ねえ、魚のエサにしちゃおっか

南極

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八話 笑い

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それからも周りの目を盗んで包丁を握りしめる日々は続いた。
そして、父さんも母さんもみんな殺して自由になりたいという気持ちとそんなことを考えてしまう自分が大嫌いで死にたいという気持ちが対立して、頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
昨日、日課のように調理室に行こうとしていたら、廊下を歩いていた母さんに見つかってしまったからだ。
俺を見た母さんは当然何をしているのかと聞いてきた。
だけど、本当のことを答えられるわけがない。
上手い言い訳も思いつかず、黙っていると、腕を思いっきり引っ張りながら自室に連れ戻されたのだった。
強い力でぐいぐい引っ張るから、腕が痺れてすごく痛かった。
それで、一日経った今日、朝起きたらドアに鍵が取り付けられていたのだった。
ただ寝る頃に鍵の取り付け工事なんてしていたら俺が起きてしまうだろうから、どうやってやったのかはよく分からないけど。
昨日の夕食に睡眠薬でも入っていたとか?
だとしたら怖すぎる。
まあ俺が爆睡していて本当に起きなかっただけかもしれないけど。
だから今、俺は一時の心の安定としていた包丁という凶器を失い、このもやもやをどこにぶつければいいのか分からなくなっているのだ。
イライラして落ち着かない。
頭を思いっきり掻きむしった。
爪の間に白いふけが入る。
本当は大声でも上げて発散させたいけど、誰かが部屋に来たら面倒なのでやめておく。
誰も来ないかもしれないけど。
どうしよう。こんなときに笑えてきた。
あんなに笑えなくて鏡とにらめっこしていたのに。
ふと教科書が入った収納ボックスが目に入った。
近づいて、上から十冊ほど手に取る。
そのままそれらを持ち上げて、頭の上で一旦止めると、両手を広げてばらまいた。
バサバサと大きな音を立てて部屋中に散らばる。
ページが開いたり、折れ曲がったりしているものもある。
あれ、これ気持ちいい。
今は自習する時間だって母さんに決められているのに、俺は無我夢中で物を壊したり、投げたりした。
「あはは。」
こんなときに笑えてくる。
いつのまにか声まで出ていた。
楽しいなあ。
「えへへ。」
部屋を駆け回る。
そのとき、ノックが聞こえた。
我に返って足を止める。
母さんは鍵を開けて入ってきて
「翔…。何これ!何やってるの!?早く片付けなさい!」
部屋中に響き渡る怒鳴り声。
やってしまったと思った。
「…はい。」
ここは大人しく返事をする。
また母さんを失望させてしまった。
落とした教科書を一冊ずつ拾っていく。
「翔太、頭でもおかしくなったの?それとも元からだった?」
「…いいえ。」
俺は母さんの言葉にいいえ、としか返せなかった。
部屋をこんなに散らかしてもやもやとイライラを追いやったはずなのに、やつらはすぐに俺の元へ帰ってきてしまった。
行き場のない複雑な感情たちは一体どうすればいいんだろうか。

それから俺は、心の中の口癖として、よく死ねと言うようになった。
時々、部屋の窓から外を見下ろしているけど、そのときに誰か通ったら、必ずその人に向かって死ねと言っている。
父さんや母さん、お手伝いや先生が部屋に入ってきたときにも死ねと言う。
ただ死ねと心の中で言っているだけで、実際には何もしない。
というか何もできない。
鉛筆と消しゴムと定規で一生懸命武装してもかっこ悪そうだ。
本当にどうしようもない。
とてつもなく俺は無力だ。
ひたすら勉強をして気を紛らわせるしかないのかもしれない。
父さんと母さんは一問でもミスして満点じゃないと怒るし。
俺は絶対に期待に応えて、父さんの会社を継がないといけないのだ。

そのまま四年の月日が経ち、ある日、事件は起きた。
俺が数学の問題の答え合わせをしていたときだった。
場所は言うまでもなく、鍵のかかった自室。
ノックなしで鍵が開く音が聞こえたのだ。
生まれてからそんなことは一度もない。
ということは生まれてからまだ一度も会ったことのない人?
ドアがゆっくりと開いた。
「失礼しま~す…」
ドアを開け、中を窺うように見る人物と目が合う。
「あっ!こんにちはー!」
花が咲いたような笑顔だった。
「え…。こんにちは。」
とりあえず挨拶は返す。
黒髪ですらっとした手足の女の子。
歳は小学校低学年くらいに見える。
「本当に人いたんだあ。お名前はなんですか?」
女の子はドアを閉め、俺のそばまで来た。
顔がよく見える。
黒くて大きい瞳。小さな唇。シュッとした顎。
すぐに俺の妹だと確信した。
「俺は…山田翔太…。」
恐る恐る自分の名前を口にする。
もしかして妹のほうは父さんや母さんから俺の存在を知らされているのか?
「山田しょうた…。同じ名字だね!」
うわ、バカだった。
自分の存在がバレないでうれしいような悲しいような。
「われは山田太陽!よろしくね~!」
にこっと笑いかけられた。
「太陽っていうのか…。」
すごい名前だなあ。太陽だって。
本当に太陽みたいに明るい子だし、ぴったりだとは思うけど。
「そうだよ!われらしょうたいようだね!しょうたと太陽で!」
「あ、そういうことか。」
父さんと母さん、どっちがそんな名前をつけたんだろう。
俺は父さんがつけてくれたらしいけど。
翔太陽とか…。
「ぶふぁっ!あはは。」
「あれ~。しょうたくん笑った!もう!」
太陽は眉をつり上げ、口をとがらせた。
「あはは。ごめん、ごめん。」
こんなに普通に笑えたのって初めてだ。
しかも久しぶりに誰かを見て、死ねって思わなかった。
太陽がまた笑った。
「いいよ~!」
彼女はとてもきれいに笑う。
誰よりもずっと。
歯並びがいいとか、顔がかわいいとかじゃなくて、目をキラキラさせながら自然に笑うのがうらやましかった。
自由とはこういうことかと思った。
「そろそろわれは帰る!実はこれママの部屋から取って来ちゃったの!」
小さな手に収まる鍵を見せてくれた。
「またね、しょうたくん!」
「ああ。また、ね。」
また、か。
そんなことを言われたのも初めてだ。
最初から最後まで忙しかった彼女は、手を振りながらドアを閉め、帰っていった。
太陽、俺たち八年一緒に暮らしてるんだよ。
誰もいなくなった部屋は重い沈黙だけが残り、静かだ。
またなんてあるのだろうか。
ただまた会いたいとは強く思った。
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