その童貞は返却可能か否か

矢須キヨ

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その童貞は返却可能か否か

第5話

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 迎えた金曜日の夜、前回と同じ座敷席に通された澪はまたも壁際の席を陣取って、みんなから見向きもされない食事の皿を目の前に集めていた。派手なロゴの入った箸袋から引き抜いた割り箸をパチンと割ってオニオンリングに齧り付く。今日も三々五々に分かれた友人たちはそこかしこで盛り上がっており、澪のことなどお構いなし……のはずだったのに。

「えっ、行くの? 行っちゃうの?」
「お、いよいよかぁ?」

 と俄に背後が騒がしくなったかと思うと、

「うるさい、黙れよ……あーっと……隣いい?」

 とん、と視界の端に雫を湛えたグラスが置かれる。しかし澪は長い指の持ち主に向き直ることも返事をすることもせずに胡瓜の梅肉和えを口に放り込んだ。

「あの、お邪魔します」

 ぼりぼりと咀嚼する音に掻き消されそうな声がそう告げて、隣で腰を下ろす気配を伝えてきた。
 
「あの、さ。その、羽島さんに謝りたいことがあって」

(羽島さん、ね)

 二人が関係を持って今日で三週間。言葉を交わすのもあの日以来。謝るにしては時間を置きすぎじゃないの、と心の中で指摘する。でも素知らぬ顔でシーザーサラダを頬張った。

「あれからその、連絡しなくてごめん。しようとは何度も思ったんだけど」

(でも結局してこなかったよね。目が合った日もあったのにね)

 むしろ目を逸らされた。あれは地味に傷付いた。

「それから、その……」
「『嘘ついてごめん』?」
「えっ」
「実は童貞じゃなかったとか? 手軽にセックスしたかっただけとか?」

 隣を見上げて、あの日彼が使った言葉をあえて口にしてやった。驚きに目を瞠る八重は今日もさっぱりとしたヘアスタイリングをしている。澪を抱いたときとは違う。

「え……」
「おかしいと思った。初めてなのに後ろからしたいとか言うから」
「や、違っ、違う!」

 ぶんぶんと首を横に振り、背後を気にした素振りを見せる。何かあるのかと澪も振り返ってみたら先程騒いでいた面々がちらちらとこちらを見ている。あぁ関係を知られたくない相手がいるのね、と思うと何だか癪に障った。
 八重はしょんぼりと肩を落として手で顔を覆う。長い指に押し上げられた眼鏡が額の位置までずれているのが面白いが指摘はしてやらない。

「俺、本当に初めてだった……」

 蚊の鳴くような声とはこんな声を言うのだろうか。

「後ろからエッチするのにそんなに憧れてたの?」
「……違う。羽島さんの顔がえろすぎて、正常位でしたら絶対早く射精る確信があって……」

 掌の奥でぼそぼそと蚊が囁く。

「挿入中にもっと色々出来たはずなのに必死で腰振ることしか出来なかったし、結局早かったし……」

 早かった、のだろうか。翻弄されてすぐに達してしまった澪には判断しがたいけれど。色々出来たの意味はひとまず置いておくとして。

(本当に初めてだったのかな)

 少なくともその点においては真実なのかもしれない。
 指の隙間からちらりと様子を窺う八重が小声で提案した。

「羽島さん、もっとちゃんと話したいから二人になれるところに行きたいんだけど……」
「……どこ?」
「俺の部屋、とか」

(……誘い方ベタすぎない?)

 なのにどうしてだろう、澪は頷いてしまった。あの日と同じように。
 ただし今日は興味の色を宿した仲間たちに見送られていたけれど。



 連れられてやってきたのは立派なマンションの一室。玄関から伸びた廊下の先には落ち着いた色彩のリビングがあり、その一角を見慣れないものが占拠していた。

「これ、キーボード?」
「うん、そう」
「すごい。本格的なんだね」

 鍵盤の周辺には様々な機器があり、複雑にコードが入り組んでいる。想像よりも大掛かりな機材に改めてすごいなと思う。
 「ここ座って」と促されたのはキーボード類を見渡せるゆったりした二人掛けのソファで、三週間前と同じように並んで腰掛ける。ここに向かう道中から互いに言葉少なだったせいもあり、二人きりでこの距離は気持ちが落ち着かない。しかし話したいと望んだのは向こうの方なのだからと澪は八重の言葉を待った。

「……羽島さん怒ってる?」
「え、何に対して?」

 指摘されるまで思い至らなかった。
 一連の出来事に自分は怒っているのだろうか。

「その、連絡しなかったこととか」
「目が合ったのに無視したこととか?」
「そ、れもあるし、セックスしたことも」
「……エッチしたことは怒ってないよ。受け入れたのは私だし、無理矢理でもないんだから」

 彼と身体を重ねて痛い思いをしたわけでも不快感を抱いたわけでもない。

「でも……目を逸らされたのは悲しかったかな。誰かに言いふらすつもりなんてなかったし、八重くんに知られたくない人がいるなら悟られないように気を付けようって思ってたし」

 真っ直ぐに八重の瞳を見つめて言うと、綺麗な形の眉がハの字になった。

「無視するくらいなら私じゃない人を選べば良かったのに」
「……俺は、羽島さんだから誘った」
「あんまり親しくないから関係を持ってもバレにくいもんね。安心して、匂わせとか初めての女アピールなんてしないからこの先も上手く隠し通せると思う」
「え……してくれないの?」
「え?」

 互いにポカンと間抜け顔になる。

「だって最近仲の良い女の子いるでしょ? あ、今日一緒に抜けてきて大丈夫だったの?」
「いっ、いない。仲の良い女子とかいないから!」
「え、でもイメチェンして女の子とベタベタしてたよね」
「あっうぅ」
「私のバイト先でも上級者ぶってたし」
「ぐうぅ」

 変な呻き声を上げて胸元を押さえている。八重のリアクションは見た目の大人しい感じに反してなかなか面白い。

「引かないで聞いて欲しいんだけど」
「それは約束出来ないよ」
「……なるべく引かないで欲しいんだけど、俺、童貞をもらってもらうなら羽島さんしかいないって前から思ってた」
「……うん?」

(童貞をもらってもらう?)

「一回抱けたらそれで満足しようって、あの日ダメ元で誘ってOKもらえて」
「……うん」
「そしたらキスもさせてくれたし、澪って名前も呼ばせてくれたし」

 澪の記憶が確かならばキスも名前呼びも割と一方的だったような気がしないでもない。

「羽島さんめちゃくちゃ可愛かったし、えろかったし、気持ち良かったし、諦めなきゃいけないって思いながらも振り向いて欲しい気持ちもあって」
「えっと、八重くんは童貞だからエッチがしたかったんだよね?」
「うん、羽島さんとセックスしたかった」

 何やら話に齟齬があるような。
 そう思うのに八重の口は止まらない。

「ダチに相談したら『もっと親しみやすい雰囲気作らなきゃ有象無象に埋もれるぞ』って言われて」
「それがあのイメチェン?」

 八重がこくりと頷く。

「でも見た目を変えても気後れするし、拙いセックスだったせいで話し掛けづらくて」

 拙いかどうかは澪に判断出来ない。過去の彼氏は一人だけだし、その記憶ももう薄れ掛かっているのだから。

「……私を選んでくれたの?」
「羽島さんだって決めてた」
「埋もれなかったのに」
「え?」
「前のままの八重くんでもちゃんと見つけられたよ、多分」

 教室でもカフェでもすぐに目が止まった。
 姿を見なくても声で聞き分けられた。
 だというのに目にする八重はあの日と様相を変えてしまっていた。

「あのね、私やっぱり怒ってるかもしれない」
「な、何に対して?」

 ずいと前のめりで訊いてくる。

「連絡くれないし、ご飯の約束もなかったことにされてるし、女の子とイチャついてるところ見せられるし、目を逸らされるし、他の子狙いだったんだね、そうやって女の子誘ってエッチしてるんだねって」
「ちょっ、後半の意味がわからないんだけど」
「私が見たこの三週間の八重くんの印象」

 絶望に項垂れる八重の前髪がさらりと額に落ちる。
 うん、そっちの方がいいな、と思ってしまう。

「八重くんって余計なことはぽろぽろ言うのに肝心なことは言わないよね」
「そ、それはどういう……」
「私、八重くんが私を選んで声を掛けてくれたのが嬉しかったんだと思う」

 上目遣いでこちらを窺うので澪もじっと見つめ返す。自信過剰でなければ、きっと答えはひとつしかない。

「私を選んでくれたのはどうして?」

 とくとくと脈打つ自分自身を意識する。
 さぁ言っちゃえ、と心で念じる。
 ここをさっさと明らかにしておけば、澪も八重も無駄な遠回りはせずに済んだはずだ。

「それは……」
「それは?」
「……羽島さんが好きだから」

 躊躇いがちな唇が紡いだのは澪が待ち望んでいた言葉だった。

「ご飯を奢ってくれるっていう話、ナシにしよう」
「えっ……俺とは行きたく、ない?」
「今日泊めてもらうから、おあいこにしよ?」

 頬笑む澪を見つめる八重が驚きに固まってしまったので、とうとう声に出して笑ってしまった。
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