その童貞は返却可能か否か

矢須キヨ

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その童貞は返却不可につき

第4話 side.八重

 一日の授業が終わり、待ち合わせ場所に向かう。白のショートコートと膝上のキュロットパンツを纏った澪が先に到着していて八重を待っていた。黒ストッキングのすらりとした足が眩しい。

「今日バイトなかったよね? 他に予定あった?」
「大丈夫、空いてるよ」
「じゃ、行こ」

 そう言って先立つ澪の後を慌てて追う。八重の頭の中は彼女が発した“話”という単語から滲み出る不安しかない。よもや別れ話では、と最悪の予想に気を落としながら到着したのは、八重にはまるで無縁なお洒落なカフェだった。

(え、何かデートっぽい)

 店内には女性連れだけではなくカップルの姿もちらほらと見える。ということは自分と澪も周りからそう見えているのではないだろうか。

「二名様、こちらのお席へどうぞ」

 店員に案内されたのは小さく仕切られた半個室で、テーブルと二人掛けのソファが置かれた席だった。澪が早々に腰掛けたので八重も隣にそろそろと腰を落とす。

「カップルシートだって」
「カップル……」

 真隣の澪がこちらを見上げて放った言葉を反芻する。やはりカップルに見えているのだ。初めてのペアシートに八重は密かに感動していた。

「八重くん、甘いものいける? おかず系の方がいい?」

 一方の澪はメニュー表をペラペラと手繰って華やかに撮影されたパンケーキの写真を眺めていた。どうやらこのカフェはパンケーキが売りらしい。

「……甘いのも平気だけど今はおかず系がいいかな」
「じゃあこの辺だね。色々あるよ、美味しそう」
「澪は?」
「私は甘いの。フルーツがいいな」

 澪は上機嫌な様子でメニューに釘付けだ。ほんのり微笑む横顔を可愛いと思うし、ひとまず暗い空気でないことにほっとする。
 ハムとチーズが添えられたパンケーキとベリー類をたっぷりトッピングしたパンケーキ、それと互いのドリンクを注文して一息ついた。

「ご飯ちゃんと食べてる?」
「え?」
「顔のツヤがあんまり良くないよ」
「つや?」

 そう言えば昨晩は体位の勉強のためにエロ動画を視聴して、そのシミュレーション中に寝入ってしまった。バイト終わりで夕飯を摂っていないにも関わらずだ。

「心配してくれてるの……優しい、可愛い」
「そうでなくても八重くんはほっそりしてるんだから」
「あうぅ」

 言いながら澪の指が八重の脇腹をパーカーの上から摘まむ。皮下脂肪が薄くてほとんど皮だがくすぐったくて変な声が漏れた。その反応がお気に召したのか、執拗に脇腹を狙う澪の手と攻防を繰り広げているうちに注文の品が運ばれてきた。

「わ、美味しそう。食べよう」

 お洒落に盛り付けられたパンケーキは美味しかった。少し交換してもいい?とお願いされて澪の皿から零れそうなほどのクリームをあしらった一欠片をもらって食べると、こちらも甘くて美味しい。

「おかず系もいいね」
「え、天国?」

 可愛い彼女と食事をシェアして微笑みかけられる。ここは現実世界なのだろうか。澪が「天国だよ」と答えるものだから当初の不安など忘れかけたときだった。

「ところで八重くん、確認したいことがあるんだけど」

 途端にぎしりと身体が強張る。
 あぁ、来てしまった。このまま甘い時間だけが流れれば良かったのに。

「……何?」
「八重くんが未経験だったって馬形さんに話したことある?」
「童貞のこと? 今まで彼女がいたことないって話はした。直接的なことは言ってない、けど……」

 澪が肩がぶつかる距離まで接近して声を潜めた。

「じゃあ私とエッチしたことは?」
「い、言ってない。言いたいけど言うわけない!」
「そっかそっか、なるほどね」
「え……え? 何がなるほど……?」

 何を納得しているのだろう。八重の童貞が尚も疑われているのだろうか。
 ストローでピーチティーを吸い上げた愛らしい唇が言葉を継ぐ。

「八重くんのこと、色っぽいって言ってたでしょ。わざわざ前髪に触って。あれ、マウントだと思うんだよね」
「マウント……」

 意味はわかる。ネット上でよく見掛ける言葉だ。

「女性経験のないあなたの彼氏に私は触れられるのよ、目が色っぽいことも知ってるのよ、みたいな」
「えぇー……」

 八重が鬱陶しいな馴れ馴れしいなと思うだけの行為にそんな意図が含まれていたというのか。俄には信じがたい。

「何の意味があって?」
「狙われてたんじゃない?」
「……俺が?」
「悪口みたいなこと言いたくないけど、相談女ってやつかなって」
「そうだんおんな?」
「そう。奥さんがいる人とか彼女がいる人に相談を持ち掛けてお近付きになろうとするひと

 澪の真っ直ぐな瞳が八重を見上げている。睨まれているわけではないのに何故か圧を感じる。

「な、ないない。近付いてない」
「気を付けてね。八重くん、ころっとはめられちゃいそうだから」

 ころっとはめられる。
 それはああいった類いの女に簡単に靡いてしまう、と思われているということか。

「……俺ってそんなに信用ない?」

 遠回りはしたけれど自分の気持ちは素直に伝えた。澪だからこそセックスしたいと思ったし、他の誰かとする気なんてさらさらない。少し悲しくなる。

「さっき言ったでしょ。疑いもするし嫉妬もするって。八重くんこそ私が何でも受け入れる、何をされても平気な冷めた人間に見えるの?」

 虚を突かれた思いだった。
 あり得はしない話だけれど、もし他の女とどうにかなってしまったとしたら澪はあっさり自分を捨てるだろうと頭の片隅で思っていたからだ。

(嫉妬してくれる、んだ)

 どこか不満げな上目遣いで見つめてくる恋人は八重の心が余所に向くことをよしとしないらしい。

(……何それ、めっちゃ可愛いし)

「澪はあったかいよ」

 首を傾けてちゅっと口づける。

「ち、ちょっ八重くん! 公共の場で何をっ……」

 ダサい誘い方しか出来ない自分を受け入れてくれた澪が冷たいわけがない。
 囁きながらも語気を強める澪の唇に、うっとりと目尻を熱くした八重はもう一度キスを落とす。

「だから、どうしてそう慣れてる雰囲気を出すの」

 ドン、と澪の拳が太腿に振り下ろされる。何て心地良い感触なんだろう。やっぱりここは天国なのかもしれない。
 尚も熱のこもった視線を送る八重に観念したのか。

「……そういうことは人のいないところでね」

 澪がそう囁くので残ったパンケーキを美味しく美味しく味わって食べきった。

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