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第2章 2学期と思春期の始まり
66 最適解は「ありがとう」
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藤城皐月と入屋千智の二人は豊川稲荷の表参道を歩いた後、皐月の家に向かった。めったに車の通らない細い路地に皐月の住む小百合寮はある。
昭和レトロの木造二階建ての建物には板塀があり、そこから松の枝が道にはみ出している。その枝ぶりが庇のようになっていて、陽の光を遮っている。
「ここが俺ん家」
小百合寮は廃業した旅館だった古びた建物で、母の小百合がここを借りて芸妓の置屋にしている。千智にこの辺りはこういう家が多かったことや、隣の家も旅館だったことを話すと興味深そうに聞いてくれた。
「小百合寮って……」
玄関の行燈看板に書いてある文字を見て千智がつぶやいた。
「小百合寮は置屋の屋号で、小百合ってのはママの本名。屋号は芸名で名付けるパターンの方が多いんだ。でも、ママの芸妓での芸名は百合だから、そうすると百合寮になっちゃうじゃん。なんか言いにくいよねってことで、本名の小百合寮にしたんだって」
千智が緊張し始めていることを皐月は察していた。
「置屋っていっても、中は普通の家だよ。普通じゃないか……古い家だし。でも生活感だって友達の家と全然変わらないから、千智を失望させちゃうかもしれないな」
「そんな、失望なんてするわけないじゃない」
「ほんと、マジで普通の家だからね。緊張なんかしなくていいよ。じゃ、入ろう」
玄関の格子戸を開いて皐月から中に入り、千智を招き入れた。玄関と取次を仕切っているガラス戸の奥から三味線の音がかすかに聞こえてくる。
「この音色って三味線?」
「そうだよ。今日は検番じゃなく家で稽古してるみたいだ」
「すごい……なんか昔の映画みたい」
旅館だった建物なので、小百合寮の玄関は一般家庭よりも少し広い。玉砂利洗い出しのモルタルの三和土が和風旅館の名残を感じさせる。
シューズボックスのような扉のない、いかにも下駄箱といったところに母の仕事用の草履やパンプス、スニーカーなどが適当に入れられている。祐希や頼子の履物が追加されたので、無駄に大きかった下駄箱も少しは賑やかになった。
玄関に呼び鈴はあったが鳴らさず、皐月はガラス戸を開け、「ただいま」と大きな声で帰宅を知らせた。小百合がきかせておいてくれた冷房が気持ちいい。
三味線の音が止み、奥の部屋から母の小百合が出てきた。千智が来ることを伝えていたので、普段よりも小綺麗にしている。
「ただいま」
「おかえりなさい。そちらのお嬢さんが千智さん?」
「はい。入屋千智です。初めまして」
「今日は遊びに来てくれてありがとう。ゆっくりしていってね。お茶菓子を持ってくるわね」
小百合は営業スマイルを保ったまま、台所へと消えていった。
「今のが俺のママね」
「先輩に似て美人ね」
「なんだ? そんな風に言われたのは初めてだ。お母さんに似てかわいいお坊ちゃんね、って見え透いたお世辞なら言われたことあるけど」
「それ、お世辞じゃないと思うよ」
千智に炬燵テーブルの長辺の奥の席に座るよう促し、皐月はその隣に座った。腰を下ろすと千智と言葉を交わす間もなく、小百合と及川祐希の母の頼子が紅茶とケーキを持ってきた。
「はい、どうぞ。ねえ皐月、私たちも一緒にお茶してもいい?」
「えっ?」
小百合はもうただの母親の顔に戻っていた。頼子も楽しそうに微笑んでいる。千智の方に視線を投げると小さく頷いた。
「いいよ」
小百合と頼子ははしゃぎながら台所に引き返した。これでは小学校の女子たちとノリが変わらない。
「なんか、こんなことになっちゃって悪いね」
「いいの。たぶんこういう展開になるんじゃないかなって思ってたから。それに本物の芸妓さんとお話しするのって初めてだから、ちょっとこうなることを期待していたの」
「芸妓っていっても、家にいるときはただのおばさんなんだけどね」
「嘘! 綺麗なお姉さんだよ」
小百合と頼子はすぐに居間に戻って来た。
「用意がいいね」
「私たちはあなたに断られたら、台所で頼子と二人でお茶するつもりでいたのよ」
小百合は皐月の横に座って、頼子は隣の席に座った。二人の飲み物は紅茶ではなくコーヒーだった。香りがいつものコーヒーと違う。
「コーヒー、変えたの?」
「よくわかったわね。頼子が豆を買って来てくれたから、今日はインスタントはやめてドリップにしたの。それより私たちのこと、千智さんに紹介してよ」
「うん。これが俺の母親。名前はさっき言ったから省略。芸妓をしていて、芸名は百合。これもさっき言ったか」
「もう話してくれていたのね」
「あちらの方は及川頼子さん。祐希さんのお母さんで、母のお弟子さんとして、この家に住み込むことになったんだ。母の高校の同級生だよ」
「頼子です。よろしくね」
「初めまして。入屋千智です。よろしくお願いします」
「祐希からお話を聞いてるわ。写真も見せてもらったの。かわいらしい子だな~って思ったけど、実際に会ったらもっと素敵なお嬢さんね」
「いえ……そんな、全然です」
千智が顔をこわばらせている。豊川稲荷で祐希に容姿を褒められた時も顔を曇らせていた。皐月にはこの心理がよくわからない。小百合の方をちらっと見ると目が合った。
「千智さん。こういう時はありがとうございますって、笑顔で応えておけばいいのよ。変に卑屈になっちゃダメ。堂々としていた方が印象が良くなるわ」
「はい」
「この返しは私のところに来た若い子に最初に教えていることなの。殿方から下心のある言葉やお世辞を言われた時や、同性から卑屈な気持ちをぶつけられた時でもね、笑顔でありがとうって言うの。堂々としていれば威厳が生まれるから、攻撃されるようなことはないわ」
「はい」
小百合の言葉は千智に届いているようだ。表情が少し和らいでいる。
「そうそう。千智はキレイなんだからお高くとまっていればいいんだよ」
「ちょっと先輩、何言ってるの! お母さんの前で」
「皐月、それってあなたの趣味なんじゃないの? アニメでもそういうお高くとまっているキャラの子が好きって言ってたよね」
「なんで俺の恥ずかしい嗜好がバレてるんだ?」
「普段の会話からあなたの女性の好みをリサーチしてたのよ。これでも一応プロなんだからね、私は」
「息子相手に芸妓みたいなことするなよなぁ……」
「芸妓ですぅ~」
千智がくすくすと笑っている。やっとこの場で千智の笑顔が見られたので、皐月はほっとした。
「千智はかわいいけど、キレイ系だよね。俺ってアイドルの動画とかよく見てるけど、千智レベルの子ってそんなにいないよ」
「芸妓でもいないわね」
藤城親子の視線が千智に集まり、一瞬の間が生まれた。
「ありがとうございます」
「千智、合格!」
まだ少し表情が硬いけど、千智はきっと変わってくれると皐月は信じることにした。時々見せる千智の影についてはまだ触れないでおこうと思った。
昭和レトロの木造二階建ての建物には板塀があり、そこから松の枝が道にはみ出している。その枝ぶりが庇のようになっていて、陽の光を遮っている。
「ここが俺ん家」
小百合寮は廃業した旅館だった古びた建物で、母の小百合がここを借りて芸妓の置屋にしている。千智にこの辺りはこういう家が多かったことや、隣の家も旅館だったことを話すと興味深そうに聞いてくれた。
「小百合寮って……」
玄関の行燈看板に書いてある文字を見て千智がつぶやいた。
「小百合寮は置屋の屋号で、小百合ってのはママの本名。屋号は芸名で名付けるパターンの方が多いんだ。でも、ママの芸妓での芸名は百合だから、そうすると百合寮になっちゃうじゃん。なんか言いにくいよねってことで、本名の小百合寮にしたんだって」
千智が緊張し始めていることを皐月は察していた。
「置屋っていっても、中は普通の家だよ。普通じゃないか……古い家だし。でも生活感だって友達の家と全然変わらないから、千智を失望させちゃうかもしれないな」
「そんな、失望なんてするわけないじゃない」
「ほんと、マジで普通の家だからね。緊張なんかしなくていいよ。じゃ、入ろう」
玄関の格子戸を開いて皐月から中に入り、千智を招き入れた。玄関と取次を仕切っているガラス戸の奥から三味線の音がかすかに聞こえてくる。
「この音色って三味線?」
「そうだよ。今日は検番じゃなく家で稽古してるみたいだ」
「すごい……なんか昔の映画みたい」
旅館だった建物なので、小百合寮の玄関は一般家庭よりも少し広い。玉砂利洗い出しのモルタルの三和土が和風旅館の名残を感じさせる。
シューズボックスのような扉のない、いかにも下駄箱といったところに母の仕事用の草履やパンプス、スニーカーなどが適当に入れられている。祐希や頼子の履物が追加されたので、無駄に大きかった下駄箱も少しは賑やかになった。
玄関に呼び鈴はあったが鳴らさず、皐月はガラス戸を開け、「ただいま」と大きな声で帰宅を知らせた。小百合がきかせておいてくれた冷房が気持ちいい。
三味線の音が止み、奥の部屋から母の小百合が出てきた。千智が来ることを伝えていたので、普段よりも小綺麗にしている。
「ただいま」
「おかえりなさい。そちらのお嬢さんが千智さん?」
「はい。入屋千智です。初めまして」
「今日は遊びに来てくれてありがとう。ゆっくりしていってね。お茶菓子を持ってくるわね」
小百合は営業スマイルを保ったまま、台所へと消えていった。
「今のが俺のママね」
「先輩に似て美人ね」
「なんだ? そんな風に言われたのは初めてだ。お母さんに似てかわいいお坊ちゃんね、って見え透いたお世辞なら言われたことあるけど」
「それ、お世辞じゃないと思うよ」
千智に炬燵テーブルの長辺の奥の席に座るよう促し、皐月はその隣に座った。腰を下ろすと千智と言葉を交わす間もなく、小百合と及川祐希の母の頼子が紅茶とケーキを持ってきた。
「はい、どうぞ。ねえ皐月、私たちも一緒にお茶してもいい?」
「えっ?」
小百合はもうただの母親の顔に戻っていた。頼子も楽しそうに微笑んでいる。千智の方に視線を投げると小さく頷いた。
「いいよ」
小百合と頼子ははしゃぎながら台所に引き返した。これでは小学校の女子たちとノリが変わらない。
「なんか、こんなことになっちゃって悪いね」
「いいの。たぶんこういう展開になるんじゃないかなって思ってたから。それに本物の芸妓さんとお話しするのって初めてだから、ちょっとこうなることを期待していたの」
「芸妓っていっても、家にいるときはただのおばさんなんだけどね」
「嘘! 綺麗なお姉さんだよ」
小百合と頼子はすぐに居間に戻って来た。
「用意がいいね」
「私たちはあなたに断られたら、台所で頼子と二人でお茶するつもりでいたのよ」
小百合は皐月の横に座って、頼子は隣の席に座った。二人の飲み物は紅茶ではなくコーヒーだった。香りがいつものコーヒーと違う。
「コーヒー、変えたの?」
「よくわかったわね。頼子が豆を買って来てくれたから、今日はインスタントはやめてドリップにしたの。それより私たちのこと、千智さんに紹介してよ」
「うん。これが俺の母親。名前はさっき言ったから省略。芸妓をしていて、芸名は百合。これもさっき言ったか」
「もう話してくれていたのね」
「あちらの方は及川頼子さん。祐希さんのお母さんで、母のお弟子さんとして、この家に住み込むことになったんだ。母の高校の同級生だよ」
「頼子です。よろしくね」
「初めまして。入屋千智です。よろしくお願いします」
「祐希からお話を聞いてるわ。写真も見せてもらったの。かわいらしい子だな~って思ったけど、実際に会ったらもっと素敵なお嬢さんね」
「いえ……そんな、全然です」
千智が顔をこわばらせている。豊川稲荷で祐希に容姿を褒められた時も顔を曇らせていた。皐月にはこの心理がよくわからない。小百合の方をちらっと見ると目が合った。
「千智さん。こういう時はありがとうございますって、笑顔で応えておけばいいのよ。変に卑屈になっちゃダメ。堂々としていた方が印象が良くなるわ」
「はい」
「この返しは私のところに来た若い子に最初に教えていることなの。殿方から下心のある言葉やお世辞を言われた時や、同性から卑屈な気持ちをぶつけられた時でもね、笑顔でありがとうって言うの。堂々としていれば威厳が生まれるから、攻撃されるようなことはないわ」
「はい」
小百合の言葉は千智に届いているようだ。表情が少し和らいでいる。
「そうそう。千智はキレイなんだからお高くとまっていればいいんだよ」
「ちょっと先輩、何言ってるの! お母さんの前で」
「皐月、それってあなたの趣味なんじゃないの? アニメでもそういうお高くとまっているキャラの子が好きって言ってたよね」
「なんで俺の恥ずかしい嗜好がバレてるんだ?」
「普段の会話からあなたの女性の好みをリサーチしてたのよ。これでも一応プロなんだからね、私は」
「息子相手に芸妓みたいなことするなよなぁ……」
「芸妓ですぅ~」
千智がくすくすと笑っている。やっとこの場で千智の笑顔が見られたので、皐月はほっとした。
「千智はかわいいけど、キレイ系だよね。俺ってアイドルの動画とかよく見てるけど、千智レベルの子ってそんなにいないよ」
「芸妓でもいないわね」
藤城親子の視線が千智に集まり、一瞬の間が生まれた。
「ありがとうございます」
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