿勢のまま、昴はこちらの顔を見続ける。
 俺はココアのマグに手をかけたままで、語る気もせずそのままでいる。
 冷蔵庫の立てる通低音を聞きながらしばし2人とも夜の底に押し黙る。

「…あのさ」

 しばらく間を置いて昴が口を開く。
 驚くほど低い声。

「明日、来てね。絶対だよ」

「ああ」

 まるで、全てを見透かそうとするかのように、こちらからひたとも目線を離さない昴。
 ドアを開けて星も無い闇の底でまた明日と言いながら見交わす視線、そこに罪でも共有したかのような奇妙に湿った間を感じた。


 どうやらあれで俺は死んだかな?
 学生寮への夜の道をたどる道すがらはそんな事を考えていた。

 しかしずっと考えるようなことでもなかった。
 結局どうせどこかで飲み食いはする必要があったのだ。
 飲み食いしなければ飢え乾いて死ぬ。
 ここで死んだとしても現世に復活できる保証もない。
 落ち着いて考えてみれば、どうせいずれかはしなければならないことを大仰に二人でしただけだ。
 …まるで何かの儀式のようだったが。

 部屋に戻る。ドアを開けると付けっぱなしにしていた電気の明かりが漏れ出て闇に慣れた目を刺す。
 相変わらず部屋に帰るとぞっとする。集中管理されている冷暖房は適温に設定されているので気温のせいではない。

 扉が開いたままの冷蔵庫に近寄ると更に気分が悪くなる。
 怖いもの見たさで冷蔵庫の豪華な食物をのぞいて再度寒気を感じた。
 何をやってるのだ俺は。わざわざ。
 ドアを閉めて冷蔵庫の扉に手をつけて何となくうなだれた。

「あ」

 ここで、自分が飯も食わず風呂に入っても居ない事に気がついた。
 もう寝る前になっていて、食事は今日はいいと思ったが、風呂に入っていないのはどうだろう。
 袖口を鼻に引き寄せて嗅いでみる。

 汗臭い、どう考えても風呂に入るべきだ。
 話を聞くだに「風紀委員長」は不潔は好まなさそうだし、そもそも自分が嫌だ。

 生徒手帳を開くと、大浴場とシャワーの案内があった。
 両方ともまだ開いているようだったが、もうすぐに寝たいのでシャワーでいい。
 恐らくここだろうと玄関先の物入れを漁るとやはり風呂道具があったので引っさげてシャワー室に向かう。

 一階に降り、大浴場入り口を横切ってさらに奥へと進むと何十基もシャワーブースのドアが連なっているのが見えてくる。
 閉まっているドアは2、3個も無く、他は全て開いている。
 もう十一時半を回っているのだから、人がまばらなのだろう。
 シャワー室内部は清潔で真新しい様子だった。
 仕切りは扉が全てぴっちり閉められる方式となっており、調節式の椅子も着いた最新設備を備えている。
 広々とした室内に綺麗で大きい荷物棚が完備されているため着替え等も全て個室内で出来るようだった。

 頭を、顔を洗いながら今日一日の事を考える。
 勢いで色んなことをした気がする。
 どうするべきだったかはよく分からない。
 この世界は実際何なのだろうか、それもよく分からない。
 昴はどうするつもりだろうか。他人の事だし答えは分からない。
 ないないづくし分からないづくしの中で体を洗い続ける。

 考え事の中でふと、風を感じ振り返ると、ドアが薄く開いている事に気がついた。
 その向こうに誰かの目がのぞいていた。

 恐怖が立ち上り、ざっとドアを開ける。

 そこには一人の生徒が居た。
 酷く狼狽した様子で後ずさる。

「すいません! 鍵がかかってなかったので……」

 何を言っているのだ。ドア上面に擦りガラスを模したプラスチック板が付いているのだから明かりがついていたら使用中と分かるはずだ。
 気持ち悪い。

「いや、鍵がかかってなくても、使用中と分かるだろう!」

「すいません! 許して下さい!」

 生徒は謝りながらへどもどとどこかへ駆けて行く。

「何なんだ……」

 あまりにわけが分からない。
 色んな事に心底疲れ果て、その日はベッドに倒れこみ夢も見ず眠った。
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