ニスツタアの一途

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第三章

情愛(完結)

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3.

 女中たちが提案した方法は、人間を小夜に食わせて精力を付けさせるというものだった。牛や他の獣では駄目らしい。人間の血肉と魂とが、精力の源となるのだとか。
 とはいえ、それは人を一人殺すことになる。私はその方法を取りたくはなかった。実行するのは少し待ってほしいと女中たちに頼みこんだ。小夜には無事に私の子を生んで、生き延びてほしい。だが、そのために他人の生命を奪っていいわけがない。
 ――どうすればいい。
 迷ううちに一週間、十日と時が過ぎていく。
 ある大雨の日の翌日、私は近くの村の側を流れる川が決壊して、田畑が水浸しになったという知らせを女中たちから聞かされた。当然ながら、作物は土ごと洗い流されて、今年の収穫が見込めないという。
「村人の中には、今年の収穫が駄目ならば、一家離散という家もあるようですわ」あやめだか桔梗だが、女中たちの片割れが痛ましげに告げる。
「それは、まさか加護が弱まっているせいなのか?」
「ええ。その通りです。このままでは、この屋敷にも影響があるやもしれませぬ……」
「影響? 屋敷が天変地異に遭うということかい?」
 私は尋ねたが、女中たちは首を横に振るばかり。今まで跡継ぎがいないまま、当主の力が弱ったことはないのだという。このまま小夜の加護が衰えればいったい何が起きるのか。女中たちにも見当が付かないようだった。
 初めてその『異変』に気づいたのは、翌日のことだ。災害の痕跡を確認しようと、私は近くの村に出かけた。屋敷の外へ出ると、夏の暑い盛りだというのに、外はいくらか涼しく感じる。冷夏ということか。そう思いながら、私は村へ向かった。嵐の通り過ぎた後ということで、家々は修繕の最中のようだ。
 私は村の雑貨屋で新聞を買い求めた。屋敷はほとんど外界から切り離されているため、新聞を買わなければ外の情報を手に入れることはできないのだ。私は自分の小説が掲載さえているであろう雑誌も探した。いつも花菱家の使用人に買ってきてもらっているものだ。が、あいにくそちらは取り扱いがなかった。
 買った新聞を広げて、早速、一面を確認する。そこで、私はあっと息を呑んだ。まさか。これは何かの冗談ではないだろうか? 村ぐるみで私を騙そうとしているのでは? そんな疑いを抱きつつ、私は雑貨屋の店主の老人に声を掛けた。
「すみません。今日は何月何日ですか?」
「十月三日だよ。あんた、わしより若いのに今日が何日かも思い出せないのかい?」
「いやぁ、ちょっとど忘れしまして」
「そういえば、あんた見ない顔だね。余所から来たのかい?」
 老人が尋ねる。私は一瞬、答えに詰まった。村外れの屋敷の関係者だと知れたとして、どういう扱いを受けるのだろう。村人でないことは確かだから、他人行儀にされるのだろうか。
 少し考えた末に、私は別のことを言った。
「雑誌の取材です。先日、この村の近くで大きな洪水があったと聞きましたので」
「そうかい。取材ねぇ……。まぁ、あんなことがあった後だし、余所の人間も多く村に来ているみたいだねぇ。隣の小さな宿にも、昨日から女がひとりで泊まっているよ」
「そうですか。それはどうにも落ち着きませんねぇ」
 私は頭を掻いて誤魔化しつつ、雑貨店を後にした。おかしい。私の認識では、今はまだ夏のはずなのに、新聞の日付が秋だ。そう思いながら、家路を急ぐ。
 屋敷の前まで来たとき、私は不意に違和感を覚えた。塀に囲まれた屋敷内の庭木は、葉が青々としている。にもかかわらず、その後ろに見える山の木々は赤く色づいているのだ。おかしい。屋敷の中と外で季節がズレている。
 ――小夜が弱っているから、加護も弱まっているのか。
 唐突に私は、女中たちが言っていたことの意味に気づいた。おそらく屋敷は現し世から切り離された空間にあったのだろう。ところが、小夜の加護が弱まったことでその境界が曖昧になりつつあるらしい。
 万が一、小夜が死ねばいったい他にどんな影響があることか。そう思いいたって、私はゾッとした。そのときだ。
「聖さん!」
 背後から聞き覚えのある声が掛けられる。私はハッとして背後を振り返った。見れば、そこには地味な着物をまとった幾松だった。
「幾松……。本当にお前なのか? 幻ではない?」
「何をおっしゃっているんですか。私は本物ですよ。聖さん、あなたを探しに来たんです」
「私を? 幾松が? どうして」
「このところ、雑誌に小説を連載なさっていたでしょう? 月刊の雑誌なのに、もう三ヶ月も聖さんは休載なさっている」
「休載だって……?」
 私は目を丸くした。確かにこのところ、仕事を減らしてはいる。しかし、どうしても断れない仕事やすでに引き受けている仕事は、きちんとこなしてきたつもりだった。それなのに、雑誌の連載が止まっているだなんて。もしかして、何らかの事情で編集者に渡した原稿が掲載されていないのだろうか。だが、それならば、私にも連絡があるはずだ。
 だとしたら、考えられる原因は一つ。私は花菱の屋敷を振り返った。すっかり秋の風景の中に、屋敷の中だけ緑が生い茂っている。屋敷の時間のズレは、私と出版社のやりとりにも及んでいたのではないだろうか。だから、私は自分でも意図しないまま、受けたはずの仕事を滞らせている――。
 そうと悟っても、不思議と焦りは湧かなかった。あれほど小説家を夢見ていたにもかかわらず、今の私にとって最も重要なのは小夜と花菱家なのだ。小夜がいなければ、この世で私の居場所はなくなってしまうのだから。
「分かった。それで、幾松は心配して私を探してくれたのかい?」
「ええ……。聖さんの担当編集者さんには、接待のお座敷に何度か呼んでいただいたことがありましたから。お座敷に呼ばれたときに、聖さんのことを尋ねたんです」
 雑誌の編集者は、幾松がかつて私と暮らしていた女だと知っていたらしい。音信不通になってしまった私への連絡手段を幾松が知っているのではないかと、花菱家の所在地を教えたのだという。そこで、幾松はこの村へやってきて宿を取り、村や花菱の屋敷の様子を見ていたのだとか。
「しかし、よく私が村に行ったのに気づいたもんだね。私は滅多に外出しないのに」
「雑貨屋の主人に小金を握らせたんです。雑貨屋は村に一軒しかありませんから、普段は来ないようなお客が来たら教えてほしいと」
「お前の行動力には頭が下がるよ」
 私は苦笑した。と、幾松が唐突に私の腕をつかむ。
「ねぇ、聖さん、一緒に逃げましょう」
「逃げる? どうして?」
「だって、聖さん、何だかおかしいですよ。あれほど小説家になりたがっていたのに、自分の小説が雑誌に載っていないと知っても落ち着いてる」
「それは……」私は返事に詰まった。確かに幾松の言うとおり、私はおかしくなっているのかもしれない。だが、それが困ったことだとは思えないのだ。「私は行けないよ、幾松。私の居場所はここなんだ」
「いいえ、逃げなくてはいけません。聖さん、私、村で聞いてしまったんです。花菱家の女当主は、婿入りしてきた男を食いころす鬼女だと、言われているんです」
「男を食いころす鬼女……」
 そういえば、小夜は私の前にも夫を持ったことがあると言っていた。その夫が今はどうしているのか、私は知らない。聞いたこともない。だが、私が花菱家に迎えられたということは、死んだか、どこぞへ去ったかしたのだろう。
 あるいは、蛇神である小夜に食われたか。そう考えたものの、私はまったく恐怖を感じなかった。もしかすると、花菱家に関わることで私の正常な感覚は麻痺していっているのかもしれない。だが、それがどうしたことだろう。大事なのは小夜と彼女が宿す私の子――私がさくらから神通力を奪った、その罪を贖ってくれる子どもだけだ。
 私は腕をつかむ幾松の手をそっと外した。
「もう帰ってくれないか。私は大丈夫だから」
「聖さん」
「村人がどう言おうと、私にとって大事なのは小夜と彼女の腹にいる私の子だけだ。小夜たちを守ることができるなら、私は何でもする。どんな犠牲も払う」
「でも、それじゃ、聖さんがどうなるか……」
「私のことはどうでもいい。幾松、いつかお前の言ったとおりだよ。花菱家の婿になった時点で、私の居場所はあの家になったんだ。私はもう、小夜のために存在している」
 ひとりで街へお帰り。
 そう告げると、幾松は泣きだしそうな表情になった。声を上げるのを堪えるかのように、唇を噛みしめる。そうして幾松は私に背中を向け、小走りに去っていった。彼女の様子に胸が痛まないわけではないが、共に行くことはできない。私も村へ背を向けて屋敷へ入っていく。小夜の待つ、蛇神の加護の消えかけた屋敷に。
 その翌日のこと。
 夜、私がいつものように伏せった小夜の様子を見がてら、就寝の挨拶に行こうとしたときだった。女中のあやめと桔梗が私を引き留める。
「旦那さま、今日は当主さまの様子を見にいく必要はありません」
「大事な儀式がございますゆえ、邪魔をなさってはいけません」
「儀式だって? 小夜はただでさえ弱っているのに、儀式なんかして身体に害はないのかい?」驚いて私は尋ねた。
「問題はありませぬ。むしろ、儀式によって当主さまは元気になるでしょう」
「そうです。何も心配はありませぬ」
「儀式とはどんな儀式だい? それを教えてくれないか」
 そう尋ねてみるが、あやめと桔梗は含み笑いで首を横に振るばかり。いったいどんな儀式だというのか。女中たちのことだから、小夜の身に危険な行為は行わないだろう。だが、妙に胸騒ぎがする。
 私はそっと自分の寝室を抜け出して、廊下を歩いていった。目指すのは小夜が療養している離れの一室だ。離れへの渡り廊下を進もうとしたところで、私はぎょっとした。廊下に一匹の蛇がいたのだ。危うく踏みそうになったその蛇を避ける。と、蛇はシュルリと素早く這って、庭へ降りていった。
 この庭の蛇は、小夜たちの仲間だと聞かされている。あの蛇もそうだったのだろうか。
 そう思いながら、私は小夜の元へ急いだ。部屋の前にたどり着いたところで息を呑む。夜だというのに、閉ざされているはずの庭に面した障子が大きく開け放たれていたのだ。部屋の前の縁側には、あやめと桔梗が正座している。
 儀式と言って、小夜に無理をさせるつもりか。怒りを覚えて、私は大股にあやめと桔梗の元へ歩いていった。
「こんな夜中に何をしているんだ? 小夜は大丈夫なのか!?」
「大きな声を出してはなりません。儀式の妨げになります」
「儀式が上手くいかなければ、当主さまの身が危うくなりますから」
「儀式というが、いったいそれはどういう儀式なんだ!?」
 私はあやめと桔梗の横を通り過ぎて、開け放たれた部屋の前に立った。見れば、蝋燭の点された部屋の中央に布団は敷かれていない。代わりにひとりの裸の女が横たわっていた。しかし、それは小夜ではない。
「幾松……!」
 驚いて私は幾松に駆け寄った。彼女を抱き起こしたところで、部屋の奥の暗がりで蠢くものに気づく。ずるりと這い出してきたのは、白い巨大な蛇だった。蛇の全長は大人の男の身長、二人分ほどだろうか。両の目が金色に輝いている。化け物のような巨大な蛇だが、不思議なことにその目に見覚えがあるような気がした。
「……もしかして、お前……小夜なのか?」
『――ダンナ……サマ……』
 蛇が口を開いて、男とも女とも分からないしゃがれた声を発した。同時に、炎が揺らめくように蛇の目が金色になったり、黒になったりと目まぐるしく変化する。『旦那さま』と言ったからには、目の前の白い大蛇は私の予想どおり小夜なのだろう。現実とは思えない出来事だが、この不思議な屋敷ではもう何が起こってもおかしくはない気がした。
「旦那さま、儀式の邪魔をしてはなりません。当主さまには贄を食べて精を付けてもらわなくては」
「当主さまが子を生むには、もはやこうするしかないのです」
 女中たちの言葉に、私は縁側を振り返った。怒りに震える声で尋ねる。
「小夜に食わせるために、お前たちは幾松をさらってきたのか?」
「いいえ、違います。昨夜、その女が屋敷に忍び込んできたのです」
「私たちは、侵入者を捕らえて贄にしようとしただけです」
 幾松が昨夜、屋敷に侵入した? 私は驚いて、抱き上げた幾松の顔を見つめた。軽く頬を叩いて、彼女に呼びかける。
「幾松……幾松……」
 何度か呼びかけると、彼女はゆっくり目を開けた。
「――聖さん……?」
「幾松、大丈夫かい?」
「ええ……」
「昨夜、屋敷に忍び込んだというのは本当か?」
「ごめんなさい……。あなたは屋敷に残ると言ったけれど……私はどうしても、あなたを救いたくて。身勝手だとは分かっていました。それでも、私は……」
「もういいよ、幾松」私はそっと幾松を制した。それから、目の前の大蛇――小夜と視線を合わせる。「小夜、頼みがある。この幾松を許して、逃がしてやってくれないか。お前が元気な子を産めるように、私がお前の贄になるから」
『デスガ……ソレデハ……』
「元はといえば、私がお前の跡継ぎのさくらに地面を歩かせ、神通力を失わせたのがすべての始まりだ。その贖罪をしたい」手を伸ばして、私は大蛇の頭に触れた。冷たい。明らかに人間のときの小夜の温もりとは違っていた。
『イヤ……。アナタヲ……食ベタクナイ……』
 ――あなたを食べるくらいなら、いっそわたくしが死んだ方がましです。
 しゃがれた声で大蛇が訴えた。金色であった目が、今は完全に黒に落ち着いている。私はその目をのぞきこむようにして、優しい声で言った。
「それはいけない。どうしても、お前を失いたくはないんだ。お前が生命を賭けて子を産むのなら、私はお前のためにこの生命を捧げたい。どうか私の我がままを聞いておくれ」
 私の言葉に大蛇はしばらくの間の後に、頭を上下させた。まるで頷くかのよう。私は大蛇から手を引いて、幾松を助け起こした。それから、部屋の片隅にあった衣紋掛けから小夜の着物を取り、裸の幾松に被せてやる。
「さぁ、幾松、もう行っておくれ」
「でも、聖さんが……」
「お前には理解できないかもしれないが、これが私の選んだ幸せなんだ。お前もどこかで幸せになっておくれ」
 幾松は着物の前をかきあわせて「さよなら」と呟いた。振り切るように私に背を向けて、廊下を走り去る。
「あやめ、桔梗。幾松には手を出すな。他の蛇たちにもそう伝えろ。さもなくば、私は贄にならない」
 縁側の女中たちに向かってそう言うと、女中たちは「承知しました」と従順な返事をする。私は静かに息を吐いて大蛇――小夜に向き合った。寝間着も下着も脱いでしまって、素裸になる。
 大蛇に近づくと、彼女は鎌首をもたげて私と視線を合わせた。『愛シテイマス……アナタ……』シュウシュウと細い舌を伸ばして、大蛇は私の顔を嘗めた。大きく口を開き、いっそう近づいてくる。真っ暗な口の中に私は頭からゆっくりと飲み込まれていく。
 恐怖はなかった。父に価値のない者と言われた私だが、今となってはそんなことはどうでもよかった。私は自分の愛する者を守ることができるのだから。黄泉へつながる黄泉平坂のような蛇の胎に飲まれながら、私はただ小夜への愛を感じていた。



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