【8話完結】魔力欠乏の義弟を救うため、魔族の末王子に嫁入りします

キノア9g

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第6話 幸福な檻と、満たされない器


 魔界に来てから、一ヶ月が過ぎようとしていた。
 窓の外には、今日も美しい紫紺の空と、二つの月が輝いている。

「あはは! まてまて~!」

 庭から聞こえる無邪気な笑い声に、俺はテラスから身を乗り出した。
 視線の先には、花畑を走り回る優斗の姿がある。
 優斗の足は地面からふわりと浮き上がり、その周囲にはキラキラと光る小さな妖精たち――光の精霊が楽しそうに飛び回っていた。

「……すごいな、優斗は」

 俺はホットミルクが入ったマグカップを握りしめながら、白いため息をついた。
 この一ヶ月、優斗の回復ぶりは目覚ましいものだった。
 ただ元気になっただけではない。この魔界の環境が肌に合いすぎたのか、無自覚に精霊と心を通わせ、魔法のような力さえ発揮し始めている。

 あの日、俺が作ったオムライスをきっかけに、グレンとの距離も縮まった――はずだった。
 確かに食事の時間は楽しい。彼は俺の料理を「美味い」と食べてくれるし、優斗も笑顔だ。
 けれど、食事は一日三回だけ。
 それ以外の膨大な時間が、今の俺には重くのしかかっていた。

「相変わらず、出鱈目なガキだ」

 背後から低い声がして、振り返るとグレンが立っていた。
 公務の合間なのだろう、豪奢な軍服を着崩した姿は、息を呑むほど凛々しい。

「グレンさん。……優斗、また浮いてますね。あの子、本当にこの世界に『選ばれている』みたいです」
「ああ。教えた覚えもないのに精霊を使役し、重力魔法まで無自覚に操るとはな。末恐ろしい才能だ。将来は魔王軍の幹部か、あるいは……」

 グレンは楽しげに目を細め、優斗を見つめている。
 その横顔を見て、俺は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
 それは、誇らしさと同時に湧き上がる、冷たい劣等感だった。

(優斗は、ここで生きるための翼を手に入れた。……でも、俺は?)

 俺はただの人間だ。
 魔力もない。空も飛べない。
 この一ヶ月、俺は「恩返し」をしようと必死だった。料理以外の家事も、掃除も、なんでもやろうとした。
 けれど、この城の家事システムは完璧すぎた。
 掃除は風の精霊が一瞬で終わらせ、洗濯物は水の精霊が汚れを分解する。人間が雑巾を持って這いつくばるより、魔法のほうが圧倒的に早く、清潔なのだ。

『湊様は、そこに座っていてください』
『人間(ヒューマン)の手には負えません』

 悪気のない使い魔たちの言葉が、ボディブローのように蓄積していく。
 ここは何もかもが満たされた、美しい楽園だ。
 けれど、何もできない俺にとっては、自分が「無能」であることを突きつけられ続ける、美しい檻のようにも思えた。

「……優斗が立派に育ったら、俺の役目は終わりですね」

 ふと、口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。
 グレンが眉を動かし、怪訝そうにこちらを見る。

「なんだそれは」
「あ、いえ! なんでもないです。優斗が頼もしいなって思っただけです!」

 俺は慌てて笑顔を作った。
 指先が、氷のように冷たい。
 最近、なんだか身体が冷える。魔界の気候のせいだろうか。それとも、ここには居場所がないという心細さが、体温まで奪っているのだろうか。

「……そうか。まあ、ガキの成長は早いが、お前は焦るな。お前にはお前の役割がある」

 グレンは俺の頭をポンと撫でた。
 その手は温かい。けれど、どこか遠い。
 「役割」ってなんだろう。
 ただのペットとして、愛でられること? それとも、美味しいご飯を作るだけの料理番?
 俺は「嫁」としてここに来たはずなのに、グレンさんの隣に並び立つ資格が、今の俺にあるのだろうか。


 ◇◇◇

 その日の午後、俺は城の廊下をあてもなく歩き回っていた。
 じっとしていられなかったのだ。
 昼食の後片付けをしようとしたら、また使い魔に止められた。「肌が荒れますから」と。
 その優しさが、今は痛い。

(何か……何か俺にしかできないことを探さないと)

 グレンさんは優しいから、「ただ居ればいい」と言うだろう。
 でも、それに甘えて一生寄生するなんて、俺の性分が許さない。
 俺だって、男だ。守られるだけじゃなくて、役に立ちたい。

「……あ、そうだ。図書室の整理なら」

 以前、グレンが「古い文献が散らかっていて面倒だ。魔法でやると紙が痛むしな」とこぼしていたのを思い出した。
 これだ。繊細な作業なら、魔法よりも人間の手の方が向いているかもしれない。
 俺は一縷の望みをかけて、三階にある図書室へと向かった。

 重厚な扉を開けると、埃っぽい匂いとインクの匂いがした。
 広大な部屋には、天井まで届く本棚が並び、机の上には読みかけの羊皮紙や魔導書が山積みになっている。

「よし、やるぞ……!」

 俺は袖をまくり、作業に取り掛かった。
 少し動けば、身体も温まるかもしれない。
 そう自分に言い聞かせながら、崩れそうな古書を丁寧に扱い、埃を払い、種類ごとに分類していく。

 地味な作業だが、これがグレンの助けになるなら苦にならない。
 むしろ、何もしないで「お客様」として座らされている時よりも、ずっと心が軽かった。
 自分がここにいてもいい理由を、必死に積み上げているような気がして。

(少しでも、グレンさんの負担を減らしたい。俺たちを助けてよかったって、思ってもらいたいんだ)

 そんな一心で、時間を忘れて作業に没頭した。
 ……自分の体の限界に、気づかないふりをして。

 実は、数日前から倦怠感がひどくなっていた。
 夜中に何度も目が覚めるし、手足の感覚が鈍い。
 魔界の環境は人間には過酷だと、最初に来た時に言われた覚えがある。グレンの加護が切れかかっているのかもしれない。
 
 でも、公務で忙しい彼に「キスしてください」なんて、言えるわけがなかった。
 ただでさえ何の役にも立っていない居候が、さらに手間をかけさせるなんて。
 そんなことを言ったら、呆れられるんじゃないか。
 「面倒なやつだ」と、捨てられるんじゃないか。
 そんな不安が、喉元まで出かかった言葉を飲み込ませていた。

 ――ガタンッ。

 一時間ほど作業をした頃だろうか。
 本棚の上段に手を伸ばした瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。

「っ……!?」

 手から滑り落ちた分厚い魔導書が、床に落ちて鈍い音を立てた。
 拾おうとしたが、足に力が入らない。
 糸が切れた操り人形のように、ズルズルと床に崩れ落ちる。

「はぁ……はぁ……だめだ、まだ……終わってないのに……」

 息が苦しい。
 空気が、急に鉛のように重くなった気がする。
 肺が酸素を取り込めず、代わりに濃密すぎる魔素が喉を焼く。
 指先の感覚はなくなり、身体の芯から凍りついていくようだ。

(やりかけで倒れるなんて、一番迷惑じゃないか……)

 情けなくて、涙が滲んでくる。
 どうして俺はこう、無力なんだろう。
 優斗を笑顔にしてくれた、大恩人のグレン。
 彼にふさわしい「嫁」になりたかった。
 彼の隣にいても恥ずかしくない、対等なパートナーになりたかったのに。

(グレン、さん……)

 助けを呼ぼうとしたが、声が出ない。
 視界が急激に暗くなっていく。
 遠くで、誰かの焦ったような足音が聞こえた気がした。

 ごめんなさい。
 俺なんかが、あなたの優しさに甘えて、身の程知らずな夢を見てしまったから。
 
 俺の意識は、冷たい深い闇の底へと沈んでいった。

 ◇◇◇

 暗い闇の中で、俺は一人で立ち尽くしていた。
 足元には何もなく、ただ寒い。

『にーちゃん、ばいばい』

 ふと、優斗の声がした。
 振り返ると、光り輝く翼を生やした優斗が、空高く飛んでいくのが見えた。
 その隣には、同じように翼を持つグレンがいる。
 二人は魔界の空を自在に飛び回り、とても楽しそうだ。
 その光景は美しくて、俺は思わず微笑んだ。

『よかったな、優斗。グレンさん……』

 二人が幸せなら、それでいい。
 俺は魔力のないただの人間だ。この魔界に適応することができない。
 二人の足手まといになるくらいなら、ここで見送るのが正解なんだろう。
 さようなら。元気で。
 そう思って、背を向けようとした時だった。

 ――違う。

 突然、闇を切り裂くような強い光と、怒声に近い呼び声が響いた。

『勝手に決めるな!』

 その声は、力強く、そして焦がれるように熱かった。

『戻ってこい、湊! 我を置いていく気か!』

 何かに強く引かれる感覚。
 唇に、熱い熱い命の灯火を吹き込まれるような衝撃。

「……っ、はぁッ!」

 俺は弾かれたように息を吸い込み、目を覚ました。

「気がついたか!」

 目の前に、グレンの顔があった。
 至近距離だ。鼻先が触れそうなほど近い。
 その赤い瞳は揺れていて、いつも整っている銀髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。

「グレン……さ……?」
「馬鹿者! なぜ言わなかった!」

 グレンは俺を抱きしめたまま、怒鳴った。
 その声の大きさにも驚いたが、それ以上に、彼の手が震えていることに気づいて愕然とした。

「身体が重かっただろう。苦しかったはずだ。加護が切れかかっていたことに、気づかないはずがなかろう!」
「ご、ごめんなさい……忙しそうだったから、迷惑かけたくなくて……」
「迷惑だと? 命に関わることだぞ! お前が死んで、我が平気でいられるとでも思ったか!」

 グレンの剣幕に、俺は縮こまる。
 でも、その怒りは、純粋な恐怖と心配から来ていることが痛いほど伝わってきた。
 彼は、俺を抱きしめる腕の力を緩めない。
 まるで、少しでも力を抜けば、俺が消えてしまうと恐れているかのように。

「……怖かった」

 グレンが、消え入るような声で呟いた。
 あの最強の魔族が、弱音を吐いている。

「会議中、急に胸騒ぎがした。お前とのパス(魔力の繋がり)が途切れそうになっていた。……戻ってみれば、冷たくなっているお前がいて……心臓が止まるかと思ったぞ」

 俺の胸に顔を埋め、震えるグレン。
 その姿を見て、俺はようやく理解した。
 俺は、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
 俺は「迷惑をかけないこと」が、彼のためだと思っていた。
 でも、俺がいなくなることは、彼をこんなにも傷つけ、怯えさせてしまうことだったのだ。

「グレンさん……」

 俺は、彼の背中にそっと手を回した。
 分厚い背中が、小刻みに震えている。

 俺を大切に思ってくれている彼の気持ちを、勝手な遠慮でないがしろにしてしまった。

「ごめんなさい。……もう、勝手に我慢しません。あなたを悲しませるようなことは、二度としません」
「当たり前だ。……罰として、今日はもう離さんからな」

 グレンは顔を上げると、今度は優しく、慈しむように俺の額にキスをした。
 そこから流れ込んでくる魔力は、今までよりもずっと甘く、温かかった。

「……んぅ……にーちゃん?」

 部屋の隅から、泣き腫らした顔の優斗が顔を覗かせた。
 俺が倒れたのを見て、泣いていたのだろう。

「優斗……心配かけたな」
「うわぁぁぁん! にーちゃん、しんじゃやだぁ!」

 優斗がベッドに飛びついてくる。
 俺は左腕で優斗を、右腕でグレンの背中を抱きしめた。
 二人の体温が、冷え切っていた俺の心を溶かしていく。

 俺には魔力はない。空も飛べない。
 でも、俺が笑うと、この二人は笑ってくれる。俺がいなくなると、泣いてくれる。
 それだけで、俺がここにいる理由は十分すぎるほどあるのかもしれない。

 まだ少し頭はクラクラするけれど、その夜は二人に挟まれて、俺はこれ以上ないほど安心して眠りについたのだった。

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