鳥籠の銃使い

なべのすけ

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第3章 覚悟

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 街を出たグリモア、マビナ、カミラの三人は、漆黒の闇の中、月明かりを頼りに北に向けてひたすら馬を走らせていた。
 大聖殿が建てられているフェーデの首都から国境まで最短で行くには、西の街道を真っ直ぐに進み、いくつかの街を経由して関所を通るのが最も速い。しかしそれだけに、そのルートは最も警戒されているはずであり、もし無事に逃げられたとしても、関所を通る手段がない。関所を通るには特別に発行された通行証が必要となる。身分がはっきりしている一般人なら、多少の時間は掛かるにせよ手順を踏んで発行してもらうのはそう難しくないが、身分を明かした時点で捕らえられる強盗と神子では通行証など手に入れられるわけもない。よしんば運よく通りすがりの一般人から通行証を奪えたとしても、顔を見せずに通過する事は不可能だろう。
 いかに距離が近くとも、それだけ問題が山積みとなるルートを通るのは危険が大き過ぎる。
 もう一つの逃走経路として海路を目指すという選択も考えたが、騎兵がこんな状況で港を押さえていないはずはない。
 密航できるような隙はないと考えるのが妥当だろうし、たとえ密航できたとしても船上で見つかれば逃げ場がない。航海に数日は掛かる事を考慮すれば、潜伏し続けるのは難しいだろう。
 以下の理由からグリモアは西でも海路でもなく、北へ進路を取っていた。
 それも莫迦正直に国境に向かって直進するのではなく、正規の街道から外れ迂回する行程だ。西の最短ルートなら五日、北への直進ルートなら七日は掛かる道のりが、このルートを通ると九日は掛かる。国にいる日数が長ければ長いほどほど見つかる危険は高まるが、分かりやすい街道を行くよりはよほど安全だとグリモアは踏んでいた。
 マビナの話では隠し通路が見つかるまでおよそ八日、潜伏して無駄にしたのが三日、残りは五日なので、手の内がばれてから四日は国内で逃げなくてはならない計算となる。もちろん潜んでいたのが何日か、逃走ルートはどこを通っているのか、騎兵達にそこまでは分からないはずだが、追手は確実に自分達の尻尾を掴んで追ってくるだろう。五日のアドバンテージを活かし追いつかれる前に逃げ切れるかどうか、そこがこの作戦の肝となる。当然国中を捜索しているであろう騎兵の目を掻い潜りながらの逃走になるため、その辺の注意も怠るわけにはいかない。
 分の悪い勝負ではあるだろうが、神子が誘拐されたという情報が国民には伏せられているのは大きな光明だった。神子は大聖殿から出る事などなく、実際に神子の顔を見た事がある者は、首都とその周辺の街に住む一部に限られる上、その回数も片手で数えられる。白髪さえ隠せば、一見しただけでマビナが神子だと看破できる者はいないと見ていいだろう。もちろん騎兵相手ではそうもいかないだろうが、国民に対する警戒をしなくてもいいというだけで、逃走は随分と楽になる。国に混乱を齎さぬよう、他国に隙を見せぬよう、騎兵や大司教がそんな内政と体面に気を遣ってくれた事に感謝を通り越して嘲笑を贈りたかったが、そんな機会が訪れれば自分達は捕まっている。二つの意味で笑っていられる状況ではない。
 そして案の定、グリモアの作戦を聞いたカミラは、グリモアの無謀な策を非難した。
「考え直しなよ、グリモア。なんでそんな七面倒な事してまで神子を誘拐する必要があるのさ。この場でその女を殺せばいいだけの話だろ」
 軽いデジャビュを感じながら、予想通りの答えにグリモアは用意していた答えを返す。
「だから言っただろ。あいつらを殺したのは神子でも騎兵でもなくこの歪んだ国だ。国を食い潰さない限り、復讐した事にはならねぇよ」
「けど原因はその女だ。そいつさえ殺せば、仲間達の無念も少しは晴らせるはずさ。わざわざでかいものを壊そうとして何もできずに死んだら、それこそなんにもならないよ」
「……」
 反論せず、手綱を握りながらグリモアは黙ってカミラの意見を訊く。
「それともあんた、まさかその女に誑かされでもした? 外見だけなら一級品だもんね。誘惑されて落ちたとか?」
 普段ならざるカミラの邪推にも、グリモアは怒ったりはしなかった。
 いつもなら文字通り食って掛かってくるグリモアが沈黙を保っている事にカミラの方が戸惑い、それ以上の詰問ができなくなる。
「私が身体を差し出した程度で、グリモアが私を殺すのをやめると思いますか?」
 不意にグリモアの後ろに座っているマビナが口を挟んできた。
 初めて神子に話し掛けられたカミラは、驚いてわずかに息を呑む。
「グリモアの憎しみは、私を殺したくらいで晴れるものではなかった。それだけの事です。だから殺すよりも、利用する事を選んだのでしょう」
「……あんたがそういう風に誘導したんじゃないの?」
「だとしても、判断と決断はグリモアのものです」
 言い切られ、カミラは言葉を返せなくなる。
 明らかに神子の方に理がある上に、カミラが言っているのは単なる推測だ。経緯を知らないのに口で勝てる道理はない。
 だがカミラの目から見て、グリモアと神子は明らかに親密性を増していた。
 グリモアには殺さないまでも憎んでいるはずの神子に敵意を向けている様子がない。グリモアの性格からすればこの国の国民全てを恨んでもおかしくないはずなのに、平然と原因になった神子と言葉を交わしている。
 それがカミラには信じられず、不可解な疑心が根拠のない邪推へと姿を変えていた。
「カミラ。お前はついて来なくてもいいんだぞ?」
「どういう意味だい?」
「お前がいてもいなくてもこの作戦に支障はない。義理で俺に付き合ってるなら、そんな感傷は捨てろ」
「っ……」
 言外に役立たずと告げられているようで、カミラは唇を噛む。
 それが言葉を飾らないグリモアなりの無自覚な優しさだと知りつつ、カミラは頭に血が上るのを抑えられなかった。
「もしそれが義理なんかじゃない自分の意志なんだとしてもだ。カミラ。お前に復讐なんて似合わねぇよ」
「そんなの…………そんなの知った事じゃないよ!」
 自分を決めつけるような言葉にカッとなり、カミラは表情を歪ませて怒鳴り声を上げる。
「似合おうが似合わまいが、あたしにだって仲間達を殺された恨みがある! どんな事をしたって、頭領達の痛みの万分の一でも奴らに味わわせてやるんだ! 苦しみながら死んでいったあいつらのためにも、あたしは今更降りるつもりなんかない!」
 仲間達が死んでから初めて、怨嗟の感情を表に出して爆発させるカミラ。
 それを無表情に受け止めるグリモアに、普段のような獰猛さはなかった。
 ただ静かにカミラを見つめている。
「何か文句でもあるの、グリモア」
「グリモアだ。……なんでもねぇよ」
 ようやく視線を外し、グリモアは前を向く。
 カミラは仲間内でグリモアの次に若いのにも関わらず、むさい男共に随分と頼りにされていた。世話焼きな部分が大きかったのが原因だろう。グリモアも拾われてすぐの頃は、頼んでもいないのに色々と面倒を見られた記憶がある。だからこそカミラは、理不尽に仲間達が殺された事を許せないのだろう。グリモアよりも強く、深く、憎んでいるのだろう。
「グリモアの作戦が信用できませんか?」
 声も表情も変わらないが、どこか気遣うようにマビナが訊ねる。
 秘めていた激情をぶちまけて幾分冷静になったカミラだが、それでもまだ治まり切っていないのか鋭い視線をマビナに向ける。
「グリモアの事は信用してるさ。もう十年の付き合いだし、小さい頃からあたしが弟みたいに世話したんだ。そいつの事はあたしが一番よく知ってる。でもね、グリモアの判断ミスで仲間達は死んだんだよ」
 あの事件から初めて出た、カミラの責めるような言葉にグリモアは目を細める。
「正直この作戦は悪くないと思う。成功する可能性も充分にあると思うよ。けど未知の部分が多過ぎる。騎兵がどう動くのか、どれだけの規模で捜索してるのか、相手の事がまるで分かってない。それじゃあいくら策を練ったところで出たとこ勝負をするしかないだろ。そんな中で偶然だろうと騎兵に遭遇したら終わり。少しでも運があっち側に傾いたら、あたし達は死ぬんだ」
 マビナからグリモアに視線を移すカミラ。その眼光は獲物と相対した時のように鋭利なものだった。
「よく考えなよ、グリモア。死ぬのなんて別に怖くないけど、無駄死にはごめんだ。その女さえ殺せば、奴らに一泡吹かせられる上、仲間達の復讐にもなるんだ。それがあんたの望むものとは違っても」
 剣呑な瞳に射竦められながらも、それと同等の強い眼差しをグリモアも返す。
「妥協するくらいなら初めから復讐なんて考えねぇよ」
 理の通ったカミラの説得を、グリモアはなんの迷いもなく一蹴した。
「無駄死にの覚悟もないならついて来んな。俺にはその方がありがたい」
 にべもなく突き放す言葉にカミラの眉間に皺が寄る。
 また怒って叫び出すようにも見えたカミラだったが、なんとか抑えたのか何も言わずに視線を前に戻した。
 グリモアもまた、無言のまま馬を走らせる。
 すっかり沈黙してしまったグリモアとカミラに代わり、今度はマビナが話題を振る。別に喋っていたいわけでもなかったが、あまりにも雰囲気が殺伐としていたため、なんとかそれを和らげようとしたのだ。
「カミラさんは戦えるのですか?」
 大聖殿で話し相手もおらず過ごしていたせいか、壊滅的に人と話す能力が不足しているマビナの選んだ話題がそれだった。
 案の定、カミラは不機嫌そうに顔をしかめる。
「莫迦にしてるのかい? 強盗やってて戦えないわけがないだろ。それともこの銃は飾りに見えるっての?」
 背負っている、ソウドオフショットガンを親指で示し、威圧するようにカミラは語気を強める。カミラのソウドオフショットガンはグリモアが今背負っているレバーアクションライフルとは違って、バレルとストックを極端に短く切り落とした、独特な形をしているが、銃のサイズと実力が比例するわけではなく、機動力と制圧力を生かしたカミラは決して弱いわけではなかった。
「ではグリモアとどちらが強いのですか?」
「間違いなくグリモアだね」
「当然だ」
 カミラの即答にグリモアも頷く。
 自分と一つしか違わないはずのグリモアがそれほど強いのかと、マビナは怪訝そうに眉をひそめた。
「それは男女の差ですか?」
「違うね。一番ガキなのに、グリモアは戦いの才能だけは仲間内でも群を抜いてたんだ。タメ張れたのは頭領ぐらいのもんさね」
「だけってのは余計だ。それにあんなクソ頭領よか俺の方が強い」
 不遜に言い放つグリモアの断言を、カミラは否定しなかった。突っ込むだけ無駄と思っているのか、それともあながち嘘ではないからか、まだ付き合いの短いマビナには分からない。
 しかしカミラは、それとは別の部分を指摘した。
「だから頭領をそういう風に言うのはやめなって言っただろ」
「あいつの前ではって話だったはずだ」
「それでもだよ。故人を莫迦にするもんじゃない。あんたは少しでいいから人を敬うって事を憶えな」
 カミラの責めるというよりは叱る口調にグリモアは黙り込む。
 幼い頃から望む望まないにかかわらず面倒を見られる事が多かったため、グリモアはカミラのこういった説教に弱い。これが説得だったのなら、さっきのようにグリモアも言い返す事ができただろう。
「あんたを雇ったのは頭領で、世話して来たのは仲間達だ。それに対しての感謝くらいはあるだろう?」
「……」
 答えようとしないグリモアにカミラは盛大にため息をついた。
「それを口にできない限り、あんたはまだガキのままだよ」
 普段なら簡単に食って掛かりそうなグリモアが、口を閉ざして悔しそうに表情を歪める。
 マビナはそれを意外そうな目で眺めていた。
「素直に人の話を聞く事があるのですね?」
「喧嘩売ってんのか? 撃ち抜くぞ」
「自分が素直だとでも思っていたのですか?」
 三日間狭い抜け道にずっと一緒だったため、もうグリモアのこんな噛みつきにもマビナは慣れていた。
「そうやってすぐに他人に敵意を向けるから、子供と言われるのではないですか?」
「お前の方が年下だろ。ガキが」
「私は子供と言われた事などありません」
「いま俺が言っただろうが」
「それは単なる売り言葉に買い言葉であって、私が言っているのは客観的に見られた時の……」
「カミラ、お前から見てこいつはガキか?」
 最後までマビナの話を聞かずに、カミラに話題を振るグリモア。
「あたしから見れば、どっちもガキだよ」
 自分の事まで莫迦にされて、一瞬グリモアの睨みがカミラに突き刺さる。
 しかしカミラはどこ吹く風で、二人に聞こえないように小さく呟いた。
「どっちもガキらしくはないけどね」
 口喧嘩を再開する二人を、カミラは複雑そうな顔で眺める。
 険悪な雰囲気が取り払われ、そのまま日が昇るまで馬を走らせ続けた三人は、予定の行路を少し外れた林で夜まで休憩を取る事にした。
 昼の明るいので遠目からでも見つかる可能性が高くなる上、足跡も発見されやすい。それにまだこの逃走は八日間も続くのだ。いま無理をすれば車も自分達も潰れてしまう。
「大体予定通りに距離は稼げてるな」
 食事を取りながら地図を眺め、現在地を確認して頷く。
 それを横から覗きカミラは口を挟む。
「補給はちゃんと考えてるのかい? いまの食料じゃあと三日程度しか持たないよ」
「そんなずさんな計画立てるわけねぇだろ。このまま行きゃ二日後の朝には街に着く。それを含めて、街に寄るのは二回だけだ」
「二回か。妥当なところだね」
 必然的にそれ以外の七日間は全て野宿となるが、街に寄れば騎兵や保安官との遭遇率が格段に跳ね上がる事を考えれば、贅沢は言えない。
 出発前に食料を買い込み街に出入りしない案も考えてはみたが、それでは余計に目立ってしまい、発見されるリスクも増える。
 結果的に最低限の補給を考え、二日だけ街に滞在する事にした。
 もちろん街に入る時には最大の注意を払い、宿で休む際の非常時の策も用意している。後は騎兵や保安官に発見されない事を祈るばかりだ。
「一日ごとの休憩地点の確保は? 道で寝てて見つかったんじゃとんだお笑い種だよ」
「多少の遠回りになるが、こういう林なら幾つか見つけてある。姿を隠す程度ならなんとかなるだろうさ」
 カミラの懸念する問題によどみなく答えながら、食べる手は休めない。
 そんな問答を続けている内に、三人とも食事を終えていた。
「そんじゃ、夜まで休むとするか。見張りは交代制でやるぞ」
「順番は?」
「カミラ、俺、マビナの順だ。一度休ませないと慣れてないマビナは集中力が切れそうだし、お前は俺を探して睡眠が不定期になってそうだから、一気に眠れない真ん中はきついだろ」
「悪いね」
 感謝を込めた謝罪に手を振り、グリモアは早速木に凭れる。
「適当な時間になったら起こせ。もちろん何かあった時も、それとマビナ、これ持っていろ」
 グリモアはマビナに上下二連装のデリンジャーを渡した。マビナは小さく礼を言うと、懐のなかにデリンジャーをしまった。
「了解だよ、グリモアは優しいんだね」
 グリモアが目を閉じたのを見て、カミラはマビナに視線を向ける。
「あんたも寝な。慣れない乗馬で疲れてるだろ。国を出るまで持たないよ」
「はい。ありがとうございます」
 外套にくるまり横になるマビナに、思い出したようにカミラは訊ねる。
「そういえばあんた、切った髪を鞄に入れてたね」
「えぇ。捨てて見つかりでもすれば計画が台無しですから」
「今後街に入る時にそんなもの持ってるのはヤバいだろ。なんの拍子にばれるか分かったもんじゃないよ」
 その可能性に思い至っていなかったのか、マビナの眉間にわずかな皺が寄る。
「あたしが見張りのついでに処分してきてやるから出しな。別に問題ないだろ?」
「すみません。ありがとうございます、カミラさん」
「礼なんていらないよ。あんたのヘマで死にたくないだけさ」
 マビナから白い髪をぞんざいに受け取り、用件は済んだとばかりにあらぬ方向を向くカミラ。
 自分が好意的な感情を持たれていないどころか、憎まれてすらいる事を正しく理解していたマビナは、何も言わずに元の場所に戻り横になる。
 やがて静かな寝息が風の音と共にカミラの耳を届く。
 穏やかな寝顔にこのまま殺してしまおうかと、半ば本気で背中の銃に手を掛け、もしそうした時のグリモアに殺される自分の末路を思い浮かべて、力を抜き疲れたため息を漏らす。
 復讐相手が目の前にいるにもかかわらず、殺せないもどかしさ。それを守るのが仲間という矛盾。
 一体、自分はどうすればいいのか。
 このままグリモアの計画に乗る事が、本当に正しいのだろうか。
 考えても何も分からず、答えを求めるようにカミラは空を仰いだ。
 ――散った仲間の魂は、自分に何を望んでいるのだろう?

 この逃避行という名の旅が始まって五日。
 途中保安官に引っ掛かりそうになったり、発見されかけたりと何度か危うい場面がありはしたものの、概ね順調に三人は国境に近付いていた。
 予定通りならば、あと四日で国を出られるだろう
 そして今日は最も警戒しなければならない、二度目の街滞在日だった。
 この日を乗り切れば、計画の成功率は格段に高まると言っていい。やる事は単純だ。街の中で発見されず休息を取って夜に出るだけ。街では買い出しだけ済ませて別のところで休むという手も考えたが、周囲の身を隠せる場所は警戒されている可能性も高い上、道を外れている馬の蹄鉄跡(こん)は目立つ。余計な真似をして見つかる危険を高めるより、街の中に潜んだ方がまだしもマシだろう。
 もちろんのんびり宿で熟睡するわけにもいかないので、宿に着いた後は街を見てくると言ったのち、窓から再び部屋に戻って交代制で休憩を取る予定だ。部屋への出入りをしないよう宿の主人に言っておけば、掃除などで無闇に入られる事もないだろうし、保安官が聞き込みに来たとしても、部屋に入られる前に窓から出れば、元々出掛けてると言っている手前、怪しまれずに済む。夜は早朝に出るとあらかじめ告げておき、こっそりと抜け出せば朝に出立したと勝手に勘違いしてくれるだろう。
 そんなわけで日が昇ったばかりの早朝、グリモアとマビナは休む宿を探して街を彷徨っていた。
 カミラは馬を隠す場所を探すため別行動を取っている。宿を見つけ次第、グリモアが迎えに行き合流する予定だ。
 街をうろつく二人の格好は、お世辞にも控え目とは言えなかった。片や顔には包帯を巻いている。片や外套を頭から被って、顔がまるで見えない。
 明らかに怪しいと言える身なりをしているのにはもちろんわけがある。グリモアの方はどうしようもないとして、マビナは帽子を被れば白い髪を隠せるため、市民に顔を見られても神子だとばれる事はおそらくない。しかしこんな早朝ならば、元から市民の目など殆どなく、警戒すべきなのはむしろ騎兵や保安官の目だ。騎兵ならば、いかに白い髪が隠れていようと顔を見れば神子だと見抜く。となれば移動では万が一を考えて顔を隠さねばならず、結果として二人で外套を被って顔を隠すよりも、グリモアの方は顔を出していた方がまだしも怪しまれないという事で、二人は奇異の格好で街をうろついていた。
 当然、カミラとマビナで宿を探すのが一番ではあったのだが、この二人を一緒にした場合、その関係性上、冷静な警戒と状況判断ができなくなる可能性が捨てきれなかったため、カミラだけが別行動となっている
 怪しい二人組だという自覚がある二人は、騎兵の姿がないか最大限警戒をしつつ、早足で宿を探す。
 店柄から宿というのは街の大通りに面している事が多い。となれば必然的に二人も人目のある大通りを歩く羽目になり、より一層張りつめた緊張感を漂わせていた。
 しかし傍目ではそれに気付かない者も当然いる。
 そして運悪く二人は、そんな女性に声を掛けられた。
「ちょっとそこのお二人さん」
 一瞬立ち止まったのがいけなかった。女性は二人が自分に気付いたと見るや、満面の笑みで一気にまくし立ててくる。
「こんな早朝に人と会えるなんてうちはなんて幸運なんでしょ。うちの芸を見ていきませんか? 決して損はさせませんよ。もし見た後で不満がおありだったなら、お代は結構です。ですからほんの少しだけ、うちの芸のために時間を割いてってくださいませんかね」
 露骨に顔をしかめながら、グリモアは手を握ろうとしてくる女性の腕を払った。
「触んじゃねぇ。芸なんかに興味はねぇんだ。失せろ」
「そんな事言いっこなしですよ。一度うちの芸を見れば、考えも変わるかもしれないでしょう?だからお願いしますって」
 まるでめげない女性の態度にグリモアの機嫌が急降下していく。閑談の余裕などない状況でこれ以上の足止めを食らうのは危険だという判断よりも、単純に目の前の女性は、グリモアの最も嫌いなタイプの人間だった。
「こう見えてうち、芸にだけは自信があるんですよ。一目見ればきっと少年さん、うちに惚れちゃいますよ。あ、でももし惚れちゃってもベッドでの芸はしませんからね。そういうのは少年さんがもっと大人になって……」
「テメェの芸なんざどうでもいいって言ってんだよ! いいからとっとと消えねぇと噛み潰すぞこのクソアマが!」
「が、グリモア!」
 怒りの臨界点を超え、状況など考えずに叫び出したグリモアに慌て、マビナがその名を呼ぶ。
 しかし時すでに遅く、グリモアの大声を聞きつけた保安官が三人、通りを曲がって近付いてきていた。
 自分の迂闊さが招いた事態に舌打ちを漏らし、グリモアはマビナと共に路地に逃げようとしたが、その手を先程の女性に捕まれる。
「おまっ、なんのつもりで……」
「どうかしたのか?」
 再びグリモアが怒鳴りつける前に、保安官が声を掛けてくる。
 ここまで極近に迫られて逃げれば、保安官達の不審を買う事になる。となれば、この場はなんとかやり過ごすしかない。
 しかしそうなると、目の前の女の存在がどうしようもなく厄介だった。
 この女が恫喝されたとでものと言えば、怒鳴った事実と銃の所持から形勢は明らかに不利だ。最悪顔を見せろとマビナの外套を剥ぎ取られる可能性も充分にあり得る。
 グリモアがなんと答えるべきか悩んでいる内に、進み出た女が先に口を開いた。
「いやぁ、すみません騎兵さん。実はうちら、芸のリハーサルをしてただけなんですよ」
「芸?」
 頷いて、女は懐から通行証を取り出し、同時に肩をはだけさせて肌に描かれた紋様を見せる。
 その紋様は涙を流した両目と笑った口がなんとも言えないアンバランスを醸している、滑稽なものだった。
「自己紹介が遅れました。うちはエルガシアギルド連盟所属、大道芸ギルド『涙を笑え』(トレーネン・ラッヘン)のギルド長をやってるサファリってもんです」
「エルガシアのギルド連盟……」
 軽く目を瞠り、保安官がわずかに居住まいを正す。
 エルガシアと言えば、ヨーロッパで唯一最高権力者を有さない国だ。つまりこの国で言う神子や大司教、他国で言うところの王がいない。
 数えきれないほど多くのギルドが寄り集まってできている国家、それがエルガシアだった。生産や流通、治安維持や外交、政治に至るまで全て専門のギルドが担っており、最大の規模を誇る七つのギルドが連盟を立ち上げた事で、そのギルド長達が実質的な国のリーダーを務めている。エルガシアの商隊ギルドにはどの国も世話になっており、もはやエルガシアのギルドなしでは国家間の物資の流通はままならないとすら言われている。
 グリモアは各国を渡って来たのでギルドを目にする機会は少なくなかったが、フェーデはそこまで他国間との交流が盛んでないため、ギルドが珍しく映るのだろう。保安官の表情はグリモアが見て取れる程度には固い。
「そんな畏まらなくても大丈夫ですって。うちのギルドはギルド連盟の中でも下の下、メンバーなんか殆どいない小規模ギルドですから」
 目敏く保安官達の緊張を察したサファリという女性は気さくな態度で手を振る。
 隣にいるグリモアは、サファリの目的が分からず沈黙を貫いた。
「そ、そうか。で、芸のリハーサルとか言っていたが?」
「えぇ。今日はここで公演しようかと思ってたんで、その予行演習をしてたんですよ」
「つまりそっちの二人はギルドのメンバーなのか?」
「もちろんですよ。正式な加入はまだなんでギルドの紋章はありませんが、二人とも『涙を笑え』の大事な仲間です」
 ポンポンと口から出まかせを語るサファリの意図が掴めず、グリモアにはもう話に乗る以外の選択肢がなくなっていた。ここで否定すれば、立場が悪くなるのは一方的に怒鳴っていた自分の方だ。
「グリモアだ。こっちは俺の妹でルビー」
 咄嗟にマビナの名前だけは偽名を使う。保安官であればマビナの名前を知っている可能性は高い。
 振り返ったグリモアの顔を見て、騎兵達がまたもや驚きの表情をする。
 おそらく横を向いていたためグリモアの仮面が見えていなかったためだろう。
「保安官さん、人の顔をまじまじ見るのは失礼に当たるってもんですよ」
 サファリのからかうような声に、気まずそうに咳払いをする保安官達。
「これは失礼。少し珍しかったものでな」
「いえいえ。気にしなくていいですよ」
 何故かグリモアの代わりに返事をするサファリだったが、そんな事を気にする余裕もなく、恐れていた言葉を保安官が口にした。
「済まないがそちらのお嬢さん、顔を見せてもらってもいいだろうか。我々は人を探していてな、出会った全ての人の顔を確認しなければならないのだ」
 わずかにマビナの身体が震える。
 庇うようにグリモアが前に出て騎兵達と相対した。
「悪いが、妹は人前に顔を晒すのが嫌いなんだ」
「少しでいい。確認するだけだ」
「うちらは国に入る前からずっと一緒だったんで、関係ないと思いますよ」
「だから確認するだけと言っているだろう」
 取りつく島もない保安官の様子に、グリモアは気付かれないよう歯噛みする。
 ここでマビナが顔を見せれば、それでこの逃走は終わりだ。たとえこの場で保安官達を撒けたとしても、新たな追手がすぐに自分達を捕まえに来る。
 ならばここは何も言わずに逃走するべきだろうか。いや、それではやましい事情グリモア自らから言っているようなものだ。顔を晒すのと何も変わらない。
 ならば、この三人をこの場で殺してしまうというのはどうだろうか?
 幸い周囲に人気はない。目撃者さえいなければ顔を憶えられる事もないのだから、手配書は出回らないはずだ。
 いや、駄目だな。死体の処理ができなければ、住民が別の騎兵や保安官に報告する。そうすれば神子誘拐犯との交戦で死亡したという推測が一番に成り立ち、追手がすぐにやって来るだろう。たとえ神子と関わりがない事件だと判断されたとしても、殺人の重犯罪人を国が放っておくはずがない。
 あらゆる方法を模索し検討していくが、どうしようが手詰まりだった。ここでマビナの顔を見ずに保安官が穏便に去ってくれない限り、この誘拐は失敗に終わる。しかし保安官の強硬な態度からは、そんな可能性がない事は明らかだった。
「そんないきり立つもんじゃないですよ、保安官さん。ここはうちらの芸でも見て落ち着きませんか?」
「そんな暇は……」
「まあまあ。ちょっとだけ見ていってくださいな」
 そう言うや否や、サファリは地面に置いていた袋を開くと、そこから手の平サイズの球体を四つ取り出した。
「そんじゃま、行きますよって」
 手に持った四つの球体の内、二つを上に放り投げる。それが落ちてくる間に残っていた二つも投げ、直後落ちてきた球体をキャッチする。それもまた先程投げた球体が落ちて来る前に上に投げ、延々とそれを繰り返す。
 結果的に四つの球体がまるで空中で追いかけっこをしているような光景に、保安官とマビナが目を奪われる。
 しかしグリモアだけは怪訝そうにサファリを睨んでいた。
「お次はこいつです」
 球体をしまって、小さな壺を取り出したサファリが、それを唐突に頭に被る。
 そして大きくのけ反ったと思えば、上体を起こす勢いを利用して壺を天高く飛ばした。
 落ちてくる壺の落下地点に手を掲げ、触れるのとほぼ同時に落下方向に手を下げる事で勢いを緩和して、ほぼ無音でキャッチする。その流れを殺さず今度は後ろ手で軽く壺を放り、前傾になったサファリはうなじでそれを受け止めた。そのまま壺は転がってサファリの右手左手を行き来し、見ている者にまるで壺が生きた動物かのような錯覚を覚えさせる。
 その調子でサファリは物を出してはしまい、幾つもの芸を披露する。
 グリモア以外の三人はすっかり目を輝かせてサファリの芸を眺めていた。
 すると不意にサファリの視線がグリモアを捉える。
 心底楽しそうな笑顔を浮かべると、サファリは袋の中から複数の何かをグリモアの頭上に放り投げてきた。
 グリモアの鍛えられた動体視力は、すぐにそれがなんなのかを判別する。
 投げられたのは五つのリンゴだった。
 わけが分からずサファリを見れば、彼女は親指を立てて自身の背中を差している。
 サファリの背中には何もない。つまりこれは、グリモアの背中にある物を使えと言う合図。
 乗せられようとしている事に不快感を覚えるが、それも一瞬の事で、グリモアはベルトに射していたククリ刀を抜くと、流れるような動作で降り注ぐリンゴを両断していく。
 五個全てが地面に落ちる頃には、リンゴは大きさが半分になり、数が倍になっていた。
 思わずといった体で、保安官やマビナが拍手する。
 サファリはそれに仰々しい一礼で答えた。
「どうでしたでしょうか、我が『涙を笑え』の芸は。楽しんでいただけたなら、至上の幸福でございます」
 サファリの口上により一層の拍手を送り、保安官の一人が興奮した声を上げる。
「素晴らしいな。貴殿の芸は職人の域だ。さすがは連盟所属のギルド」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、うちも胸を張れるってもんです。少年さんも、初の舞台お疲れ様ですって」
 いきなり話を振られ、サファリと話していた保安官も振り返る。
「君は先程のが初めてだったのか。いやはや、見事なものだ。そのククリ刀は芸のためのものだったのだな」
 都合の良いように解釈してくれた保安官は上機嫌にグリモアの肩を叩く。
 それを不快に感じながらも、振り払わないくらいの危機管理能力はグリモアにもあった。
「それで嬢さんの件なんですが」
 唐突にサファリが話を戻す。
「嬢さんは子供の頃に酷い火傷をしてしまいましてね。それ以来、人前に顔を出すのを極度に嫌がるようになっちゃったんですよ。芸に出る時は真白く化粧するんですが、それも今日はまだしていなくて。だから今回のところは勘弁してもらえませんかね」
 嘘八百を並べるサファリの話を鵜呑みにし、保安官達は困ったように顔を見合わせた。
 疑う気持ちなどないのだろうが、職務への責任感が保安官達に何もせずこの場を去る事を躊躇させているのだろう。
 それを敏感に察知し、グリモアは先程の状況だったならまるで意味のなかったであろう行動を起こす。
 自分の巻いている包帯を外し、焼け爛れた皮膚を衆目の前に晒した。
「妹と一緒に負った火傷だ」
 サファリの出任せが偶然功を奏す。
 言い訳が火傷でなければ、この手は使えなかった。
「妹は火傷を負ってから、喋らなくなった」
 保安官達はグリモアの凄惨な火傷の痕を見て息を呑んでいる。
「これ以上、妹を傷付けないでやってくれ」
 下手(したて)に出なければならない状況のため、荒っぽい言葉遣いはできない。しかし慣れないせいで言葉少なになったグリモアの頼みは、短いからこそ誠実さが込められているような響きがあった。
 保安官はグリモアの懇願を受け頬を掻くと、視線を明後日の方に向けながら相方に訊ねた。
「他国の者まで調査しろ、という命までは受けていなかったよな、確か」
「ま、まぁそうだな。あの方なら我々相手に顔を隠す理由はないし……」
「さすがは騎兵さま! 寛大な事ですって。ありがとうございます」
 要求を呑んだ保安官に感激を示し、サファリが頭を下げる。
 それに大仰に頷いて去っていく保安官達を無言で見送り、姿が見えなくなったところでグリモアは鋭く息を吐き出した。
 マビナも緊張を解いてわずかに脱力する。
「助かった……」
 マビナの小さな呟きを聞きながら、グリモアはサファリを睨みつける。
「どういうつもりだ?」
「なんの事ですか?」
「あんな嘘ついた理由だよ。曲芸までさせやがって、ふざけてんのか?」
 たとえ結果的に助けられたとはいえ、他人の善意を無条件に信じるような生き方をグリモアはしてきていない。一歩間違えれば、事態が絶望的な方向に転がっていた事も考えられるのだ。
「いやぁ少年さんの剣技は見事なもんでしたね。まさかあそこまでの腕だとは思ってませんでしたよ」
「お前、撃ち抜かれてぇのかよ」
 いまにも飛び掛かりそうなグリモアの服を引っ張り、マビナは厳しい眼差しを向けてきた。
「喧嘩腰はやめましょう、グリモア。助けられたのですよ」
「黙ってろ」
 にべもないグリモアの返事に、剣呑な雰囲気を察しマビナは口を閉ざす。
 敵意を超えた殺意の視線を向けられたサファリは困ったように頬を掻く。
「一応は助けたつもりだったんですが、ご迷惑でしたかね?」
「元々はお前のせいで起きた事態だ」
 呼び止められなければ怒鳴る事もなかったし、手を掴まれなければ逃げられていた。
 サファリはそれを言われずとも理解していたのか、素直に頭を下げる。
「すいません。あそこでお二人が逃げたら怪しまれると思って、咄嗟に引き止めちゃいました」
「善意のつもりか? あれで状況は悪化した」
 剥き出しの怒りをぶつけるグリモアに対し、サファリからは敵意や悪意が一切感じられない。
 それに気付きながらも、グリモアに殺意を収めるつもりはなかった。
「そもそもお前が俺達を助けようとしたのはなんでだ。赤の他人の善意ほど、信用ならねぇもんはねぇ」
「……」
 邪険を通り越したグリモアの態度にもサファリは嫌な顔一つせず、それどころか笑顔すら浮かべて理由を語る。
「うちのせいで迷惑掛けたなら、うちが責任取るのが筋ってもんでしょう。それに助けるなら、保安官さまよりも少年さん達の方だと思っただけです」
「分からねぇな。責任ってのはまだしも、つくならどう考えても騎兵の方だろ。この国じゃあいつらが正義なんだからな」
「国がいつも正しいとは限りませんよ。むしろ国って代物は、力がある分暴走しがちなもんです」
 一瞬仲間達の断末魔を思い出して胸が詰まったが、わずかに顔を歪めるだけでグリモアはそれに耐えた。
「少年さん達はまだ子供だ。子供が保安官さまに追われるなんてのは、間違ってると思うんですよ、うちは。だから少年さん達の味方をした、って言ったら信じてもらえますかね?」
 疑問符を浮かべながら笑顔で訊ねてくるサファリ。
 嘘をついてるようには見えないが、本当の嘘つきがばれるような嘘をつくわけもない。
「信じるのと許すのは別物だし、俺は他人なんか信じる気はねぇよ」
「そうですか。そいつは寂しいもんです。……けど、一番寂しいのは少年さんですかね」
「人を勝手に憐れむんじゃねぇ」
「おっとこれは失礼しました」
 いつ殴られてもおかしくない空気の中で飄々とした態度を崩さないサファリ。
 しかし先程までと比べてグリモアの敵意が薄れている事に気付いたマビナは、そこでようやく口を挟んだ。
「サファリさんはなぜ、大道芸人をしているのですか?」
「うん? これはまた少年さんと比べて礼儀正しい嬢さんですね。って、喋れないって言ってませんでしたっけ?」
「これから火傷して喋らなくなる予定だ」
「そんな予定を作らないでください。もし本当にそうなったなら、それは明らかにあなたの犯行です」
 ぞんざいなグリモアの答えに淡々とマビナが突っ込む。
 それを微笑ましげに見守りながらサファリは人差し指を立てる。
「嘘つきは泥棒の始まりと言いますよ。将来そんな風にならないよう、純粋な子供の内は嘘を控えておくべきです」
 将来泥棒どころか現在強盗なのだが、また保安官を呼ばれては厄介なので黙っておく。
「じゃないとあんたみたいになるってか」
「汚い大人はみんなこんなもんです。むしろこれくらいなら可愛いもんですよ。イコール、うちは可愛いって事です」
 強引に自画自賛に持って行くサファリを冷めた目で軽蔑し、舌打ちを漏らすグリモア。
 だがその理屈なら、汚い子供は嘘をついてもいいのだろう。
「あの、サファリさん……」
「おっとそうでした。うちが大道芸人をやってる理由でしたね。まったく、少年さんがお茶目だから脱線しちゃったじゃないですか」
「本気で撃ち抜くぞ」
 なりを潜めかけていたグリモアの殺意が膨れ上がる。
 それを気にした風もなく、サファリはマビナに向き直った。
「多分拍子抜けしちゃうと思うんですけど、うちが大道芸人してるのは大層な理由があっての事じゃありませんよ。ただ子供に笑顔になってほしいから、ってだけの理由です。泣いてる子供を見たくないんですよ、うちは」
 そう言ってサファリは空を見上げる。
「この世の中には理不尽な事がたくさんあって、その分涙ってのも雨みたいにありふれてるもんです。うちはそんなのをずっと見て育ってきましたから、笑顔ってのに憧れてるんだと思います」
 わずかに示唆されたサファリの境遇は、グリモアやマビナ同様、幸福なものではないようだった。
「言ってしまえば独りよがりや、自己満足の類ですね。うちが何したところで、所詮はちっぽけなものですから。でもたとえ独りよがりだったとしても、子供には大人みたいな汚い笑顔じゃなくて、純粋な笑顔で笑ってほしいんです」
 サファリが初めて憂いを含ませた笑みを見せる。その笑みには、安易な気持ちで深くを訊ねてはいけない重みが宿っていた。
 だがそんな感傷混じりの願いを、グリモアは空気を読まず一蹴する。
「くだらねぇ」
「かもしれませんね。うちは小さな人間ですから」
「そんな事はありません」
 自嘲気味に苦笑するサファリに、マビナは優しく首を振る。
 顔は外套で見えないものの、マビナの声音は柔らかく、慈愛に満ちていた。
「子供の泣き顔を見たくない。純粋な笑顔で笑ってほしい。たったそれだけのために、一人で世界を回るなんて事、普通の人にはできません。誇っていいと思います。あなたはきっと、それだけの事をしています」
 おそらくマビナよりも十は年上のサファリが、照れたように頬を掻く。
「ありがとうございます、嬢さん。ありがたくお言葉を頂戴させていただきますよ」
「いえ、お礼を言うのはこちらの方です」
 首を振って周囲に人がいない事を確認したマビナは、一歩前に出るとグリモアが止める間もなく外套を取った。
 美しいマビナの顔が露わになる。髪は帽子で隠しているが、保安官が近くで見ればすぐに神子だとばれてしまうだろう。
「助けていただいて、ありがとうございました。連れの行いと、顔を隠していた無礼を改めてお詫び致します。どうかお許しください」
 誠実に頭を下げるマビナ。
 いきなりのマビナの謝罪にサファリは目を丸くし、グリモアは周囲の警戒でそれどころではなかった。
「そんないいですよ。元はと言えばうちのせいなんですから。嬢さんや少年さんが謝ったり感謝する事なんて一つもないですって」
「いえ、あれはこちらの短慮が招いた事態です。あなたに責任はありません」
 しっかりと目を見つめながらわずかに口角を上げ、マビナはせめてもの感謝の気持ちとして、不器用ながら精いっぱいの笑顔を作る。
「恩を返す事はできないと思いますが、決して忘れません。ありがとうございました、サファリさん」
「いやホントに、こっちのほうこそ、ありがとうございますよって。嬢さんの笑顔が見れただけで、うちは満足です」
 その言葉にもう一度笑い、マビナは再び外套を被る。
 話が終わった事を察したグリモアが振り向き、サファリと視線を合わせた。
「お前は気に食わないし、感謝なんてまるでしてねぇが、礼だけは言っておく」
 心底不本意とばかりに顔をしかめながらグリモアは謝辞を述べる。
「一刻も早く、この国から出ろ。俺に言えるのは、それだけだ」
 脈絡のない警告を告げるグリモア。
 だがサファリは、そうですかとあっさり頷いた。
「じゃあいまから国境を目指す事にします。でもうちは少年さんと違って助言に感謝しますよ。どうもですって」
「……疑わないのですか?」
 あまりにすんなりと警告が受け入れられた事に、マビナが疑問を呈する。
 戸惑うマビナの問いに対するサファリの答えは、満面の笑みだった。
「親切を疑うようになったら人ってのはおしまいですよ。特にこんな子供の親切はね。うちを騙したところで少年さんや嬢さんには得なんてないんですから、信用する以外ないですって」
 テキパキと荷物をまとめ、旅支度を整えたサファリが改めて二人に向き直る。
「どうかお気をつけてください。騎兵さまに追い掛けられるなんて並々ならない事情があるんでしょうが、笑顔を忘れちゃいけませんよ」
「お気遣い感謝します。理由も明かさず国を出ろなどと、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
「いえ。この国は平和ですから、うちがいる意味もあまりないと思ってたところです。うちはまた別の国で、泣いてる子供を探しますよ」
 右手を胸に当て、サファリは優しい笑みを浮かべる。
「さよなら。少年さん、嬢さん。また会える事を楽しみにしてますよって」
「私もです。あなたの行く道に、幸多からん事を祈っています」
「さっさと消えろ。今回は見逃してやる」
 清々しく別れの挨拶をする二人とは対照的に、最後まで敵意を隠そうともしないグリモア。
 咎めるようにマビナが睨むが、それを気にした様子もなくサファリは手を振りながら去って行った。
「グリモア。あの態度は失礼が過ぎるのではないですか?」
「生憎礼儀なんてもんを知らねぇからな」
「だとしても、助けてもらった相手にわざわざ喧嘩を売る必要はないでしょう」
 珍しくマビナが本気で起こっている事を察するが、それで態度を変えるような殊勝な性格をグリモアはしていない。
「知った事かよ。そもそもあいつが声なんて掛けてこなけりゃ、騎兵に呼び止められる事もなかったんだ。そんな奴に礼を尽くす理由はねぇ」
 グリモアとマビナの視線がぶつかり合う。
 いつもの口喧嘩とは違い、二人の目は真剣そのものだった。
「初めからあの方には悪意を感じませんでした。なのにあなたは子供のように噛みついてばかりで、恥ずかしくないのですか?」
「本当に人を騙そうとしてる奴が悪意なんて見せるわけねぇだろ。人の親切ってのを信じられるほど、温い生き方はしてねぇんだ。初対面の奴を簡単に信用するお前には分からないだろうがな」
「それでも最低限の礼を失さないやり方があったはずです。いつだってあなたは、不用意に敵意をばら撒き過ぎる」
「俺にはいつ自分に牙むくともしれない奴と仲良くする趣味はねぇよ。無闇に隙を見せれば、食われるのはこっちだ」
「少なくとも、あの方に私達を害する意思はありませんでした」
「お前の印象を俺に押しつけんな。それを確実に判断できるほど、お前に人の心中を読む力があるのか?」
「それは……」
 言い淀むマビナに反撃の隙を与えず、グリモアは畳み掛ける。
「お前があいつを信じるのは勝手だ。だがな、それに俺を巻き込むな。道連れになるのはごめんだ」
 容赦なく言い放つグリモアに、悔しそうに唇を噛むマビナ。
 そんな二人の元に、状況を全く把握していないカミラが追いついてきた。
「そんなとこで何してるんだい? もう宿は見つかったの?」
「まだだ。少し面倒事が起きてな」
「何かあったのかい?」
「解決済みだ。気にするな」
 再び歩き始めるグリモアに、カミラはなんの疑問もなくついて行き、少し遅れてマビナもそれに続く。
 最後尾を歩く外套の中には、とても納得したとは思えない、苦渋の顔が隠れていた。

 サファリと出会った街を出て二日後の夜。
 休憩を終えてまた馬を走らせようと準備していると、唐突にカミラが妙な提案をしてきた。
「今日はその女、あたしの後ろに座らせた方がいいんじゃないかい?」
 怪訝に眉をひそめるグリモアを見てカミラは理由を語る。
「あんた、いつもグリモアの後ろで疲れてるだろ。そりゃ同性であるあたしの方がいいかもしれないけど、あんたといつも一緒だと負担はずっと大きいはずだ。少しくらい楽させなきゃ潰れちまうよ」
 言われてグリモアはマビナを見る。目に見える変化などないが、人も動物。疲労しているのは確かだろう。
「それにあんたら、一昨日からおかしいよ。なんて言うか、ぎくしゃくしてるように見える」
 マビナにも視線を向け、カミラは厳しい口調で問う。
「そんなざまで逃げ切れると思ってるのかい? 国境まであと二日だ。より一層気を引き締めていかなきゃならない時なんだよ」
 言われずとも分かっていた事を改めて告げられ、グリモアはマビナと目を合わせた。
 確かに街を出てからは、いつもよりマビナと喋る機会は少なくなっていた。話しても二言三言で終わるようなものばかりで、長く会話した記憶はない。しかしそれは、無駄に会話する必要がないからであり、国境が近付くにつれてグリモアの警戒が高まっていった事にも起因する。
 周囲の警戒に集中すれば、自然と口数も少なくなり、その集中を乱さないためマビナも余計な会話を控える。つまり必然的に会話の総量は減る。傍から見れば気まずくなっているようにも見えるだろう。それにそもそも、自分とマビナは気まずくなるほど親しい間柄ではない。そんな事はカミラも分かっていると思っていたが……。
「余計な心配はしなくていんだよ。夜中だとはいえ、充分な休息は与えてる。今更多少重量が変わったところで大差なんかねぇよ。それに俺とこいつがぎくしゃくしてるからなんだってんだ? そんな事で俺が隙を見せるとでも思ってんのか?」
「そうとまでは言わないけど、万が一って事はあるだろ。ここから先は一つのミスで全部台無しになるんだよ」
「だからこそ、こいつは俺の手元に置いとく。じゃなきゃいざという時に奪われちまうからな」
 こいつ呼ばわりされた事にマビナが目を細めるが、グリモアもカミラも気にするどころか失礼に気付きもしなかった。
 強硬な態度を崩さないグリモアに、その後も食い下がって説得を続けたカミラだったが、やがて何を言っても無駄だと悟ったのか、片手をおでこに当てて前髪を掻き分けながら引き下がった。
 結局昨晩と何も変わらず、グリモアの後ろにはマビナが座り、荷物はカミラの方が少しだけ多く置いて出発した。
 今日の行路は追手の追跡を避けるために、いままでよりもさらに遠回りのルートを進む。何回か林の中も横切り、昼だろうが一般人と遭遇する事などまずあり得ないような道だ。
 それでも警戒を怠る事はなかった。いつ後ろから追手が迫ってくるかも分からない上、神子がいなくなってからもう十日が経っている。いかに人気のない場所だろうと、騎兵が神子捜索のため徘徊している可能性は十二分にあった。
 予定通りいくなら、明日の日を跨ぐ頃には国境を抜ける。国を出れば騎兵もおおっぴらに追跡してこれなくなるため、逃げるのも隠れるのもそう難しい事ではなくなるだろう。
 ここまで逃走は思った以上に順調なものとなっていた。途中検問などで遠回りを余儀なくされる事は何度かあったが、時間の浪費は想定していたよりもむしろ少ないほどだ。神子の隠し通路はさすがにもう見つかっているだろうが、騎兵がこちらの足取りを掴めていない事は、ここら一帯の騎兵の少なさでも察せられる。あと二日程度なら逃げ切れる確率は高い。
 問題は足跡を見つけられて追ってこられた場合だが、そればかりはもうどうしようもない。追われていると気付いた段階で、人の疲労を度外視して逃げ切るくらいの対応しか取れないだろう。神子を捜索してそこらをうろつく騎兵は、グリモアが驚異的な五感でいち早く察知するため、グリモアほど優れた野性的な嗅覚を持つ者にしか見つけられないはずだ。
 既に街に寄る危険もなくなったいま、これまで通りの警戒を維持すれば、運に見放されない限りこの誘拐は成功の兆しを見せている。
 復讐の達成は目前に迫っていた。
 だからといって、油断していたわけではない。
 むしろグリモアは、いままでにないほど神経を張り巡らせ警戒をしていた。
 もしそうしていなければ、林の中でわずかに煌めいた銃口に気付く事すらできなかったはずだ。
「カミラ! 避けろ!」
 グリモアが叫ぶのとほぼ同時に放たれた弾丸が、吊り下げた荷物突き刺さる。
 手綱を切って、大きく半弧を描くようにして止めた。
 身体が遠心力に従って、振り回せされそうになりながら、背中のレバーアクションライフルを構える。
 直後に飛んできた弾丸が地面をえぐる、その間に木陰から何人もの騎兵が姿を現し、グリモア達を取り囲む。
 正眼にレバーアクションライフルを構えながら首だけで騎兵を見回し、数を確認する。
 自分を囲んでいる騎兵は四人。カミラに銃を突きつけているのが一人に、銃を射った騎兵が一人いるとして、相手は少なくとも六人はいる。
 全員を相手にすれば勝ち目はないと瞬時に判断したグリモアは、包囲が完成しきる前に一点突破を敢行する事を速決した。
 しかしその決断も一歩遅かった。グリモアが再び行動を起こす前に、四つの銃が四方から突き出される。
「抵抗するな。武器を捨てろ」
 無感情でありながら殺気に彩られた騎兵の命令が耳朶を震わす。
 目だけでカミラがどうなったか確認するが、彼女もまた、喉元に銃を突きつけられていた。
 周囲の騎兵に一切の油断がない事を感じ取り、また銃を持つ騎兵の照準をこちらに定めているのを目の端に発見して、グリモアはおとなしく持っていたレバーアクションライフルを手放した。
 三人の騎兵が銃口をさらにグリモアに近付け、後方の騎兵が背後にいたマビナを助け出す。
 抵抗すればグリモアやカミラが危ないと考えてか、マビナはされるがままに救出されていた。
「降伏しろ」
 両手を上げて降参の姿勢を見せるグリモアは、指示通りに車から下りる。
 リーダーらしき騎兵も下車し、グリモアの前に立ったかと思えば、その頬を思い切り殴り飛ばした。
「グリモア!」
 マビナが状況も忘れ名前を呼ぶが、地面に倒れたグリモアには一瞥する余裕すらない。
「神聖な神子さまを誑かしおって、この下郎が」
 侮蔑と嫌悪と怒りが入り混じった罵倒が吐き捨てられる。
 グリモアが体勢を立て直す暇もなく、騎兵のつま先が鳩尾に入り、呼吸が止まる。
 仰向けに倒れながら噎せるが、そんな事に構わず騎兵の靴が胸や腹、顔に降り注ぐ。
「やめなさい! 聖騎兵長!」
 マビナの叫びは林の中にこだまするばかりで、何も状況を変えなかった。騎兵は一瞬動きを止めただけで、さらに激しくグリモアを蹴り続ける。
 いきなり射殺されてもおかしくないと考えていたグリモアは、蹴りの雨に血を吐いて耐えながら、この甘い対応に疑問を抱く。
 仲間達に行われた残虐な拷問は、こんな暴行などとは比べ物にならない。罪状が同じなのだから、グリモアにも同じ仕打ちを与えるのが自然だろう。もちろんおとなしくやられるつもりはなかったが、しかし騎兵が自分への残虐行為を躊躇う理由はないはずだ。
 痛みが全身を支配し、身体から力が抜けてきたぐらいのところで、ようやく嵐が止む。
 代わりに髪を掴まれて強引に立たされ、向きを変えられたと思ったら腹を思い切り殴られた。
 抵抗する力も残っていなかったグリモアは、なす術もなく吹っ飛び、くの字になって地面に転がる。
 わずかに顔を上げれば、カミラも同じようにボロボロになって隣に倒れていた。目は射殺さんばかりに騎兵を睨んでおり、その殺気と形相は、いままでカミラと過ごした日々の中でも見た事がないほど凄まじいものだった。
 逃げられないように二人の騎兵が剣を突きつけてくる中で、グリモアを蹴り飛ばしていた騎兵はマビナの方へ向き直り、片膝を地面に着いた。
 馬から下りたマビナも騎兵を鋭く睨みつけながら相対する。
「ご無事で何よりです。神子さま。救出が遅れてしまい、申し訳ありませんでした」
 マビナに謝る騎兵の声を聞いて、グリモアはようやく、自分を殴っていた騎兵が頭領を殺したあの騎兵だという事に気がついた。あの時と違い、グリモアに吐き捨てる言葉に感情が込められていたため、いままで気付けなかった。
「二度もの誘拐を許してしまった失態。到底そそげるものではありません。処分は帰ったのち、いかようにでも」
「帰るつもりはありません」
 突き放し拒絶するマビナの一言。
 騎兵はわずかに眉根を寄せ、膝をついたままその真意を問うてくる。
「……どういう意味でしょうか?」
「言葉通りの意味です。私はこの国を出ます」
 にべもないマビナの返答に、騎兵が失笑を漏らした。
「お戯れを。神子さまがいなくなれば、フェーデは崩壊してしまいます」
「その程度で壊れるような脆いものを維持しても、いずれ崩れる事は避けられません」
 ならばいっそ、と言葉にしなかった部分を正確に読み取ったらしき騎兵は、打って変わって厳しい視線をマビナにぶつけてくる。
「本心で言っておられるのですか、神子さま」
「私の言葉を疑うのですか、聖騎兵長」
 騎兵の目を真っ向から睨み返し、一歩も引く姿勢を見せないマビナ。
 迷いのないマビナの態度に騎兵はため息をつくと、子供を諭すような調子で訊ねた。
「神子さま。あなたさまはご自分がおっしゃっている事が分かっておいでなのですか? 神子さまがお帰りならなければ、この国は他国の信用を失い侵略対象となる可能性が高い。いえ、それ以前に神子さまという心の支えを失った国民が、絶望し暴動を起こす事は避けられないでしょう。そうなれば国は立ち行かなくなり、フェーデは体制を維持できなくなります。この国の一千万以上の民を見捨ててまで、神子さまは本当にこの国を去るおつもりなのですか?」
 明確な命の答えを出され、マビナがはわずかに息を呑んだ。
 フェーデにおいて、神子の存在は何よりも尊い。騎兵の言う事は虚言でも空言でもなく、厳然とした事実だ。神子は最高権力者であると同時に国の象徴であり、信仰の対象。信仰によって支えられているこの国で、その当人たる神子がいなくなれば、フェーデという国そのものが成り立たなくなるだろう。だからこそこの国は、神子に少しでも害する可能性のあるものを徹底的に排除しようとする。
「国を立ち行かせるための犠牲なら、容認してもいいのですか?」
 震えそうになる声をなんとか平常に保ち、マビナは言葉を紡いだ。
「大して罪のない者を非道な方法で殺害し、死体を冒涜し、それを正しいと嘯く。私にはとても正気の沙汰とは思えません」
 グリモアの仲間達の最期を、その結果向けられた底知れぬ殺意を思い出しながら。
「象徴である神子にしても、個人を排し、役割だけを押しつけている。神子を大切にするあまり、神子以外の要素はまるで見ず、そして誰もそれらの事に疑問を抱かない」
 十四年の孤独と苦悩も天秤に乗せて。
「この国は狂っています。なのに誰一人として狂っている事に気付く事もなく、平然と暮らしている。私はそれが、とてつもなく恐ろしい」
 一千万以上の無自覚な加害者の平穏を推し量る。
 それがどれだけ勝手な行いなのかの自覚はあった。
 個人の裁量で大勢の人の命運を左右しようと言うのだから、被害を受ける者にとってこれほど理不尽な事はない。
 唐突に、なんの説明もなしに信じていた者が消え失せる。それが絶望でなくてなんだというのか。
 きっと私は、この国始まって以来の裏切りの神子だろう。
「私はこの国を出ます。大義に冒され、間違った正しさのために切り捨てられる幸せを、これ以上増やす事はできません」
 確かな決意を持って、マビナは宣言する。
 グリモアの計画に乗り、あの抜け道から出た日から、覚悟は決めている。
 自分の行いがどれだけの不幸を呼び、命を散らせようと。
 その結果取り戻せる命も、得られる幸せもないのだとしても。
 このまま永劫に続く犠牲を出してはいけない。
「もう一度、お聞きします。我々を――このフェーデという国を見捨てるのですか?」
 敵を射殺すような騎兵の鋭い目を真っ直ぐに見返しながら、迷わずマビナは頷いた。
「はい」
「私達の信仰を、裏切るのですね」
「あなた達が信仰しているのは神と神子であって、私ではありません」
「あなたさまが神子さまです。フェーデの象徴であり、我らが魂を捧げた……」
「では」
 盲信する騎兵の言葉を遮り、右手を自分の胸に当てる。
「私の名前を憶えていますか?」
 騎兵は一瞬何を言われたのか分からなかったのか、呆けた表情を見せる。
 それに構わずマビナはもう一度問い掛ける。
「私はあなたに名乗った事があるはずです。その名前を憶えていますか?」
「……」
 今度は正しく質問を理解していながら閉口する騎兵。
 それが意味するところをマビナは端的に語る。
「確かに私は神子ですが、神子が私というわけではありません。あなた達が求めているのは、私ではなく神子という存在そのものです」
 そしてそれが、神子を犠牲にしているという事。
 物心がついた時から、名前を呼んでくれる人はいなかった。大司教に訊いて初めて知った自分の名前は、人と出会うたびに口にしたけれど、誰も憶えてくれなかった。ただ一人を除いては。
 神子の神聖さ、偉大さを解さない、たった一人の強盗以外は。
「確かに神子さまの名前を私は憶えておりません。しかしあなたさまが神子さまである事に代わりはありません」
 マビナの名前を言えなかった事を恥じてはいるようだが、それで意思を曲げるような惰弱さを騎兵は持っていなかった。
「神子さまが我々の正義を良く思われていない事は理解しました。しかしそれは必要な犠牲です。国という巨大なものを回すためには、なくす事のできないものなのです」
 自分の正義を否定されたにも関わらず、それを受け入れた上で騎兵が真っ向から反論を展開してくる。
「たとえば国が飢饉に襲われたとしましょう。他国から食料を得る事もできず、このままでは遠からず国が滅びてしまうほどの大飢饉です。あなたさまの手には、その飢饉を一振りで解消し、国を豊かにする杖があります。しかし目の前には瀕死の子供がおり、杖を使えば助けられますが、助けてしまえば杖は消滅し、国を救う事はできません。神子さまならどうしますか?」
 マビナが答えを返す前に、騎兵は結論を告げる。
「上に立つ者は子供を犠牲にしてでも、迷う事なく国を救わねばなりません。感傷に流されず、時に冷酷な判断を下す決断力が求められます。神子さま。この国の最高権力者として、犠牲を容認する度量をお持ちください」
 頭を下げる騎兵の言い分には、確かに尤もだと頷ける部分もある。
 しかしそれを肯定する気が、マビナにはなかった。
「見解の相違ですね。私ならその杖を国のためには使いません」
 その返答に騎兵の眉がわずかに動く。
「子供をお助けになると?」
 その確認にマビナは静かに首を振った。
「どちらのためにも使う事はありません。私ならばその杖を壊します」
 予想だにしない答えだったのか、騎兵が不敬にも目を見開いてマビナを凝視する。
「そのような杖を使えば、再び飢饉に陥った時、人々はまた杖の力を求めるでしょう。自分達では解決できないと決めつけ、飢饉をどうにかするのではなく、杖を探す事に尽力してしまう。それは恥ずべき行いです。自ら解決する努力を放棄し、より楽な力に依存する。そんな事が続けば、国はあっという間に腐敗します」
 そうした結果が、この国の現状なのだ。奇しくも騎兵の例えは、フェーデという国の歴史をそのまま表していた。神の宣託に依存し、それなしでは生きられなくなった国民は、宣託を授かる神子を何より尊び、神に見放される事をどうしようもなく恐れるようになった。
「フェーデは神子に――神に頼り過ぎました。神を信じる事、それ自体は罪ではありません。しかし神の言葉は命令や指示などではなく、標です。私達は神の言葉に固執するあまり、意志も人情も失ってしまった」
 だからこそあんな非道な行いを当然の事として行える。
 神子を否定する人間は、自分達を殺そうとしているのと同義だから。
 一切の迷いなく語るマビナが本気だとようやく確信したのか、騎兵は疑問ではなく、確認として問うてきた。
「神子さま。あなたさまは本当に、ご自分の意志で大聖殿を出られたのですね。そこの下郎に誑かされたのではなく」
「その通りです」
「承知しました」
 膝を折っていた騎兵が立ち上がり、部下に目配せする。
 合図を受け取った騎兵達は、地面に転がっていたグリモアとカミラを強引に立たせた。
「ぐっ……!」
 痛みに呻き、後ろ手を拘束されながら立ち上がる二人。
 縄で縛られてこそいないものの、自力で振りほどいて逃げるのは不可能だろう。
 その乱暴な扱いに、思わずマビナは一歩踏み出す。
「やめな……」
「神子さま」
 制止しようとしたマビナを遮り、一本のナイフを差し出してくる騎兵。
「あなたさまの手でこの重罪人二人をを処刑なさってください」
「何を、言っているのですか……」
 あまりに唐突な騎兵の要請に、マビナの目が驚愕で見開かれる。
 しかし騎兵は眉一つ動かさずに続けた。
「神子さまがなんと言われようと、我々は神子さまを大聖殿へ連れ帰らせていただきます。しかしその前に、神子さまはご自身の罪をそそがなくてはなりません」
 理解の追いつかないマビナを置いて、それが当然であるかのように騎兵は言い募る。
「大司教さまからのお達しです。神子さまがご自分の意志で出て行かれていた場合、共にいる者を神子さまご自身の手で処刑させよ、と。大丈夫です。相手は罪人。神子さまのお手が穢れる事はありません」
 身勝手な理屈をのたまう騎兵をマビナは呆然と見ていた。
 神聖な神子に人殺しをさせようという騎兵が、信じられないとばかりに。
「私がそのような事をすると、思っているのですか……?」
「するしないの問題ではありません。やらなくてはならないのです。ご自身の贖罪のために」
 決定事項だと言わんばかりに淡々と告げる騎兵を睨み上げ、マビナは唇を噛む。
「私はやりません。何があろうと、彼らを殺す事など」
 明確な拒絶を示しても、騎兵が動じる事はなかった。
「本当によろしいのですか? 神子さまが彼らを処刑なさらないのであれば、彼らは我らが始末する事になりますが」
「どういう……」
 言い掛けて、思い出す。グリモアの仲間達がどういう風に死んでいったのかを。
 つまり自分が殺さなければ、二人は――
「神子さま誘拐の大罪人を安らかに死なせるわけにはいきません。彼らには罪を自覚させるため、死ぬ前に相応の報いを与える事になるでしょう」
 想像していた通りの現実を告げられ、呼吸が止まった。
 あの凄惨で残虐な光景がまた繰り返される。
 それもグリモアとカミラを相手に。
「ふふっ」
 マビナの視界が絶望で真っ暗になる寸前、張りつめた緊張感の中で、場違いな笑い声が漏れ聞こえる。
 ゆっくりと顔を巡らせば、カミラが愉快気に笑んでいた。
「滑稽だね。神子を脅迫するなんて、それでもあんたら騎兵なのかい?」
 不敬な発言は許さないとでもいうように、腕を締め上げられたカミラが痛みに一瞬呻き声を上げるが、その程度で彼女の嘲笑は止まらなかった。
「結局あんたらは神子を本気で信仰してるわけじゃないんだ。ただ神の宣託とやらを聞くために利用してるだけ。だから私らに二度も簡単に誘拐されるし、信仰してるはずの神子を脅すなんて莫迦な真似も平気でできる」
 挑発し、嘲るカミラの意図が分からないのか、隣で拘束されているグリモアも怪訝そうに眉をひそめていた。
 マビナと話していた聖騎兵長は無言でカミラに近付くと、その腹を思い切り殴りつけた。
「貴様のような下賤な者に我らの辛苦を理解しろとは言わん。だからせめてその汚い口を閉じ、神子さまが安らかな死を与えてくださる事を祈れ」
 冷徹に言い放つ騎兵の迫力はマビナの背筋を凍らせるほどだったが、カミラは殴られながらも笑みを崩さなかった。
「こんなお笑い種、地獄でも大層うけがいいだろうね」
 その態度が逆鱗に触れたのか、表情を歪ませた騎兵が容赦なくカミラの頬を打つ。
 血を吐き出すのにも構わず、続けざまに腹に膝蹴りを加え、前屈みになった脳天に肘を落とす。
 拘束されているため倒れる事もできずに、なされるがままいたぶられるカミラ。
 こうなる事は分かっていたはずなのに、あえて騎兵を愚弄し続けたカミラの意図がマビナには理解できなかった。
 しかしそれがたとえ自業自得の結果であろうと、カミラが一方的に嬲られるのを、黙って見ている事がマビナにできるはずもない。
「やめなさい!」
 マビナの一喝に、騎兵が殴る手を止めて振り返る。
「私がやればいいのでしょう」
 マビナの承諾の言葉に、騎兵は無言でカミラから離れ、ナイフを差し出してくる。
 それを受け取り、鞘から取り出す。
 鮮やかな銀色の刀身が露わになり、マビナは静かに目を閉じた。
 深呼吸をし、鋭く息を吐き出したところで瞼を開く。
 映し出される視界で、拘束されているグリモアと目が合った。
 これから殺されるかもしれないというのに、恐怖も諦観もその目の中にはない。
 あらゆる感情を表に出さず、グリモアはこちらを見つめていた。
 覚悟が、問われているのだと直感した。
 以前グリモアは言っていた。傷付く事も傷付けられる事も日常茶飯事だと。殺すからには、殺される事も当然だと。
 自分には、そんな覚悟があるのだろうか。
 この誘拐を始める前に、グリモアは三つの覚悟を強要してきた。
 人を傷付ける覚悟。それを躊躇わない覚悟。そしてそれでも生きていく覚悟を。
 問われた覚悟を示さなければならないのは、おそらくいま。
 私の思いが本物なのかどうかが、この場において試されている。
 思えばこの国は本当に正しいのかと、この旅を始める前から、それこそ神子として大聖殿で暮らしている内から、ずっと考えてきた。
 ただただ神子としての役割を望まれる毎日で。自分の為なら命を捨てられるという騎兵や国民を前にして。自分のせいで死んでいく犯罪者と呼ばれる人達を目にして。私はずっと神子の正しさを疑い続けてきた。
 神はそんな私の疑問に答えてくれず、ただ啓示を示すだけ。神の存在を疑っただけで殺された人間は歴史上数えられないほどいたのにも関わらず、過去の宣託を見る限り、神がそれについて触れた事は一度もない。
 神を信じない人間は、人間として認められないのか。神は自分を信じる人間にだけ、公平に道を示すのか。
 フェーデに住む国民の中で、神子である私が一番、神の正しさを疑っていた。
 果たしてそんな私に、これほど多大な信仰と罪を背負う資格があってもいいのだろうか。
 誰に聞いたところで頷くに決まってるから、自分で考えるしかなかった。でもいくら思い悩んだところで、答えなんてまるで出なかった。
 私が神子として生きる事で国民が幸せなら、彼らの犠牲の上で国が成り立つなら、結局そう自分に言い聞かせて、必死に神子たろうとした。
 たった十五年我慢すれば、こんな苦しみからも解放される。そんな風に考えながら神子としての役割を全うしているうちに、気付いてしまった。
 この苦しみは、私が死んだ後も次の神子に引き継がれるものなのだと。きっとその神子も、罪のない人の死に心を痛め、神の声を聞けるだけでなんの力もない自分の無力を呪い、向けられた信仰の重さに魂を潰されて、なんの希望もなく自身の終わりを待ち侘びるようになる。
 きっとその次も、そのまた次も、そして私の前の何十人といた神子も、同じような人生を過ごしてきて、これから送っていく。
 伸ばした手を掴んでくれる人など存在せず、あの秘密の小屋で落ちてく夕日に自分を重ねて見送る日々を。
 こんな考え、間違っているのだろう。だってこの国は平和で、それは神子がいればこそなのだから。神子として生きるのは名誉な事で、それを犠牲のように言うのは神への冒涜に他ならない。
 だから神子として生まれてきた幸福を、神の宣託を授かる事のできる自分を、神子である私を受け入れようとした。
 けどやっぱり、自分も神子もこの国も、肯定する事なんてできなかった。大勢の幸せのために少数を蔑ろにして不幸に陥れる罪科を背負いながら、それに無自覚な国民を、自覚していながら何もできない自分を、どうしても許容する事ができなかった。
 こんな風に生まれた私は不幸だとか、悲劇に浸るつもりはない。むしろ私のせいで、私がいるから、フェーデの国民は罪を犯し、その罪に気付けない。
 全ては神子の――私の責任。私の罪。
 苦痛の悲鳴も、怨嗟の呪詛も、奪われた未来も、守れなかった幸せも、生み出してしまったしまったのは私なのだ。
 いっそ神子なんていなくなれば、そう考えたのも一度や二度ではなかった。
 もし本当に神子が消えた時の惨状を想像して嘔吐し、平穏に生きているだけの国民の暮らしを犠牲にした正しさを追い求めるのなんて間違いなのではないかと、実行する力もないのに悩みもした。
 それでも結局、私にできる事なんて一つもなかった。
 大司教に訴えたところで疲れているの一言で流され、騎兵に残虐な仕打ちをやめるよう告げても、私のためだと聞き入れられない。たとえ私が自殺したところで、フェーデには新たな神子が生まれ、その女の子が同じ苦悩を背負うだけだ。
 どう考えてもおかしいはずなのに、誰もその事に疑問を抱かない。だからもう、フェーデはどうしようもないのだと、諦めるしかなかった。この国の最高権力者で、象徴であるはずの私には、何を変える力もないのだと。
 そんな中で出会った、強盗の少年。
 自分の都合で人を殺し、自分の不幸のために他人の幸せを壊す。そんな罪深き盗人。
 同じだと思った。
 望まないもののために、何かを犠牲にしなくてはならないその運命が。
 けれど私と違うのは、少年が自分の罪を正しく理解し、それでも生きるために仕方ないと、自らの行いを割り切っている事。
 他人を踏みつけ歩くのを、許容している事。
 それを間違っているとは言えなかった。
 だって少年は、そんな運命から逃れようとしていたから。
 神子を誘拐するなんて無謀な事を躊躇わず実行して、なのに私を傷付けようとはせず。人を傷付け殺す事を日常茶飯事だと嘯きながら、最低限の犠牲しか許さず。その境遇から懸命に抜け出そうとしていた。
 他人の命を犠牲にして生きているのは同じはずなのに、少年は見ずぼらしく汚れ、その手を血で濡らしながらも、芯を綺麗なまま保っていた。
 自分の手は何一つ汚していないのに、こんなにも穢れてしまった自分とは違い。
 むしろ大した事は何もできず諦めてしまったからこそ、私はこんな風にくすんでしまったのかもしれない。
 ならやはり、私に必要なのは行動なのだろう。
 加害者だとのたまうだけでなく、加害者として己の手を汚す覚悟が、私には必要なのだ。
 この国の象徴として、流してしまった血に報いる事はできずとも、その罪から目を背けずに立っていなければ、再び血を流す悲劇を生む事になる。
 このナイフは、いわばそのための踏絵。私を測る試金石。
 グリモアの仲間達の身に降り注いだ、あんな悲劇をもう起こさせないために、私はこの手を汚さなくてはいけない。
 ゆっくりと、一歩一歩グリモアに近付く。
 その間も、グリモアの表情に一切の変化はなかった。
 目前まで来て、じっと二人は互いの目を見つめ合う。
 何を言いたいのか、何を望まれているのか、無言のうちに察せられるほどの付き合いはない。
 けれどその恐れも迷いもない瞳を見ていると、逃げてはいけないと強く感じる。
 加害者面して無力を嘆くのは、もう終わったのだと。
 マビナは持っていたナイフを振り上げ、それを――

 ――グリモアを拘束する騎兵の鎧の関節部に突き刺した。

「なっ、がっ、があああぁぁぁぁ!」
 騎兵が突然の痛みに叫びを上げると同時に自由になったグリモアは、マビナの刺したナイフを引き抜いて、騎兵の顔面を思い切り殴り飛ばした。
 横倒れになる騎兵を最後まで見る事なく、グリモアは自分の武器であるレバーアクションライフルを持つ騎兵に突撃をする。
 まだ事態を把握しきれていない騎兵は、迫ってくるグリモアに銃を向けたがトリガーを引く前に、手に持つナイフを騎兵の顔面に突き刺した。
 ものの数秒で絶命した騎兵からレバーアクションライフルを奪い取って振り返ると、さすがに他の騎兵達はもう混乱から脱し、それぞれの獲物を抜いていた。
 だが一瞬の隙を見逃さなかったのはグリモアだけではなくカミラも同様で、拘束していた騎兵から銃をを奪って弾丸を叩きこんでいる。
 辺りに銃撃音と消炎の焦げた臭いが立ち込める。
 戦えないマビナは除くとして、これで敵は三人。片腕を潰したとはいえ、グリモアを拘束していた騎兵が再び参戦してくれば、倍の戦力差ができる。
 まともに戦うのは分が悪いと判断したグリモアは、この騎兵達のリーダー格、マビナが聖騎兵長と呼び、散々自分を痛めつけてくれた男にレバーアクションライフルを向けトリガーを引いた。
 銃口が火花を吹き、銃声が響いて薬莢排出口からは空になったの空薬莢がばらまかれた。
 だがグリモアが撃ったのは、この国の騎兵の頂点に立つ聖騎兵長。その実力はグリモアの想像を凌駕していた。
 レバーアクションライフルの弾丸が当たる少し前に、騎兵長は近くにある岩陰に体を隠し、44口径弾を全て岩に受け止めさせていた。そして首から下げていた、レバーアクションショットガンの銃口をグリモアに向けて撃った、グリモアは地面に仰向けに転がって騎兵長は銃口をグリモアに向かって突きつけた。チリチリとした熱がグリモアの鼻を通して伝わる。
 ショットシェルはグリモアの肩口に僅に食い込んだが、致命傷には到底及ばない。逆にグリモアの弾丸は首こそ逃したものの、騎兵の防弾着を貫き、胸から肩に掛けての大きな深手を負わせる事に成功していた。
「聖騎兵長!」
 部下の騎兵が動揺し叫ぶ中、無様に転がりながら着地したグリモアは、隠し持っていた手投げ弾を取り出し、それを騎兵達に向かって投げつけた。
 安全ピンが外れて転がり、騎兵の一人がそれに気がついて、悲鳴にも似た叫び声を上げて、逃げようとしたが、間に合わなかった。
 爆音と同時に騎兵の何人かは火だるまになって転がった。タンパクの焼ける独特の匂いが漂ってきた。
 騎兵長が爆発に気を取られている隙に、グリモアは起き上がり、馬に跨っている騎兵をレバーアクションライフルのストックで殴りつけて叩き落とす。
 マビナを掴んで、後ろに載せ、馬を嘶かせると走り出した。
 後ろからは怒声が聞こえるが、騎兵が駆ける音が近付いてくる事はない。
 残存部隊による追撃も警戒はしていたが、マビナに当たるのを恐れてか、銃撃音はなく、弾丸が飛んでくる事はなかった。
 暗い林の中を走り抜け、危険を切り抜けた安堵からグリモアは深く息を吐く。
 視線を少し下げれば、腕の中でマビナがわずかに笑みを零していた。
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