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第二章 汐里と亮太

第8話 汐里と亮太 なれそめ

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 20歳の誕生日当日、私は彼と別れた。

 原因は向こうの浮気だ。
 商業高校を卒業してすぐに会社に就職した私は、経理課に配属された。
 早く職場に慣れようと必死に頑張る私に、営業部の先輩社員が優しく声をかけてきた。
 それが彼と付き合うことになった流れ。
 高校時代、男と何回か付き合ったことはあったけど、本当に好きだと……それこそ燃え上がるような恋をしたのは初めてだった。
 恋は盲目。ホントそう。
 私は彼に夢中になり過ぎて、気がつかなかったのだ。
 彼より年上の美人な営業事務の女と、彼がデキていたことを。

『20歳は特別な誕生日だから、特別な場所を予約しておくよ』
 5歳年上の彼は甘い声で私に言った。
 彼が口にした店の名前は、とあるホテルの高級レストランのものだった。

 私は、大好きな彼の特別な女。
 そんな幸せにどっぷり浸かって、酔いしれていた。
 そして、私の20歳の誕生日、18時。
 私はうきうきして待ち合わせの場所にたどり着いた。
 精一杯できる、彼好みのおしゃれをして。
 行き交う人の波を眺めながら、何度も腕時計を見る。

 10分前……
 5分前……
 待ち合わせの時間ちょうど……
 5分過ぎた……
 10分過ぎた……
 30分……なにかあったのかな?

 腕時計もスマホのメッセージも、もう何回も確認している。
 なにかトラブルでもあったのかな? お店の予約時間になっちゃったよ……
 待ち合わせの時間から1時間が経って、私は通話ボタンを押した。
 プルルル、プルルル、プルルル……ガチャ
 私が声を発するより先にスマホから漏れてきたのは、私が望んだ彼の声じゃなかった。
『もしもし? あら、佐川さん? 電話してくるの遅いじゃない、根性あるわねぇ! アハハハ!』
 面白がるような艶のある女の声は、どこかで聞いたことのある声だった。

 この声は……そうだ……あの営業事務の女だ……
 なんで? なんでこの女が彼の電話に出るの?

『驚きすぎて声も出ないかしら? うふふ、あなたまだ若いもんねぇ……これが大人の恋愛ってもんなのよ。ガキはお家に帰ってプリンでも食べてなさい……じゃあね』

 ガチャ、ツーツーツーツーツーツー

 私は通話終了の赤いボタンを押す気力すらなかった。
 私……ふられたんだ。
 いや、そもそも私とは単なる遊びだったのかもしれない。

 恥ずかしさと惨めさと、体中から抜けていく気力。
 ほとばしるような甘い感情が、そのまま逆ベクトルに働いていく。
 家路につく人たちの波に紛れて電車に乗って、なんとなくいつもの駅で降りた。
 体がオートマチックに動いている。私の感情を置き去りにして。そんな感じだった。

 私……生きてるんだろうか?

 気がつけば、家の近くの公園のベンチでぼんやりしていた。
 腕時計を見る。23時50分。
 私の誕生日……あと10分で終わっちゃう。
 唐突に空腹を知らせる体に、なんとなく笑ってしまった。

 誕生日おめでとう、私。

 私はおもむろに立ち上がった。
 コンビニでなにか買って帰ろう……
 ぼんやりした意識のまま、人気のないコンビニに入店し、カゴにお酒と甘いものを突っ込んでいく。かごの底が見えなくなるまで。

 ちくしょう。飲んでやる……こうなりゃヤケだ!

「……年齢を確認できるものをご提示ください」
 低くてボソボソした声は、確かに若い男のものだった。

 めんどくさい。
 私はそう思いながらも、免許証を男に見せた。
「……ありがとうございます」
 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ
「これ……全部自分用ですか?」
 私は耳を疑った。
 レジの店員が、客の買うものになんか文句でもあるっての?
「そうだけど⁉」
「今日……誕生日ですよね……20歳の……初めてお酒を飲むのに、この度数をこの量は危険です」
 余計なお世話よ! 私はやけ酒飲むって決めてるんだから!
「あと、このスイーツの量も……一度に採ると……」
「ああ、もう、うるさいわね!!」
 私はレジの男を睨んだ。
 石田。
 コンビニの制服の胸につけられた名札に、そう書いてあった。
 もう! 覚えたわよ!!
 男は無言でレジを離れ、すぐに戻ってきた。
「これ、俺のオススメです。賞味期限がもうすぐきれるから、誕生日プレゼントです」
 は……誕生日……プレゼント?
 私は男がレジを通さなかった品物を見た。

 プリン。
 よりによってプリンかよ……あの女……ちくしょう……
「おめでとうございます」
 そんなのいらない、と言いかけた私の口が動かなくなった。

 おめでとう。
 誕生日、おめでとう!

 私は大好きな彼から、満面の笑顔でその言葉を受け取るはずだった。
 それなのに、こんな無愛想で暗い雰囲気の、石田とかいうコンビニの店員に“おめでとう”を言われるなんて!
「うっ……」
 限界は突然やってきた。
 酒を飲んでもいないのに、涙が止まらなかった。
 お店に、他のお客さんがいなくて本当に良かった。
 石田は、私が泣き止むのをただ黙って待っていた。
 どうせ憐れんでいるんでしょ? こんな惨めな私をさ!
「どうぞ」
 石田は、落ち着きを取り戻し、鼻をすする私にBOXティッシュを差し出してきた。
 チラ見すると、そこには愛想のあの字もない表情かおがある。

 無愛想に愛想のない声……覚えたわよ、石田……

「ありがと……」
 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔になった私は、急に込み上げてくる恥ずかしさをごまかすように、ちゃっちゃと顔を拭き、会計を済ませた。
 買った品物と例のプリンは、いつの間にか白いビニール袋に詰め込まれていた。
 私は乱暴にそれを掴んで、店を出る。
 重……さすがにちょっと欲張り過ぎたな……
 家に着き、お風呂からあがった私が見たプリンのラベルに印字されていたのは、まだ先の日付だった。

 石田……嘘ついたんだ……私が気を使わないように……

 なぜか、胸がどきりとした。
 暗くて無愛想な石田と、にこにこ笑う彼……もう元彼だけど……が交互に浮かんだ。

「プリン……うまいな……」
 ほろ苦いカラメルが、特に。
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