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九
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食堂に集まったのは、善興尼と、善興尼よりも若い二人の尼僧、當清尼に郎女、そして曾禰内侍の六人だけだった。
各々土間に敷かれた茣蓙の上に座り、黙って食事を摂る。
前に置かれた角盆の上には、須恵器の碗に白米の汁粥、皿には漬菜がよそられている。
質素な僧尼の食事であるが、郎女には銭を使わずに食べられることが何よりありがたかった。
「粺米やぁ!」
思わず笑みがこぼれたが、善興尼に咳払いでたしなめられてしまった。
朝餉が終わると、當麻の邑から老若男女問わず大勢の者が寺にやってきた。
南門が軋んだ音を立てて開けられる。
参道や回廊、堂塔の基壇を草の手箒で掃き清める者。
倉から出してきた、漆塗りで背もたれのある倚子や赤い色氈、錦で縁取られた茣蓙等を運ぶ者。
境内はにわかに騒がしくなった。
「接見の場は此度も中門とする。塵芥の一つも残さず掃き清めよ!歩く路と中門から見える所だけで良い!」
曾禰内侍はあちらにあれを置け、こちらにこれをしろと慌ただしく尼僧や邑人達に指示を出していく。
「もう湯は沸いたか!?あぁ、致し方ない!媛様に朝餉を用意せねばならぬ。早急に粥を用意せよ。濃漿(重湯)が良い。少しでも腹に入れておかねば身が持たん。誰か!早くせねば阿閇皇女がお越しになってしまうぞ!」
郎女は、朝餉の後片付けを手伝った後、堂塔までやってきたが、何をすればいいのかわからない。
前を横切ろうとした年若い男に、
「あの、吾ぁも何かしたいんですが」
と、声を掛けた。
「これは、宮人様!貴いお方はよろしいのですよ。吾等がすべて行いますので」
若い男は郎女の衣を見るとそう答え、また忙しそうに中門の方へ行ってしまった。
「あれぇ、吾は宮人やないんやけど……」
郎女はそう呟いて、己の裙をつまんだ。
他の邑人達に声を掛けても、あいまいな笑顔で断られる。
皆手際よくこなすというよりも、一刻も早く終わらせたいという緊迫感のある表情だ。
郎女は辺りをうろついたものの、手伝うことができないまま、回廊の外に出た。
――そういえば吾も、京へ行くまで、色のついた衣着とるお方は皆貴いお方や、と思っとったな。
何も知らなかった頃の己を思いだし、フフッと笑う。
「けど、どうしようかねぇ」
家で居る時と同じでええんやで――
大足の言葉を思い出す。
「……草引こかな」
郎女は準備に忙しい邑人や尼僧達の横をすり抜け、中門から回廊の外に出た。
中門と南門の間にある、切石が敷かれた参道は綺麗に整えられ、雑草は見当たらない。
しかし、雑草は少し離れた玉砂利の間から芽を出しており、郎女が寝起きした西の僧房の方へ進むにつれて、丈の高い物も目立つようになっていった。
郎女は衣の袖を捲ると、しゃがみ込んで草を引き始めた。
「垣内に草生えとったら、中のモン皆死んどると思われるもんねぇ」
ひとり呟きながら、ゆっくりと、しかし根まで確実に引き抜いていく。
「……死んどる、かぁ」
郎女はしばらく草を引き続けていたが、思わずぽつりと呟いた。
回廊が北へ曲がる角のあたり、あのあたりに物部依羅がいた。
死の間際、郎女を見た時の、あの切に懇願する顔を思い出した。
「なぁんもできやんかった」
衣の袖で目を擦る。
「誰かに棒で叩かれんのを待たなあかん言うことか!?」
幼い大足の声が頭に響く。
「誰かが助けにくんのを待つんでは、間に合わんわ」
一歩進んでは草を引きつつ考える。
「どないしたらええんやろ」
郎女は、またしばらく無言で草を引きながら考えた。
しかし、時間をかけてどれだけ草を引いても、画期的な策は思い浮かばない。
中門の方から、邑人達を指図する曾禰内侍の声が聞こえた。
「恐らく他に故があるのだろう」
と、曽禰内侍は言っていた。
「故ってなんやろう」
神に殺される故――
「……姉様を愚弄する者は、何人たりとも許しはしない」
「あれぇ……せやったわ」
物部依羅は、郎女を庇った大来皇女を罵り、突き飛ばした。
その時の神の憤怒の顔。
「皇女様を突き飛ばしたから、あかんのやろか……けどぉ」
大王の娘である、この上なく貴いお立場である皇女に、危害を加えるという畏れ多いことをする者など、果たしているのだろうか?
當清尼の祖母は知らないが、少なくとも、船刀自が大来皇女に向かって手を上げるなど考えられない。
「いつまでそこに座り込んでおるかー!」
「へ!?」
郎女は突然の曾禰内侍の怒声に飛び上がった。
中門にも回廊にも人影は見えなくなっている。
そして中門の屋根の上まで吹き上がる黒い悪気。
草引きしながらの考え事に夢中となり、いつの間にか回廊の角のあたりにまで来ていたのだった。
「阿閇皇女様がご来臨だ、下がれ!」
曾禰内侍は中門の基壇の上から怒鳴り、郎女を手で追い払った。
「あっあっ、あれえぇ!」
郎女は慌てて引いた草をかき集め、ばたばたと走って回廊の角に隠れた。
そっと角から南門をうかがう。
「あれぇ……なんて美しい衣!」
郎女はほーっと溜息をつく。
一人の貴人が南門に現れた。
幅の細い筒袖に、胸元が大きく開いた桃色で綾織の丸首の衫子(上の衣)と、同じく綾織で浅紫色の裙を腰に巻いて、胸の下で錦の紕帯(縁取りのある帯)を締めるという装いが、豊麗な体を一層際立たせている。
肩に掛けられた、浅緑色の長い領巾(ショール)が風に任せてふわりと靡く様は、まるで目に見える春風のようだ。
歩く度に、刺繡の美しい、爪先の尖った朱い浅沓が裙からのぞく。
髪は頭の上に乗せた扇形の義髻(木製の黒いかつら)を覆うように高く結い上げ、幾つも挿した金色の花釵(花の髪飾り)は頭が動く度にキラキラと輝いた。
顔は肌に白く粉を塗り、頬を桃色に染めている。
引いた紅が唇を艶やかに見せていた。
そして何より目立つ額の赤い花模様。
唐土の公主のような華やかな装束を身に纏った貴人は、舎人や侍女を後ろに従えて、南門をくぐってやってきた。
あのお方が阿閇皇女。
化粧をし身なりを整えた曾禰内侍と、僧伽梨(僧侶の正装)を身につけた善興尼に導かれ、南門から中門へ向かって歩いてく。
蘇芳の大袖(袖口の広い衣)に緑の裙を身につけて、中門で待っていた大来皇女が、恭しく立礼をして阿閇皇女を出迎えた。
舎人がかざす紫の蓋の下、阿閇皇女は顎を上げ、胸を張り、優雅で軽やかに歩を進める。
しかし、その顔は曇り、眉間の深い皺が本人にとって決して楽しくはない訪問であることを物語っていた。
阿閇皇女が中門の階段を上りきったところで、
「まるで菩薩のような姿だろう?姿だけだがなぁ」
郎女の後ろから男の声がした。
「!!」
思わず叫びそうになるところを、両手で口を押えてこらえる。
手に持っていた草がばらばらと地面に落ちた。
郎女はゆっくり振り返って見た。
壮年の男が、目を細めていたずらっぽく笑っていた。
高価な布を使っているという違いはあるが、黒い頭巾に白い袴、黒い浅沓は物部依羅と同じだ。
しかし、袍の色は鮮やかな緋色に染められている。
赤い衣は高い位の証だった。
郎女は慌てて平伏しようとした。
「おっと、もう跪く必要はない。立礼で良いのだよ」
男が郎女を手で制した。
「りつ、れい」
「頭を下げるだけで良い。いや、もう別にしなくて良い。気持ちは伝わったからね」
男は笑って言った。
「いましが新しい縫女だろう?」
「!」
「昨日、神を見たそうだな」
「あ、え、っとあの、今もおられます」
「どこにだ!?」
「あそこの、皇女様のいらっしゃるところです」
郎女はそう言って中門を指さした。
門の瓦屋根の上に、悪気がまだ漂っている。
男も中門の方を見た。
「残念だが、吾にはわからん……そうか、皇子がいらっしゃるのか」
男の顔に一瞬笑みがこぼれたが、すぐに真顔に戻った。
「昨日の話を聞かせてほしい。ここに来てから、使部が死ぬまでだ」
郎女は言われた通りに話をした。
男は腕を組んで郎女に背を向け、話を黙って最後まで聞いた。
聞き終えた後も、しばらく両手で顔を覆って黙っていた。
「……あのぉ」
「いや、すまない。驚かせた」
男はようやく振り返った。
「いましは己が見鬼だということは分かっているか?」
「あ、はい。朝、そう言われました」
「宜しい」
男は再び腕を組んだ。
「あの使部も見えていたのかもな」
「え!?」
「いや、もしかしたら標的には姿を見せる方策なのかもしれん」
「ひょう?」
「使部は残念だった。愚かと言われていたがやる気は人一倍あったからな。しかしこんなに早くに終わるとは」
「あ、あの」
「何かな?」
「使部様には、吾子がおると」
「……あぁ。残念だった。追位(下から二番目の位)にでもなれれば、嫡子は官人になれたのだがなぁ」
「あれぇ……」
「もしかして、あの使部が可哀想だと思っているのか?昨日殴られたのだろう?」
「……はい」
「うーん。ま、吾が策の犠牲になったと言われればそうだ。どうにも後味が悪い」
「え?」
「そうだ。吾があの物部依羅という男を差し向けた判事だ」
判事とは、裁判の審問と判決を行う官人のことを言った。
「本来これは吾の務めではないが、己でどうしても何とかしたい件故、介入しているのだよ。ま、彼方に居られるお方の依頼でもあるのだが」
判事の男はそう言って親指で中門を差した。
「あれぇ」
「今日は使部の亡骸を引き取るついでにここへ来た。しかしまぁ、間が悪かった。まさか阿閇皇女がお越しとは。この話もせねばなるまい」
判事の男は苦笑した。
「縫女よ、使部が不憫だと思うなら、その分もっと励むが良い。いましの役目は聞いているか?」
「皇女様に、衣を作っていただくこと、です」
「そうそう。大来皇女ああ見えてかなり頑なだからな。苦労するぞ」
「……あ」
「どうした?」
「船刀自、も、もしかして、皇女様に強ぉ……」
「分かったか?」
「!?」
「皇子は皇女に辛く当たる者を決して許しはしない。使部が皇女に手を上げたのはもっての外だが、罵倒した時点でその死は確定していたのだ」
「あれぇ」
「つまりだ、殴ったり蹴ったりせずとも、少しでも悪く言えば命を取られる。皇子が取った命をどうするのかは知らないが、先の縫女と同じ過ちを繰り返すなよ」
「……皇子?」
「そうだよ。いましが言う神とは、大来皇女の弟、大津皇子だ」
「あれえ、弟!」
「知らなかったのか?」
郎女は何度も首を縦に振った。
「こう聞いて何か思うことはないか?」
「あ、えぇ……吾と、同じかなぁって」
「いましも弟がいるのか?奇遇だな。だがそうじゃない。巷で話に上らないのか?」
「吾はその、鄙の生まれで」
「う!……そうか。下々の口の端に上るまではまだ時がかかりそうだな」
判事の男は残念そうな顔をした。
「では、今度は吾が話をしよう。なんとなくでいいから分かってくれ」
各々土間に敷かれた茣蓙の上に座り、黙って食事を摂る。
前に置かれた角盆の上には、須恵器の碗に白米の汁粥、皿には漬菜がよそられている。
質素な僧尼の食事であるが、郎女には銭を使わずに食べられることが何よりありがたかった。
「粺米やぁ!」
思わず笑みがこぼれたが、善興尼に咳払いでたしなめられてしまった。
朝餉が終わると、當麻の邑から老若男女問わず大勢の者が寺にやってきた。
南門が軋んだ音を立てて開けられる。
参道や回廊、堂塔の基壇を草の手箒で掃き清める者。
倉から出してきた、漆塗りで背もたれのある倚子や赤い色氈、錦で縁取られた茣蓙等を運ぶ者。
境内はにわかに騒がしくなった。
「接見の場は此度も中門とする。塵芥の一つも残さず掃き清めよ!歩く路と中門から見える所だけで良い!」
曾禰内侍はあちらにあれを置け、こちらにこれをしろと慌ただしく尼僧や邑人達に指示を出していく。
「もう湯は沸いたか!?あぁ、致し方ない!媛様に朝餉を用意せねばならぬ。早急に粥を用意せよ。濃漿(重湯)が良い。少しでも腹に入れておかねば身が持たん。誰か!早くせねば阿閇皇女がお越しになってしまうぞ!」
郎女は、朝餉の後片付けを手伝った後、堂塔までやってきたが、何をすればいいのかわからない。
前を横切ろうとした年若い男に、
「あの、吾ぁも何かしたいんですが」
と、声を掛けた。
「これは、宮人様!貴いお方はよろしいのですよ。吾等がすべて行いますので」
若い男は郎女の衣を見るとそう答え、また忙しそうに中門の方へ行ってしまった。
「あれぇ、吾は宮人やないんやけど……」
郎女はそう呟いて、己の裙をつまんだ。
他の邑人達に声を掛けても、あいまいな笑顔で断られる。
皆手際よくこなすというよりも、一刻も早く終わらせたいという緊迫感のある表情だ。
郎女は辺りをうろついたものの、手伝うことができないまま、回廊の外に出た。
――そういえば吾も、京へ行くまで、色のついた衣着とるお方は皆貴いお方や、と思っとったな。
何も知らなかった頃の己を思いだし、フフッと笑う。
「けど、どうしようかねぇ」
家で居る時と同じでええんやで――
大足の言葉を思い出す。
「……草引こかな」
郎女は準備に忙しい邑人や尼僧達の横をすり抜け、中門から回廊の外に出た。
中門と南門の間にある、切石が敷かれた参道は綺麗に整えられ、雑草は見当たらない。
しかし、雑草は少し離れた玉砂利の間から芽を出しており、郎女が寝起きした西の僧房の方へ進むにつれて、丈の高い物も目立つようになっていった。
郎女は衣の袖を捲ると、しゃがみ込んで草を引き始めた。
「垣内に草生えとったら、中のモン皆死んどると思われるもんねぇ」
ひとり呟きながら、ゆっくりと、しかし根まで確実に引き抜いていく。
「……死んどる、かぁ」
郎女はしばらく草を引き続けていたが、思わずぽつりと呟いた。
回廊が北へ曲がる角のあたり、あのあたりに物部依羅がいた。
死の間際、郎女を見た時の、あの切に懇願する顔を思い出した。
「なぁんもできやんかった」
衣の袖で目を擦る。
「誰かに棒で叩かれんのを待たなあかん言うことか!?」
幼い大足の声が頭に響く。
「誰かが助けにくんのを待つんでは、間に合わんわ」
一歩進んでは草を引きつつ考える。
「どないしたらええんやろ」
郎女は、またしばらく無言で草を引きながら考えた。
しかし、時間をかけてどれだけ草を引いても、画期的な策は思い浮かばない。
中門の方から、邑人達を指図する曾禰内侍の声が聞こえた。
「恐らく他に故があるのだろう」
と、曽禰内侍は言っていた。
「故ってなんやろう」
神に殺される故――
「……姉様を愚弄する者は、何人たりとも許しはしない」
「あれぇ……せやったわ」
物部依羅は、郎女を庇った大来皇女を罵り、突き飛ばした。
その時の神の憤怒の顔。
「皇女様を突き飛ばしたから、あかんのやろか……けどぉ」
大王の娘である、この上なく貴いお立場である皇女に、危害を加えるという畏れ多いことをする者など、果たしているのだろうか?
當清尼の祖母は知らないが、少なくとも、船刀自が大来皇女に向かって手を上げるなど考えられない。
「いつまでそこに座り込んでおるかー!」
「へ!?」
郎女は突然の曾禰内侍の怒声に飛び上がった。
中門にも回廊にも人影は見えなくなっている。
そして中門の屋根の上まで吹き上がる黒い悪気。
草引きしながらの考え事に夢中となり、いつの間にか回廊の角のあたりにまで来ていたのだった。
「阿閇皇女様がご来臨だ、下がれ!」
曾禰内侍は中門の基壇の上から怒鳴り、郎女を手で追い払った。
「あっあっ、あれえぇ!」
郎女は慌てて引いた草をかき集め、ばたばたと走って回廊の角に隠れた。
そっと角から南門をうかがう。
「あれぇ……なんて美しい衣!」
郎女はほーっと溜息をつく。
一人の貴人が南門に現れた。
幅の細い筒袖に、胸元が大きく開いた桃色で綾織の丸首の衫子(上の衣)と、同じく綾織で浅紫色の裙を腰に巻いて、胸の下で錦の紕帯(縁取りのある帯)を締めるという装いが、豊麗な体を一層際立たせている。
肩に掛けられた、浅緑色の長い領巾(ショール)が風に任せてふわりと靡く様は、まるで目に見える春風のようだ。
歩く度に、刺繡の美しい、爪先の尖った朱い浅沓が裙からのぞく。
髪は頭の上に乗せた扇形の義髻(木製の黒いかつら)を覆うように高く結い上げ、幾つも挿した金色の花釵(花の髪飾り)は頭が動く度にキラキラと輝いた。
顔は肌に白く粉を塗り、頬を桃色に染めている。
引いた紅が唇を艶やかに見せていた。
そして何より目立つ額の赤い花模様。
唐土の公主のような華やかな装束を身に纏った貴人は、舎人や侍女を後ろに従えて、南門をくぐってやってきた。
あのお方が阿閇皇女。
化粧をし身なりを整えた曾禰内侍と、僧伽梨(僧侶の正装)を身につけた善興尼に導かれ、南門から中門へ向かって歩いてく。
蘇芳の大袖(袖口の広い衣)に緑の裙を身につけて、中門で待っていた大来皇女が、恭しく立礼をして阿閇皇女を出迎えた。
舎人がかざす紫の蓋の下、阿閇皇女は顎を上げ、胸を張り、優雅で軽やかに歩を進める。
しかし、その顔は曇り、眉間の深い皺が本人にとって決して楽しくはない訪問であることを物語っていた。
阿閇皇女が中門の階段を上りきったところで、
「まるで菩薩のような姿だろう?姿だけだがなぁ」
郎女の後ろから男の声がした。
「!!」
思わず叫びそうになるところを、両手で口を押えてこらえる。
手に持っていた草がばらばらと地面に落ちた。
郎女はゆっくり振り返って見た。
壮年の男が、目を細めていたずらっぽく笑っていた。
高価な布を使っているという違いはあるが、黒い頭巾に白い袴、黒い浅沓は物部依羅と同じだ。
しかし、袍の色は鮮やかな緋色に染められている。
赤い衣は高い位の証だった。
郎女は慌てて平伏しようとした。
「おっと、もう跪く必要はない。立礼で良いのだよ」
男が郎女を手で制した。
「りつ、れい」
「頭を下げるだけで良い。いや、もう別にしなくて良い。気持ちは伝わったからね」
男は笑って言った。
「いましが新しい縫女だろう?」
「!」
「昨日、神を見たそうだな」
「あ、え、っとあの、今もおられます」
「どこにだ!?」
「あそこの、皇女様のいらっしゃるところです」
郎女はそう言って中門を指さした。
門の瓦屋根の上に、悪気がまだ漂っている。
男も中門の方を見た。
「残念だが、吾にはわからん……そうか、皇子がいらっしゃるのか」
男の顔に一瞬笑みがこぼれたが、すぐに真顔に戻った。
「昨日の話を聞かせてほしい。ここに来てから、使部が死ぬまでだ」
郎女は言われた通りに話をした。
男は腕を組んで郎女に背を向け、話を黙って最後まで聞いた。
聞き終えた後も、しばらく両手で顔を覆って黙っていた。
「……あのぉ」
「いや、すまない。驚かせた」
男はようやく振り返った。
「いましは己が見鬼だということは分かっているか?」
「あ、はい。朝、そう言われました」
「宜しい」
男は再び腕を組んだ。
「あの使部も見えていたのかもな」
「え!?」
「いや、もしかしたら標的には姿を見せる方策なのかもしれん」
「ひょう?」
「使部は残念だった。愚かと言われていたがやる気は人一倍あったからな。しかしこんなに早くに終わるとは」
「あ、あの」
「何かな?」
「使部様には、吾子がおると」
「……あぁ。残念だった。追位(下から二番目の位)にでもなれれば、嫡子は官人になれたのだがなぁ」
「あれぇ……」
「もしかして、あの使部が可哀想だと思っているのか?昨日殴られたのだろう?」
「……はい」
「うーん。ま、吾が策の犠牲になったと言われればそうだ。どうにも後味が悪い」
「え?」
「そうだ。吾があの物部依羅という男を差し向けた判事だ」
判事とは、裁判の審問と判決を行う官人のことを言った。
「本来これは吾の務めではないが、己でどうしても何とかしたい件故、介入しているのだよ。ま、彼方に居られるお方の依頼でもあるのだが」
判事の男はそう言って親指で中門を差した。
「あれぇ」
「今日は使部の亡骸を引き取るついでにここへ来た。しかしまぁ、間が悪かった。まさか阿閇皇女がお越しとは。この話もせねばなるまい」
判事の男は苦笑した。
「縫女よ、使部が不憫だと思うなら、その分もっと励むが良い。いましの役目は聞いているか?」
「皇女様に、衣を作っていただくこと、です」
「そうそう。大来皇女ああ見えてかなり頑なだからな。苦労するぞ」
「……あ」
「どうした?」
「船刀自、も、もしかして、皇女様に強ぉ……」
「分かったか?」
「!?」
「皇子は皇女に辛く当たる者を決して許しはしない。使部が皇女に手を上げたのはもっての外だが、罵倒した時点でその死は確定していたのだ」
「あれぇ」
「つまりだ、殴ったり蹴ったりせずとも、少しでも悪く言えば命を取られる。皇子が取った命をどうするのかは知らないが、先の縫女と同じ過ちを繰り返すなよ」
「……皇子?」
「そうだよ。いましが言う神とは、大来皇女の弟、大津皇子だ」
「あれえ、弟!」
「知らなかったのか?」
郎女は何度も首を縦に振った。
「こう聞いて何か思うことはないか?」
「あ、えぇ……吾と、同じかなぁって」
「いましも弟がいるのか?奇遇だな。だがそうじゃない。巷で話に上らないのか?」
「吾はその、鄙の生まれで」
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※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
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