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5巻

5-3

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 ……幼少から剣とBLふた筋に生きて来たため、モータースポーツの知識など無いに等しいサクラだが、バイクのパワーを完全に制御しなければ、このような芸当が不可能だということだけは、なんとなく理解出来た。

「委員長、あれですっげーバイク好きでさ。日本に居た頃もよく乗り回してたし」
「そうだな……フルカウルのレーサーレプリカなど、外見からして女子高生が乗るような代物ではなかったが」

 砂煙で車体が殆ど覆われてしまったあたりで九々は回転を止め、直進に移った。
 つい先程まで軸としてしっかりと押さえ付けていた前輪を持ち上げ、激しくウィリーする。
 ほぼ90度に近い角度。バランスを崩して転倒するギリギリのところで、ピタリと保たれていた。

「委員長ってば死ぬほど運転荒いけど、神がかって上手いっしょ」
「ハンドル握ると、性格も少し変わるタイプだからな! がっははは!」

 第3練兵場は数多くの兵士達が同時に訓練を行えるよう、とても広く作られている。
 それをさながら箱庭のように端から端へと駆け抜け、壁に衝突する間際でスピンターンを繰り出し、そこからまた数秒で逆端へと到達。
 カタログスペックから考えれば、恐らくはこれでもまだ軽く流している程度なのだろう。
 しかし既に、異次元の領域に達しているとしか思えないパフォーマンスだった。
 ――やがて『ナイトロードⅣ』を走らせるには、この兵場では手狭と判断したのか。
 九々がハンドル部のスイッチを操作した瞬間、タイヤの下から黒い道が空中に延びた。
 それに乗り上げ、ジェットコースターのような急勾配きゅうこうばいで数十メートル以上の高さにまで上っていく。
 ぱらぱらと紙束を捲っていた雅近が、あるページで手を止めた。

「なるほど。アレが『夜道ナイトロード』の名の由来ゆらいか。悪路や空中を走るため、魔力の足場を作り出す特殊機能。他にも車体に委員長の魔銃ライフルを組み込み、ハンドル部のトリガーを引くことで射撃も可能……と」

 ただし、車体と九々で実に1トン近い重量をしっかりと支えるため、『夜道』はかなりの魔力を消費する。負荷が無いに等しい夜行の『エアステップ』とは異なり、ある程度使い所を考えなければならなかった。

魔力蓄積器バッテリーの容量は、『夜道』無しの通常運用でおよそ6時間分。委員長自身のMP(マジックポイント)が満タンなら、最長13時間って所か。MP回復薬ポーションがあればもう少し伸びるな」
「マジで!? 伊達っちの次にMPが多い委員長でそんなもんだと、100もない俺っちじゃどっちにしろ使えねーじゃん!」

 絶望した、と言わんばかりに両手で頭を抱えた平助。
 ついさっきは要らないと言っていたくせに、安全と分かるやまた欲しくなったらしい。
 つくづく単純な奴だと、呆れた風に嘆息した雅近は、もう一度最初からページを捲り、ゆっくりとかぶりを振った。

「と言うか、そもそもコレを委員長以外が使うのは殆ど不可能だぞ」

 動力機関搭載自走式高速機動魔具、その試作機プロトタイプ
 通称『ナイトロードⅣ』は、カタログスペックを見る限りでは汎用性はんようせいが全く無い。
 バイクとしては大型な車体にも拘わらず、その挙動は極めてクイックつピーキーである。
 エネルギー変換効率を極限まで高めたことで馬力パワーが規格外に跳ね上がった、コンマ数秒の判断ミスすら命取りになりかねない暴れ馬なのだ。
 そして時速800キロオーバーで移動しようものなら、視界がまともに得られない。遮蔽物しゃへいぶつの存在しない空中ならばともかく、地上ではあまりに危険過ぎる。
 つまり『ナイトロードⅣ』を扱うには、多量のMPと優れた運転技術。更に何よりも亜音速下ですら視界をクリアに保てる、異常なほどの動体視力が必要不可欠なのだ。
 そんな条件を満たしている者など、雪代九々ただ1人だけではないだろうか。

「――ふぅッ」

 時間にして、およそ10分前後。
 満足したらしい九々は、なんと空中で『夜道』を消し、数十メートルの高さから落下してきた。
 魔力障壁とサスペンションにより、本人にも車体にもダメージは一切無いが、以前夜行に抱えられて上空まで連れて行かれ、腰を抜かしていた者の行動とは思えない。

「はぁッ……」

 舞い上がった砂煙が落ち着いた後、『ナイトロードⅣ』から降りた彼女は、そのまま車体に腰を寄りかからせ、熱の篭もった吐息といきを漏らした。

「……久し振りだったから、ちょっと……」

 じじじ、といつも首元まできっちり上げてあるファスナーを鳩尾みぞおちあたりまで下げ、九々は露出した鎖骨さこつにひと筋、汗を伝わせる。

火照ほてっちゃったァ……アハッ」

 そしてぺろりと、指先を舐めるのだった。


 数分後。

「じゃあ、私はこのままコレで『烏合山』にまで行けばいいのね?」
「えぇぇぇぇ、その通りで、ございます! 何せ何せ何せ流石に、転送魔法陣にまで対応させるだけの時間は、ありませんでしたのでッ! 申し訳ございませんッ! これで許して、これでッ!!」
「や、あの、土下座とかしなくていいんで……」

 ごん、ごんと地面に額を打ち付けるエニグマに、引いてしまう九々。
 そもそもこのモンスターバイクなら、1時間足らずで『烏合山』まで辿り着けるだろう。崖も悪路も森も川も、『夜道』を使えばほぼ素通り出来るのだから。

「……なあ委員長、俺もそっちで一緒に行っていいかな?」
「え?」

 スティックキーを差し込もうとした間際、頬を掻きながらの夜行の提案に、彼女はぱちぱちと目をまたたかせる。

「いや、考えてみりゃ800キロくらいの距離なら、全力疾走の俺なら1時間ぐらいだし。委員長も一緒なら、1人寂しく走らないで済むし」

 ――やはり問題ないと分かっていても、夜行は転送魔法陣を使いたくないらしい。
 横目でクリュスの方を見遣ると、小さな姫は暫しの間夜行を見上げ、こくっと頷いた。
 九々としても断る理由はない。
 むしろ彼女もたった1時間ほどとは言え、道中寂しい思いをせずに済むのだ。
 加えて言うなら『ナイトロードⅣ』はあくまで試作機で、何かアクシデントが起きないとも限らない。並走する同行者が居てくれた方が、色々な意味で心強かった。

「えっと……じゃあ、お願いしていい?」
「うん? や、頼んでんのこっちなんだけど……まあいいや、じゃあ決まりってことで――」
「――ひぃぃぃぃめぇぇぇぇさぁぁぁぁまぁぁぁぁッ!!」

 パンと手を叩き、笑みを浮かべた夜行が発した台詞を、突然響いてきた大声が掻き消した。
 何事かと思いつつ、一同は声の聞こえた方向へ視線を向ける。

「見つけましたぞぉッ、姫様ぁぁぁぁッ!」
「……あ、ヤバ」

 やや禿げ上がった頭に小太りな体型。
 どこか幸薄そうな面差しを鬼の形相に変え、こちらへと駆けて来る人影があった。
 その男は一度丸めたらしいくしゃくしゃの紙切れを掲げていて、それにはこう記されていた。

『何日か宮殿を空けます。その間、お仕事よろしくネ☆ クリュス』
「…………」

 異常なまでの視力の恩恵で、書かれた内容をハッキリと把握した九々は、もう溜息すら出なかった。

「た、大変です皆さん、悪の大怪獣ダイジーンが現れました! ここはさっさと逃げ――いえ、戦略的撤退です! さあ、急いで出発なのです!!」
「言い換える意味あったのか……ってオイ、オレ達を置いて行くな!」

 脚がうずまき状に見えるくらいの勢いで、素早く『魔術殿』へと逃げて行ったクリュスと、それを追う雅近達。
 身体の弱いリスタルは平助が抱えて走り、その後ろを千影がハンカチを噛みながら追従していた。
 エニグマをはじめ集まっていた『技術殿』の者達も、流石に寝不足なのか目を擦りながらそれぞれ解散する。
 残されたのは、瞬く間に夜行と九々だけとなった。

「お待ちくだされ姫様ぁぁぁぁッ! このあわれなに、これ以上の重労働をいるおづもりでございまずがぁぁぁぁッ!!」

 暫し遅れて、泣きながら叫んでいた帝国大臣が2人の前を通り過ぎる。
 ……この国、本当に大丈夫なのだろうか。

「…………」

 静かになった第3練兵場で、夜行と九々は顔を見合わせた。
 やがて全く同時に、深く大きく溜息を吐く。

「じゃ、行こっか」
「そうね」

 面倒臭くなって、何もかも無かったことにした。


         Ψ


 ――ラ・ヴァナ帝国西部の一角に位置している『烏合山』。
 一大コロニーを築いている人面鳥ハーピィをはじめとした、その名の通り雑多な鳥獣系の魔物が棲息せいそくするダンジョンである。
 国が定めている格付けでは、5段階の下から2番目であるCランク。
『烏合山』に棲まう人面鳥ハーピィの羽根は色取り取りで美しく、装飾品としての価値はそれなりに高い。
 強い魔力を浴び続けて独自の進化を遂げた高山植物も、薬用や観賞用として人気があった。
 Cランクの中ではそれなりに効率の良い狩場であるのだが、今この季節に山に踏み入る探索者ハンターはほぼ居ない。
 何せ夏場は人面鳥ハーピィ達の営巣期であり、元々凶暴な気性に更なる拍車がかかる。
 巣と卵を守るため、テリトリーへの侵入者を察知すると、少なくとも数十羽単位で徒党を組んで襲ってくるのだ。
 そんな時期に無理矢理押し入るほど、旨味のある場所でもない。
 逆に夏場こそ絶好のシーズンであるダンジョンは、帝国領土内に位置するものだけでも、他に片手の指が埋まるくらいには存在する。
 つまり現状、『烏合山』近くの湖に幾つも建てられたダンジョン長期滞在者用のロッジは、シーズン外れで貸し切り状態だった。


林檎りんごのシャーベットにございます、マサチカ様。どうぞ、あーんしてください」

 トランクス型の水着と薄手のパーカー姿で、豪奢ごうしゃなビーチチェアにゆったりと背を預けている雅近。好物の林檎で作られたシャーベットの載ったスプーンが、メイドの手によって差し出された。

「マサチカ様、お加減はいかがですか? 至らぬところがあれば、申しつけを……どのようなおしかりでも、つつしんでお受けいたしますので」

 別のメイドが背後で雅近の肩を揉みながら、びるような声でそう告げた。
 指先に込められた力は程好く、文句のつけようがない。
 また、彼の右側には大きな日傘を抱えた背の高いメイドが立ち、ほぼ全身を覆う影が作られている。
 そして左側には、羽根の団扇うちわを静かにあおぐ4人目のメイド。
 強過ぎず弱過ぎない風が雅近の頬を心地良く撫で、日陰と共に快適な空間を作り上げていた。

「……少し、テンポを下げてくれ」
かしこまりました」

 更に、恐らくは最年長だろう二十代半ばほどのメイドによるヴァイオリンの演奏。
 耳朶に染み渡るゆったりした調べが、眼前に広がる澄み切った湖畔こはんと重なり、落ち着いた雰囲気を演出していた。
 加えて言うなら、雅近を囲むメイド達は全員が水着姿だ。しかもクリュスがそうなるようにりすぐったのか、見目麗みめうるわしい女性ばかりであった。
 怠惰たいだ極まる彼は元々甲斐甲斐かいがいしく世話されることは全く嫌いではないし、それに彼とて健全な男子高校生である。
 口やかましくさえされなければ、こうして美女達に囲まれることに、悪い気はしない。

「……口が少し冷えたな。そこのシナモンクッキーをくれ」
「はい、喜んで」

 リンゴ同様の好物であるシナモンの香りが口の中に広がり、ほんの少し口角を上げる雅近。
 ……正直な話、魔力障壁の使える雅近にとって、今回の避暑旅行はそこまで魅力的な話でもなかった。ただ単に夜行が行きたがったから賛同しただけなのだが、いやはや、なかなかに悪くない。

「――アラブの石油王か、おのれはぁぁぁぁッ!」

 唐突に、ヴァイオリンの旋律が掻き消えてしまうような、凄まじい大声が響き渡る。

「なんだ柳本やなぎもと、騒々しい。オレの優雅な時間に水を差すな」
「黙れや! さっきから見てれば、大富豪のボンボンみたいな真似しくさりおって!!」

 血涙さえ流しつつ、勢い良く雅近を指差す平助の指先は、怒りでブルブルと震えていた。

「姫ちゃんが連れてきたメイドさん5人を、なんで伊達っちが総取り!? どうして避暑旅行に来てまで、人類としての格差を見せ付けられにゃあかんの!?」

 ククッと黒く笑いながら、メイドに差し出されたクッキーをかじる雅近。

「……オレは、使えるものは神でも使う主義だ。そしてここの女共は、自分からオレに使われたいと言った。だから遠慮なく使い潰すまでだ、文句を言われる筋合いなどない」
「最低!? コイツ最低だ、俺っちとは違うベクトルで女の敵だ! いいのメイドさん達、この男皆さんを都合良く利用した揚句、その後はポイする心積もりよ!?」

 何故このような男がモテて自分はモテないのか、平助には不思議でならなかった。

「なんでだチクショー! なんで、どうして伊達っちみたいな毒舌眼鏡ばっかり女子人気を得るんだ!!」
「顔」

 短く呟かれた身もふたもない言葉に、平助はその場に崩れ落ちた。

「お、おま、おまおまおま……それ言っちゃ……ふ、ふん! んなの間違いだ! 人間は顔じゃねーもん、中身だっつーの!!」
「君の場合、どちらにしろ絶望的だろうが。それに認めたくなかろうと、事実だ。年取ってからはともかく、若い内は所詮しょせん顔なんだよ」

 もし中身が全く同じなまま、雅近がイケメンでなかったら、女は見向きすらしなかっただろう。
 滅多にお目にかかれないほどの美形だからこそ、毒舌も怠惰も『クールでステキ』と片付けられ、長所として見られる。
 つまるところ『ただしイケメンに限る』ということ。どれだけ奇麗事を並べようと、世の中とは結局そんなものなのだ。

「ちくせう……やっぱり、やっぱり人間は顔なのか……!? 理不尽だじぇ……ッ!」
「泣くな、鬱陶うっとうしい。オレに突っかかっている暇があるのなら、あっちで茶を飲んでる皇女姉妹にでも混ざって来い。きっと歓迎してくれるぞ、特に姉君がな」
「――ハッ!? そうだ、こんなことしてる場合じゃなかったぜ!! せっかくのバカンスなんだ、水着姿の鳳龍院ほうろんいんさんや美作さんを間近で視姦しかん――もとい、ガン見しなければ!!」
「オレの言ったこと全面無視か、いい度胸してるな。そして言い直す意味あったのか、それ」

 つい先程までの怒りと憎悪ぞうおはどこへやら。
 瞬く間に態度を転じさせ、決意の炎を瞳に映し、衝動のまま駆け出していく平助。
 雅近はそんな彼の後ろ姿を目で追い、呆れた風に溜息を吐き、メイドの差し出したシナモンクッキーを齧るのであった。


         Ψ


「あびゃああああッ!?」

 下心満載、寧ろ下心しか存在しない視線を隠しすらもせず、間近でサクラの胸の谷間をガン見し、揚句スマホで写真を撮りまくった結果。
 世界制覇も夢ではない渾身こんしんのアッパーカットによって空中へと打ち上げられ、平助は錐揉きりもみ回転しつつ数十メートル上空から水面に落下した。

「……アホだなぁ、ヤナギも」

 そんな光景を間近で見ていた夜行が、かぶりを振って呟く。気持ちは分からないでもなかったけれど。

「美作さん、あいつのことは忘れて一緒にのんびりまったりビーチボールでもやろっかー」
「……ん」

 努めてにこやかに話しかけた夜行の提案を、こくりと無愛想に頷き、了承するサクラ。
 そんな彼女もまた、いつもの着物とは異なる水着姿だった。

(……誰だよ、彼女にフロントジッパーの競泳水着なんて最終兵器リーサルウェポンを渡したのは……!)

 ぴっちりと体型にフィットしている、なめらかな紺色の布地。
 そして彼女の、小柄さとは裏腹に大きく育った胸部装甲。
 サクラの特殊な身体つきで上下一体型の水着を着ようものなら、当然サイズは合わない。
 ギチギチに詰まった胸の質量によって、フロントジッパーは鳩尾あたりから微動だにしない。
 結果、タイトな布地で圧迫された谷間が、惜しげもなく晒され、水着の紺色と白い肌とのコントラストで織り成された、なんとも目のやり場に困るスタイルとなっていた。
 しかし、いつもの着物といい、彼女は衣服に関して何らかの呪いでも受けているのであろうか。
 まあ、ともあれ――言葉にならないレベルの絶景だった。

(落ち着け、とにかく落ち着くのだ俺……相手は自称、セブンスターズ最強の美作さんだぞ、もし不用意に手など出そうものなら、1秒後には千切りにされる)

 清く正しく生きようと、夜行は胸の内で決意を固めた。

「さあ美作さん、レッツビーチボールッ!!」
「ここ……浜辺じゃないけど、ね……」

 細かいことは気にしない。
 空気の詰まったビニール製のボールを、夜行は大きく弧を描かせるようにトスする。

「んっ」

 それをレシーブで受け、更に高く空へ放り上げるサクラ。
 ……その際、彼女の二の腕が外側から胸を挟み込み、ぐにゅりと変形させた。

「…………えい」

 脳裏に浮かんだ煩悩ぼんのうを打ち払い、平坦な掛け声で二度目のトスをする夜行。

「んっ」

 やや軌道が高かったらしく、小柄なサクラではボールに手が届かなかったため、今度は軽いジャンプトスで返す。
 ……ジャンプは軽くとも、跳躍の反動によって分厚い胸部装甲は、たゆんと重たげに揺れていた。

「…………そいや」

 めーきょーしすいめーきょーしすいと、夜行は意味も知らない四字熟語を繰り返し頭の中で唱えた。
 落ちてきたビーチボールを今度は蹴り上げ、低めのパスを出す。

「ふっ」

 夜行に応じたのか、サクラもまた蹴りでボールを打った。
 横ぎの中段蹴り。それ故に縦ではなく横に揺れ、開け放たれたジッパーから零れ落ちそうになる核弾頭。
 ――そうした応酬が、一体幾度続いたことだろうか。
 数を重ねる度、夜行はまるで能面のような無表情となっていく。
 そして、サクラがボールを今までで一番高く、レシーブで打ち上げた。
 今までで一番激しく、彼女の胸にくっ付いたふたつのボールが揺れる姿を目にした瞬間。

「……うがあぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 とうとう明鏡止水も何もかもが、頭の中からクラッカーの如く弾け飛んだ。
 夜行は『エアステップ』にて空中のボールを追いかけ、湧き上がる衝動をぶつけるかのように、あらぬ方向へとスパイクで叩き落した。

「戌、伏……?」
「やってられっかこんな試練! あんな発育の暴力を前にして、耐えられるかアホー!!」

 軽い足音と共に着地し、頭を掻きむしりながら地団太じだんだを踏む。
 サクラはそんな彼の姿を、怪訝そうに首をかしげ見つめていた。

「ッは!?」

 けれどそんな癇癪かんしゃくも、精々十数秒のこと。彼女と行ってきた精神鍛錬の成果が、地味に表れてきたらしい。
 我に返った夜行は、目を瞬かせているサクラに誤魔化し笑いを浮かべる。
 ぷかぷかと湖面に浮いている自分が叩き付けたビーチボールを、大袈裟な仕草で指差した。

「は、はは、はははは……えっと、じゃあ俺、ちょっとボール取って来るわ!」
「……えぇ」

 言うが早いか、ギクシャクした動きで湖へ歩き始める。
 夜行はそのまま足を動かし続け、やがて水の上へ――。
 軽業アクロバットアーツ、『ウォーターステップ』。空中を翔けることに比べれば、水上を歩く程度のことなど造作も無かった。
 岸から20メートル程度の位置で浮かんでいたボールに手が届くまで、そうはかからない。
 自分自身を落ち着かせるようにひとつ溜息を吐いてから、夜行は無造作にボールを掴み取ろうとした。
 けれどその瞬間、謂わば空気の塊である筈のビーチボールは、どういうワケか水中に沈んでしまった。

「……へ?」

 全くの想定外な出来事に、夜行は思わず目を丸くして間の抜けた声を漏らす。
 そしてお世辞にも回転の速い方ではない頭が状況を理解しきらない内に、今度は水中から1人の女性が現れるのであった。


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