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第四幕 鬼といろ
拾漆
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離れは酷い匂いだ。松葉は顔に出すことこそないが、穢れに塗れたその場が異様でならなかった。贄の儀の前に、契約主である当主が力を貯めるのはいつものことだ。
贄を喰らう時。すなわち、羅刹鬼が本性を顕す時。羅刹鬼と契約主は一心同体も同然。弱ければ、化生の側に引っ張られることもある。その事前の対処としての悪食だ。力を貯め、力を高め、羅刹鬼の本性に対抗する為。
だが、それをもってしても、此度の当主の行動は異常だった。
――あれでは異形だ。悪鬼に成り下がることすら有り得るかもしれん。
本来であれば、贄の儀の前とて朔日だけだった悪食を満月にも増やす程度だ。わざわざ離れを屍と穢れで埋め尽くすなど前例はない。
――焦っているようにも見えたが……一歩間違えれば、危険極まりない綱渡りだな。
それが、自身の身内であり、一族当主と思うと先が思いやられた。とはいえ、前回の儀式のことを鑑みてのことだろう。
此度、鍵を握るのは、今、松葉の目前にいる女だ。
先ほど、当主の前で喰われたいなどと啖呵を切った女。離れを出て、見事に穢れまみれの身体で、更には小袖は血に塗れて。ついでに首も髪も早々に落とさねば、しつこい汚れになることだろう。化生の屍の血は厄介だ。
「ねえ、もう用事は済んだのから湯殿に行って良いんでしょ?」
女――牡丹はすでに湯殿へ向かって歩いていた。尋ねるのも今更と思ったが、松葉は「ああ」と気の抜けた声で返した。
「見張は俺が。湯船は好きなだけ汚せ、下女への言い訳は俺がしといてやるから」
「あら、ありがと」
「心にもないことをわざわざ言わなくて良い」
「何よ、私が感謝を口にしたらいけないの?」
「そういうわけじゃないが」
松葉にとって、牡丹は一番近しい人物だった。まあ、恐らくという言葉が前につくのだが、同腹の妹と考えている。顔は似ていなかったが、母と思しき人物の最後に一緒に立ち会わされたことがあるからだ。
だから、と言って牡丹に対して多大な情があるかといえば、そうでもない。妹と確信しても同じだろう。ただ、冷静な思考と霊媒としての強さは、信頼できると考えていた。
もう、湯殿の建屋に入った頃だった。人気も無い。今であれば、鬼もいない。松葉は今しかないと思った。
「お前は逃げようとは思わんのか」
「思わないわ」
振り返った牡丹が出した声はあっさりとした返答だった。が、牡丹らしいとも思った。
「ねえ、さっきの話、聞いてたんでしょ? 呪のことも見てたんでしょ? それでも私の本心は見えないの?」
松葉は「否」と言った。呪による言葉は疑っていない。ただ、別の方法を持ちかけたかっただけだった。
「なあ、俺とお前とで当主を討たないか。あれはもう駄目だ。此度の儀式の前に悪鬼に落ちるか、成功したとしてももう……だとすれば、力のあるお前をむざむざ殺さず、同士とした方が有益だ」
「それで、闇討ちが成功した暁には、あなたが契約主を奪って、私を鬼の贄にするの?」
「いや、今まで通り鬼と好きに暮らせば良い。贄は他で育てる」
松葉は牡丹が望むとすれば、鬼ぐらいだと考えていた。昔から駄々も捏ねたことがない。本当に手のかからない贄だった。だが、牡丹の返答は思い通りのものではなかった。
「悪いけど、やるなら勝手にどうぞ」
湯殿の扉が差し迫っていた。牡丹はその扉に背をついて、微笑みを見せる。血に塗れてはいたが、十八とは思えぬ色香を漂わせ、妹でなければ良い女とでも思っただろう。
「何故だ。好き勝手に生きて良いと言っている。鬼の情婦じゃ不満か」
「不満よ」
これには松葉は驚いた。贄で鬼に気に入られたのは、後にも先にも牡丹だけだ。
「だって、鬼の寵愛なんていつ消えるともわからないもの。適当に合わせて恋人のふりをするのは簡単よ。それなりに楽しいし。黙って鬼に従っていれば、他の子みたいに下手に口も手も出されない。私にとってこれ以上の生活がないわ。でももし――飽きられたら? 私は歳をとるわ。力が落ちるかもしれない。人の愛情だって変わってしまうものなのに、鬼の考えが変わったらどうするの?」
松葉から見て、牡丹は鬼に愛情を注がれていると感じていた。いや、鬼にそのような情があるかどうかは知れないところだ。しかし、牡丹の言い分も、まあ然り。
「じゃあ、何を望む。死ぬことか?」
「そうね。それが良いわ」
牡丹は自分の命を語っているとは思えないほどに淡白だった。牡丹はいつもそうだ。
「何故だ」
「私、母みたいに惨めに死にたくないの」
松葉は言葉に詰まった。母と思しき人物の死は、悲惨の一言だったからだ。
「あの時、一緒に居たわよね? はっきりとは覚えていないけど、松葉だったでしょ?」
松葉は肯定として、一つ頷く。
「やっぱり。なんとなくそうかなって思ってたの」
松葉は常に綿布で顔を隠している。牡丹に顔を見せたのは、その時一度きり。どうして判ったのか。そればかりは不可思議だったが、尋ね返すことはなかった。
「母って、何人か子供を産んだんでしょ? そういう役目だったって」
不知火は霊媒として力のある女を買い、子を産ませることを常とする。買われた女の役目は安全な都で産むことだけ。だから、父親は不知火の誰か程度で不明なことが多いし、母に育てられる覚えもない。無事に産まれた子供は、郊外にある不知火の本邸へと連れて行かれ、祓い師となるか、贄にされるか、または下女下男となるか。
しかし、子が産めなくなると、もう用済みとされる。
母の末期は、使役される鬼や妖の餌だったのだ。
「母は生きたままむざむざ喰われた。しかも、名もない鬼や魑魅魍魎。悲鳴をあげて、惨たらしいと言うこと以上に、母が惨めに見えてしまったの」
牡丹から微笑みは消えていた。母の面影と思いたいが、松葉は一度しか見ていない女の顔を思い出せるほどの情は持ち合わせてはいない。
「羅刹鬼に喰われるのと何が違う」
「違うわよ。だって、私初めて会った時に思ったの」
一度、沈んだ牡丹の顔が、再び返り咲いた。牡丹の花が咲き誇るように、しかし女の色艶は携えて。
「この悍ましい鬼に喰われるのであれば、私の命にも意味があったと思える、と」
贄を喰らう時。すなわち、羅刹鬼が本性を顕す時。羅刹鬼と契約主は一心同体も同然。弱ければ、化生の側に引っ張られることもある。その事前の対処としての悪食だ。力を貯め、力を高め、羅刹鬼の本性に対抗する為。
だが、それをもってしても、此度の当主の行動は異常だった。
――あれでは異形だ。悪鬼に成り下がることすら有り得るかもしれん。
本来であれば、贄の儀の前とて朔日だけだった悪食を満月にも増やす程度だ。わざわざ離れを屍と穢れで埋め尽くすなど前例はない。
――焦っているようにも見えたが……一歩間違えれば、危険極まりない綱渡りだな。
それが、自身の身内であり、一族当主と思うと先が思いやられた。とはいえ、前回の儀式のことを鑑みてのことだろう。
此度、鍵を握るのは、今、松葉の目前にいる女だ。
先ほど、当主の前で喰われたいなどと啖呵を切った女。離れを出て、見事に穢れまみれの身体で、更には小袖は血に塗れて。ついでに首も髪も早々に落とさねば、しつこい汚れになることだろう。化生の屍の血は厄介だ。
「ねえ、もう用事は済んだのから湯殿に行って良いんでしょ?」
女――牡丹はすでに湯殿へ向かって歩いていた。尋ねるのも今更と思ったが、松葉は「ああ」と気の抜けた声で返した。
「見張は俺が。湯船は好きなだけ汚せ、下女への言い訳は俺がしといてやるから」
「あら、ありがと」
「心にもないことをわざわざ言わなくて良い」
「何よ、私が感謝を口にしたらいけないの?」
「そういうわけじゃないが」
松葉にとって、牡丹は一番近しい人物だった。まあ、恐らくという言葉が前につくのだが、同腹の妹と考えている。顔は似ていなかったが、母と思しき人物の最後に一緒に立ち会わされたことがあるからだ。
だから、と言って牡丹に対して多大な情があるかといえば、そうでもない。妹と確信しても同じだろう。ただ、冷静な思考と霊媒としての強さは、信頼できると考えていた。
もう、湯殿の建屋に入った頃だった。人気も無い。今であれば、鬼もいない。松葉は今しかないと思った。
「お前は逃げようとは思わんのか」
「思わないわ」
振り返った牡丹が出した声はあっさりとした返答だった。が、牡丹らしいとも思った。
「ねえ、さっきの話、聞いてたんでしょ? 呪のことも見てたんでしょ? それでも私の本心は見えないの?」
松葉は「否」と言った。呪による言葉は疑っていない。ただ、別の方法を持ちかけたかっただけだった。
「なあ、俺とお前とで当主を討たないか。あれはもう駄目だ。此度の儀式の前に悪鬼に落ちるか、成功したとしてももう……だとすれば、力のあるお前をむざむざ殺さず、同士とした方が有益だ」
「それで、闇討ちが成功した暁には、あなたが契約主を奪って、私を鬼の贄にするの?」
「いや、今まで通り鬼と好きに暮らせば良い。贄は他で育てる」
松葉は牡丹が望むとすれば、鬼ぐらいだと考えていた。昔から駄々も捏ねたことがない。本当に手のかからない贄だった。だが、牡丹の返答は思い通りのものではなかった。
「悪いけど、やるなら勝手にどうぞ」
湯殿の扉が差し迫っていた。牡丹はその扉に背をついて、微笑みを見せる。血に塗れてはいたが、十八とは思えぬ色香を漂わせ、妹でなければ良い女とでも思っただろう。
「何故だ。好き勝手に生きて良いと言っている。鬼の情婦じゃ不満か」
「不満よ」
これには松葉は驚いた。贄で鬼に気に入られたのは、後にも先にも牡丹だけだ。
「だって、鬼の寵愛なんていつ消えるともわからないもの。適当に合わせて恋人のふりをするのは簡単よ。それなりに楽しいし。黙って鬼に従っていれば、他の子みたいに下手に口も手も出されない。私にとってこれ以上の生活がないわ。でももし――飽きられたら? 私は歳をとるわ。力が落ちるかもしれない。人の愛情だって変わってしまうものなのに、鬼の考えが変わったらどうするの?」
松葉から見て、牡丹は鬼に愛情を注がれていると感じていた。いや、鬼にそのような情があるかどうかは知れないところだ。しかし、牡丹の言い分も、まあ然り。
「じゃあ、何を望む。死ぬことか?」
「そうね。それが良いわ」
牡丹は自分の命を語っているとは思えないほどに淡白だった。牡丹はいつもそうだ。
「何故だ」
「私、母みたいに惨めに死にたくないの」
松葉は言葉に詰まった。母と思しき人物の死は、悲惨の一言だったからだ。
「あの時、一緒に居たわよね? はっきりとは覚えていないけど、松葉だったでしょ?」
松葉は肯定として、一つ頷く。
「やっぱり。なんとなくそうかなって思ってたの」
松葉は常に綿布で顔を隠している。牡丹に顔を見せたのは、その時一度きり。どうして判ったのか。そればかりは不可思議だったが、尋ね返すことはなかった。
「母って、何人か子供を産んだんでしょ? そういう役目だったって」
不知火は霊媒として力のある女を買い、子を産ませることを常とする。買われた女の役目は安全な都で産むことだけ。だから、父親は不知火の誰か程度で不明なことが多いし、母に育てられる覚えもない。無事に産まれた子供は、郊外にある不知火の本邸へと連れて行かれ、祓い師となるか、贄にされるか、または下女下男となるか。
しかし、子が産めなくなると、もう用済みとされる。
母の末期は、使役される鬼や妖の餌だったのだ。
「母は生きたままむざむざ喰われた。しかも、名もない鬼や魑魅魍魎。悲鳴をあげて、惨たらしいと言うこと以上に、母が惨めに見えてしまったの」
牡丹から微笑みは消えていた。母の面影と思いたいが、松葉は一度しか見ていない女の顔を思い出せるほどの情は持ち合わせてはいない。
「羅刹鬼に喰われるのと何が違う」
「違うわよ。だって、私初めて会った時に思ったの」
一度、沈んだ牡丹の顔が、再び返り咲いた。牡丹の花が咲き誇るように、しかし女の色艶は携えて。
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