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将門の過去
キキョウと花城に届く便り
しおりを挟む燈心草の匂いと、カケロと鳴く鶏の声に起こされ、白髪の女子が八重畳みの上から眼を覚ます。
未だに頭がしっかりと覚醒していないのか、呻き声を上げる。
額を押さえながら、頭を振る。……釣られて長い白髪も揺れ、季節外れの芒の穂が揺れたようであった。
女子はゆっくりと見慣れない部屋の中を見渡す。
すると……胡座をかき、腕を組みながら舟を漕ぐ、男の姿が目に飛び込んでくる。
「ひっ!」
女子は軽く悲鳴を上げたが、それ以上の悲鳴が出ないように、素早く口を手で塞いだ。舟を漕いでいる者の正体は平将門。
将門は悲鳴が上がっても、未だに眼を覚ます様子はなく、川を小舟で渡るように漕ぎ続ける。
女子は意を決して、将門に近づく。
……大きな岩と形容できるほどの将門。女子は自分の着物の胸元を左手で絞る。
「もし……起きてください、もし」
声を掛けるが、一向に起きる様子のない将門。
その男の肩を揺さぶろうと手を伸ばす。その身に触れる直前。
細い手首を岩の塊のように節くれだった右手で掴まれる。
「寝てたな……ふむ、目が覚めたようで何より」
将門は女子の手首を掴みながら、大きな欠伸をし、左手で眼をこする。
「あの……痛いので離していただけませんか?」
女子の細い手首には、ほぼ力を入れていない、ただ掴んだだけでも将門の力は強すぎたのであろう。
「おっと、これは失礼した」
女子の手首を離し、両手を開けて戯けたような格好をする将門。
女子は兎のように、将門から二歩三歩と離れ、怯えながら座る。
「先ずは……平将門という者だ。女子よ、名はなんという?」
将門は必要以上に怖がらせないように動かず、女子に名を聞く。
女子は記憶を探るように眼を動かし、ゆっくりと口を開く。
「私の名は……確かに、誰かが、私の名を呼んでいたのですが。……ですが、記憶が蚕に食われた、桑の木の様に。沢山の知識はあるのに……記憶が」
あったであろうはずの記憶、思い出は判別できないほどに……女子は自身の記憶を探れば探るほどに困惑し、顔を手で、隙間のない程に覆いつくす。
「将門……様。私は誰?」
くぐもった声。終いには顔を覆った指の隙間から、雫が伝い流れ、青紫色の袖を濡らし、板間に落ちはじめる。
将門は女子の様を、いつになく重苦しい表情で見つめ。……ゆっくりと目を見開く。
「桔梗」
優しい声色を出す将門。――その瞳に映る女子は、開花を待つ、季節外れの桔梗に見えた。
頭を垂れ、肩を震えさせながら、さめざめと泣いていた女子の震えが止まる。
「名を思い出せないのなら、名をやろう。桔梗だ」
将門はそう言い放ちながら、立ち上がり、女子のすぐ近くまで寄り、座る。
「思い出せなくてもよい。……知識があるのなら、子達の乳母となってくれ」
将門の言葉に反応し、ゆっくりと開花する朝露に濡れた桔梗。――将門は黙しながら、自らの袖で朝露を拭う。
「乳母。……私に務まるのでしょうか」
あまりにも近づいた将門の顔に、恥ずかしさを感じたのか、拭われた桔梗の顔に朱が滲む。
将門は静かに微笑み、口を開く。
「大丈夫だ、子煩悩と言われるかもしれんが、母親に似て聡明な子達だ。逆に教えられる事の方が多いかもしれんぞ?」
一輪の桔梗が花開く。
平将門の軍勢が常陸国、嵯峨源氏の本拠と平國香の本拠を焼いた話は、すぐに広がった。
その話を耳にした、義父である平良兼は憤怒を募らせ、素早く単身で、将門の元へと乗り込んだ。
しかし、人払いを済ませた部屋で、事の顛末を包み隠さず、将門の口から伝えられると、憤怒は収まり、逆に悩み、困りきった顔となった。
「そうか、鎮守府の軍旗に鼓をな……それに源扶の暴走に、化生の暗躍」
頭を抱えながら、溜息が止まらない様子の良兼。
「しかし、将門よ。真実はそうであっても人々には、怒った将門が焼討ちしたとの話は広がっている。源護義父殿も既に良正に話を持っていき、報復に……出るだろうな」
将門も釣られて溜息を吐く。
「分かっております。……それに良兼義父殿の元に源護から要請があれば。一族の長として、婿として、源護側に付かねばならないことも」
前途多難である事を確認し合う良兼と将門の二人。
良い案が出ないのか二人の間に沈黙が流れる。
「そういえば、國香兄上の息子。貞盛はどうする? ふわふわした彼奴は、どう動くか分からんぞ」
良兼の言葉により、花の城である京で出世街道をひた走る、貞盛の顔が久しく浮かんだ将門。――知らずのうちに笑みがこぼれる。
「貞盛には、こちらに戻って欲しくは無いですが……戻ってくるでしょうな。なれば出来るだけ早く、京に送り返すしか……父親が化生に操られていた事を知れば、後先考えずに突っ走って、犬死しかねないですから」
将門の言葉に頷く良兼。
「同じ意見だ」
首を回しながら、良兼は立ち上がり、部屋の襖に手を掛ける。
「……将門よ、一先ずは、戦さの準備をしておけよ。良正は身体に反して、肝っ玉の小さい奴だが……やる時はやる男だぞ?」
そう言い放つながら、襖を開け、良兼は部屋を後にする。
部屋に残った将門は、これからどのような絵図を描き周囲を納得させ、さらには居処の分からない、化生を討とうかと悩む。
「一度、忠平様に話を聞いていただきたいものだ……」
今は遠くなってしまった、私君である藤原忠平の顔が脳裏を過ぎり、あの方なら良い案が出るのでは……と期待してしまった将門。
その思いは遂げられるのだが。少し先の話である。
火は未だに燻り、燻り臭さと煙が残る常陸国。――慟哭が響き渡る。
慟哭の音の元の周りには供回り数名と、歳を重ねた女が一人。
「扶、隆、繁……儂より先に逝きおって、親不孝ものがあ! 許さん! 断じて許さん!」
三人の遺体の前で座りながら、呪詛をばら撒かん勢いで、恨み言を口にする源護。
「國香は! 婿殿は何処におる! 何故、儂の前に姿を現さん!」
手に持った杖代わりの木の棒で地を叩き、激昂しながら不満を露わにする。
供回りの男一人が、静々と源護に近づく。
「平國香殿の屋敷も焼かれており……遺体は見つかっておりませんが、幾人かの兵も斬殺されておりました故。……平國香殿も、申し上げにくいのですが、亡き者かと」
そこまで言葉を発した男の側頭部に、源護は手に持つ木の棒を振るい、男を倒す。
「どいつもこいつ……役立たずが! 役立たずが!」
それだけでは飽き足らず、源護は倒れた男を木の棒で打ち据える、自らの溜飲を下げるためだけに。
ふと、源護は腕を止める。
「いや、まだ婿殿は二人残っているではないか……上総にいる良兼より先に、近くに居る良正だな」
笑いながら、フラフラと歩き出す源護。
それを手助けするように侍る供回りの男達。
歳重ねた女は付いて行かず、一所に集められた旗に鼓を見る。
「これは……鎮守府の軍旗に鼓鐘ね。……将門も怒るのは無理も無いか。……貞盛と藤太に文を送るのも億劫だわ」
大きい溜息を吐きながら、行く宛もない……正確に行く宛が、平國香と共に燃えてしまった為に、源護に付いて行く女。
この女……素性は藤原秀郷の姉妹であり、平國香の嫁の一人、更には平貞盛の実母である。――溜息を吐きながら、億劫であるが、文を出さない訳にもいかず、内容はどうしたものかと悩みながら歩く。
一通の文が京に届く。訃報を載せ、思いの丈が綴られていた。
受け取った男は読んだ途端に、人目を憚らず膝から崩れ落ちた。――その顔は愁眉に曇っていた。
男の名は平貞盛。――この時、官職である馬寮の左馬允に就いていた。
「なんて事だ……」
ぽつりと声を洩らし、足を叩き動かし、一年の暇乞いをし、東へと向かう。
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