『偽物の番』だと捨てられた不憫な第三王子、隣国の冷徹皇帝に拾われて真実の愛を教え込まれる

レイ

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六話

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 深い夜がアイゼン帝国の皇城を包み込んでいた。
 フィオーレは、客室で大人しく眠りに就こうとしたものの、どうしても目が冴えてしまっていた。枕元に置かれた、ヴォルフラムから贈られた木彫りの小鳥。それをそっと撫でると、昼間の街の喧騒と、握られた手の熱が蘇ってくる。

(ヴォルフラム様は、まだお仕事なのかな……)

 彼は皇帝だ。フィオーレに構っている時間以外は、この広大な帝国を維持するための膨大な公務に追われている。
 ふと、廊下の向こうから微かな明かりが漏れているのが見えた。執務室だ。
 フィオーレは、テレーゼから「もし陛下が夜更かしをされていたら、これをお持ちして」と託されていた、保温魔法のかかった水差しを思い出した。

「……少しだけ、お顔を見に行ってもいいかな」

 フィオーレは、新しい部屋着の上から、街で仕立ててもらったばかりの薄手のケープを羽織った。足音を立てないよう、絨毯の上を滑るように歩く。
 執務室の重厚な扉が、わずかに開いていた。
 中を覗き込むと、山積みの書類に囲まれ、眉間に深い皺を寄せたヴォルフラムがいた。彼は片手でこめかみを押さえ、もう片方の手で羽ペンを走らせている。

 その隣には、眼鏡をかけた真面目そうな文官が、困り果てた顔で立っていた。

「……陛下、やはり北部の**ヘルマン**領の件ですが、農地の痩せ細りが止まりません。領民からは『大地の呪い』だと嘆願書が出ております。このままでは今冬の備蓄が……」
「呪いなどと、馬鹿げたことを。だが、原因が分からんことには対策も打てん。土壌の改良剤も効果がないとは、どういうことだ」

 ヴォルフラムの声は、昼間よりも低く、硬い。
 彼は手元の報告書を乱暴に放り出した。カサリ、と乾いた音が静かな室内で不穏に響く。
 フィオーレは、入るタイミングを失って扉の影で固まっていた。けれど、「農地の痩せ細り」という言葉に、図らずも耳が反応した。

(大地の、呪い……?)

 かつて、ラングリス王国の庭の片隅で、フィオーレは同じような光景を見たことがあった。
 フィオーレは、意を決して扉を小さく叩いた。

「……あの、失礼いたします」
「フィオーレか。なぜ起きている」

 ヴォルフラムが顔を上げた。その瞬間、険しかった表情が、春の陽だまりが差し込むようにふわりと和らぐ。彼は羽ペンを置き、椅子に深く背を預けた。

「テレーゼさんに、お飲み物を持っていくように言われて……。お邪魔でしたか?」
「いや。ちょうど、行き詰まっていたところだ。こっちへ来い」

 ヴォルフラムが手招きする。フィオーレは恐る恐る近寄り、机の端に水差しを置いた。
 横に立っていた文官のヘルマンが、不思議そうにフィオーレを見ている。

「陛下、このお方は……?」
「ラングリスから来たフィオーレだ。俺の大事な客人……いや、庭園の管理者だ」

 ヴォルフラムは、フィオーレを自分の椅子のすぐ隣まで引き寄せた。
 フィオーレの視界に、机の上に広げられた領地の地図と、茶色く変色した「土」のサンプルが飛び込んでくる。

「あの……さっきのお話、聞こえてしまって。その土、少しだけ拝見してもいいですか?」
「お前が? 構わんが、汚れるぞ」

 ヴォルフラムが頷くと、フィオーレは慎重に小瓶の中の土を手のひらに出した。
 鼻を近づけると、鉄のような、独特の錆びた匂いがする。指先で転がすと、ざらりとした感触のあとに、妙にベタつく感覚が残った。

「……これは、呪いじゃありません」
「何だと?」

 ヘルマンが目を見開いた。
 フィオーレは、土を一心に見つめながら、かつての記憶を辿る。

「この匂いは、土の中に余分な『鉄の魔力』が溜まっている時のものです。この領地、近くに古い鉱山か、鍛冶場はありませんか?」
「……確かに、その領地の山背には廃坑となった鉄鉱山がありますが、それが何か?」
「鉄の成分が地下水に溶け出して、田畑に流れ込んでいるんです。植物は、これ以上鉄を食べられないって、お腹を壊しているみたいに……。だから、改良剤を撒いても、逆効果になってしまいます」

 フィオーレは、無意識のうちに土の「声」を代弁していた。
 ヴォルフラムとヘルマンが、息を呑むのが分かった。

「……では、どうすればいいのだ。その水を止めればいいのか?」
「いえ、止めるのは大変ですから……代わりに、この土に『白い石灰の粉』と、特定の『水生植物』を植えてみてください。その植物が余分な鉄を吸い取って、土を掃除してくれます」

 フィオーレがそう言い終えると、室内には沈黙が流れた。
 自分の発言が突飛すぎたのではないか。そう不安になったフィオーレは、慌てて土を瓶に戻した。

「す、すみません! 私、専門的なことは分かりません。ただ、昔バラの根っこが同じようになっていた時に、そうしたら治ったので……」
「……ヘルマン。今すぐ、北部の地質調査班に連絡を入れろ。フィオーレが言った条件で調査し、試験的に石灰を導入させろ」
「は、はっ! 直ちに取り掛かります!」

 ヘルマンは、驚きと感銘が混ざったような顔でフィオーレに一礼し、風のように部屋を飛び出していった。
 残されたのは、煌々と燃える暖炉の火と、二人きりの空気。

「フィオーレ」

 名前を呼ばれ、フィオーレは肩を揺らした。
 ヴォルフラムが椅子から立ち上がり、フィオーレの前に立つ。その圧倒的な長身に、フィオーレは見上げる形になった。

「……あ、あの、生意気なことを言って……」
「逆だ。お前は、この国を救うかもしれない知恵を出した」

 ヴォルフラムの手が、フィオーレの頬に触れた。
 そのまま、親指の腹でフィオーレの下唇をゆっくりとなぞる。
 熱い。昼間の街で見せた優しさよりも、もっと深くて重い情熱が、その指先から伝わってくる。

「ラングリスの連中は、本当の無能だな。これほどの宝石を、泥を被せて捨てておくとは」
「宝石だなんて……私は、ただ、花が好きなだけで……」
「その『好き』が、俺の領民を救うのだ。……フィオーレ、もう自分を卑下するな。お前は俺の庭だけではなく、この国に光をもたらす者だ」

 ヴォルフラムは、フィオーレの細い腰に腕を回し、ぐいと自分の方へ引き寄せた。
 ケープ越しに伝わる、彼の逞しい体温。
 フィオーレは、ヴォルフラムの胸に顔を埋める形になり、そこから聞こえる力強い鼓動に胸が締め付けられた。

(この人は、私のことを、こんなに……)

 必要とされる喜び。
 今まで味わったことのない感情が、フィオーレの心の中で芽吹いていく。
 ヴォルフラムは、フィオーレの銀髪に深く顔を埋め、長い吐息をついた。

「今夜は、もう寝かせんぞ。……お前に、もっと色々なことを教わりたくなった」

 それは執務の話なのか、それとも、もっと別のことなのか。
 ヴォルフラムの腕の中、フィオーレはただ、高鳴る鼓動を隠すように彼のシャツをぎゅっと握りしめることしかできなかった。
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