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第二章 汐里と亮太

第2話 汐里 誘いと後悔

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 勤務中は、スマホを見られない。
 だから、トイレに行く度に亮太からメールが来ていないか確認していた。

「来てない……か……相変わらず既読にはなってるけど……」

 冷却期間を置こう、と言ったのは私の方なのに、亮太の事が気になって仕方なかった。
 あれから、もう一週間が経っている。

「明後日からゴールデンウィークか……なんにも予定なくてつまんないなぁ……」

 なんとなく呟くと、隣で手を洗う同期生のアカリが苦笑いを浮かべた。
「あれ、汐里、彼氏に振られたの? 付き合い長かったのにねぇ」
「別れてない、単なる冷却期間よ」

 そう言いつつも、胸に晴れないもやが広がる。

「私が男紹介しようか? 高収入イケメンのハイスペ男子」
「いらないわよ。うちの彼氏だってハイスペよ」

 私はすぐさま言い返した。

 収入は少ないけど、亮太の性格と外見はハイレベルなのよ!
 背だって高いし!

「今度、彼氏と車で藤の花を観に行くんだ」
 アカリは長く伸ばしたサラサラの髪の毛を、さっと手で払いながら言った。

 そうか。
 単に自分が彼氏とそこにお出かけするのを自慢したくて、このあいだ話題にしたんだな。

 私はようやくそれを悟った。
 亮太に行こうと提案した、他県にあるフラワーパーク。
 社内の休憩コーナーで一緒にランチをとっている時に、さり気なくそのフラワーパークを話題に登らせたのはアカリだった。

 アカリの彼氏は営業部の2歳年上の人だ。
 スマートで、女の扱いに慣れたようなソフトな物腰の男。
 顔のつくりは悪くないが、私の好みじゃない。
 一番鼻につくのは、いかにも俺はモテるんだぜ、というオーラが滲み出ているところだ。

 まあ、実際にその男はモテた。
 私の同期の高卒女子社員四人の内、三人がその男と肉体関係を持ったからだ。

 私にはわからない、特殊なフェロモンでも出ているんだろうか?
 そして現在、彼女の座に座っているのがアカリなのだ。

「汐里も一緒に行く? ミナも行くんだけど」
「は? ミナも行くの? 彼氏いるのに?」

 ミナは、私同様アカリの彼氏と関係を持たなかった唯一の同期だ。

「別にいいじゃない。助手席にさえ座らなければ、私は誰が一緒でも大丈夫よ。それに人数いた方が、高速代が割り勘できて安く済むでしょ?」
 アカリはにっこりと笑った。
「まあ、そうね……」

 私はフロアの廊下を歩くアカリの背をちらりと見る。

 モテる彼氏持ちの女という、どっしりとした安定感が細い背中から放たれているように見える。

「ううむ……」
 やはり同期のミナの名前が出たことで、一気に気持ちは傾いた。

 あの藤の花、きれいだよな……直に見たら疲れが吹き飛びそう……それに、見頃は今月の中旬までだし……

「行く気になった? 後でメールで詳しいこと送っておくね」
 じゃ、とアカリは手を降った。
「あ、うん、わかった……」

 浮かない気持ちと、休日を楽しみたいという欲が混ざり、なんとも言い難い気持ちになる。

「亮太のアパート……寄って帰ろうかな……」
 私はぽつりと呟いて、自分のデスクに戻ったのだった。

※※※※※

 帰り道の途中でスマホに届いたメールには、集合場所と時間が書いてあった。
 アカリからだ。
「ミナにもメールしておくか……私も行くことにしたよ……っと」
 私はスマホからミナにメッセージを送る。
 すぐに既読のマークがついて、了解スタンプとメッセージが現れる。
『楽しみだね』
 と。

 私はスマホをバッグにしまい込み、足早に歩き始めた。
 亮太が住んでる年季の入った木造アパートは、駅から歩いて15分ほどの場所にある。
 私の家は、同じ駅の反対口から歩いて5分だ。

 行って、どうするというのだろう。

 私は腕時計を見る。
 時刻は19時。
 今日は月曜日で、いつもなら亮太は帰宅している時間だ。

「亮太、晩ごはん食べたかな……」
 ふと足を止め、スマホを取り出して通話ボタンを押す。
 亮太の電話番号が画面に映しだされ、あと一押しで通話のコール音が始まることになる。

 指が止まった。
 声が聞きたい。
 でも……

 同僚とフラワーパークに行く決心をしてしまったことが、私の行動をさらに鈍くさせている。

「子どもじゃないんだもん……お腹が空いたら、なにか買って食べるでしょ……」
 私は呟いて、スマホをバッグに戻した。
 再び歩き始めた足が重い。
 おかしいな、さっきと全然違う。
 予定の15分を10分もオーバーして、私は亮太のアパートにたどり着いた。

「自転車……ある……」
 亮太は自転車通勤をしている。勤め先までは、25分くらいかかると聞いていた。
 アパートの階段下に置かれたシルバーの自転車を確認して、私は亮太の部屋を見上げる。
 亮太の部屋は、二階の203号室だ。

「部屋の明かり……ついてないや……歩いて買い物にでも行ったのかな?」
 どこか、ほっとしている自分がいた。
 会いたいのに、顔を見るのがなんとなく気まずい。

「帰ろうかな……」
 私は重暗い気持ちを引きずったまま、何気なく集合ポストを見た。
 一箇所だけ、折り込みチラシがあふれている。
 捨てるのが面倒だからって……あれじゃ郵便屋さんが困っちゃいそう。

 203。

 私は足を止めた。
 折り込みチラシがあふれていたポスト、203じゃなかった?
『こういうの溜まるの嫌だから、すぐ捨てることにしてるんだ……せっかくきれいに印刷してあるのに、捨てるなんて本当はもったいないと思うんだけど』

 亮太はポストから一枚のチラシを丁寧に取り出しながら、そう言っていた。

『製本会社で働いているから、印刷物には愛着があるんだ』

 少しはにかんだような亮太の笑顔が、フラッシュバックする。

 心臓の音が、どくりと鳴った。

 落ち着け、大丈夫よ……だって、既読ついてたもん。私が送ったメッセージ、ちゃんと見てるはずだもん。

 私は震える手で、スマホの通話ボタンを押した。

 プルルル、プルルル、プルルル、プルルル

「出ない……やだ、出てよ亮太……」
 ガチャッ
「あっ、亮太? 私、汐里……」
『大丈夫だから、もう電話してこなくていいよ』

 ガチャッ、ツーツーツーツー

 私は頭が真っ白になった。
 声のトーンがいつもより高かったけど、それは間違いなく亮太の声だった。

 もう、電話してこなくていいよ……

「私……振られた……ってことか……」
 重かった体に、力が入らない。

『あれ、汐里、彼氏に振られたの? 付き合い長かったのにねぇ』

 今日、トイレでアカリに言われたこと……現実になっちゃった……え……なんで……なんでだろう……

「冷却期間置こうなんて、言ったからかな」

『私が男紹介しようか? 高収入イケメンのハイスペ男子』

「他に好きなひとができたとか……毎日部屋に来て、料理して、掃除してくれるひとができたとか……」

 ダメだよ、それは私のポジションなんだから。
 亮太の甘さを知ってるのは、私だけじゃなきゃダメなんだから……

「どうして……冷却期間なんて……私……」
 どうして言っちゃったんだろう。

 これは罰だ。
 亮太の気持ちを試すようなことをした私に、神様が与えた罰なんだ。

 カンカンカンカンカンカン

 踏切の音が聞こえる。
 踏切を渡って、5分歩いたら家に着く。

 コーヒーの空き瓶に生けられた白い花が、街灯に照らされて鈍く光っているのが見えた。
 ひたひたと迫る暗いなにかに、心が息を止めていく感じがした。

 私、今、本当に生きてるんだろうか?
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