薄明色の神衣

深山遊鳥

文字の大きさ
10 / 22

しおりを挟む
 食堂に集まったのは、善興尼と、善興尼よりも若い二人の尼僧、當清尼に郎女、そして曾禰内侍の六人だけだった。
 各々土間に敷かれた茣蓙の上に座り、黙って食事を摂る。
 前に置かれた角盆の上には、須恵器の碗に白米の汁粥、皿には漬菜がよそられている。
 質素な僧尼の食事であるが、郎女には銭を使わずに食べられることが何よりありがたかった。
粺米しらけのよねやぁ!」
 思わず笑みがこぼれたが、善興尼に咳払いでたしなめられてしまった。
 朝餉が終わると、當麻の邑から老若男女問わず大勢の者が寺にやってきた。
 南門が軋んだ音を立てて開けられる。
 参道や回廊、堂塔の基壇を草の手箒で掃き清める者。
 倉から出してきた、漆塗りで背もたれのある倚子いしや赤い色氈、錦で縁取られた茣蓙等を運ぶ者。
 境内はにわかに騒がしくなった。
「接見の場は此度も中門とする。塵芥の一つも残さず掃き清めよ!歩く路と中門から見える所だけで良い!」
 曾禰内侍はあちらにあれを置け、こちらにこれをしろと慌ただしく尼僧や邑人達に指示を出していく。
「もう湯は沸いたか!?あぁ、致し方ない!媛様に朝餉を用意せねばならぬ。早急に粥を用意せよ。濃漿こみず(重湯)が良い。少しでも腹に入れておかねば身が持たん。誰か!早くせねば阿閇皇女がお越しになってしまうぞ!」
 郎女は、朝餉の後片付けを手伝った後、堂塔までやってきたが、何をすればいいのかわからない。
 前を横切ろうとした年若い男に、
「あの、吾ぁも何かしたいんですが」
 と、声を掛けた。
「これは、宮人様!貴いお方はよろしいのですよ。吾等がすべて行いますので」
 若い男は郎女の衣を見るとそう答え、また忙しそうに中門の方へ行ってしまった。
「あれぇ、吾は宮人やないんやけど……」
 郎女はそう呟いて、己の裙をつまんだ。
 他の邑人達に声を掛けても、あいまいな笑顔で断られる。
 皆手際よくこなすというよりも、一刻も早く終わらせたいという緊迫感のある表情だ。
 郎女は辺りをうろついたものの、手伝うことができないまま、回廊の外に出た。
 ――そういえば吾も、京へ行くまで、色のついた衣着とるお方は皆貴いお方や、と思っとったな。
 何も知らなかった頃の己を思いだし、フフッと笑う。
「けど、どうしようかねぇ」
 家で居る時と同じでええんやで――
 大足の言葉を思い出す。
「……草引こかな」
 郎女は準備に忙しい邑人や尼僧達の横をすり抜け、中門から回廊の外に出た。
 中門と南門の間にある、切石が敷かれた参道は綺麗に整えられ、雑草は見当たらない。
 しかし、雑草は少し離れた玉砂利の間から芽を出しており、郎女が寝起きした西の僧房の方へ進むにつれて、丈の高い物も目立つようになっていった。
 郎女は衣の袖を捲ると、しゃがみ込んで草を引き始めた。
「垣内に草生えとったら、中のモン皆死んどると思われるもんねぇ」
 ひとり呟きながら、ゆっくりと、しかし根まで確実に引き抜いていく。
「……死んどる、かぁ」
 郎女はしばらく草を引き続けていたが、思わずぽつりと呟いた。
 回廊が北へ曲がる角のあたり、あのあたりに物部依羅がいた。
 死の間際、郎女を見た時の、あの切に懇願する顔を思い出した。
「なぁんもできやんかった」
 衣の袖で目を擦る。
「誰かに棒で叩かれんのを待たなあかん言うことか!?」
 幼い大足の声が頭に響く。
「誰かが助けにくんのを待つんでは、間に合わんわ」
 一歩進んでは草を引きつつ考える。
「どないしたらええんやろ」
 郎女は、またしばらく無言で草を引きながら考えた。
 しかし、時間をかけてどれだけ草を引いても、画期的な策は思い浮かばない。
 中門の方から、邑人達を指図する曾禰内侍の声が聞こえた。
「恐らく他に故があるのだろう」
 と、曽禰内侍は言っていた。
「故ってなんやろう」
 神に殺される故――
「……姉様を愚弄する者は、何人たりとも許しはしない」
「あれぇ……せやったわ」
 物部依羅は、郎女を庇った大来皇女を罵り、突き飛ばした。
 その時の神の憤怒の顔。
「皇女様を突き飛ばしたから、あかんのやろか……けどぉ」
 大王の娘である、この上なく貴いお立場である皇女に、危害を加えるという畏れ多いことをする者など、果たしているのだろうか?
 當清尼の祖母は知らないが、少なくとも、船刀自が大来皇女に向かって手を上げるなど考えられない。
「いつまでそこに座り込んでおるかー!」
「へ!?」
 郎女は突然の曾禰内侍の怒声に飛び上がった。
 中門にも回廊にも人影は見えなくなっている。
 そして中門の屋根の上まで吹き上がる黒い悪気。
 草引きしながらの考え事に夢中となり、いつの間にか回廊の角のあたりにまで来ていたのだった。
「阿閇皇女様がご来臨だ、下がれ!」
 曾禰内侍は中門の基壇の上から怒鳴り、郎女を手で追い払った。
「あっあっ、あれえぇ!」
 郎女は慌てて引いた草をかき集め、ばたばたと走って回廊の角に隠れた。
 そっと角から南門をうかがう。
「あれぇ……なんて美しい衣!」
 郎女はほーっと溜息をつく。
 一人の貴人が南門に現れた。
 幅の細い筒袖に、胸元が大きく開いた桃色で綾織の丸首の衫子さんし(上の衣)と、同じく綾織で浅紫色の裙を腰に巻いて、胸の下で錦の紕帯そえおび(縁取りのある帯)を締めるという装いが、豊麗な体を一層際立たせている。
 肩に掛けられた、浅緑色の長い領巾(ショール)が風に任せてふわりと靡く様は、まるで目に見える春風のようだ。
 歩く度に、刺繡の美しい、爪先の尖った朱い浅沓が裙からのぞく。
 髪は頭の上に乗せた扇形の義髻ぎけい(木製の黒いかつら)を覆うように高く結い上げ、幾つも挿した金色の花釵かさい(花の髪飾り)は頭が動く度にキラキラと輝いた。
 顔は肌に白く粉を塗り、頬を桃色に染めている。
引いた紅が唇を艶やかに見せていた。
そして何より目立つ額の赤い花模様。
 唐土もろこしの公主のような華やかな装束を身に纏った貴人は、舎人とねりや侍女を後ろに従えて、南門をくぐってやってきた。
 あのお方が阿閇皇女。
 化粧をし身なりを整えた曾禰内侍と、僧伽梨そうぎゃり(僧侶の正装)を身につけた善興尼に導かれ、南門から中門へ向かって歩いてく。
 蘇芳の大袖(袖口の広い衣)に緑の裙を身につけて、中門で待っていた大来皇女が、恭しく立礼をして阿閇皇女を出迎えた。
 舎人がかざす紫のきぬがさの下、阿閇皇女は顎を上げ、胸を張り、優雅で軽やかに歩を進める。
 しかし、その顔は曇り、眉間の深い皺が本人にとって決して楽しくはない訪問であることを物語っていた。
 阿閇皇女が中門の階段を上りきったところで、
「まるで菩薩のような姿だろう?姿だけだがなぁ」
 郎女の後ろから男の声がした。
「!!」
 思わず叫びそうになるところを、両手で口を押えてこらえる。
 手に持っていた草がばらばらと地面に落ちた。
 郎女はゆっくり振り返って見た。
 壮年の男が、目を細めていたずらっぽく笑っていた。
 高価な布を使っているという違いはあるが、黒い頭巾に白い袴、黒い浅沓は物部依羅と同じだ。
 しかし、袍の色は鮮やかな緋色に染められている。
 赤い衣は高い位の証だった。
 郎女は慌てて平伏しようとした。
「おっと、もう跪く必要はない。立礼で良いのだよ」
 男が郎女を手で制した。
「りつ、れい」
「頭を下げるだけで良い。いや、もう別にしなくて良い。気持ちは伝わったからね」
 男は笑って言った。
「いましが新しい縫女だろう?」
「!」
「昨日、神を見たそうだな」
「あ、え、っとあの、今もおられます」
「どこにだ!?」
「あそこの、皇女様のいらっしゃるところです」
 郎女はそう言って中門を指さした。
 門の瓦屋根の上に、悪気がまだ漂っている。
 男も中門の方を見た。
「残念だが、吾にはわからん……そうか、皇子がいらっしゃるのか」
 男の顔に一瞬笑みがこぼれたが、すぐに真顔に戻った。
「昨日の話を聞かせてほしい。ここに来てから、使部が死ぬまでだ」

 郎女は言われた通りに話をした。
 男は腕を組んで郎女に背を向け、話を黙って最後まで聞いた。
 聞き終えた後も、しばらく両手で顔を覆って黙っていた。
「……あのぉ」
「いや、すまない。驚かせた」
 男はようやく振り返った。
「いましは己が見鬼だということは分かっているか?」
「あ、はい。朝、そう言われました」
「宜しい」
 男は再び腕を組んだ。
「あの使部も見えていたのかもな」
「え!?」
「いや、もしかしたら標的には姿を見せる方策なのかもしれん」
「ひょう?」
「使部は残念だった。愚かと言われていたがやる気は人一倍あったからな。しかしこんなに早くに終わるとは」
「あ、あの」
「何かな?」
「使部様には、吾子がおると」
「……あぁ。残念だった。追位(下から二番目の位)にでもなれれば、嫡子は官人になれたのだがなぁ」
「あれぇ……」
「もしかして、あの使部が可哀想だと思っているのか?昨日殴られたのだろう?」
「……はい」
「うーん。ま、吾が策の犠牲になったと言われればそうだ。どうにも後味が悪い」
「え?」
「そうだ。吾があの物部依羅という男を差し向けた判事だ」
 判事とは、裁判の審問と判決を行う官人のことを言った。
「本来これは吾の務めではないが、己でどうしても何とかしたい件故、介入しているのだよ。ま、彼方に居られるお方の依頼でもあるのだが」
 判事の男はそう言って親指で中門を差した。
「あれぇ」
「今日は使部の亡骸を引き取るついでにここへ来た。しかしまぁ、間が悪かった。まさか阿閇皇女がお越しとは。この話もせねばなるまい」
 判事の男は苦笑した。
「縫女よ、使部が不憫だと思うなら、その分もっと励むが良い。いましの役目は聞いているか?」
「皇女様に、衣を作っていただくこと、です」
「そうそう。大来皇女ああ見えてかなり頑なだからな。苦労するぞ」
「……あ」
「どうした?」
「船刀自、も、もしかして、皇女様に強ぉ……」
「分かったか?」
「!?」
「皇子は皇女に辛く当たる者を決して許しはしない。使部が皇女に手を上げたのはもっての外だが、罵倒した時点でその死は確定していたのだ」
「あれぇ」
「つまりだ、殴ったり蹴ったりせずとも、少しでも悪く言えば命を取られる。皇子が取った命をどうするのかは知らないが、先の縫女と同じ過ちを繰り返すなよ」
「……皇子?」
「そうだよ。いましが言う神とは、大来皇女のいろど、大津皇子だ」
「あれえ、弟!」
「知らなかったのか?」
 郎女は何度も首を縦に振った。
「こう聞いて何か思うことはないか?」
「あ、えぇ……吾と、同じかなぁって」
「いましも弟がいるのか?奇遇だな。だがそうじゃない。巷で話に上らないのか?」
「吾はその、鄙の生まれで」
「う!……そうか。下々の口の端に上るまではまだ時がかかりそうだな」
 判事の男は残念そうな顔をした。
「では、今度は吾が話をしよう。なんとなくでいいから分かってくれ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

法隆寺燃ゆ

hiro75
歴史・時代
奴婢として、一生平凡に暮らしていくのだと思っていた………………上宮王家の奴婢として生まれた弟成だったが、時代がそれを許さなかった。上宮王家の滅亡、乙巳の変、白村江の戦………………推古天皇、山背大兄皇子、蘇我入鹿、中臣鎌足、中大兄皇子、大海人皇子、皇極天皇、孝徳天皇、有間皇子………………為政者たちの権力争いに巻き込まれていくのだが……………… 正史の裏に隠れた奴婢たちの悲哀、そして権力者たちの愛憎劇、飛鳥を舞台にした大河小説がいまはじまる!!

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

処理中です...