幽冥婚姻譚

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第一幕 常闇の花嫁

五 人ならざる

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「外は、今どうなっている」

 は、しきりに外を気にした。外の事は一切知れぬのだと言う。存外、神も不自由なものなのだな、程度にしか椿は感じなかった。

「どう、と言われましても……ここの所、平穏で騒がしい事件もありません。西の都は遠いですから、噂話しか聞きませんし」
「……待て、今の都は西か」
「ええ、百年ほど前に遷都したかと」
「では、戦はどうだ」
「戦が終わったから、遷都が整ったと言えます」
「……では、この村はどうなっている」
「この村は桃源郷と噂される程に豊かで実りがあると言われています。“声”の限りはそうなのでしょう。今では、随分と利益がある村です」
「その声とやらは、他に何を言った」
「残酷なことばかり。命を糧にして生き残った村は、今では命を犠牲にして利益を得るのだと」
「……そうか」

 鮮明になった声が、落胆して沈んだようだった。
 
 それからも、は不意に姿を消しては現れるを繰り返した。
 求める事は単純で、その殆どが会話だった。
 どの季節に生まれたか、どこで育ったか、どうやって生きてきたか。
 記憶だけでは辿れぬ些細な思い出を椿に語らせた。

 椿にとって、思い出は暗闇の底だった。音だけが全て。
 けれども、その身に触れたはずの両親を思い返しては、両親と過ごした日々を静かに語った。
      
 もまた、椿の身に触れながら静寂の中にある椿の声に耳を欹てた。
 

 ◇ 
  

 どれだけの時が過ぎたのだろうか。
 椿は壁際に背をつけ呆然と座っていた。 
 元々、人の声や状況といった感覚的にしか時間を気にしていなかった椿にとって、永遠に続く暗闇は培った経験を消してしまうほどに感覚を惑わせた。おかげで今が昼か夜かも分からない。
 ただ、不思議な事がいくつかあった。
 まず空腹の感覚も、喉の渇きも一切感じられなくなったと言う事。排泄の感覚すら湧いてこない。眠気こそあるが、倦怠感や疲れといった些細な事すら消えてしまったのだ。
 が。ふと、の言葉が浮かんだ。

『ある意味で死人みたいなものだ』

 その言葉の通りなら、と椿は己の心臓に手を当てた。が、しっかりと脈を打つ感覚が確かにある。どうやらまだ人間に近いものではあるらしい。

 ――私は、消えてしまいたいのに

 この刀根田村は毎年神事を執り行うが、十年に一度だけは特別な供物が用意された。それ迄は、村の外から買っていた女児を十年囲って村長夫妻の末娘として育てていたのだ。だから、後腐れも無かった。

 だが、過去の儀式に花嫁役として出向いた女の誰一人が生きて戻ってはいない事を知ってしまった此度の娘は、儀式の直前になって村人の一人と逃げてしまったのだ。

 その代役として、椿は選ばれた。後腐れなく、消えても何の問題も無い存在として。
  
 既に、が八千矛神であるかどうかは、椿の中では疑わしいものになっていたが、それに関してはどうでも良かった。
 問題は何を考えているのかが底知れない事だ。どれだけ会話を繰り返しても、の行動原理は曖昧で、なぜ知りたいかを問いただしても会話がしたいからとしか答えないのだ。
 とても、“声”達が言っていた残虐な存在とは重ならない。
  
「確実に、死ねると思ったのに」

 椿は、蔵へと入る前から全てを知っていた。椿が探る必要もなく、が勝手にあれこれ教えてくれるのだ。
 だが今、しんと静まり返った暗闇。椿の言葉に、暗闇は応えない。いつも聞こえていた声達は、この蔵では存在していない。
 更にはも今は、気配を消していた。どうにも、も時々眠らなければ生きてはいけないらしい。が眠っている時は、声をかけようが椿が蔵の中を歩き回ろうが、気配は出ては来ないのだ。 

「これから、どうなるのかしら」

 椿は再び独り言つ。
 口を開いたところで、放った言葉は闇の中へと溶けて消えていくだけ。
 無音という暗闇は欲しかったはずの静寂でこそあったが、虚無感に苛まれた思考が肉体の支配を奪った。力の抜けた身体はずるずると背中を壁で滑らせて横に倒れる。
 思い出すのは、いつだって両親の声だ。

 ――椿……

 寂しさを堪えるように、椿は身を縮こめる。手を畳の上に這わせて古びた藺草の匂いを嗅ぐ。忌まわしくも閉じ込められていたは、両親の記憶を何度も何度も呼び起こした場所だった。

「お父さん、お母さん……」

 気丈に振る舞ってはいるが、椿はまだ十八歳。どれだけ自分の状況を知り尽くし覚悟したところで、孤独までは拭えやしなかった。
 悲しみは、涙となって頬を伝い流れる。
 静かに、静かに。
 
「どうした、泣いているのか」

 流れた涙の影響か、それとも偶然か。闇もまた、蠢くと共にの気配が漂った。椿にそっと体温が触れる感覚と共に抱き上げられた温度に包まれる。で横抱きにされていた状態で、椿はへと縋りついた。
 は、椿にとって唯一の温もりだった。
 両親を失ってから抱きしめられるどころか、誰かに触れられる事も殆ど無かった椿にとって、久しく味わう事の無かったものだ。例え、それが神であれ異形であれ、椿は唯一の温もりを受け入れていた。

 肌が触れ合うたびに人間味を増すの気配。肌を重ねたからこそ、椿はの優しさだけは伝わっていた。
 だからこそ、真意を知る必要があった。

「私を殺さない本当の理由を教えてはいただけませんか?」

 抱きしめる感触は、また人らしく変わっていく。
 触れる度、会話を重ねる度、の声の形、温もりの全てが、はっきりと人へと変じていた。

「……俺は、此処から出たい」
「私を利用する為に生かしている……そう言う事ですね」
「ああ、そうだ」

 は淡々と述べたが、椿の事は優しく抱き留めたままだった。

「何も、好きでこんな暗闇に棲んでいるわけじゃない」
「では、何故?」
「……俺は、神などでは無い。俺は――この村で創られた、化け物だ」

 は寂しげに、始まりを語り始めた。

「あれは……そうだな、冬が始まる頃だった――」
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