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第6話 幸福な檻と、満たされない器
魔界に来てから、一ヶ月が過ぎようとしていた。
窓の外には、今日も美しい紫紺の空と、二つの月が輝いている。
「あはは! まてまて~!」
庭から聞こえる無邪気な笑い声に、俺はテラスから身を乗り出した。
視線の先には、花畑を走り回る優斗の姿がある。
優斗の足は地面からふわりと浮き上がり、その周囲にはキラキラと光る小さな妖精たち――光の精霊が楽しそうに飛び回っていた。
「……すごいな、優斗は」
俺はホットミルクが入ったマグカップを握りしめながら、白いため息をついた。
この一ヶ月、優斗の回復ぶりは目覚ましいものだった。
ただ元気になっただけではない。この魔界の環境が肌に合いすぎたのか、無自覚に精霊と心を通わせ、魔法のような力さえ発揮し始めている。
あの日、俺が作ったオムライスをきっかけに、グレンとの距離も縮まった――はずだった。
確かに食事の時間は楽しい。彼は俺の料理を「美味い」と食べてくれるし、優斗も笑顔だ。
けれど、食事は一日三回だけ。
それ以外の膨大な時間が、今の俺には重くのしかかっていた。
「相変わらず、出鱈目なガキだ」
背後から低い声がして、振り返るとグレンが立っていた。
公務の合間なのだろう、豪奢な軍服を着崩した姿は、息を呑むほど凛々しい。
「グレンさん。……優斗、また浮いてますね。あの子、本当にこの世界に『選ばれている』みたいです」
「ああ。教えた覚えもないのに精霊を使役し、重力魔法まで無自覚に操るとはな。末恐ろしい才能だ。将来は魔王軍の幹部か、あるいは……」
グレンは楽しげに目を細め、優斗を見つめている。
その横顔を見て、俺は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
それは、誇らしさと同時に湧き上がる、冷たい劣等感だった。
(優斗は、ここで生きるための翼を手に入れた。……でも、俺は?)
俺はただの人間だ。
魔力もない。空も飛べない。
この一ヶ月、俺は「恩返し」をしようと必死だった。料理以外の家事も、掃除も、なんでもやろうとした。
けれど、この城の家事システムは完璧すぎた。
掃除は風の精霊が一瞬で終わらせ、洗濯物は水の精霊が汚れを分解する。人間が雑巾を持って這いつくばるより、魔法のほうが圧倒的に早く、清潔なのだ。
『湊様は、そこに座っていてください』
『人間(ヒューマン)の手には負えません』
悪気のない使い魔たちの言葉が、ボディブローのように蓄積していく。
ここは何もかもが満たされた、美しい楽園だ。
けれど、何もできない俺にとっては、自分が「無能」であることを突きつけられ続ける、美しい檻のようにも思えた。
「……優斗が立派に育ったら、俺の役目は終わりですね」
ふと、口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。
グレンが眉を動かし、怪訝そうにこちらを見る。
「なんだそれは」
「あ、いえ! なんでもないです。優斗が頼もしいなって思っただけです!」
俺は慌てて笑顔を作った。
指先が、氷のように冷たい。
最近、なんだか身体が冷える。魔界の気候のせいだろうか。それとも、ここには居場所がないという心細さが、体温まで奪っているのだろうか。
「……そうか。まあ、ガキの成長は早いが、お前は焦るな。お前にはお前の役割がある」
グレンは俺の頭をポンと撫でた。
その手は温かい。けれど、どこか遠い。
「役割」ってなんだろう。
ただのペットとして、愛でられること? それとも、美味しいご飯を作るだけの料理番?
俺は「嫁」としてここに来たはずなのに、グレンさんの隣に並び立つ資格が、今の俺にあるのだろうか。
◇◇◇
その日の午後、俺は城の廊下をあてもなく歩き回っていた。
じっとしていられなかったのだ。
昼食の後片付けをしようとしたら、また使い魔に止められた。「肌が荒れますから」と。
その優しさが、今は痛い。
(何か……何か俺にしかできないことを探さないと)
グレンさんは優しいから、「ただ居ればいい」と言うだろう。
でも、それに甘えて一生寄生するなんて、俺の性分が許さない。
俺だって、男だ。守られるだけじゃなくて、役に立ちたい。
「……あ、そうだ。図書室の整理なら」
以前、グレンが「古い文献が散らかっていて面倒だ。魔法でやると紙が痛むしな」とこぼしていたのを思い出した。
これだ。繊細な作業なら、魔法よりも人間の手の方が向いているかもしれない。
俺は一縷の望みをかけて、三階にある図書室へと向かった。
重厚な扉を開けると、埃っぽい匂いとインクの匂いがした。
広大な部屋には、天井まで届く本棚が並び、机の上には読みかけの羊皮紙や魔導書が山積みになっている。
「よし、やるぞ……!」
俺は袖をまくり、作業に取り掛かった。
少し動けば、身体も温まるかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、崩れそうな古書を丁寧に扱い、埃を払い、種類ごとに分類していく。
地味な作業だが、これがグレンの助けになるなら苦にならない。
むしろ、何もしないで「お客様」として座らされている時よりも、ずっと心が軽かった。
自分がここにいてもいい理由を、必死に積み上げているような気がして。
(少しでも、グレンさんの負担を減らしたい。俺たちを助けてよかったって、思ってもらいたいんだ)
そんな一心で、時間を忘れて作業に没頭した。
……自分の体の限界に、気づかないふりをして。
実は、数日前から倦怠感がひどくなっていた。
夜中に何度も目が覚めるし、手足の感覚が鈍い。
魔界の環境は人間には過酷だと、最初に来た時に言われた覚えがある。グレンの加護が切れかかっているのかもしれない。
でも、公務で忙しい彼に「キスしてください」なんて、言えるわけがなかった。
ただでさえ何の役にも立っていない居候が、さらに手間をかけさせるなんて。
そんなことを言ったら、呆れられるんじゃないか。
「面倒なやつだ」と、捨てられるんじゃないか。
そんな不安が、喉元まで出かかった言葉を飲み込ませていた。
――ガタンッ。
一時間ほど作業をした頃だろうか。
本棚の上段に手を伸ばした瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
「っ……!?」
手から滑り落ちた分厚い魔導書が、床に落ちて鈍い音を立てた。
拾おうとしたが、足に力が入らない。
糸が切れた操り人形のように、ズルズルと床に崩れ落ちる。
「はぁ……はぁ……だめだ、まだ……終わってないのに……」
息が苦しい。
空気が、急に鉛のように重くなった気がする。
肺が酸素を取り込めず、代わりに濃密すぎる魔素が喉を焼く。
指先の感覚はなくなり、身体の芯から凍りついていくようだ。
(やりかけで倒れるなんて、一番迷惑じゃないか……)
情けなくて、涙が滲んでくる。
どうして俺はこう、無力なんだろう。
優斗を笑顔にしてくれた、大恩人のグレン。
彼にふさわしい「嫁」になりたかった。
彼の隣にいても恥ずかしくない、対等なパートナーになりたかったのに。
(グレン、さん……)
助けを呼ぼうとしたが、声が出ない。
視界が急激に暗くなっていく。
遠くで、誰かの焦ったような足音が聞こえた気がした。
ごめんなさい。
俺なんかが、あなたの優しさに甘えて、身の程知らずな夢を見てしまったから。
俺の意識は、冷たい深い闇の底へと沈んでいった。
◇◇◇
暗い闇の中で、俺は一人で立ち尽くしていた。
足元には何もなく、ただ寒い。
『にーちゃん、ばいばい』
ふと、優斗の声がした。
振り返ると、光り輝く翼を生やした優斗が、空高く飛んでいくのが見えた。
その隣には、同じように翼を持つグレンがいる。
二人は魔界の空を自在に飛び回り、とても楽しそうだ。
その光景は美しくて、俺は思わず微笑んだ。
『よかったな、優斗。グレンさん……』
二人が幸せなら、それでいい。
俺は魔力のないただの人間だ。この魔界に適応することができない。
二人の足手まといになるくらいなら、ここで見送るのが正解なんだろう。
さようなら。元気で。
そう思って、背を向けようとした時だった。
――違う。
突然、闇を切り裂くような強い光と、怒声に近い呼び声が響いた。
『勝手に決めるな!』
その声は、力強く、そして焦がれるように熱かった。
『戻ってこい、湊! 我を置いていく気か!』
何かに強く引かれる感覚。
唇に、熱い熱い命の灯火を吹き込まれるような衝撃。
「……っ、はぁッ!」
俺は弾かれたように息を吸い込み、目を覚ました。
「気がついたか!」
目の前に、グレンの顔があった。
至近距離だ。鼻先が触れそうなほど近い。
その赤い瞳は揺れていて、いつも整っている銀髪は乱れ、額には汗が滲んでいる。
「グレン……さ……?」
「馬鹿者! なぜ言わなかった!」
グレンは俺を抱きしめたまま、怒鳴った。
その声の大きさにも驚いたが、それ以上に、彼の手が震えていることに気づいて愕然とした。
「身体が重かっただろう。苦しかったはずだ。加護が切れかかっていたことに、気づかないはずがなかろう!」
「ご、ごめんなさい……忙しそうだったから、迷惑かけたくなくて……」
「迷惑だと? 命に関わることだぞ! お前が死んで、我が平気でいられるとでも思ったか!」
グレンの剣幕に、俺は縮こまる。
でも、その怒りは、純粋な恐怖と心配から来ていることが痛いほど伝わってきた。
彼は、俺を抱きしめる腕の力を緩めない。
まるで、少しでも力を抜けば、俺が消えてしまうと恐れているかのように。
「……怖かった」
グレンが、消え入るような声で呟いた。
あの最強の魔族が、弱音を吐いている。
「会議中、急に胸騒ぎがした。お前とのパス(魔力の繋がり)が途切れそうになっていた。……戻ってみれば、冷たくなっているお前がいて……心臓が止まるかと思ったぞ」
俺の胸に顔を埋め、震えるグレン。
その姿を見て、俺はようやく理解した。
俺は、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
俺は「迷惑をかけないこと」が、彼のためだと思っていた。
でも、俺がいなくなることは、彼をこんなにも傷つけ、怯えさせてしまうことだったのだ。
「グレンさん……」
俺は、彼の背中にそっと手を回した。
分厚い背中が、小刻みに震えている。
俺を大切に思ってくれている彼の気持ちを、勝手な遠慮でないがしろにしてしまった。
「ごめんなさい。……もう、勝手に我慢しません。あなたを悲しませるようなことは、二度としません」
「当たり前だ。……罰として、今日はもう離さんからな」
グレンは顔を上げると、今度は優しく、慈しむように俺の額にキスをした。
そこから流れ込んでくる魔力は、今までよりもずっと甘く、温かかった。
「……んぅ……にーちゃん?」
部屋の隅から、泣き腫らした顔の優斗が顔を覗かせた。
俺が倒れたのを見て、泣いていたのだろう。
「優斗……心配かけたな」
「うわぁぁぁん! にーちゃん、しんじゃやだぁ!」
優斗がベッドに飛びついてくる。
俺は左腕で優斗を、右腕でグレンの背中を抱きしめた。
二人の体温が、冷え切っていた俺の心を溶かしていく。
俺には魔力はない。空も飛べない。
でも、俺が笑うと、この二人は笑ってくれる。俺がいなくなると、泣いてくれる。
それだけで、俺がここにいる理由は十分すぎるほどあるのかもしれない。
まだ少し頭はクラクラするけれど、その夜は二人に挟まれて、俺はこれ以上ないほど安心して眠りについたのだった。
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