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第二章
『下界』
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3.
夜、私の部屋の前に黒ずんだ皮だか着物だかが脱ぎ捨てられていて、翌朝になると消えている。私はそれを小夜に訴えようかと考えたけれど、できなかった。気が触れたのではないかと思われたくなかったからだ。もちろん、女中たちにも打ち明けられない。
翌日も同じことが起こるかと、私はひとり待ちかまえていた。しかし、次の日は何事も起きなかった。ひと晩中、部屋の前の廊下を見張っていたのだから、見逃したわけではないだろう。
それとも、異変はあの一度きりだったのだろうか。そう思って警戒を止めると、三日後の夜中に事が起こったりもした。
こうなると、例の古びた着物の持ち主を見つけだすことも難しい。着物の主が何か盗んだり、傷つけたりすることがないのが唯一の救いだろう。しかし、窃盗目的でないのなら、なぜこんな邸の廊下で同じような襤褸を脱ぎ捨てていくのか。
嫌がらせのつもりなのだろうか。
しかし、何の権限もない入り婿に嫌がらせをしたところで、何の得にもならないはず。なぜ、私のいる部屋の前に脱ぎ捨てた襤褸を置いていくのか。何か伝えたいことでもあるのか。私はひどく不思議だった。
「旦那さま、難しいお顔をされていますね」
例の異変に遭遇して幾度目かの朝、朝食の席で小夜が言った。その声に我に返って顔を上げる。久しぶりに彼女の顔を真正面から見た気がした。
婚礼の日に色黒だと感じた小夜だが、季節が過ぎたせいか肌の色が白くなってきたようだ。おまけに小柄に見せた体格も、背筋が伸びて背が高くなったように思う。髪は白いままだが、老婆のようだと嫌悪を感じた妻は、今では十分に魅力的な女になっていた。美人は三日で飽き、不美人は三日で慣れると聞く。だとしたら、私も一緒に暮らすうちに小夜の容姿に慣れたということなのだろうか。
ただ、ひとつ気になることがあった。
若返ったかのような小夜の容貌が、どこか実家で見たことのある娘・さくらに似ているような気がするのだ。とはいえ、さくらと小夜は他人のはずなのに、どうしてあの娘を連想させるのか。他人の空似なのか、それとも、何かのつながりがあるのかは分からないが。
このところ、不思議なことばかり起きている。
しかし、私生活が不可思議に満ちていることはさておき、小説の執筆の方は順調だった。小夜が私の書いたものを読んで感想をくれるのが、参考になるからだろう。先日、面白いと小夜が誉めた小説の原稿を出版社に送ったところ、雑誌に掲載したいという。その打ち合わせのため、私は街に出ることにした。
山奥の屋敷を後にして、家が軒先を寄せ合うように立つ街へ。まるで深山幽谷から下界へ出てきた世捨て人のような心地だ。屋敷の最寄り駅は列車の本数が少ない。その列車を乗り継いでいくだけでも、たいそう時間がかかる。街に到着する頃には昼過ぎになっていた。
適当な店で昼食を摂って、しばらく時間を潰してから出版社へ向かう。編集者と打ち合わせすること二時間。それは、作家を志した私が夢見た時間でもある。ところが、妙なことにこのときの私は妙に冷静だった。編集者の声が、薄い膜を隔てた別世界から響いてくるかのよう。
いったい、私はどうしたのだろう。このところ、人里離れた山奥で、妻と女中たちとしか顔を合わせない生活をしているせいだろうか。現実感のないまま受け答えをしたものの、打ち合わせはひとまず無事に終了した。その後は飲みに行くことになっていた。
日帰りは難しい距離なので、街に出ることになった時点で宿は取ってある。仮に酔いつぶれたところで、困ることはないだろう。そこで、私は思う存分に編集者と酒を飲んだ。その途中、尿意を覚えて中座する。店の者に教えられて、私は奥まった場所にある手洗いへ行こうとした。
この日、店は大入りだった。二組ほど宴会を開いているのか、廊下に立つとどっと笑う声や長唄が聞こえてくる。私は長唄を歌う女の声に覚えがある気がした。惹かれるように廊下を歩きだす。手洗いとは別の方向だが、酔っぱらったのだと言えば言い訳できるだろう。
歩くうちにも長唄は終わり、私も我に返った。いったいここで何をしようとしているのだろう。よその宴会なんてのぞいても、面白いことなんかないはずなのに。そう思っていると、宴会場の障子が開いて中から幾松が出てきた。
思いがけない再会に、私たちは呆然と互いを見つめたまま立ち尽くす。先に我に返ったのは、幾松だった。
「――失礼いたしました。次のお座敷が控えておりますので、私はこれで」
面識のない芸者の顔を取り繕って、彼女はその場を立ち去ろうとする。私は慌ててその手を掴んだ。
「待ってくれ。少し話はできないか?」
「聖さん……いえ、花菱さま。あなたのようなお方が、芸者風情に声をお掛けになるものではありません」
幾松の口振りから、私は悟った。婿入り前、私は家の者の妨害で幾松に別れを告げることも許されなかった。その彼女は、誰かから私が婿入りしたことを聞かされたらしい。幾松にしてみれば、私は彼女を裏切った男に思えただろう。たが、真実は違う。
「君のためだ」私は幾松の袖を掴んで、早口に告げた。「言うことを聞かなければ、君をお座敷で働けなくすると、母に脅された。だから、私は婿入りすることにしたんだ。せめて君には説明したかったが、それすらも許されなかった」
幾松は告白する私をじっと見ていた。やがて、根負けしたかのように目を逸らす。
「では、少しだけ。もう一時間もすれば、お座敷の仕事は終わりです。話はそれから」
問われるままに自分の座敷を告げ、私は戻っていった。編集者には事情を話し、先に帰ってもらうよう頼みこむ。しばらくひとりで飲んでいると、そこに幾松が現れた。
「聖さん、改めましてお久しぶりです」
そう言って向かいに座る幾松に、私は「ああ」と曖昧な返事を返した。自分から幾松を引き留めたくせに、いざ彼女を前にすると現実感が薄い。何を話していいか分からず、言葉を探す。
先に口を開いたのは幾松の方だった。
「本当は、聖さんはこんなところで私と話していてよい方ではありませんよね。資産家の花菱家に婿入りなさったのですから」
「知っていたのかい?」
「もちろん。聖さんが消えた翌日にお母さまの遣いの方がいらして、事情を教えてくださったのです。私は驚きましたし、せめて聖さん自身の口から、聞きたかったと恨んだこともありました」
「すまない」
「いいえ。さっきおっしゃったように、お家に閉じこめられていたのでしょう? 聖さんが悪いんじゃありません。私の恨みはもう、晴れた気がいたします」
「そうかい。分かってもらえてよかった」
私はほっと胸を撫でおろした。そんな私を見ながら、幾松が背筋を伸ばす。
「聖さんの事情は理解しました。……ですから、もう、私のような芸者風情に会ってはなりません。声を掛けるなんて以ての外です」
「待ってくれ、幾松。どうしてそんなことを言うんだい? 私に怒っているのかい?」
その言葉を聞いて、唐突に幾松は声を上げて笑い出した。ひとしきり笑ってから、彼女は私を見つめる。その眼差しに温度はなかった。見知らぬ他人へ向ける眼差しのようだ。
「怒っているわけではありません」
「じゃあ、なぜもう会うななんて言うんだ?」
「だって、会ってどうするんですか? 私に聖さんの愛人になれとでも?」
「そういうわけではないが」
言われて初めて、私は幾松を引き留めて何を言うか考えていなかったことに気づいた。ただただ彼女の姿を目にして、衝動的に呼び止めてしまっただけだ。
不思議なことに、今の私は目の前の幾松に対して、それほどの執着を覚えなかった。思えば私が彼女の元に転がり込んだのも、彼女に惹かれたからというより家を出たかったからだ。家から、父から、さくらと父の忌まわしい場面の記憶から逃れたかっただけ。今も幾松を目の前にして感じるのは、ただ旧友に再会したような懐かしさだけだ。
私が自覚するよりも先に、幾松はそれを察していたようだった。「ほぅら」と唇の両端をつり上げて見せる。目がまったく笑っていない彼女のその表情は、ちぐはぐなのに妙に美しかった。
「聖さんは逃げ場がなくて、私にしがみついていただけ。婿入りして居場所を見つけた聖さんに、私は必要ない」
幾松の言葉は正しいのかもしれない。けれど、私はそれを認めたくなかった。
思春期の頃から私は父と折り合いが悪かった。昔から、父は私に小説を書くなと何度も命令してきた。そうして、長男である私に宿屋の経営を覚えさせようとしたが、一向に私が使いものにならない。そのため、兵役から戻ってきた弟に、後継者としてのさまざまなことを教えてきたのだ。父は跡取りとして兵役を免除されながらも、使いものにならない私を価値のない存在だと言った。婿入りして幾松を必要としなくなった自分を認めることは、彼女を利用したと自分を告白するのと同じだ。幾松を利用して捨てたとしたら、私は父と同じになってしまう。それだけは嫌だった。
「婿入り先にだって居場所はないよ。所詮、花菱家の当主は妻なのだから」私は言ったが、その言葉は言い訳じみて響いた。
「いいえ、聖さんは新しい家で居場所を見つけたんです。当主が誰だとか、そんなことは関係ありません。大事なのはあなたがそこを居場所と感じているかどうか」小夜は手を伸ばして、私の頬に触れた。彼女の指先は少し荒れているが、温かい。「聖さんの顔をみれば分かります」
幾松の手がすぐに離れていく。温かな指の触れた後が寒い気がして、私は思わず頬に手をやった。
「迷子みたいな顔……? 今は違うのかい?」
「えぇ。今のあなたは、居場所の分かっている顔をしています。だから、もう聖さんに私は必要ない」
「そんなことはない」
私は否定したが、幾松は取り合わなかった。
「聖さんは私を必要としていない。それに、私にもあなたは必要ありません」
「いい相手でもできたのか?」
「そうじゃありませんよ」幾松はひたと私を見据えた。「私は妻にも母にもなれぬまま、この年齢まで来ました。おそらく、この先も死ぬまで芸者でいるしかない。でも、聖さんの居場所でいる間は、母のような妻のような気分でいることができました」
そういえば、と私は思い出す。
幾松の故郷にはもう、家族はいない。一家は離散したのだと、寝物語に聞かされたことがある。だから、帰る場所もないのだと。そのとき、私は妙に安堵した気分になって『私と一緒だな』と笑ったものだった。幾松もその言葉に微笑んでくれた。
今、目の前の幾松との間にさほどの距離はない。それでも、二人の間には冷え冷えした空気が入り込んでいる。寝物語をした寝床の温かさが遠い夢のようだ。
「今はもう違うのかい?」
尋ねる私に幾松は「えぇ」と頷く。
「……聖さんは私を守るために婿入りしたと仰いましたね。あなたはもしかして、勘違いをしているのでは?」
「勘違いだって? 何のことだ?」
「私があなたを養っていたのは、いつかあなたが小説家になったとき、妻の座に収まって玉の輿に乗るためじゃありませんよ。私は、あなたが何にもならないろくでなしで構わなかった。ただ私を必要としてくれる人が欲しかった」
「お前、そんなことを考えていたのか?」
私は幾松の告白に、呆然と彼女を見つめた。けれど、彼女は無表情のまま。感情を読みとることはできない。
「考えていましたとも。でも、あなたがいなくなって気付きました。誰かに必要とされなくても、私は私でいられるのだと」
幾松は「さよなら」と告げて立ち上がった。私に背を向けて、振り返りもせずに出ていってしまう。私はその背を見送ることしかできなかった。
夜、私の部屋の前に黒ずんだ皮だか着物だかが脱ぎ捨てられていて、翌朝になると消えている。私はそれを小夜に訴えようかと考えたけれど、できなかった。気が触れたのではないかと思われたくなかったからだ。もちろん、女中たちにも打ち明けられない。
翌日も同じことが起こるかと、私はひとり待ちかまえていた。しかし、次の日は何事も起きなかった。ひと晩中、部屋の前の廊下を見張っていたのだから、見逃したわけではないだろう。
それとも、異変はあの一度きりだったのだろうか。そう思って警戒を止めると、三日後の夜中に事が起こったりもした。
こうなると、例の古びた着物の持ち主を見つけだすことも難しい。着物の主が何か盗んだり、傷つけたりすることがないのが唯一の救いだろう。しかし、窃盗目的でないのなら、なぜこんな邸の廊下で同じような襤褸を脱ぎ捨てていくのか。
嫌がらせのつもりなのだろうか。
しかし、何の権限もない入り婿に嫌がらせをしたところで、何の得にもならないはず。なぜ、私のいる部屋の前に脱ぎ捨てた襤褸を置いていくのか。何か伝えたいことでもあるのか。私はひどく不思議だった。
「旦那さま、難しいお顔をされていますね」
例の異変に遭遇して幾度目かの朝、朝食の席で小夜が言った。その声に我に返って顔を上げる。久しぶりに彼女の顔を真正面から見た気がした。
婚礼の日に色黒だと感じた小夜だが、季節が過ぎたせいか肌の色が白くなってきたようだ。おまけに小柄に見せた体格も、背筋が伸びて背が高くなったように思う。髪は白いままだが、老婆のようだと嫌悪を感じた妻は、今では十分に魅力的な女になっていた。美人は三日で飽き、不美人は三日で慣れると聞く。だとしたら、私も一緒に暮らすうちに小夜の容姿に慣れたということなのだろうか。
ただ、ひとつ気になることがあった。
若返ったかのような小夜の容貌が、どこか実家で見たことのある娘・さくらに似ているような気がするのだ。とはいえ、さくらと小夜は他人のはずなのに、どうしてあの娘を連想させるのか。他人の空似なのか、それとも、何かのつながりがあるのかは分からないが。
このところ、不思議なことばかり起きている。
しかし、私生活が不可思議に満ちていることはさておき、小説の執筆の方は順調だった。小夜が私の書いたものを読んで感想をくれるのが、参考になるからだろう。先日、面白いと小夜が誉めた小説の原稿を出版社に送ったところ、雑誌に掲載したいという。その打ち合わせのため、私は街に出ることにした。
山奥の屋敷を後にして、家が軒先を寄せ合うように立つ街へ。まるで深山幽谷から下界へ出てきた世捨て人のような心地だ。屋敷の最寄り駅は列車の本数が少ない。その列車を乗り継いでいくだけでも、たいそう時間がかかる。街に到着する頃には昼過ぎになっていた。
適当な店で昼食を摂って、しばらく時間を潰してから出版社へ向かう。編集者と打ち合わせすること二時間。それは、作家を志した私が夢見た時間でもある。ところが、妙なことにこのときの私は妙に冷静だった。編集者の声が、薄い膜を隔てた別世界から響いてくるかのよう。
いったい、私はどうしたのだろう。このところ、人里離れた山奥で、妻と女中たちとしか顔を合わせない生活をしているせいだろうか。現実感のないまま受け答えをしたものの、打ち合わせはひとまず無事に終了した。その後は飲みに行くことになっていた。
日帰りは難しい距離なので、街に出ることになった時点で宿は取ってある。仮に酔いつぶれたところで、困ることはないだろう。そこで、私は思う存分に編集者と酒を飲んだ。その途中、尿意を覚えて中座する。店の者に教えられて、私は奥まった場所にある手洗いへ行こうとした。
この日、店は大入りだった。二組ほど宴会を開いているのか、廊下に立つとどっと笑う声や長唄が聞こえてくる。私は長唄を歌う女の声に覚えがある気がした。惹かれるように廊下を歩きだす。手洗いとは別の方向だが、酔っぱらったのだと言えば言い訳できるだろう。
歩くうちにも長唄は終わり、私も我に返った。いったいここで何をしようとしているのだろう。よその宴会なんてのぞいても、面白いことなんかないはずなのに。そう思っていると、宴会場の障子が開いて中から幾松が出てきた。
思いがけない再会に、私たちは呆然と互いを見つめたまま立ち尽くす。先に我に返ったのは、幾松だった。
「――失礼いたしました。次のお座敷が控えておりますので、私はこれで」
面識のない芸者の顔を取り繕って、彼女はその場を立ち去ろうとする。私は慌ててその手を掴んだ。
「待ってくれ。少し話はできないか?」
「聖さん……いえ、花菱さま。あなたのようなお方が、芸者風情に声をお掛けになるものではありません」
幾松の口振りから、私は悟った。婿入り前、私は家の者の妨害で幾松に別れを告げることも許されなかった。その彼女は、誰かから私が婿入りしたことを聞かされたらしい。幾松にしてみれば、私は彼女を裏切った男に思えただろう。たが、真実は違う。
「君のためだ」私は幾松の袖を掴んで、早口に告げた。「言うことを聞かなければ、君をお座敷で働けなくすると、母に脅された。だから、私は婿入りすることにしたんだ。せめて君には説明したかったが、それすらも許されなかった」
幾松は告白する私をじっと見ていた。やがて、根負けしたかのように目を逸らす。
「では、少しだけ。もう一時間もすれば、お座敷の仕事は終わりです。話はそれから」
問われるままに自分の座敷を告げ、私は戻っていった。編集者には事情を話し、先に帰ってもらうよう頼みこむ。しばらくひとりで飲んでいると、そこに幾松が現れた。
「聖さん、改めましてお久しぶりです」
そう言って向かいに座る幾松に、私は「ああ」と曖昧な返事を返した。自分から幾松を引き留めたくせに、いざ彼女を前にすると現実感が薄い。何を話していいか分からず、言葉を探す。
先に口を開いたのは幾松の方だった。
「本当は、聖さんはこんなところで私と話していてよい方ではありませんよね。資産家の花菱家に婿入りなさったのですから」
「知っていたのかい?」
「もちろん。聖さんが消えた翌日にお母さまの遣いの方がいらして、事情を教えてくださったのです。私は驚きましたし、せめて聖さん自身の口から、聞きたかったと恨んだこともありました」
「すまない」
「いいえ。さっきおっしゃったように、お家に閉じこめられていたのでしょう? 聖さんが悪いんじゃありません。私の恨みはもう、晴れた気がいたします」
「そうかい。分かってもらえてよかった」
私はほっと胸を撫でおろした。そんな私を見ながら、幾松が背筋を伸ばす。
「聖さんの事情は理解しました。……ですから、もう、私のような芸者風情に会ってはなりません。声を掛けるなんて以ての外です」
「待ってくれ、幾松。どうしてそんなことを言うんだい? 私に怒っているのかい?」
その言葉を聞いて、唐突に幾松は声を上げて笑い出した。ひとしきり笑ってから、彼女は私を見つめる。その眼差しに温度はなかった。見知らぬ他人へ向ける眼差しのようだ。
「怒っているわけではありません」
「じゃあ、なぜもう会うななんて言うんだ?」
「だって、会ってどうするんですか? 私に聖さんの愛人になれとでも?」
「そういうわけではないが」
言われて初めて、私は幾松を引き留めて何を言うか考えていなかったことに気づいた。ただただ彼女の姿を目にして、衝動的に呼び止めてしまっただけだ。
不思議なことに、今の私は目の前の幾松に対して、それほどの執着を覚えなかった。思えば私が彼女の元に転がり込んだのも、彼女に惹かれたからというより家を出たかったからだ。家から、父から、さくらと父の忌まわしい場面の記憶から逃れたかっただけ。今も幾松を目の前にして感じるのは、ただ旧友に再会したような懐かしさだけだ。
私が自覚するよりも先に、幾松はそれを察していたようだった。「ほぅら」と唇の両端をつり上げて見せる。目がまったく笑っていない彼女のその表情は、ちぐはぐなのに妙に美しかった。
「聖さんは逃げ場がなくて、私にしがみついていただけ。婿入りして居場所を見つけた聖さんに、私は必要ない」
幾松の言葉は正しいのかもしれない。けれど、私はそれを認めたくなかった。
思春期の頃から私は父と折り合いが悪かった。昔から、父は私に小説を書くなと何度も命令してきた。そうして、長男である私に宿屋の経営を覚えさせようとしたが、一向に私が使いものにならない。そのため、兵役から戻ってきた弟に、後継者としてのさまざまなことを教えてきたのだ。父は跡取りとして兵役を免除されながらも、使いものにならない私を価値のない存在だと言った。婿入りして幾松を必要としなくなった自分を認めることは、彼女を利用したと自分を告白するのと同じだ。幾松を利用して捨てたとしたら、私は父と同じになってしまう。それだけは嫌だった。
「婿入り先にだって居場所はないよ。所詮、花菱家の当主は妻なのだから」私は言ったが、その言葉は言い訳じみて響いた。
「いいえ、聖さんは新しい家で居場所を見つけたんです。当主が誰だとか、そんなことは関係ありません。大事なのはあなたがそこを居場所と感じているかどうか」小夜は手を伸ばして、私の頬に触れた。彼女の指先は少し荒れているが、温かい。「聖さんの顔をみれば分かります」
幾松の手がすぐに離れていく。温かな指の触れた後が寒い気がして、私は思わず頬に手をやった。
「迷子みたいな顔……? 今は違うのかい?」
「えぇ。今のあなたは、居場所の分かっている顔をしています。だから、もう聖さんに私は必要ない」
「そんなことはない」
私は否定したが、幾松は取り合わなかった。
「聖さんは私を必要としていない。それに、私にもあなたは必要ありません」
「いい相手でもできたのか?」
「そうじゃありませんよ」幾松はひたと私を見据えた。「私は妻にも母にもなれぬまま、この年齢まで来ました。おそらく、この先も死ぬまで芸者でいるしかない。でも、聖さんの居場所でいる間は、母のような妻のような気分でいることができました」
そういえば、と私は思い出す。
幾松の故郷にはもう、家族はいない。一家は離散したのだと、寝物語に聞かされたことがある。だから、帰る場所もないのだと。そのとき、私は妙に安堵した気分になって『私と一緒だな』と笑ったものだった。幾松もその言葉に微笑んでくれた。
今、目の前の幾松との間にさほどの距離はない。それでも、二人の間には冷え冷えした空気が入り込んでいる。寝物語をした寝床の温かさが遠い夢のようだ。
「今はもう違うのかい?」
尋ねる私に幾松は「えぇ」と頷く。
「……聖さんは私を守るために婿入りしたと仰いましたね。あなたはもしかして、勘違いをしているのでは?」
「勘違いだって? 何のことだ?」
「私があなたを養っていたのは、いつかあなたが小説家になったとき、妻の座に収まって玉の輿に乗るためじゃありませんよ。私は、あなたが何にもならないろくでなしで構わなかった。ただ私を必要としてくれる人が欲しかった」
「お前、そんなことを考えていたのか?」
私は幾松の告白に、呆然と彼女を見つめた。けれど、彼女は無表情のまま。感情を読みとることはできない。
「考えていましたとも。でも、あなたがいなくなって気付きました。誰かに必要とされなくても、私は私でいられるのだと」
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