大戦乱記

バッファローウォーズ

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若き英雄

黒染という男

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 剣合国軍の備えが整う中、離散していた輙軍の兵達も徐々に覇攻軍本隊のもとに集結。
族長である輙之文も開戦を前にして覇梁ハリョウと面会し、今後の指示又は処罰を待つ身であった。

「半日も敵を足止めできないとは……分かっておいでですか輙殿。貴方の失態で今は我々が進退窮まっている事を」

 六華将ロッカショウ(覇攻軍を代表する六人の主将軍)の一人である黒染クロソメが得物の鉤槍をちらつかせながら輙之文を叱責する。
一流の武勇と軍師並みの知略を併せ持つ彼は覇梁の副将兼参謀を務めると共に監軍(諸軍の監察・査察を行い処遇を決める軍職)である。その冷酷無比な裁きは従属軍、弱者にとっては死刑宣告に等しく、強き者を正と捉える覇梁の考えに沿うものだった。

「弁明の余地もありません。この上は我らの命を持って敵の追撃を防ぎます。覇梁様方はその間に……」

 縮み上がった側近達に反して輙之文は平静であった。
非建設的な弱者の言い訳は黒染にとっての貴重な時間を奪う罪となり、敗北の罪によって殺される人質の数を無駄に増やす結果になる。かつて一人の敗将がその流れで一族皆殺しの処罰を受け、その現場にいた輙之文は同じ轍を踏むまいとしたのだ。
だが黒染にとっては敗者がどのような言動をとろうが敗者に変わりなく、その者の誠意など関係なかった。

「その間に……とな?よもや貴方は覇梁様に退けと言うのではあるまいな。貴方の落ち度で覇梁様の背を敵に晒せと」

「御尊名を汚す行為であることは承知の上で申しております。今ならば敵は疲れ切っており、我等の兵のみで敵の追撃を……えっ?」

 情けない言い訳の罪がないならば、他の罪を作るまでだった。
黒染は敗者の分際で身の程をわきまえない献策を行った罪として、鉤槍で輙之文の左耳を切り落とす。刃が風を切った音、肉を切られた痛み、流れ出る血は一切無かった。耳が地に落ちた音が無ければ輙之文は気付くことなく話し続け、もう片方の耳も失っていたに違いない。

「貴方の態度は不遜この上ないですね。せっかく私が温情をもって忠告したと言うのに全く耳を貸そうとしない。そんな貴方にはそれは二つもいらないでしょう」

 薄ら笑みを浮かべながら右足を蹴り出し、今しがた地面に接した耳の上に土をかける。

 この仕打ちに輙之文の側近達は恐れを超えた怒りを抱く。
いくら監軍であり六華将の一人であっても、人でなしが過ぎる。強大な力が戦を制し、世を動かす原動力と謳う事自体に過ちはないが、黒染の行いは立場と実力を笠に着た加虐性欲の表れに他ならない。

「お付の方々、えらく険しい顔付きですが……私の行いに何か至らぬ点でも?」

 笑みから一転。睨みを利かせる側近達を逆に睨み返す。妖狐の如く人間離れした、おおよそ人に向けるべきではない眼光は黒染を直視する者を射殺した。

 輙之文も肝を冷やし、心の内に抑えていた怒りの炎さえも消してしまう。
この男にはどんな対応をしようが無駄だと、名門貴族の餓鬼大将が実力だけで大人になってしまった様なものだと悟る。

「元を正せば貴方々の不甲斐なさが原因でしょう。私を責めるより先に誠意を示しなさい」

 輙之文達には最早、言われるがままに命を献上するしかなかった。
獣に人の言葉を使ったところで会話は成立せず、奪われる命が増えるだけだ。
輙之文は跪き、己の表情を隠すかのように頭を垂れる。他の者もそれに倣い従順たる姿勢を演じざるを得なかった。

「……仰る通りです。全ては我々の脆弱さにあります。しかしながら私は無学の若輩者故、如何にすれば我々の誠意が伝わるかが分かりません。何卒、御教授下さい」

 生を諦めながらも声に敬意の念を込める事は、その想いが偽りであったとしても辛いものだ。実力主義の強者政権の下では大半の弱者は望まぬ戦を任され、望まぬ死を命じられる。

 だが、彼等は決して弱くはない。
輙之文はナイトにこそ敗れたが、耐え難き屈辱に耐えられるほどに強い。惜しむらくはサキヤカナイの将達が唯一人もその強さを知らぬ事だ。

「……武力も知恵も無いとは呆れるしかありませんね。残兵も一千足らずでは学識豊かな私でも教えられるものが……」

「兵を再編してひたむきに攻めよ」

 押し黙り、黒染と輙之文のやりとりを歯牙にもかけなかった覇梁がその口を開いた。

「うぬの残兵には騎兵が多い。歩兵中心で守りの陣を敷いている奴等に対して少しは有利に挑めるであろう。うぬを先頭に我が軍三万が続く。仮に戦死しても丘を奪い返すための礎石となる働きを示せば、うぬ等の罪は無きものとし、遺族となる人質は全て解き放とう」

 意外な大将命令に黒染は言葉を失う。長らく覇梁の傍らにありながら、これほど弱者に気を掛ける姿を今まで見たことが無かったのだ。

 この言葉に輙之文は一縷の望みを見出す。
覇梁は黒染以上の実力主義者として知られる一方、交わした約定はそれが口約束の類であっても必ず守ると言った律義者の一面を持つ。偏にその律義さが彼のカリスマであり、多くの従属勢力を従える所以であった。

「承知いたしました。直ちに兵をまとめて丘攻めに移ります」

 言質とも言える大将命令及び決定には黒染であっても逆らえない。

 思いがけない後ろ盾を得た輙之文は、深々と一礼を済ました後に自らが率いる兵達の下へ向かった。

「恩赦を与えて士気を奮わす。力だけではなく徳を示すことで一千の敗残兵を立派な尖兵に生まれ変わらせるとは……流石です覇梁様。私、また一つ学ばせて頂きました」

「ぬかせ」

「はっ?」

 黒染は胡麻を摺ったつもりも皮肉を言った訳でもない。純粋に覇梁の配慮に感服していた。それだけに返された言葉の意図を汲み取りかねたが、覇梁が今後の動きを指示すると納得の笑みを浮かべ、彼に対して胡麻を摺った。
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