聖書執筆依頼※締切厳守!

卜部猫好

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聖書執筆依頼

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■創世記1章
「我らの神の教えに纏わる物語の執筆を依頼します。締め切りは次の種蒔きまでです」

後に歴史の切れ目にして起点が設けられる時よりおおよそ950年前。農民たちが収穫を終え、厳しくも暇な冬を迎えようとしていた頃。簡素で、あばら家とも言うべき寝床に押し入ったその人物の姿は、周りのみすぼらしさとは対照的な豪華、かつ、威圧的な装束であり、それは家主であるヤーウィに口答えを許させない強みがあった。

「ははは、それは災難だ」
「そうなんですよ。こっちは収獲でやった腰がようやく平常運転になりかけてきた頃だってのに」
「ご愁傷さまだね。なにより、こんな時代に僕と同じ締め切りに追われる人間が生まれるなんて、まるで想像しなかったよ。古い本に、人間が想像できることはすべて実現するという夢のある言葉があったが、実際のところ、実現してしまう出来事というのは、想像したくもない現実の焼き増しがほとんどなんだよなぁ」

そう、いつもと同じように意味をなさないだろうことをつぶやき、ユウジは手のひらに収まる大きさの小さな銀の樽を取り出す。カシュっという、音がして樽に封じられていたアルコールと柑橘系の果物の香りがヤーウィの鼻をくすぐった。銀の樽はユウジの家以外で見ることのない不思議な形で、非常に発色の良い鮮やかな色と、見たことない文字が記されている。ユウジはこれを「ストゼロ」なる物だと言い、一度分けてもらったことがあるのだが、それはヤーウィが普段飲むビールに比べて極めてアルコールが強く、飲んだ後の記憶が無くなるほどだった。以来、ヤーウィはその飲み物を求めていない。

「それで? 聖書を書くんだろう?」
「セイショ?」

ぽろりと、当たり前と言わんばかりのこぼれた聞き馴染みのない言葉をオウム返しに尋ねると、ユウジは一瞬「しまった」という小さな焦りを見せた後に、取り繕うための咳払いをひとつ。

「いや、神の物語だろう? 神とは聖なる物であり、それをまとめた書物なら、聖書でいいんじゃないか?」
「なるほど」

うまく丸め込まれたような感覚はあるが、少なくとも納得は行く話であるし、なにより、ユウジのこういった違和感はいつものことであった。

「なにから書くんだ? 神の偉大さであったり、一番大切な教えであったり、いろいろ候補はあると思うんだが」
「それは、ミカさん……あぁ、俺に仕事を持ってきた国の偉いさんからアドバイスをもらってまして。まずは、この世界がどうやって作られたのを書いたらよい、と」
「なるほど。クライアントの指示は絶対だ。その枷はクリエイターとして厄介に感じることがほとんどだが、少なくとも最初の一歩においては、道を示してくれる光になる」
「はぁ」

うんうんと納得したように頷くユウジだが、その言葉の意味は半分もヤーウィには伝わっていない。

「それで? 君はこの世界がどうやって作られたと考えたんだ?」
「それがですね……」

ヤーウィは、ここに来るまでの経緯を語り始める。曰く、この執筆依頼を受け、あまりの仕事の大きさにその重圧が、収獲の後でだらけきった体と心にのしかかり、呆然とふらふら外を歩いていたのだという。

世界がどうやって作られたのか? それは大きな謎だ。なにより、この世界がどんな形をしているのか。同じ方向に向かってずっと進んでいった先、その端がどうなっているのか。それは前後左右の話だけではなく、上、つまり、空の彼方はどうなっているのか。天に瞬く太陽や星々は一体何なのか。そもそも、我々が何故この世界に存在しているのか。自分が母の腹から生まれたにして、その母の母、さらに、その先にいる最初の母は誰で、どこから現れたのか。これらは、あまりに当たり前にある事実であり、大きすぎる謎の集合体だったのだ。

とはいえ、王に仕える知恵者であるミカも、意味もなくヤーウィに仕事を依頼したわけではない。それは、ヤーウィが街で有名な「回答者」だったからだ。

この時代、学校という物は存在しなかった。知識は基本的に親が子に伝えるものであり、そこで伝えられる知識とは、親の仕事に纏わる物に限られる。農民の子は農民の親から農業に必要な知識のみを与えられた結果として農民になり、石切りの子は石切りの親から石工術に必要な知識のみを与えられた結果として石切りになる。

一方、将来の職業に繋がるような体系化された知識の集合体ではなく、単発的で、ふと湧き上がる疑問の答えに必要な知識というものはある。例えば、火は何故燃えるのか。何故太陽は沈んでも再び登るのか。これらの疑問は、根本的には解消の必要がないものがほとんどだ。実際、火が燃える理由がわからなくとも、火で煮炊きを行うことはできてしまうし、太陽が何故登り沈みをするのか知らなくとも、決まった時期に種蒔きをすればよく、なにより、太陽が消えることは決してないのだから。

だが、疑問は違和感であり、違和感は恐怖である。それが直接的な命の危機に繋がらないとしても、恐ろしいものは恐ろしいのだ。よって子供たちは、もとい、子供でなくとも、その答えを誰かに求めることになる。それは往々にして、司祭が答えることになるのだが、では司祭がその答えを知っているかというと、勿論そうではない。だから、司祭としても、万能存在である神、もしくは時の王が、その全ての理由であるとして説明することになるのだが、実際のところ、これはあまりに一辺倒であり、ある意味で退屈なものともなってしまう。

その一方、街で「回答者」と尊敬されるヤーウィは、これらの理由を、神と王という一辺倒なフレーズの繰り返しで説明することを嫌った。その説明の中では、動物に植物、砂漠と川、海に山に森など、自然が用いられることがあり、精霊に天使に悪魔といった超常的な物が用いられることがあり、さらに、可能な場合は目の前で簡単な実験をもって説明が行われることもあった。街の人々は、ヤーウィは知恵者であり、なんでも知っている万物の謎に対する回答者であると彼を尊敬した。

しかし、実際のところ、ヤーウィは何もかもを知っているわけではない。ヤーウィはただ、頭の回転が早かったのだ。すなわち、疑問に対する「らしい」回答を、その場で即座にひねり出すのが得意だったというのが実際のところなのだ。だから、実のところ、同じ質問に対してヤーウィが違う回答をしたということも多々あったのだが、彼の答えがいつも常に「らしかった」ため、人々は彼を嘘つきではなく、知恵者として尊敬してしまったのだった。

そしてなにより、ヤーウィの回答は、「らしい」以上に面白かった。結果的には、これでヤーウィが司祭よりも信用されてしまう形となった。司祭たちにすればこれは面白いことではなく、ヤーウィは悪魔から知識を囁かれていると批難するが、この頃の司祭たちの権威はそれほど大きなものではなく、その批難はある意味、負け犬の遠吠えのようなものとして扱われていた。

では何故、王に仕えるミカが、ある意味で司祭とヤーウィの間を取り持つような依頼をしたのか。そこには複雑な思いがあるのだが、それは後に語ろう。ともあれ、ミカがヤーウィに神の言葉を纏めた書、後に言う、聖書の執筆を依頼したのはそういう理由だ。

「それにしても、だよ」

ヤーウィは憔悴していた。この仕事は、言うならば一大プロジェクトだ。今までは疑問ひとつに対してひとつの答えをその場で紡げばよかった。それらの答えは答え同士で矛盾していてもよく、集合化、体系化されている必要はなかったし、そもそも同じ疑問に別の答えを述べても良かった。だが、本に纏めるともなればそうはいかない。そして、これが王から依頼だということは、名誉でこそあるが、それ以上に、出来なければ極端な話として処刑されることもあり得る恐ろしい話であり、さらに、次の種蒔きまでという締め切りが明確な物として定められているのだ。

そして、今答えるべきは世界のはじまり、創生の記録である。これは実際のところ、ひとつの疑問ではない。それは、世界という存在がひとつでは言い表せないものだからだ。海と大地と空、太陽と星々、魚と鳥、動物、そして人間。これらすべての起源を、納得のいく「らしい」答えで集合的に体系化しなくてはならないのだ。

幸いにして、今回は神の物語である。つまり、すべてに対して「神の御業」という逃げ道が用意されており、これはシンプルな体系化の鍵だった。海も大地も空も生物も人間も、すべて神が作った。それはシンプルな答えだったが、厄介なことに、ヤーウィの職人根性はそのシンプルな答えを拒絶する。神が作ったとして、どうやって作ったのか。また、どんな順番で作ったのか。それらはどれだけの時間をかけたのか。結局のところ、神の御業という万能のキーワードを使うことが既定路線にあるとしても、それは簡単な話ではないのだ。

「どうなった。一体、何がどうなったんだ」

ぶつぶつと同じ言葉を繰り返しながら、意味もなくふらふらと歩くヤーウィ。目は空虚で、直前の光景はまともに認識されていない。その足が街の辻に差し掛かった時だった。

「遅刻遅刻遅刻!」

建物の影でヤーウィには見えない位置から、石工職人見習いの少女が走る。その口にはモッツァー、所謂パンが咥えられており、落ち着いた朝食を取る時間がなかったことを示していた。さらに。

「待てー!」
「待てと言われて待つやつがあるか!」

大きな風呂敷を背中に抱え、顔を隠すために目には遮光器をつけた、いかにも泥棒という風体の男が、家の主人と思われる男に追われて辻に向かって走っていたのだ。

これら三人が、同時に三ツ辻に侵入したとなれば、何が起こるかは明白だ。衝突。それ以外の出来事は起こりようがない。極めてシンプルな事象だった。

――この時、ヤーウィに電流走る。

「二人がぶつかることは珍しいことではない。だが、三人がぶつかるのは極めて珍しいことだ。世界という素晴らしいものが作られたのは、きっと極めて珍しい偶然の結果に違いない。それこそ、三人が同時にぶつかるようなことが起こったんだ!」

この天啓を抱え、ヤーウィはあばら家に戻り、運び込まれていた銅板にノミを走らせる。

『ひとつの世界の元があった。しかし、この元では、世界をうまく作ることはできなかった。そんな時、偶然に3つの元が同時にぶつかり、それは新しい世界の元に変わった。これがこの世界を作ったものである』

その話を聞いていたユウジは、乾いた笑いを浮かべていた。

(炭素出来とる! ホイル状態起こしとる! 全部あってる!)

この世界において、炭素はすべての生命にとって必要不可欠な物質である。しかし、原子宇宙には炭素が存在しなかった。その状態で、3つのヘリウムが同時に衝突し、ホイル状態なる中間状態を経由することで、炭素が生成される核融合反応が発生する。これはつい最近になって、最先端の物理学がようやく理論化した学説だ。その説が、偶然とはいえ、3000年前に生まれかかっているという事実に、ストゼロとはいえまだ1本しか空にしていないユウジの手が、アルコール中毒のように震えていた。

「ふ、ふーん。それで?」

平静を装いつつ、今日2本目のストゼロを開けるユウジ。ともすれば、その事実を抹消する必要すらあるが、できればそれはしたくない。この時のユウジはある意味で神に祈っていた。

が、ヤーウィは深い溜息をついて、その後を語り始める。

「納得できません。なにより、神が登場しません。こちらの提示したプロットに従ってください。これは、ボツです」
「うわーっ!」

べこっ、と音をたて、ミカの手で銅板が真っ二つにへし折られたのだという。ユウジはその話を聞いて深く、安堵のため息をつき、原初の編集者に大きな感謝をすると同時に、今まで何度も自分を苦しめてきたクライアントの指定したプロットという存在が、こんなにもありがたい物だったのかと涙を流した。

「それじゃぁ、新しく考え直さないといけないんだな」
「そうなんですよ。でも、全然思いつかなくて。それで、何かヒントはないかと思ってユウジさんのとこに」
「なるほどな。そういうことだったのか」

心底ほっとしつつも、ユウジとしてはヤーウィに教えて良いことはそれほど多くない。

「まぁ、世界がどう始まったかなんて僕も知らないからなぁ。と、そうだ。僕も仕事をしないとな。まぁ、見ているだけなら構わないよ。何かヒントになればいいんだがな」
「ありがとうございます。ん?」

ここで改めてヤーウィは、ユウジの目のした大きなくまが出来ていることに気づく。

「ユウジさん、また寝てないんですか?」
「あぁ、僕も君と同じく締め切りに追われていてね。実のところ、昨日も今日もね、オール……」

そう言いながらユウジは自分の黒い箱の下部に手を伸ばす。

「あれ?」

ユウジの手が箱に下部をまさぐるが、やがて何かを見つけ、くぼみができるように指を押す。するとすぐに、平らなガラスの板が光り輝く。

「ヨシ。あぁ、まぁ。そんなところだ」
「オール、アレ……」

オールとは、ヤーウィたちの言葉で光を示す。ユウジの言葉にはヤーウィの知らないものが多く現れていたが、この時にユウジは「光あれ」という呪文を唱えたのだろう。その呪文に呼応して、実際に光の板が輝いたのだから、おそらく間違いない。

実のところ、ヤーウィはユウジが何者かを知らない。本人は、はるかな東方から来た異民だと言う。その奇妙な道具の数々は、ヤーウィには理解できないものばかりだったが、そのどれもが極めて高い石工職人の手で作られたものであろうことは想像に容易かった。というか、高すぎた。故に、ヤーウィは、もしかしたらこのユウジこそが、神なのではないかと思うこともあった。とはいえ、どうみてもユウジは自分たちと同じ人間であり、世界すべてを作るような万能存在である神には程遠い。それでも、ユウジが興味深く面白い存在であることは事実であり、今日もヤーウィはその一挙一動に注目していた。

「よくよく考えたら五徹しているな」
「ゴテツ?」
「もう5日寝ていないということだな。リリース直前でデスマーチ中なんだよ」

後半の意味はわからなかったが、ヤーウィが驚くには十分だった。ユウジは5日も寝ていない。そんなことが本当にできるのだろうか。そんなことをして、体は大丈夫なのだろうか。そんなヤーウィの心配を他所に、ユウジはガラスの板に向かう。ガラスの板には、丸や四角が写されていたが、ユウジが手を動かすとそれはたちまち人間の姿になっていく。その奇跡のような光景にヤーウィは目を奪われた。今日が続けて6日目の作業であるとは信じられない巧みさを持って、ユウジの作業は進んだ。その鬼気迫る様相は、とても話しかけられたものではなく、結局、ヤーウィが眠気を感じて帰るまで、ユウジは作業を続けていた。

翌日。ヤーウィは自室で銅板を前にノミを取った。もしも神が世界を作ったのなら、どういう順番で作ったのか。それはおぼろげに想像できていた。そこに、昨日ユウジの部屋で見た光景と、彼の言った呪文を重ねていく。

「光あれ、か」

よし、と気合を入れるために軽く頬を叩き、ノミを銅板に当てる。

『はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見みて、良とされた』

「なるほど。そうして6日目に人を作った、と」

ミカは神妙な顔つきで銅板を読む。今度はどうだろうか、ボツにはされないだろうか。自分の心臓の鼓動を感じながら、ミカから放たれるだろう可否の言葉を待った。すべてを読み終えたミカは、ふと天井を仰ぎ見て何かを考えた。その一瞬は、永遠にも感じられた。

「7日目は何をなされたんだ?」
「え?」
「暦では、7日が3回と、8日か9日が1回で繰り返されるだろう。神とてその暦に従って動くはず。7日目は何をされたんだ?」
「あ、あぁ! え、えぇと……それは……」

しまった、とヤーウィに冷や汗が流れる。このエピソードと暦を結びつける、そこまで考えていなかった。だが結びつけた方が確実に「らしい」ことは間違いない。であれば、神は7日目に何をされたのだろうか? 初日に天と地、光を作り、2日目に空を作り、3日目に海と大地と草木を作り、4日目に太陽と星を作り、5日目に魚と鳥を作り、6日目に獣と人間を作った。もう他に作るべきものが思い当たらないのだ。それでも、ミカはヤーウィを睨みつけるように見下し、その言葉を待つ。適当なことは言えない。言えばボツにされてしまう。再び銅板がへし折られ、最初から掘り直しになる。それは嫌だ! なにか、なにかを言わなければ。眼の前がぐるぐると回る中、落ち着けと自分に言い聞かせて目を閉じると、そこには昨日の、目の下に大きなくまを作ったユウジの顔が浮かんだ。

「僕も君と同じく締め切りに追われていてね」

あの時の何気ない言葉が、改めて悲哀を込めて感じ取られる。締め切りとの戦い。あんなにも強いアルコールを無理に飲んでまで自分を奮い立たせて作業を続ける。それはまさに死の行軍だ。6日も寝ずに作業を続けているユウジは、今何をしているのだろうか? 答えは想像に容易い。

「ボツですね」

へし折られる銅板。無に帰す作業成果。それでも変わらない締め切り。そうなれば、7日目に待つのは、勿論。

「お休みになったんですよ!」
「ほう」

そう答えるミカの手には、未だ無傷の銅板がある。

「6日も続けて働いたんですよ!? 7日目くらいお休みになられてもいいじゃないですか! というか、休むべきです! 休ませてください!」

そう熱弁するヤーウィに、思わず気圧される。ミカにしては、この時にボツにするつもりなどかけらもなかった。実際、納得の行くその内容は、ヤーウィに「良い仕事だ」と称賛の言葉をかけるに十分なものだった。だが、ふと感じた小さな疑問。作業の内容に関わらない小さな雑談。なのに目の前の男は、汗を流して必死に自分にアピールをする。ミカには、その理由がさっぱりわからなかった。もちろん、彼の目に自分が「ボツですね」といって銅板をへし折った幻覚が見えていたことなど知る由もない。それはさておき、7日目に神が休まれたというのは、とても納得のいく「らしい」話だった。

「まぁ、そうだな。なら今日は休むといい。これは持っていくぞ」
「え? ということは……」

一瞬にして、ぱっと明るくなるヤーウィの表情。確かにヤーウィは良い仕事をした。だが、プロジェクトはまだ始まったばかりなのだ。甘やかすことはできない。

「だが、締め切りは次の種蒔きの時だ。それは絶対に守ってもらうぞ」

キッとした視線を感じ、緊張が唾を飲ませた。かくして、ヤーウィの苦難の冬は幕を開けたのだった。

さて。ヤーウィの預かり知らぬところで、話はもう少し続く。銅板を抱えて王宮に戻る途中で、ミカはふとゴミ捨て場に目をやる。そこでは、一人の男がゴミを漁っていた。ミカはため息をつき、目を伏せた。

「偉大な王が崩御し、国が北と南に割れた。その混乱は、明確に民の困窮に繋がっている。ゴミ漁りをして命を繋ぐ民など、私は見たくはない。だからこそ、そんな民の姿を消すためにも、私は」

そう小さく呟いて王宮に去るミカの背中を、ゴミ捨て場から這い出た男が一瞬視界に入れた。その手には、真っ二つにへし折られた銅板があった。

「偶然とはいえ、世界創生にホイル状態を記した文書。そんなものが発掘されでもしたら大変なことだ。死海文書なんて騒ぎじゃないよ、まったく」

カシュっと音をたてて開けたストゼロを一気に煽り、その空き缶を銅板といっしょに自分のごみ袋にしまう。出先でのごみはしっかり持ち帰るのがマナーである。間違ってもアルミニウム片や点火プラグを落としてはならない。

「さて。リテイクにもしっかり答えないとなぁ」

そんな7日目のゲームクリエイターの背中からは、深い哀愁が漂っていた。

◯推奨検索キーワード
・聖典化
・ユダ王国
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・銅の巻物
・ルーマニアのアルミウェッジ
・コソの点火プラグ

◯原文
1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
9 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
10 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
11 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
12 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
13 夕となり、また朝となった。第三日である。
14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
15 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
16 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
17 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
18 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
19 夕となり、また朝となった。第四日である。
20 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。
21 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
22 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
23 夕となり、また朝となった。第五日である。
24 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
25 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。


■創世記2章
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」』

差し出された銅板を、睨みつけるように精査するミカの姿は、相変わらずヤーウィには恐ろしく見えた。出会いの時、最初のリテイク、天地創造の記述が認められた時、そのすべてにおいて、ヤーウィからしてミカは常にいらいらしているように感じられていたが、実のところ、この認識は正しくなかった。その威圧的な雰囲気は、ミカにとってある種の平常運転だ。宮廷においてのミカも、日々誰もが一歩引いて恐れる存在であり、常に厳しく、不出来な宮仕えの粛清計画などの恐ろしげなことを考えていると思われていたのだが、その実は、三時に食べる予定のモッツァーに何のジャムを乗せようか真剣に考えていたりするという可愛げのある面を隠している。

しかし、この時ばかりはミカは本当に不機嫌であり、苛立ちつつ文章内容の精査を行っていた。その理由が、まさに先の一文にあった。

「お前は本当に優秀だ。何をさせても秀逸な成果を見せる。お前のような臣下を持つことは予の誉れであろう。予が伏せた時、お前を次の王にしたいと思ったことは一度や二度ではない。だが……」

尊敬する王。その言葉がミカの頭の中にリフレインする。理解はしている。王の言葉は正しい。だが、納得はできないのだ。どれだけ正しくとも、それを受け止めることは、すなわち、ミカにとって。

「あ、あの! ミカさん!」

はっ、と気付くと、目の前には子猫のような顔でこちらを見上げる男がいた。

「俺も頑張って考えて書いたつもりなんですけど、やっぱり、ボツ、ですか?」

軽く口を開き、紡ぎかけた言葉をすぐに打ち消す。音にならない声。深い溜息。そして銅板を小脇に抱え直す。

「いえ、問題ありません。受領します。改めて、全文の締め切りは次の種蒔きです。次もお願いします」

「と、いうことがあったんですよ。ほんと、生きた心地がしなかったんですって。もうね、ミカさんにボツって言われて銅板を真っ二つにへし折られる夢は3日に1回見るんですよ」
「それは大変だな。睡眠不足は労働力の低下に直結する。うちのベッドで休んではいかがか?」

プシュッと空気が外に漏れる音がして、驚くほど透明で凹凸のない高品質なガラスの戸が勝手に開く。

「いや、遠慮します。フルさんのベッドってなんか冷たくて。最近一気に寒くなってきたじゃないですか」
「惑星間航行用コールドスリープマシンだ。入る時に冷たいのは当然であると言える。なお、最近寒いと言う君の言葉は真実だ。最近の寒さは600年前の寒冷期と同等だ。同じ程度の寒さであった2000年前には私達の……」

と、言いかけ。呆気に取られるヤーウィが横目に見て。

「すまない。忘れてもらう」

赤い光が短いスパンで2度照射される。一瞬、ヤーウィの目が空虚なものになるが、すぐに目の焦点が再度フルを捉える。

「ほんと、最近嫌な夢が多くて困るんです」
「心中察するぞ。何か私にできることはあるだろうか?」

親身な声は、冷たいミカのものとは対照的であり、その暖かさで思わず涙がこぼれそうになる。フルさんは本当に良い人だ。街の人々は、フルさんの姿が普通の人よりも少し大きいからという理由だけで彼を避けるが、彼らもフルさんの人となりを正しく知れば、そんな偏見はすぐに消し飛ぶに違いない素晴らしい女性だと断言できる。嘘もついたり、不都合なことを隠すような卑怯な人間であるはずがないのだ。

「んー、なら、ちょっと仕事の相談に乗ってもらえませんか?」
「いいだろう。金の採掘が重労働であることは私もよく知っている」
「ん、あぁ、いえ。俺の今の仕事は金鉱堀りじゃなくて」
「あぁ、そうか。最近の人間の仕事は金鉱堀り以外にもあるのだったな。それで?」
「ははは、まるで金鉱掘りしか仕事がない時代があったみたいの言い方じゃないですか」

む、とフルが顔を歪め、スイッチに手を伸ばし、引っ込める。短いスパンで何度も使用すると記憶障害が起きるリスクがある。この程度なら問題のない範囲だろう。

「それで? 君の仕事とは?」
「えぇ、元々は畑仕事だけで、この時期はもう好きに過ごすだけで良かったはずなんですけど、先週から……」

ヤーウィは、先週からの出来事を語る。自分が神の言葉を纏めた書の執筆を依頼されたこと、そして、ついさっきその2章の執筆を終えたこと。その話にフルは強い興味を持つことになる。

「なるほど。すまない、相談に乗ると言ったが、むしろ私が興味を持ってしまった。どんな内容を書いたか聞かせてもらえるか?」

自分はこれから、自らのストレスを解消するためという身勝手を持って、厳しく面白みのない仕事の愚痴を話す。そんな無意識の負い目があった中、意外にもこちらの話に興味を持ってもらえたことは、その負い目を喜びで塗りつぶした。視線が5度上にのぼり、輝きを取り戻した目がフルを捉えた。

「勿論、喜んで! 何よりも相談したいのが、どうしてミカさんが俺の書いた内容で不機嫌になるかなんですよ。ミカさんが楽しんで読めるような内容なら、ボツも出にくいと思いますから、そういった意味で内容のアドバイスが欲しかったんです。興味を持ってもらえたなら、願ったり叶ったりですよ」

そう言って語り始めた内容に、最初はフルも興味深く頷きながら聞いていたのだが、話が世界創生の1週間の話を終え、最初の人類とエデンの話を終えた時には、相槌のスパンが開いていき、その表情はヤーウィからしても納得とは程遠い様子が感じ取られていた。当初はまくしたてるような早口で話していた言葉が、少し、また少しと遅くなっていき、最後を消え入るような声で語り終えた後に、恐る恐ると言った様相で口を開く。

「あの、どこがダメですかね?」
「女の創造の方法だ。そこに至るまでは面白い発想だと感じたが、ここはどうにも面白みがない」

ストレートに言われてしまい、ヤーウィの声のトーンが一段階下がる。

「そう、ですか。そう思ったのは何故でしょうか?」
「その話に従えば、男性のあばら骨から創造された女性は、男性の劣化模造品であるということになる」
「レッカモゾウ……?」
「劣った存在だということだ」

きょとん、と頭の上にはてなマークが浮かぶ。それは当たり前のことだ。事実、ヤーウィはそう思っている。それは彼に限った話ではなく、世間一般的な認識としてそうだと言える。

「実際そうだと思いますけど。畑を耕したり、石を切る時にも、女性は男性に比べて力が劣りますし、物覚えの良さも男性に劣ります」
「なるほど。では、強い国を作ることを目的とした場合、女性は不要だということか?」
「そうなり……ん、いや、それはダメですね」
「何故だ? 女性は劣った存在ではないのか?」
「確かに女性は男性に劣りますが、子供を産めるのは女性だけです」
「そうだ。女性には出産という、種の存続、そして、国力たる人口の増加に必要不可欠な仕事がある。その女性を、ただ男性が『ひとりでいるのは良くない』からとして、まるで男性の添え物のように作る物語は、合理性に欠ける。役割が異なるだけで、男性と女性は等しく必要な存在であることは、神も理解している。ならば、神は男性と女性を同時に創造すべきではないだろうか?」

確かに、その通りだ。男性には労働、女性には出産という役割がある。これは優劣がつくものではない。男女はどちらも必要な存在であり、等しいものだ。ならば、神はそれを同時に作るはず、という論は確かに「らしく」納得ができる、ように感じられる。しかし、それは受け入れがたい考え方かもしれない。少なくとも、自分にも若干の違和感があるのだ。これを読んだ街の人はもっと強く疑問を覚えるだろう。男が優れていることは間違いないのだから。では何故神は男女を同時に創造したのか。その違和感を思うままに口にする。

「いえ、待ってください。そもそも、神は人間を作る力を持つんですよ。それも、簡単に、です。なら、そもそも人間同士で子供を作る必要なんて、無いですよね? ただ神が人間の男だけを作り続ければいいんですから」

ぴくり、とフルの口角が動き、笑いを隠すように小刻みに震え始める。そして、今までの不機嫌なトーンから一転。歓喜にも繋がるようにテンションを高めた声で、その神話に答えを返した。

「なるほど! その通りだ! 君は実に賢い! 私も同じ考え方だった!」

この時、ヤーウィが「普通」であったならば、フルのあまりの豹変に気圧されるはずだ。しかし、筋道を立てて推論し、真実を導くという行程の楽しさに酔うヤーウィは、豹変にも細かい言葉のニュアンスの違和感もすべて流す。

「そうですよね! そうなりますよね!」
「あぁ。しかし……実際として、今、人間には女がいる。これを君は何故だと考える?」

その問いかけに、少しの思考を挟む。神は男性だけを作り続ければよく、人の一人程度簡単に作ることができる。なのに、何故女性を作ったのか。それによって、神にはどのような利があるのか? 短いスパン、少ない数で考えればまるで利が感じられない。しかし、長いスパンと、より大きな数を想像すれば。

――その時、ヤーウィに電流走る。

「ある程度以上の数に人間が増えた時、人間に生殖機能があり、自己増殖が備わっていた方が、以後の増加速度が指数関数的に伸びていき、それはある一点を超えた時、人口の半分が労働力で劣っているとしても、総合的な労働力で優位性が生まれるから、でしょうか」
「うむ。その通りだ。だから、私達も後になって人間に生殖機能を設けた」
「ですよね! 実際に、神であれば後々になって人間に性差を組み込む改造を行うことは可能であって当然です!」

うんうん、とお互いに同じ答えにたどり着いた感動を分かち合うように、フルの言葉に頷き返すヤーウィ。しかし、ここまで広く想像を広げて、あることに気付く。

「いや、でもそれって、人間が無尽蔵に増えることができる世界の上でだけ成り立つ仮説ですよね?」

それまで感動的な恍惚感に浸っていたフルの顔が、凍る。

「世界は広いとはいえ、おそらく果てはあるんでしょうし、そうなると食べ物や水には限りがあるはずです。この数十年で国の人口が確実に増えているとはいえ、それはこの世界で考えれば誤差でしかなかった。それがいつか、誤差でなくなるとすれば、おそらく世界人口には上限があるはず。直感ですけど、自然との共存の上、5億人以下でないといけないような気がします」
「…………」

ヤーウィに降りた天啓。すらすらと出る言葉。その論は筋道に沿っている連続的思考に見えて、実はただ直感の連続を捲し立てているに過ぎないというのは、喋っている彼自身が理解できていない。

「それにほら、食べ物も普通に食べるわけじゃなくて、火で料理するじゃないですか。それだけの人間が料理したら、火で世界が暖まりすぎる可能性もあります。そもそも、料理以外にも冬は火で暖を取りますし、そのうち世界が暑くなりすぎますよ。ごみだって、埋める場所がなくなるかもしれませんし、それを海に捨てるとしても、そのうち海に小さな石や銅が多くなって、それを自然に食べてしまった魚に悪影響が出るかもしれません」
「……さい」

フルは明確な嫌悪感と共に、言葉を制しようとするが、ヤーウィの言葉は止まらない。

「なにより、人が増えすぎると大きな問題があるんですよ。具体的な例なんですけど、俺はまだ結婚してないんですね。あんまり女性との付き合いがなくて。で、そんな俺を見かけると、隣のおばさんがしつこく女性を紹介しようとしてくるんです。別に今はいいって言うんですけど、おばさんの言葉は止まるどころかヒートアップしていって。ほら、女3人集まるとって言いますけど、そもそも1人でも、って話ですよ。そんな人間がどこまでも増えていくとしたら」
「五月蝿い!」

フルが激昂と共に、スイッチを押す。すると、天井から吊り下げられていたバケツが傾き、そこから溢れた水がヤーウィに降りかかった。ヤーウィは文字通りに頭を冷やされ、この数分の記憶を失った。

「そう、ですね。やっぱり、男女は平等であるべきで、神も男女を同時に作ったはずですよね。ちょっと、改めて書き直さないといけないかもしれません。ミカさんに前の銅板の捨ててもらうように言わないと、後になって内容の齟齬に混乱が発生して困りそうですね。ありがとうございます、フルさん」
「ん」

上機嫌とも不機嫌とも感じられない様子で、小さく頷く。

「それと、なんですけど」
「どうした?」
「なんか、いつのまにか服が水浸しなんですけど、タオルとかありますか?」

はぁ、とため息をつき、背後にあったカプセルを指差す。

「そこに入りなさい。フリーズドライで乾燥できる」

ミカは王宮に備えられた私室の窓から日の出を見ていた。川を挟んだ向こう側の土地には、天にも届かんとする高い塔の基礎部分が見えた。

偉大なる王の治世が終わり、南北に分断した王国。この混乱が続き、国力が落ちていけば、いずれ他国につけこまれ、我々の王国も根本から滅んでしまうかもしれない。そうなれば、王族を含めたすべての国民が、奴隷として母なる土地を奪われ、移住させられる可能性すら考えられる。

それは絶対に認められない。

だからこそ、国を立て直す必要があり、そのために、今のプロジェクトを成功させる必要がある。神の言葉を用いて国民を纏め、規範をもたらし、国を偉大なる王の時代以上に強い物にしていく。そのためには、私の小さなエゴなど、封じ込めなければならない。

決意を新たに、クローゼットから布を取り出し、それで自らの胸を強く縛り、その膨らみを押しつぶす。鏡を見て寝癖を整え、若干の眠気で緩んだ顔を自ら睨みつけ、そのままの形で表情を固める。男性と同じ衣装に袖を通し、今日も宮仕えとしての仕事が始まる。その、他の誰よりも優秀な仕事振りに、王は今日もため息をつくことになる。

ミカにならば、王位を継いでも良かった。もしも、彼女が男だったならば、と。

そうして今日も悲しみと哀れみを籠めた目で自分を見るだろう王を想像し、ミカの顎が下に傾く。窓の向こうには、川の向こうへ王都から離れて歩く人影があった。どうにもその影が少し大きな気がしたが、それはおそらく距離感による気の所為だろうとして、景色を眺めるのをやめ、今日の宮仕えが始まった。

一方、久しく自分が建造させた宇宙船の停泊所の廃墟へとたどり着いたフルは、その頂上から空を眺め、楕円軌道をもって地球から遠く離れてしまった故郷に心を寄せていた。

「何千年経っても、自らの過去の失敗を思い出すのは苦々しいのだな、エンキ」

金粉を手のひらに盛り、それを口の前に運ぶ。大きく息を吹きかけると、それはジックラトの頂点から風に乗って、自分たちの街だった場所へと飛散していく。かくして、今はただの隠遁者である彼女は、かつて自分が科学者だった日々を思い出す。

かつて、この土地には、緑の冥王星の向こうからやってきた彼女らが作った、人類最古の先進文明があった。

◯推奨検索キーワード
・シュメール人
・ジックラト
・アヌンナキ
・ゼカリア・シッチン
・バビロン捕囚
・旧約聖書 男女
・ジョージア・ガイドストーン

◯原文
1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、
5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。
11 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
12 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
13 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
14 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。
15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。
24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。


■創世記3章
聖書の作成。神の威光を用いての安定統治を目指したミカのプロジェクトは国にとって重要なものだ。ここまで執筆された2章は、既に王宮の中では広まっている。ミカにとってみれば、これらの物語はどれだけ「らしい」としても、フィクションだと理解の上にある。だが、これをどこまでも「らしく」書こうとしているのは、この物語をノンフィクションであるもの、事実として存在している神のエピソードを記したものとして広めるためだ。実際、王宮で働く知恵者たちも、監修として派遣された司祭すらも、これらの物語が真実であると信じている。そんなある日のことだ。

「ミカ様、質問があります」
「どうした」
「2章で語られるエデンには、決して食べてはならない実がなる木があるとあります。しかし、2章の中では、この木に纏わる話が語られていません。では、この木は、何故存在しているのですか?」

ミカの瞳孔が少しだけ大きくなり、直後、小さくため息をつきつつその目を軽く伏せた。

「物語には、伏線という構文があります。これは、その時は詳細を語りきらず、読者に小さな疑問の『しこり』を残す楔です。この楔が後になって解き放たれた時、読者の驚きと感動は、溜め込まれただけ大きくなって現れるのです。これは作者である男の優れた技法です」

何故わからないのかと一瞬こそ思ったが、実際のところ、この国には物語というものを読んだ者はほとんどいない、という当たり前のことだった。幼い頃、かの叙事詩に描かれた冒険譚を読み終えた時の感動。それを感じたことがない民がほとんどだというのは、失意と、哀れみと、悲しみを感じさせた。

「確かに、そうかもしれませんが、そうなるともう1つ疑問があります」
「それは?」
「何故この書き手は事実を淡々と語らず、そういった複雑な手を用いるのですか? まるで、その書き手が作った話のようではありませんか」

ミカは、改めて小さくため息をついた。

「それで、この伏線はいつ回収するんだね?」
「伏線?」

ヤーウィは、山羊飼いであるフォメの言葉の意味がわからなかった。フォメは、丘の向こうに暮らす山羊飼いである。この街に供給されている山羊のミルクは、すべて彼の生産物だ。それは、彼の他にこの地域に山羊を飼う者がいないからであり、ヤーウィも彼の他の山羊飼いを知らない。まぁ、山羊飼いは皆、フォメと同じで山羊の頭をかぶっているのだろうから、この先どこかで会うことがあれば気付くことは容易いだろう。

「伏線を知らないのか? これは、その時は詳細を語りきらず、読者に小さな疑問の『しこり』を残す楔だ。この楔が後になって解き放たれた時、読者の驚きと感動が、溜め込まれただけ大きくなって現れるのだ」
「なるほど、そんな手段があるんですね。フォメさんは博識で脱帽するばかりです。山羊飼いは皆、博識なんですか?」

フォメは小さくため息をついた。人間の知識は本当に低レベルだ、と。しかし、そうなると、だ。

「では、何故知恵の実をここで描いたんだ?」
「それは勿論、禁忌を守り続ける人間の精神の強さを示すためですけど、なにか?」

ふふっ、と、つい、口から失笑が漏れる。いつの世も、人間は自らの心が強いものだと信じて疑わない生き物だ。しかし、だからこそ可愛げがあるし、面白い遊びもできる。

「ヤーウィ、君はこんな言葉を聞いたことはないか? 法は、破るためにある、と」
「いや、ないですね」

出鼻を挫かれる。

「で、では、こう、こっそり悪いことをした時の言い知れぬ恍惚感を覚えた経験はあるだろう?」
「あるわけないじゃないですか」

ぐ、とフォメの眉間にシワが寄る。

「親に内緒で夜更かししたことは?」
「ないです」
「友人が寝ている間に額に肉と書いたことは!?」
「ないです」
「深夜にラーメンを食べる喜びは!?」
「ラーメンとは?」

はぁぁ、と大きなため息をつく。稀にいるのだ、こういった善性の塊のような人間が。普通はこれを数十年の厳しい修行の元に身につけるはずなのだが。さて。そうなると、攻め方を変える他ない。

「なら、君が今最も恐れるものは?」
「恐れるもの……」

この人間が何を恐れるかを聞き出し、それを利用する。そんな邪悪な目論見にはまったく気付かないヤーウィは、目を閉じて考える。すると、すぐに目の前にある人物の顔が浮かんだ。

「ボツです」

目の前で銅板をへし折られる幻覚が見え。

「うわぁああああ!!」

思わず叫び声を上げる。

「ど、どど、どうした!」
「締め切り怖いボツ怖い締め切り怖いボツ怖い締め切り怖いボツ怖い締め切り怖いボツ怖い」

がたがたと震え始める頭を抱えるヤーウィに、思わずあたふたとしてしまうフォメ。

「お、落ち着け! ほら、ハーブティだ! 落ち着いて飲め! 飲んで落ち着け! ほら、大丈夫だ、大丈夫! 怖くないぞ!」

フォメの心根は善であり、こういった時につい素のやさしさが出てしまう。だが、普段使いの仮面が取れた時は、つい慌てて混乱してしまう。この時フォメが飲ませようとしていたものは、さる男の仕事を手伝う代償として得た「ストゼロ」なる強アルコールであり、もしもうっかりこの状況でヤーウィが口にしていれば地獄絵図であっただろう。そんな自らの危機を知らないまま、ヤーウィのトラウマは幻覚を見せ続ける。

「ミカさんが! ミカさんが原稿をボツに!」

びくっ、とフォメの背筋に寒気が走る。聞くのはもちろん、想像したくもない名前が聞こえた。幸いフルネームでなかった故にその場での失禁は逃れることができた、が。

「待て! 落ち着け! そいつの名前を吾輩の前で言うな! 吾輩もそいつが恐ろしいことは理解している!」

人が恐怖から覚める最も効果的な手法。それは、その隣で本人よりも恐怖することだ。この時、何故かフォメが激しい恐怖に駆られていることに気付いたヤーウィは、恐怖が覚めるどころか、何故かいたずら心のようなものが芽生えてしまう。

「どうしたんですか? フォメさん。そんなに怖いんですか、ミカ……」
「やめろ! やめてくれ! そいつの名前を言うな!」
「ん~?」

思わずにんまりと口角が上がり。そして。

――その時、ヤーウィに電流走る。

「なら、お願いがあります、フォメさん。先月の山羊の乳代、チャラにしてもらえませんか?」
「う……わ、わかった! そのくらいならいいから! だから!」
「いっそ今月もチャラにしてもらえません?」
「構わない!」
「なら、もうフォメさんの山羊、俺にくれませんか?」
「そいつの名前を呼ばないというならなんでもくれてやる!」
「なんでも?」
「なんでもだ!」
「なら、フォメさんが隠しているへそくりも?」
「もちろんだ!」

何故かはわからないが、フォメさんがミカさんの名前が怖く、この名前を出して脅せば本当に全財産を差し出すほどらしい。これは面白い発見だ。余った銅板があったら記録しておこうかなと思うものの、あくまでフォメという男一人のレアケースということを考えると、いかに面白くとも高価な銅板の無駄遣いだ。

さて。いろいろくれるとは言え、流石にヤーウィも悪人ではなく、ここまでのことはすべて冗談でしかない。だが、折角だ。何か、小さなお願い程度ならば。

「なら、俺の代わりにこの先を書いてくれませんか?」
「その程度ならお安い御用だ。一晩で全文仕上げてみせよう」

一晩。思わず笑いがこぼれてしまうほどの無理を口にする。

「いやいや、無理を言うものじゃないでしょう。そんな約束をしてしまった日には、ぎりぎりになってやはり無理だったと悟り、何か悪いものに助けを乞うハメにもなりますよ」
「ん、いや、というか、むしろ吾輩が……」
「あー、はいはい。冗談! ここまで全部冗談です! だから今度、銅板1枚! 1枚だけ手伝ってください! ね?」

そう言った時にはもう日は沈みかけ。明日お願いします、というつもりだったものの、生真面目なフォメはそうは受け取らず。結果、一人ヤーウィが家に戻って寝た後の話。こっそり家に忍び込んだフォメはせっせと銅板を掘っていた。

フォメをしても思う。なんと自分は惨めなんだ。人間はこんなにも愚かだというのに、そんな愚者にいいように扱われてしまう。本当に惨めだ。そうして自分を卑下する思いが、涙と共に銅板に刻まれていく。

『主なる神はへびに言われた。おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう』

ミカの朝は早く、夜も早い。早寝早起きは勤勉のコツ、というのが彼女の信条だった。残った仕事があっても、無理に夜遅くまで起きてこなすのではなく、あえて、寝る。それは決して怠惰の心ではなく、常に高いモチベーションで仕事をこなすことで質を高め、結果的に最後には労働時間も少なく済むという、優れたメリハリの形だ。

とはいえ、遅くまで働く同僚を見下すことはない。その労働に対する責任感は賛美に値する。故に、もしも宮廷で遅くまで働く者を見かけた場合、そっと夜食を用意し、その努力を褒め称えた後で、効率的に考えれば休むべきだというのが彼女のやり方であり、そのスタンスをもって宮仕えの長いものはミカを良い上司だと尊敬している。

しかし、昨今はそうして夜遅くまで働く者はめっきり見られなくなった。それはミカの思いが伝わったから、ではなく、単純に新しく王宮で働く者に熱意がなくなったからだった。サボることばかりを考え、何気ない自分の目にすら怯える。知識もなく、もちろん、仕事の質も低い。そんな者たちが増えたのは、一重に、この国に満ちていた偉大な王の威光が消えていった結果でしかない。それは街の中でも同じだ。

故に、この時間にあくびをしながら歩く者を見かければ、趣味が悪いとはわかりつつも見下し気味にもなってしまう。あんな山羊の頭のような被り物をして、一体どんな悪辣な淫行で夜を過ごしたのだろうかという想像も止まらない。もしも自分に権力があったのならば、ああいった民は厳しく拷問するべきだと主張するだろう。その結果、最悪本人が死んでも構わないとすら感じてしまう。まぁ、実際のところ、それを一度許可してしまえば、どこかで制御できないところまで暴走してしまうのだろうが。どんな愚かな人間が居たとして、それを裁く人間もまた愚かであることに変わりはないのだから。

そんなことを考えながら暖簾をくぐると、そこにはまだ寝ているヤーウィと、しっかりと仕上げられた銅板が置かれていた。想像通り、あの知恵の実の伏線が回収されている。やはりこの男は賢く、知識もある優れた作家なのだと、どこか自分すらも誇らしくなってしまう。なにより、仕事を終えてしっかり寝るその姿こそ、素晴らしい人間の証拠なのだ。

「締め切りは次の種蒔きです。しかし決して急がず、効率的に、これからもよろしくお願いします」

彼を起こさないように小さくつぶやき、小脇に銅板を抱えたミカは宮廷へと戻る。彼女は知らない。人の愚かさを。そして、すべての責任を押し付けられ、いいように扱われる悲しき存在を。もしも彼らがそんな人間に向かってかける言葉があるとすれば、それはおそらく。

「悪魔め……」

被り物と思われていた山羊の目からは、一筋の涙が流れていた。

◯推奨検索キーワード
・ギルガメッシュ叙事詩
・ソロモンの小さな鍵
・ギガス写本
・魔女狩り

◯原文
1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
16 つぎに女に言われた、/「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、/彼はあなたを治めるであろう」。
17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。
19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。
21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。


■創世記4章
深く考えることができる思慮深さと、思考の材料となる知識の多さ。ほとんどの状況において、それらは良い結果を導く。しかし、時として、他所から見れば理解できないほどの間抜けを見せてしまうこともある。

『主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」』

受領した4章の銅板は、早速宮廷の中で読み回された。そして誰もが、これは歴史で最初に起きた人間による殺人だと解釈する。カインは白を切っているが、2人しかいない登場人物の片方でいなくなった状況、傍目に見てカインが犯人であることは明白だ。しかし、この状況で唯一悩んでいたのがミカだった。

(アベルを殺したのは誰なのだろうか。カインは知らないと言っている)

所謂、深読みというものである。

(登場人物は2人。単純な推理で導き出される犯人はカイン。だが、本当に?)
「ミカさん!」

いつにましての厳しい表情で銅板を睨みつけるミカ。その背中から声をかけた同僚は、振り返ったミカの顔のあまりの恐ろしさに一瞬息を飲むことになるが、幸いなことにこの同僚はミカの本質を正しく理解できている。

「お、お仕事お疲れ様です。残りは私が受け持ちますので、外へ行かれては? 祭りもそろそろ大詰めですよ」
「……そうですね。ありがとうございます」

過ぎ越しの祭。かつて異国で奴隷の扱いを受けていた先祖が、預言者と共に海を割り、この地にたどり着いたという故事に纏わる祭りである。王宮の外は普段の様相とはまるで異なる賑わいを見せていた。

「いやぁ、街中が遊園地みたいだねぇ」
「ユウエンチ?」
「僕の地元で、それは夢のような場所なのさ」

ヤーウィはユウジと共に祭りを楽しんでいた。あれからしばらくユウジは忙しいままだったようだが、先日すべての仕事を片付け、しばしの休暇を与えられたという。なお、本人曰く「ちょっとチートした」とのことだったが、よく意味がわかっていない。

「そういえばユウジ、その服は?」
「あぁ、これかい? めでたい日だから、正装と思ってね。僕の国の冠婚葬祭で着る服さ」

スーツ、という名前らしいその服には、とても良い質の布が使われており、相変わらずユウジの国の職人の技術力には舌を巻くしかない。

「僕の地元でも、そっくりの祭りがあってねぇ。この国の人たちが僕の国にたどり着き、僕らの国を作ったみたいな論を話す人もいるのさ。ま、あまり信じられていない話なんだけどね。証拠となる祭りの日が同じだという説も、実のところ、こちらの新しい暦の日がたまたま同じだったという話だからね。それでも実際に見ると本当にそっくりだから、やはり何かの関わりはあるのかもしれないなぁとは思うね」

ユウジの地元は、遥かな東方で、さらに海を渡った先にあるという。そんなところまで自分たちの先祖がたどり着けたかどうかは、確かに眉唾ものではある。

「おっと、そうだ。人と約束があるんだった。失礼するよ。お互い祭りを楽しもう」

手を振ってユウジと別れ、一人祭りを楽しむ。ふと目が王宮を捉え、こんな日でもミカさんはまだ仕事を続けているのだろうか、などと考えるヤーウィである。

一方、王宮を出てふらふらと歩くミカ。多少の失望が含まれているとはいえ、大切な民である。その民達が祭りを楽しむ様を見れば、普段の厳しい表情も自然と崩れてくる。が、そんな中。ひと目を気にしつつ何かを抱え、建物の影に紛れる黒尽くめ男の姿が目にとまる。ミカは犯罪の匂いを察する。身を壁に寄せ、こっそりと様子を伺うと、反対から山羊の被り物で顔を隠した男が近づく。

「約束のブツは?」
「ここに1ケース」
「確かに」
「だが約束してくれ。空き缶は捨てずに僕の家に届けてくれ。これは本来、ここにあってはいけないものだ」
「了解している」

それは明らかに非合法な取引の現場だったが、具体的に何を取引しているのかよく見えない。もう少しよく見えるようにと取引に集中していたミカは、背後からやってくるもう1人の男に気付くことができなかったのだった。

「ミカさんが、死んだ? 嘘ですよね?」

翌日、次の章を王宮に運んできたヤーウィは、耳を疑った。昨晩、祭りの中でミカさんが死んだというのだ。何故。いや、まさか、殺されたのか。だとしたら、誰に? 続けざまに質問を投げかけるが、宮仕えたちの反応は誰に聞いても曖昧なものだった。

(なにかおかしい)

その様子からヤーウィは、彼らが何かを隠しているのではないかと疑いを持ち始める。ミカさんの亡骸を見せてくれと要求するが、その死体はもう埋葬済だという。やはりおかしい。まるで、事前にミカさんが死ぬことを知っていたかのようだった。

この時、ヤーウィは王宮の中すべてが曖昧に見えていた。白でもない、黒でもない、曖昧な灰色。まるでその灰色が、自分の頭を支配しているような奇妙な感覚を覚えた。それは、普段訪れる電撃的なひらめきとは異なる。深く深く、思考が深淵に落ちていく感覚。ミカさんが本当に死んだというなら、その犯人は誰なのか。ひとりひとりに話を聞くも、誰も怪しいようで、誰も怪しくないような奇妙さ。もしかすると、この王宮の全員が間接的にミカさんの殺人に関わっており、それぞれが自分の罪を隠した結果、これが事件として複雑化しているのではないだろうかという、突拍子もない考えすら出る始末だった。

結局、犯人の特定はできず。葬儀にすら出ることができず、あの王宮の誰がどのようにミカさんの死に関わったのか、まるでわからないまま、一夜が経った。

「随分伸びていますね。鬱陶しくはありませんでしたか?」
「あぁ、そうですね。夏からだいぶ鬱陶しかったのですけど、なかなかタイミングがなくて。それで、いろいろあって、不本意ながら暇になってしまったもので来られたのです」

ヤーウィは長く伸びた髪を切るため、ミンスの元を訪れていた。ミンスは、髪を切ることを生業にしているという不思議な男だった。彼の不思議はその奇妙な仕事だけに留まらない。彼の家の裏庭には、奇妙な生き物の群れが飼育されている。ミンス曰く、オマキザルというサルであり、とても賢いらしい。

「彼らはとても賢くてね。面白い実験ができるのだ。見ていきなさい」

髪を切ってもらった後、裏庭に案内される。オマキザルの群れの前にミンスが姿を表すと、餌を求めて彼の元に集まる。ミンスは、そこで用意された果実を渡す、と、思いきや。彼らに何か石のようなものを配り始めた。

「それは?」
「ただの石だが、私はトークンと呼んでいる。私はこれで、彼らが『通貨』を認識できるかの実験をしているんだ。実際に、彼らは既に、トークンと果物と交換できることは認識に至った。そして、群れの中では食料や異性ではなく、トークンを奪い合うようにまで変化した。驚くべきことに、そっくりの石を拾ってくるという、ニセ金作りを考えるものまで現れたんだ。面白いだろう?」
「へぇ、それは面白いですねぇ。まるで、オマキザルというサルの群れを用いて、文明の発展を再現しようとしているみたいですね。サルと人間は根本的に違う生き物ですけど、あなたの実験が進めば、サルは人間に近付けるかもしれないとすら思います」
「ははは。確かに、彼らが発展を遂げることで人間になるまでは、とても考えられないだろうがね。もしもそうだとするなら、我々は大昔、サルだったということになるのだから」
「面白い冗談ですね」

そんな他愛のない会話の中で、ヤーウィには2つの異なる方向性の疑問が浮かんだ。彼はまず、その片方を口にする。

「ミンスさん、トークンによって彼らが通貨の概念を完全に理解したら、という過程の話なのですが、気になりませんか? 彼らが行う最初の『仕事』は、何なのでしょうか?」
「む」

ミンスは一瞬言葉に詰まる。その発想は自分にはなかった。確かに気になる。少なくとも彼らは、ニセ金作りのマネごとでトークンを稼ごうとしはじめた。ニセ金作りは仕事とは言えないが、既に彼らには金を稼ごうという概念がある。だとすれば、他人に変わって何かをすることで、その代償で相手からトークンをもらおうとする、商売が誕生するのはもう間近だと言える。その仕事は、何なのだろうか?

「農耕や牧畜、石切りではない。それらは技術と道具が必要だ。つまり、技術がなくとも、道具がなくとも、身一つで可能な仕事……それは……」
「ミンスさんに飼われているわけですし、髪を切る仕事かもしれませんね。あぁ、彼らで言うなら、毛づくろいってところでしょうけど」
「ははは、確かに、その可能性は高いだろうな。ありがとう、君のおかげで、彼らを観察する新たな楽しみが生まれたよ」

にこやかな笑みを持って返すミンス。ヤーウィは、自らの思いつきが相手に楽しみを提供できたことがとてもうれしかった。と、ここでさらに、思い浮かんでいた2つ目の疑問をそのまま口に出す。

「ところで、彼らは人間を襲うことはないのですか?」

ふむ、と一呼吸をおいてミンスが答える。

「基本的には友好的だが、サルの中には襲う個体もいたという。もしも彼らが殺人を犯したとすれば、人を殺すのは基本的には人だけという常識の中では、事件が解決できない迷宮に入ってしまうかもしれないな。特に、オランウータンというサルの話は有名だ」

オマキザルが人を襲う。まさか、ミカさんを殺したのは、彼らのうちの一体なのか? ありえない話にも思うが、可能性はある。これからミカさんの死の真相を探るにあたって、自分はあらゆる可能性を考えなければいけないのだ。

そう決意を新たに、髪を切ってもらった代金を支払い、ヤーウィは王宮に戻る。すると、どうやら門の前が騒がしい。

「出ていけ! 二度と敷居をまたぐな!」

門番に付き飛ばれた男は、一度門番を睨みつけ返すも、すぐに目を伏せ、小さい舌打ちの後によろよろと立ち上がり、その場を去っていった。すれ違いざまにヤーウィは、男からかすかで爽やかなハーブの香りを覚えた。

「あの男は?」

尋ねられた門番は、軽いため息と共に答える。

「宮仕えだった者だが、王子に淫行を働こうとした罪で追放となったのだ」
「淫行って、王子に? 彼は、男ですよね?」
「あぁ、とんだ変態だ。優男でのみ己を屹立させるそうだ」

そんな人間もいるのかと、軽蔑の前に驚きが発生した。しかし、そこでふと考える。優男が好みなら、ミカさんはまさにあの男のタイプではないだろうか。あの男は、ミカさんに手を出そうとした。ミカさんは当然断る。それに激昂し、ミカさんを勢い余って殺してしまった。そして宮仕えたちは、同じ宮仕えの犯罪を隠蔽しようとしていた。それが昨日の奇妙な違和感だった。そう考えると、辻褄があってしまう。

「それで、今日は何の……」
「すみません! また来ます!」

踵を返し、ヤーウィは男を追う。男は既に街の喧騒に紛れていた。どこに行った? もしもやつがミカさんを殺した犯人ならば、短絡的思考の持ち主である可能性が高い。そんな人間が王宮を追放されたのなら、その苛立ちを誰かに向けてしまうことは想像に容易い。早く見つけなければ、まずいことになるかもしれない。

その時だった。女性の悲鳴が届き、続いて大勢の慌てる声が続く。遅かったか! 駆け出すヤーウィ。しかし、その前で暴れていたのはかの男ではなく、ミンスの元から逃げ出したのだろうオマキザルの群れだった。

「ミンスさんの!?」

混乱したオマキザルの群れは先程の落ち着いた様子からは考えられない。何かあったのだろうか。男も気になるが、ミンスさんも気になる。行き先のわからない男よりも、まずは。そう思い、ミンスさんの仕事場に向かう。近づくにつれ、かすかに感じられた異臭が強くなっていく。

それは、血の匂いだった。

気付きたくもないことに気付き、自然と足が早くなる。様々な想像が頭をかけめぐる。まさか、オマキザルが本当に殺人を? だとしたら、彼は無事なのか。

「ミンスさん!」

無事を祈りながら飛び込んだそこでは、凄惨な光景が広がっていた。腹を切り裂かれたオマキザルは、明確に絶命している。飛び散った血があたりを汚し、その中央で、手を真っ赤に汚したミンスの姿が呆然としていた。

「な、あ、あなたは……」
「売春婦だったんだ」
「え……?」
「原初の商売は、売春婦だったんだ」

今、このような状況でなければ、その事実の面白さにヤーウィの胸も高鳴っただろう。身ひとつで可能な仕事としての売春は、原初の商売としてありえた話だ。しかし、今この状況では、その胸の鼓動は全く異なる意味を持っていた。

「だから……何故……?」
「売春婦だったんだぞ! 穢らわしい売女! それが、人間の最初の商売だと!? 認められるか! 認められようはずがないだろう! だから……」
「だから……?」
「だから切り裂いたのだ! 昔と同じように! あの街でしてきたように!」

意味が、わからない。しかし、わかることがひとつ。今、目の前にいる男は。

「正気じゃない」

その言葉に、びくりとミンスの背中が震える。

「あぁ、そうだ。そうだとも。だから……」

商売道具であるハサミを取り、ゆらりと立ち上がったミンスは、まるでもう片手で数えられる数は殺してきたのだという冷製さと巧みさ、そして、速さを持って、居合わせた目撃者たるその男の腹にハサミを突き刺し、そのまま、切り裂いた。

目が覚めたのは、まだ夜だった。水を一杯。そう思って体を起こそうとした時、額が壁にぶつかった。寝返りをうとうとしたものの、左にも右にも壁がある。そして、今が夜で暗かったのではなく、小さな箱に閉じ込められていたことで暗かったのだと理解する。同時に感じられたのは、土の匂い。まさか、自分は、棺に入れられ、埋葬されてしまったのだろうか?

「誰か! 誰かいませんか!?」

可能性は考えられた。死んだと勘違いされ、まだ生きているのに埋葬されてしまった人の噂は聞こえていた。もしもそんなことが起きてしまったと考えてしまい、恐怖を想起してしまったことは何度もあった。そんな「万が一」のための対策として、事前に自分用の棺を用意し、抜け出せる仕掛けを準備していた。だが運悪く、その棺が使用されなかったようだ。だとすれば、自分は、ここから出ることができない。

「そんな……」

私はまだ生きている。まだ死んでいない。なのに、もうここから出ることはできない。このまま、私はこの地の底で、誰にも気付かれることなく息を引き取る。まだ生きているのに。まだ何もできていないのに。まだ国にかつての栄光を取り戻せてもいないのに。

「早すぎる!」

そんな叫びも、誰にも届くことなく。どうしようもない恐怖が感情をぐちゃぐちゃにしていき、これまでずっとつけていた強がりの仮面が、涙に溶けていった。

「ミカさん!」

背中から声をかけた同僚は、振り返ったミカの顔が涙でぐちゃぐちゃになっていたことに息を飲む。あのミカさんにが、涙を? 一体何が? 普段の彼女の凛々しい顔をよく知っているからこそ、それは明らかな異常だと理解し、続く言葉が見つからなくなる。

「あ、あの、えっと、その……」
「……申し訳ありません。悪い夢を見ていたようです。少し、外に出てきます」

すべて夢だった。それにはすぐに気付く。だが、自分が生きたまま埋葬されたという恐怖の記憶は、確かなものとして感じられた。

考え過ぎだ。深読みのしすぎだ。王には何度も、そう窘められている。事実、自分にそういった気性があることは理解している。しかし、普段から想像し、考えることで、得られるものは少なくはない。誰から言われても。何度言われても。深く、どこまでも深く考えるのが、私のスタンスだ。

深く深呼吸をし、心を落ち着け、外へ。過ぎ越しの祭りは最高潮であり、普段とはまるで違う喧騒の街があった。ふらふらと歩く中、ふと一人の男の姿が目にとまる。

「ん……うげぇっ!? み、ミカさん!? てっきり仕事しているのだと!」

ヤーウィだった。その慌てように、思わずため息が出る。

「締め切りは次の種蒔きです」
「ひっ……」
「しかし、今日くらいは、まぁ、休むべきでしょう。過ぎ越しの祭りですからね」

その言葉に、相手もほっと胸を撫で下ろす。

「あ、ありがとう、ございます」

この男が自分に、締め切りに、ボツに怯えているのは理解している。しかし、なんだかんだでおそらく締め切りは守られるだろうという、裏付けのない確証がある。だからこそ、こうして祭りの日にハメを外すくらい、許しても問題ないだろうと判断した。

「あ、そうです。ひとつ、聞きたいことがありました」
「な、なんでしょうか……?」

恐る恐るといった様子のヤーウィに、そんなに怖がらないでもらいたいと軽く手でジェスチャーし、言葉を続ける。

「アベルを殺したのは誰だったのですか?」

その質問に、ヤーウィはきょとんと呆ける。

「あの、ミカさん? ミカさんって、もしかして……バカだったんですか?」

だって、登場人物は2人しかない。話の構文的にも、殺したのはカインでしかない。何故それがわからないのか。まさか、本当にバカなのか? そんな心の底からの素直な言葉を向けられたミカは。

「……締め切りは次の種蒔きです。今日遊んでいるということは、厳守できるという確固とした自信があるということですね?」

歴史上最初の殺人。それは幸いにも、彼女の中でも迷宮入りを逃れることができたのだった。

◯推奨検索キーワード
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◯原文
1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。
12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。
13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。
16 カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
17 カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。
18 エノクにはイラデが生れた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。
19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった。
20 アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。
21 その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。
22 チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。
23 レメクはその妻たちに言った、/「アダとチラよ、わたしの声を聞け、/レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、/受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
24 カインのための復讐が七倍ならば、/レメクのための復讐は七十七倍」。
25 アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。
26 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。
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